ウーバー・テクノロジーの自動車自動運転装置搭載車のテスト運転で、こともあろうに人身事故を起こし人命が失われた。テストは普段から人通りの少ないクリアな環境で、よくテスト道路として使われる場所であった。
そもそも車の運転に自動運転装置が必要なのか、ということである。
技術革新が過去様々な形で人間のサポートに寄与してきたことは否定しない。人間には出来ない機能、或いは危険な機能を技術で補助するのはむしろ必要だろう。しかし、あの狭い日本に自動運転車が蔓延した時の事を想像すると寒気が走る。何も人間が普通に出来る事をわざわざ機械にやらせる必要はあるまい。
科学者や技術者・研究者は社会の為になるから、としてその研究や技術革新にやっきになり、想定される危険性も「法の整備や効果的な予防策を講じれば安全性は確保出来る」という論理で推進してきたのが今までの歴史である。
よし坊が思う技術革新における懸念は、認知症との関係だ。世間で、いや世界中で認知症が人類の大きな問題になっているが、技術の進歩が認知症発症増加に深く関わっているとしか思えないのだ。
人間楽すれば身体を動かさず、工夫する必要が無いから脳で考える度合いも減ってくる。現代は便利で溢れているからその分怠惰になっていくわけだ。要するに便利になるにつれて脳が退化しているのではないか。この便利さは技術革新のたまものだから、我々はそれらを有難く、称賛さえするが、実は知らず知らずの内にとんでもない世界へと引き込まれていく。
よし坊の車にはGPSナビゲーターが無い。それ程高くないから付けようと思えは付けられる。しかし、どんなに小さな道でも道路標識があるアメリカでは地図さえあれば全く問題ない。それと地図を見る楽しさがある。次に行く時は前の記憶を検証しながら運転する楽しさが加わる。時として記憶違いも起こり、それはそれで楽しいのだ。その点、日本の地理は複雑怪奇だから、確かにナビシステムは必需品だろう。必要なら装備すればよいが、そうでなければ遠ざける勇気を持たないと、いつの間にか「便利品」の奴隷に成り下がってしまう。だから、自動運転などやめちまえ、だ。
そもそも車の運転に自動運転装置が必要なのか、ということである。
技術革新が過去様々な形で人間のサポートに寄与してきたことは否定しない。人間には出来ない機能、或いは危険な機能を技術で補助するのはむしろ必要だろう。しかし、あの狭い日本に自動運転車が蔓延した時の事を想像すると寒気が走る。何も人間が普通に出来る事をわざわざ機械にやらせる必要はあるまい。
科学者や技術者・研究者は社会の為になるから、としてその研究や技術革新にやっきになり、想定される危険性も「法の整備や効果的な予防策を講じれば安全性は確保出来る」という論理で推進してきたのが今までの歴史である。
よし坊が思う技術革新における懸念は、認知症との関係だ。世間で、いや世界中で認知症が人類の大きな問題になっているが、技術の進歩が認知症発症増加に深く関わっているとしか思えないのだ。
人間楽すれば身体を動かさず、工夫する必要が無いから脳で考える度合いも減ってくる。現代は便利で溢れているからその分怠惰になっていくわけだ。要するに便利になるにつれて脳が退化しているのではないか。この便利さは技術革新のたまものだから、我々はそれらを有難く、称賛さえするが、実は知らず知らずの内にとんでもない世界へと引き込まれていく。
よし坊の車にはGPSナビゲーターが無い。それ程高くないから付けようと思えは付けられる。しかし、どんなに小さな道でも道路標識があるアメリカでは地図さえあれば全く問題ない。それと地図を見る楽しさがある。次に行く時は前の記憶を検証しながら運転する楽しさが加わる。時として記憶違いも起こり、それはそれで楽しいのだ。その点、日本の地理は複雑怪奇だから、確かにナビシステムは必需品だろう。必要なら装備すればよいが、そうでなければ遠ざける勇気を持たないと、いつの間にか「便利品」の奴隷に成り下がってしまう。だから、自動運転などやめちまえ、だ。