よし坊のあっちこっち

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The Outer Banks ー隠れたアメリカの歴史

2012年05月24日 | 旅行
結婚35周年でどこへ行くか考えた。30周年にはフロリダのキーウェストを選んだ。そのキーウェストに因んだ訳でもないのだが、長さではフロリダ・キーを凌ぐ、アメリカ最長のQuay状の島、アウターバンクスに行くことにした。3泊4日の旅である。往復1350マイル、約2000キロの行程であり、時間にして片道10時間のドライブとなった。

世界史の中で、列強の国々、スペインが、ポルトガルが、オランダが、そしてイギリスが、新天地を求めて世界の海に乗り出し、次々と植民地を形成していく様は、正に冒険活劇を観るようだ。日本で学ぶアメリカ建国の歴史は、せいぜい1620年のメイフラワー号のマサチューセッツ上陸くらいだが、アメリカに住むと、やはりバージニアにあるアメリカ人による最初の恒久的入植地ジェームスタウンを訪れないわけにはいかないだろう。この入植が1607年である。これを前後する1609年、オランダは、ハドソン河口にニューアムステルダムを建設した。今のニューヨークである。しかし、遡ること約20年前、イギリス人が初めて入植し、いつの間にか消滅した幻のコロニー(入植地)がある。

最初の恒久的入植地であるバージニア、それを南下するとノースカロライナである。その海岸線の3分の2くらいを大西洋の大波から守るように、全長200マイルの砂の堆積で出来た細長いキー状の島が横たわっている。これがアウターバンクスと呼ばれるアメリカ最長の島である。
アウターバンクスに守られた内側に、ロアヌーク・アイランドという小さな島がある。ここが、1584年に入植し1587年に米西戦争の煽りを受けて消滅してしまった、幻の最初の入植地、The Lost Colonyである。アメリカの歴史は、本当はここから書かねばならないと言われている重要な地である。幻の入植地は、その開拓に携わったサー・ウォルター・ローリーに因んでフォート・ローリーと名づけられた。ノースカロライナの州都ローリーも彼の名前を冠している。

アウターバンクスの北側に町があり、その一つがKill Devil Hills。けったいな名前で、直訳すれば「悪魔殺しの丘」となる。ここに、かの有名なライト兄弟が初めて飛行機なるものを成功させた場所があり、必見であろう。又、アウターバンクスの外海一帯を別名、「船の墓場」と呼ばれるくらい、当時は難破船が絶えなかったらしく、アメリカ最初の灯台もここに建てられている。

決してフロリダのキーウェストほど有名ではないが、ここアウターバンクスはバケーションを兼ねて歴史探索をするには格好の場所だと思う。

付け加えるならば、釣りも出来、勇んで釣り糸を垂れたのだが、大西洋は波が荒い。釣果はお分かりだと思う。


橋下 徹 vs 倶梨伽羅紋紋

2012年05月14日 | いろいろ
元大阪府知事、現大阪市長。橋下徹の人気は相変わらず根強い。何故だろうか。ここまでやれるのは、やはり個人的資質に優れているとしか言いようがないが、それでも何故?となる。

元弁護士だけあって、法律を読み解く力に優れている事は強みだろう。政治とは法律の立案と運用ともいえるからである。その法律読解力を背景に、グランドデザインを描き実行しようとする意志力が彼には備わっている。そして今までの彼の行動成果を見ると、我々がともすれば忘れがちな”常識の目線”を常に座標軸の原点に据えているように思える。

今、彼は入れ墨職員のあぶり出しと追放で問題提起をしている。

日本における入れ墨の位置は明白だ。その昔から刺青は「向こうの世界」の専売特許、向こうの世界のアイデンティティとしてビルトインされ、こちらの世界とは一線を画してきたし、それは今も変わっていないはずだ。

ところが、アメリカ流の”タトゥー”という言葉で刺青のイメージがソフトになってしまった。アメリカの芸能人や欧米の有名スポーツ選手が入れているタトゥーを”ファッション”だともてはやし、”向こうの世界”と繋がっている芸能界の一部芸能人がそれに追随し、それを見ている一般人が真似ているのが今の姿だ。

欧米のタトゥーは日本とは異なった文化的社会的背景に根付いていると思う。ひと言で言うと、「日常性と非日常性のアイデンティティ」とでも言おうか。日本のそれは、”向こうの世界”で生きる為のアイデンティティで有ると同時に、相手を威嚇する道具でもある。欧米で普通の人たちが入れる背景は、他民族混合人種の彼らが日常生活で常に自らのアイデンティティに向き合い、それを何らかの形で表現する時にタトゥーを入れる。だから威圧の道具には到底なりようもない。日本人は、幸か不幸か、人種的民族的なアイデンティティを日常的に求める習性は無いから、”向こうの世界”の中だけで発達したと言ってもよい。

橋下は、常識的に考えて、日常的な場所で、しかも公共施設である市庁の中に非日常的であり、反社会的なイメージを持つ刺青はそぐわないから改めるべきだと、至極まっとうな事を提起しているに過ぎない。しかも、役所とは許認可権限の塊みたいなものだけに、威嚇的なものを纏った職員はいただけないと言っているのだ。

今まで常識的にはオカシイと思われた事がぬるま湯の中でないがしろにされてきただけに、常識の目線で行動する橋下の改革にはサポーターが集まるのは当然の事だと思う。

水ボトル戦争

2012年05月07日 | アメリカ通信
たまに日本に帰ると、家庭ゴミを出すのに、実に肌理の細かい指示に従わなくてはならない。その点、広大なアメリカではプラスチックとそれ以外の大雑把な分け方で事は簡単である。このプラスチック、正確に言うと“Bottled Water”を巡って静かな戦争が巻き起こっている。そう、30本4ドルとか5ドルで売られている水入りのペットボトルである。

環境保護団体が、「水入りボトル」廃止のキャンペーンを張っている。曰く、ナショナルパークでゴミが増加する、ゴミ処理場での無駄な廃棄スペースが必要となる、ボトル生産に石油を使うから資源の無駄遣いだ、等。
このキャンペーンがいささか功を奏したのか、グランドキャニオンを筆頭に、ナショナルパークでのボトル持込制限をどうするか決める事になった。更に、公共施設、具体的には空港の売店でボトル販売に制限しよういう動きが出てきた。その代わりに、将来を先取りする形で、水のRefillサービスを新しいビジネスにする動きが始まった。

ボトル製造の企業側も黙っては居ない。水ボトルはお客様が進んで選択した製品である、もし、水ボトルの普及が無かったら、砂糖がたっぷり入った清涼飲料がもっと蔓延し、現在の肥満度はもっと酷くなっていたはずで、健康に貢献している、等。同じ会社が、片方で肥満度増長の清涼飲料を売り、片方で健康的な「水」を売っているのだから、苦しい言い訳とも言えるが、肥満度抑制の点では一理ある。

環境保護団体は、もっと水道水を飲め、と奨励している。日本もアメリカも水道水に問題が無く、且つ、歯に有効なフッ素が含有されているから、歓迎すべき動きではあるのだが、我々は何時頃から、水ボトルに行ってしまったのだろうか。恐らく公害が社会問題になる中で、水質やら水源の危機が強調された辺りから、水ビジネスが構築され、あっという間に「飲み水は水ボトルから」が定着してしまったのだろう。確かに、あのカルキ臭には閉口したものだ。

水ボトル離れは簡単には起こらないとしても、公共施設でのボトル排除の動きは無視できない。これからは、マイ・水ボトルがおしゃれな時代になるかもしれぬ。そう、昔の水筒だ。

いよいよラップトップ買い替えた

2012年05月04日 | アメリカ通信
パソコンは機械だが、まるで生き物の様だ。寒い時は良いが、暑い夏場になると、人間と同じようにへたばり、動作がヨロヨロしたりする。

思えば、それまで見向きもしなかったワープロ、パソコンに俄然取り組み始めたのは、95年、アメリカ駐在を拝命したのが切っ掛け。アメリカの事情を調べたら、既にパソコンでのビジネス利用が普及していた。その頃の日本、所属していた会社では、技術者を中心にワープロ全盛で、せっせと資料作りが行われていた。もちろん、管理や技術の領域ではデスクトップでの作業は既に行われていたが、営業マンの全てが報告書作成等にワープロを使用していたわけではなかった。

アメリカに行くにあたり、買ってみたのが当時主流の98ノートで、ワープロソフトは一太郎。ワードが主流の今、懐かしい。色々機能の付いたパソコンだが、専ら使うのはワープロと表計算機能で、せっせと本社への報告資料作成に勤しんだものだ。この頃のアメリカは、パソコンはデスクトップでの発展が主流で、ノートサイズは殆ど見向きもされなかった。やはり、でかい国はでかい物しか目が行かない。小さな国日本は、限りなくミニチュア志向が強い。ノートの日本、デスクトップのアメリカ。この構図は今も変わっていない。

次に買い換えたのがパナソニックのB5サイズのラップトップ。ウインドウズ98が出た頃である。これを2003年まで使ったが、大変重宝した。そして、XPが出たのでソニーバイオを購入した。

それまで日本語環境優先で、日本で発売のものを買っていたが、バイオで初めてアメリカ製、即ち英語環境のラップトップにした。XPは文字化けも起こりにくいと言う触れ込みに乗ったのと、価格だ。バイオでも日本とアメリカで共通仕様があり、しかも5万円相当アメリカバイオが安い。しかし、文字化けが解消しないので、バイオはワイフに譲り、日本へ出張した折、今度はシャープを購入したのだが。

パソコン言語の世界でも、日本語は特殊言語に位置づけされている。英語を含む世界の主要語は、言語のシステムというか性格が同じだから共通の言語環境で作動出来ると言う。要するにややこしく無いのだ。ところが日本語を含む特殊語は、英語環境等では特別な事をしないといけないらしい。日本語環境では、英語も全く問題なく使えるから、そんな難しいことがあるなど考えないから、日本が特殊だと日頃から思う事は無いが、実体は、世界の中で日本は「特殊」なのだ。

さて、シャープに変えたが、これが思わしくない。ラップトップは熱に弱いが、このシャープはとりわけ弱く、兎に角ダウンの頻度が半端ではない。それでも騙し騙し使っていたのだが、昨年臨終を迎えた。運良く娘がワイフに不要になったラップトップを譲ったので、ワイフの再びバイオに戻った。しかし、購入して9年の代物である。兎に角遅い。なにしろ、スイッチを入れて画面が出るまで時間がかかり、サイトに行くまで、これまた時間が掛かる。そして、最近意味不明のダウンが起こる。

これは、ひょっとしたら臨終真近かなのかも知れぬ。そろそろ潮時だろう。9年も使えばよかろう。ってなわけで、昨日W7のTOSHIBAを買ったのだが、パソコンも安くなったものだとつくづく思う。500ドル。昔20万、今5万。エレクトロニクスの時代は、ある意味恐ろしい。