今、手元に杉原弘樹さんの名刺がある。いただいたのはかれこれ10年位前だろうか。
その日、アトランタで杉原千畝を偲んで、長男 弘樹氏の講演会があった。そもそも杉原千畝を知ったのは、NHKか何かのドキュメンタリーだったと思う。そのご子息の話というのだから願っても無い機会であった。
会場はそれ程大きくなく、日本人とアメリカ人が半々くらい。お母上幸子さんの執筆した「命のビザ」を弘樹さんが英訳し、その発刊記念の趣旨で各地を回っているとの事であった。氏はアメリカの大学を出てサンフランシスコ在住である。
講演も終わり、最後に質問の時間となった。来ていたアメリカ人は年配の夫婦連れもおれば、若い兄弟姉妹のようなグループもいた。しかし皆、命のビザを貰って生き延びた当事者の子供か孫である。彼らの間で手が挙がり始めた。そして出てきた言葉は、親から話は聞いている、おじいちゃんから話を聞いている、今我々がここにいて生きているのは全てセンポのお陰だ、と。本にもあるが、センポというのは千畝という字、チウネの発音が難しいので、当時センポと呼ばれていたらしい。
センポに助けられたユダヤ人達は、あのカウナスからある者はヨーロッパの自由諸国へ脱出し、ある者はアメリカへ生き延びた。生き延びた地は異なるが、皆、連綿と家族の歴史の中に「センポ」の話を語り継いでいるのであろう。会場から次々と感謝の言葉が飛び出してくる。聞いているうちに涙が出てきて止まらない。周りを見ると、日本人は皆泣いていた。
あの時代、国家と「人間」の二者択一に直面し「人間」を取ったセンポ。その為、戦後はいわば国賊に近い汚名を着せられ不遇の時代を過ごすことになるが、世界に散らばったユダヤ人達は忘れていなかった。
(写真の本は弘樹氏が翻訳した英語本である。)
その日、アトランタで杉原千畝を偲んで、長男 弘樹氏の講演会があった。そもそも杉原千畝を知ったのは、NHKか何かのドキュメンタリーだったと思う。そのご子息の話というのだから願っても無い機会であった。
会場はそれ程大きくなく、日本人とアメリカ人が半々くらい。お母上幸子さんの執筆した「命のビザ」を弘樹さんが英訳し、その発刊記念の趣旨で各地を回っているとの事であった。氏はアメリカの大学を出てサンフランシスコ在住である。
講演も終わり、最後に質問の時間となった。来ていたアメリカ人は年配の夫婦連れもおれば、若い兄弟姉妹のようなグループもいた。しかし皆、命のビザを貰って生き延びた当事者の子供か孫である。彼らの間で手が挙がり始めた。そして出てきた言葉は、親から話は聞いている、おじいちゃんから話を聞いている、今我々がここにいて生きているのは全てセンポのお陰だ、と。本にもあるが、センポというのは千畝という字、チウネの発音が難しいので、当時センポと呼ばれていたらしい。
センポに助けられたユダヤ人達は、あのカウナスからある者はヨーロッパの自由諸国へ脱出し、ある者はアメリカへ生き延びた。生き延びた地は異なるが、皆、連綿と家族の歴史の中に「センポ」の話を語り継いでいるのであろう。会場から次々と感謝の言葉が飛び出してくる。聞いているうちに涙が出てきて止まらない。周りを見ると、日本人は皆泣いていた。
あの時代、国家と「人間」の二者択一に直面し「人間」を取ったセンポ。その為、戦後はいわば国賊に近い汚名を着せられ不遇の時代を過ごすことになるが、世界に散らばったユダヤ人達は忘れていなかった。
(写真の本は弘樹氏が翻訳した英語本である。)