生まれは長野県下諏訪だが、育ちは東京だ。母が長野県の茅野出身なので、終戦直後の昭和22年、お産の為に下諏訪の妹の所に身を寄せたらしい。だから戸籍謄本には下諏訪が記載されている
その長野県に生まれて初めて行ったのが小学校三年の夏休み。何故そうなったのかは記憶にないが、ともかく初めて汽車に独りで乗った。恐らく父親が新宿駅まで送ってくれたのだろうが、記憶にはない。下諏訪に着くまでの記憶は、汽車の煤の匂いと山梨の小淵沢という所でのスィッチバック。これが面白かった。今ではイメージできまいが、汽車ではパワーが出ないから急こう配を進むのに行ったり来たり、ジグザグで登っていく。
下諏訪の叔母の家で茅野の玉川村から来ていた祖母に初めて会った。数日して祖母が玉川村の家に連れて行ってくれた。この家で約一か月ほど滞在した。
リンゴ園をやっていたが、ここで初めて炭焼きを経験した。ここでの生活は全てが別世界だった。家の脇には小川が流れ、どぜうをザルで取ってフライパン焼きにした。蛇が出ればどうやって殺すかを教わった。初めて蜂の子を食べさせられた。生来オネショ癖がついていたから3年生でも地図を書いていた。それを黙って祖母が日向で布団を干してくれた。冬瓜からカンピョウを剥いた。中二階にカイコ棚があり、朝は桑の葉をリヤカーで採りに行き、昼間は繭から糸を紡いだ。山に登れは清水が湧き、夏休みの宿題になる蝶々とトンボ採りに熱中した。にぎりめしときゅうりに味噌をつけて食べた。トイレは外にある、穴の上に板が二枚渡してあるだけだった。夜は怖くてガマンしていると、朝起きると布団に地図。
後にも先にも初めての田舎暮らし。懐かしい三年生の夏。
その長野県に生まれて初めて行ったのが小学校三年の夏休み。何故そうなったのかは記憶にないが、ともかく初めて汽車に独りで乗った。恐らく父親が新宿駅まで送ってくれたのだろうが、記憶にはない。下諏訪に着くまでの記憶は、汽車の煤の匂いと山梨の小淵沢という所でのスィッチバック。これが面白かった。今ではイメージできまいが、汽車ではパワーが出ないから急こう配を進むのに行ったり来たり、ジグザグで登っていく。
下諏訪の叔母の家で茅野の玉川村から来ていた祖母に初めて会った。数日して祖母が玉川村の家に連れて行ってくれた。この家で約一か月ほど滞在した。
リンゴ園をやっていたが、ここで初めて炭焼きを経験した。ここでの生活は全てが別世界だった。家の脇には小川が流れ、どぜうをザルで取ってフライパン焼きにした。蛇が出ればどうやって殺すかを教わった。初めて蜂の子を食べさせられた。生来オネショ癖がついていたから3年生でも地図を書いていた。それを黙って祖母が日向で布団を干してくれた。冬瓜からカンピョウを剥いた。中二階にカイコ棚があり、朝は桑の葉をリヤカーで採りに行き、昼間は繭から糸を紡いだ。山に登れは清水が湧き、夏休みの宿題になる蝶々とトンボ採りに熱中した。にぎりめしときゅうりに味噌をつけて食べた。トイレは外にある、穴の上に板が二枚渡してあるだけだった。夜は怖くてガマンしていると、朝起きると布団に地図。
後にも先にも初めての田舎暮らし。懐かしい三年生の夏。