よし坊のあっちこっち

神出鬼没、中年オヤジ、いや、老年オヤジの何でも有りブログだ!

昭和の足跡(11)田舎

2020年03月25日 | 昭和の足跡
生まれは長野県下諏訪だが、育ちは東京だ。母が長野県の茅野出身なので、終戦直後の昭和22年、お産の為に下諏訪の妹の所に身を寄せたらしい。だから戸籍謄本には下諏訪が記載されている

その長野県に生まれて初めて行ったのが小学校三年の夏休み。何故そうなったのかは記憶にないが、ともかく初めて汽車に独りで乗った。恐らく父親が新宿駅まで送ってくれたのだろうが、記憶にはない。下諏訪に着くまでの記憶は、汽車の煤の匂いと山梨の小淵沢という所でのスィッチバック。これが面白かった。今ではイメージできまいが、汽車ではパワーが出ないから急こう配を進むのに行ったり来たり、ジグザグで登っていく。

下諏訪の叔母の家で茅野の玉川村から来ていた祖母に初めて会った。数日して祖母が玉川村の家に連れて行ってくれた。この家で約一か月ほど滞在した。

リンゴ園をやっていたが、ここで初めて炭焼きを経験した。ここでの生活は全てが別世界だった。家の脇には小川が流れ、どぜうをザルで取ってフライパン焼きにした。蛇が出ればどうやって殺すかを教わった。初めて蜂の子を食べさせられた。生来オネショ癖がついていたから3年生でも地図を書いていた。それを黙って祖母が日向で布団を干してくれた。冬瓜からカンピョウを剥いた。中二階にカイコ棚があり、朝は桑の葉をリヤカーで採りに行き、昼間は繭から糸を紡いだ。山に登れは清水が湧き、夏休みの宿題になる蝶々とトンボ採りに熱中した。にぎりめしときゅうりに味噌をつけて食べた。トイレは外にある、穴の上に板が二枚渡してあるだけだった。夜は怖くてガマンしていると、朝起きると布団に地図。

後にも先にも初めての田舎暮らし。懐かしい三年生の夏。


イッツJAZZ ‐ ジャズとクラシックと音楽と

2020年03月16日 | Jazz
どんな音楽も癒しになる。童謡や小学唱歌に始まり、当時の歌謡曲に囲まれて育ったようなものだ。その延長が今でも続く演歌の世界だろう。だが、その途中でクラッシックに出会うものだ。

ラジオから歌謡曲と共によくクラッシックが流れていた。そういう番組があった。小学校の頃、チャイコフスキーの白鳥の湖のレコードが欲しくて東芝の簡易レコードプレーヤーを買ってもらった。しかし、クラシックレコードをポンポン買うほどの余裕もないし、クラッシックへの深入りはそれきりになった。

それまで縁のないジャズにハマったのが会社に入って二年目くらい。独身寮の先輩にたまたま薦められて買ったマイルスのサムシング・エルス。あの名曲”枯葉”に聞き入ってしまった。それから給料日がレコード購入日となった。量の先輩の1000枚には及ばないが、120枚のコレクションとなった。その8割くらいをアメリカに来るときカセット用テープに採り、今日本で買ってきた小さいラジカセで聴いている。

MJQのアランフェスでイェペスのクラッシクレコードを買った。ジャック・ルーシェのPlay Bachシリーズでバッハの曲を聴く。オイゲン・キケロの作品は貴重だ。バッハのみならずヘンデルやリスト等幅広く聴けるのが楽しい。バッハのトッカータニ短調やスメタナのモルダウ、リストのラ・カンパネラ等。

モルダウを含む6楽章のCDを今でもたまに聴く。忘れられないのは、1989年ベルリンの壁が崩壊した後のドイツ統一記念のブランデンブルグ門前でのコンサート。カラヤン指揮するモルダウの演奏は圧巻だった。

ラ・カンパネラはその後リスト曲演奏の第一人者フジコ・ヘミングに行きつく。名だたる演奏者のプレイは皆流れるように上手だ。まとまった演奏で素晴らしく、心地よい。いわばロッキングチェアにゆったりと身を委ねるような感じだ。ところが、フジコヘミングのそれは、後半で大きな揺れが来るような感じなのだ。そこが違う。

ジャズもクラッシクも 音楽はいい。


映画三昧 - CONTAGION 感染

2020年03月12日 | 映画
コロナウィルスの流行がとうとうPandemic宣言まで行ってしまった。普通のインフルエンザは熱に弱いからと期待していたが、熱にも強いと言うから今年は大変な年になる。SARSは一回のブレイクから再発生していないが、今回のCovid-19は来年も起こりうるとCDCが予想しているから、相当厄介だ。

ウィルスを題材とした映画では、エボラにヒントを得たダスティン・ホフマン主演のOUTBREAKが有名だろう。脇にレネ・ルッソとモーガン・フリーマンを据えて見ごたえのある映画だった。

マット・デイモン主演のCONTAGION(感染)という映画がある。恐らくSARSがヒントになっているのであろうが、今回のコロナ感染を頭に入れて観ると、かなりのリアリティが得られる、必見の映画であろう。最初の動物ーヒト感染からヒトーヒト感染に拡がっていく様を逆トラックダウンして観客に注意を喚起してくれる。


昭和の足跡(10)給食

2020年03月05日 | 昭和の足跡
よし坊の給食は小学校5年までだった。5年生の二学期から今の小平市に移ったからだ。当時の小平の小学校には給食は無く弁当持参だった。

給食メニューで恐ろしかったのはミルクだ。脱脂粉乳という悪名高い飲み物だ。味は不味い。加えてあの表面塗膜だ。ミルクが冷め始めると途端に表面に薄い膜が張られる。これと一緒にミルクを飲む気持ち悪さは相当だ。だから、いつも鼻を摘まむか息を殺して一気飲みするのだ。もちろん膜は横にどけて飲む。

小さい頃は好き嫌いが多かった。ネギ、玉ねぎの類と人参(これは今でも嫌いな野菜だが)。今で言う肉じゃがみたいなごった煮のようなものが出ていた。どろどろの玉ねぎとでかい人参。食べるのに苦労した、というよりはいつも残していたように思う。

パンはコッペパン。フランスがルーツらしいが、大体半分残し、残すと怒られるからランドセルのポケットに入れて帰る。翌朝までランドセルは明けないからパリパリになっていた。それでもコッペパンの揚げパンが出た日は美味しいから完食となる。

たまにミルクではなくコーヒーが出てくる。あれをコーヒーと言っていたのだが、本当は何だったんだろう。本当のところはともかくとして、美味かった。

それにもうひとつ、美味しい物に肝油があった。栄養補給剤だが、この小さな粒が気に入っていた。支給は一粒だったか二粒だったかは覚えていない。

5年生で転校し、弁当持参となった時、なにやら嬉しかったのを覚えている。今、あの給食の時代が懐かしい。