よし坊のあっちこっち

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「安倍元総理暗殺」にみる日本の非常識

2022年07月18日 | いろいろ
戦後日本で本当の意味での「政治家」は数えるほどしかいない。国家としての世界観を持ち、自らの信念のもとに実行しようとする政治家のことである。その意味では全く惜しい人を失くしてしまった。それも暗殺という形で。今回の事件後の成り行きや報道をみていると、「世界の常識日本の非常識」が目立って仕方がない。この日本、あるいは日本人の情けない姿はどこから来るのだろうか、と思う。その日本の非常識がいくつかある。

その1 日本のメディアをみると「暗殺」とは書かず、概ね「銃で撃たれ死亡」の文字が躍っている。遠い昔、伊藤博文が隣国で「暗殺」された。社会党の浅沼委員長はヤマグチオトヤに「暗殺」された。警察庁国松長官事件はヒットマンによる「暗殺未遂」である。そして今回もそうである。海外報道はどれもこれもAssasinationで報道しており、おひざ元も日本だけがそのような表現を取らない。そうしたい、或いはそうしなければならない特別の意図でもあるのだろうか、と疑いたくもなる。もしそうだとしたら、全く情けない話である。日本は世界とは異なる集団国家のように見える。

その2 国葬云々の慌てぶり。当初総理及び官邸は国葬には消極的だったようで、ある意味高をくくっていたのではないだろうか。ところが、通夜と告別式に全国から人々が溢れかえるという、総理周辺にとって予想外?の状況が起こった。加えて海外首脳からの弔意のみならず、国葬の有無問い合わせ殺到で慌てふためいたのではないか。

日本以外の欧米諸国は、はなから国葬あり、とふんでいただろう。大統領や首相ともなれば予定が詰まっているから、直ぐに問い合わせをするのが常である。その現実を目の当たりにして、総理官邸はまさに、「えらいこっちゃ」となったのではなかろうか。

よく言われることがある。「前例がないから」。欧米は前例がないなら作ったらいい、という考え。日本は、前例がないなら何もやらない、という考え。世界は限りなくポジティブなのである。世界の中で生きる日本なら、変えていかないと様にならぬ。

注目の「参政党」 

2022年06月10日 | いろいろ
今夏の参議院選挙に向けて、久しぶりに耳を傾けたくなる新しい政党が出てきた。参政党だ。ここにきて大きな風が’吹きそうな予感がするのは筆者だけでななさそうだ。

前から注目していたのは武田邦彦先生が参政党から出るというニュースを聞いて以来だが、最近の彼らのアピールを聞いていると、極めてまともな、既存の政党にはない「直球型」の感じがするのだ。

我々の中で日頃からうっぷんが溜まっている様々の問題を、一般国民目線で喚起している。本来野党が言わなければならない問題点をストレートにアピールしているから注目されるのは当然だろう。

今、野党の体たらくは酷い。酷すぎるといっても過言ではないだろう。立憲民主党はかつての社会党の運命を辿りつつあるのは明らかだ。先の選挙で注目された維新は母体である大阪維新の会が何やらきな臭い様相を呈してきて、今回は恐らく停滞に入るのではないか。

参政党の今起こしているうねりで議員が誕生すれば、少しは自民党へカツを入れるきっかけになるやもしれぬ。願わくば、実績を積み、次の衆院選挙へもなだれ込んで欲しいものだ。

遺産相続人 私の場合

2022年05月04日 | いろいろ
親が亡くなると相続額の多寡に関わらず遺産相続手続きが発生する。その手続きをやる前にやらなければならないのが、遺産相続人の確定という作業である。

この確定手続き、簡単であったり、複雑であったり、夫々の家庭の成り立ち状況によってかなり異なる。この確定手続きの眼目は、自分の親双方に自分(達)以外の血の繋がった兄弟姉妹が存在するか否かを明確にすることである。

この確定作業、実際にやってみると面倒ではあるが、実に面白い。欧米人が遠い先祖を辿るFamily Treeには及ばぬが、直近三代までのルーツを辿る世界に浸れるからだ。自分の知らなかった世界を垣間見るような、一種のスリルさえ感じる。この作業を通じて、日本の戸籍制度が重要な役割を担っているのがよくわかる。なかなか、この制度はすてたものではないのである。

実際の作業は、遺産被相続人(即ち亡くなった人)の住居の変遷を直近から出生届が出された所まで逆に辿っていき、途中離婚再婚などによる出生子の有無を確認することである。従って、生まれも育ちも一カ所で現在に至れば話は簡単だが、そうでなければいささか面倒なのである。この作業は、普段知らなかった親の過去の一端を知る手掛かりにもなって、大変興味深い。参考までに筆者の作業は以下のものであった。

奈良県で同居していた母は父の死後に東京のA市から転入してきたので、まずA市の戸籍抄本を取り寄せた。そこには父との婚姻により、長野県B市から転入してきた記載がある。そこでB市から抄本を取り寄せた。兼ねてより母の出生はB市ときいていたので、作業はこれで完了かと思ったが、そうではなかった。複雑な家族関係とともに、初婚の事実が記載されていた。今度は、初婚で嫁いでいた長野県C村から抄本を取り寄せたのだが、結婚後17日で夫は戦死、子供無し、の記載であった。戦争中、恋仲の二人が出征を前に結婚したが、夫は戦地に赴く輸送船が撃沈され、子供を授かることもなく、戦争未亡人となった。

かくして、母の子供は父との間に生まれた筆者を含む3人の子供以外に存在しないことが確定した。

墓終いの話

2022年02月02日 | いろいろ
人間生まれた時は親が出生届を出せばこの世で認知されたことになり事は済むが、人生を終えた時、近親者が死亡届を出すだけでは終わらない。通常はお葬式を経て、日本ならば火葬に付し、納骨して漸く事を終える。

日本のお葬式事情は、この20年で様変わりした。お金のかからぬ簡略葬や地味葬が増えている。葬儀関連のホームページを見ると、かつての丼ぶり勘定への批判を反映してか、項目別に価格がブレークダウンされ、明朗価格をアピールしている。型通りのお葬式が済むと火葬後の納骨となり、お墓の話となる。

かつては”お墓が足りない”協奏曲が大都市を中心に起こり、遠方への墓探しに奔走したり、お墓団地と称する、位牌が入る程度のコインロッカー的お墓もお目見えしたものだ。今でも過密都市周辺では事情は変わらないのだろうが、地方に目を転じれば衰退傾向なのではなかろうか。お寺も檀家が減る一方だから、経営的にも大変な時代を迎えている。

筆者の場合は、父が40年以上前に亡くなり墓を建てた。6年前母が亡くなった時、墓の行く末を考えた。墓を維持していく意味があるのか、を考えた時、子供二人が娘であることも勘案すれば、早晩墓の面倒を見る人はいなくなるので、出した答えが「墓終い」となった。

墓終いする前提でクリアすべき点は母の遺骨である。骨壺のまま持ち続けるわけにもいかない。ヒントはアメリカでの経験にあった。ジョージアで知人が亡くなった時、火葬後、粉にして比較的小さな骨壺にいれてくれるという。粉にする作業は当時800ドルくらい。

日本での骨粉作業を請け負う業者は少ない。当時、千葉、福岡、大阪に一社づつあるだけ(恐らく今の変わってはいまい)。大阪の業者で骨粉にしてもらい、小さな仏壇用専用容器(高さ10cm弱直径7cm円筒状)に入れ、残りは家の庭に散骨した。費用は約2万円。

墓終いで印象的だったのは、墓を開けてみると、40年以上前に納骨袋に入れた父の骨は袋の繊維と共に土になっていた。見事に自然に帰っていたのである。

言葉は難しい ー 英語と固有名詞

2021年09月01日 | いろいろ
英語はサイレントワードがあったり、地名の固有名詞にはネイティブアメリカンの言葉があるから、発音が難しい言語のひとつだろう。その中でも固有名詞、特に人名の表記や発音には日頃から注意が必要だ。

何故、人名の表記・発音を間違えるといけないか。固有の名前を間違えるということは相手に不快感を与える、大げさに言えば侮辱することに繋がるからだ。知らなかったら、それを知った時直さなければならない。

日本人は漢字圏と英語圏の人名を勝手読みするきらいがある。典型的なのが朴さんをパクでなくボクと呼び金さんをキムでなくキンと呼ぶ。英語圏読みはローマ字教育の影響だろうか、例えばKylieをカイリーではなく、キリー読みしてしまう。英語圏以外の国だと発音しにくい人名が多いので、素直に本人に聞くのだろうが、英語圏だと学校で一応英語を習ってるので勝手読みが横行する。

逆に中国に行くと日本名が中国発音になるから、侮辱されたとは思わぬが奇妙な感覚にとらわれる。小林さんはシャオリンとなる。名前くらいは出身地通りの発音で呼んでほしいと思うのは筆者だけだろうか。

アメリカの芸能人も様々な言語的背景をもっているから、トークショウなどを観ていると、司会者が名前をどう発音するか必ず聞いている。そんなアメリカでも、昔は東洋人など目じゃなかったから、同じような勝手読みが起こった。その典型がゴルフの青木功である。Aoki Who?の時代だ。アメリカのツアーに参戦した青木は快進撃を続けたから、青木の連呼が始まった。”アイサオ・エイオキ”の連呼となった。(この時一緒にラウンドしていたアメリカ育ちの奥さんがTV局に厳重抗議し、以後イサオ・アオキとなったのは有名な話である)。

だいぶ良くなったとはいえ、最近でも直っていない気になる事例がある。しかも英語をよく知っている著名人にして間違った言い方をしているから、がっかりする。Financeの発音はファイナンスまたはフィナンスで、名詞動詞双方に使う。これが固有名詞に使われた時には注意しなければならない。英国を代表する経済紙The Financial Times(ファイナンシャル・タイムス)がフィナンシャル・タイムスとして堂々とまかり通っている。いささか残念である。

地球儀のすすめ

2021年08月03日 | いろいろ

地球が丸いことは、今では当たり前のことだが、その昔、16世紀に入ってポルトガルのマゼランが3年の大航海で実証するまでは「地球は平たく、地の果ては深淵である」との考えが支配的であった。

だが、一方でソクラテス、プラトン、アリストテレスの紀元前の古代ギリシャ時代に、既に地球天球説が唱えられていたことは驚異であるが、実証するまでに実に1500年以上かかったことを考えると、その間、いかに海上での移動手段、即ち強力な船の建造が容易ではなかったかを物語っている。その意味では、15~16世紀の当時の最強国家ポルトガルの面目躍如といったところだろう。

世界地図を広げてみると、何処の国の世界地図も、西にアメリカ南北大陸、東端に日本列島、そして中央に欧州アフリカ大陸とユーラシア大陸となっている。これを自分の国を中心に置いて作ろうとすると、どうやっても収まりがわるくなり、世界をコンパクトに俯瞰出来ないことに気が付く。今の形が最も収まりがいいのだ。昔から日本を含む東南アジアはFar East即ち「極東」と呼ばれてきたが、世界地図を見れば納得である。それに倣えば南北アメリカ大陸は、まさに「極西」となろうが、決して彼らはそうは呼ばない。かつて世界を牛耳った欧州と現在世界を牛耳っている米国にとっては、中心であり出発点は彼等であり、遠い東の地の果てに一段低い文化を持つアジア諸国があるという思いがあるのだろう。

平面世界地図はAt a glance としては確かに便利だが、距離をイメージするには不適当だし、自分の国を中心に見た時の世界の映り方がしっくりこない。そこで登場するのが地球儀だ。

小さい頃、日本からアメリカに行くには太平洋を横断するものだと思っていた。平面地図を見れば誰しもそう思う。ところが飛行機に乗ると航路は全く違う。最短距離を選んで飛ぶのだが、地球儀をなぞって計測すると納得出来る。もうひとつ面白い実験が出来る。自分がその国に住んでいることにして地球儀上から世界を見ると日頃描いているのとは違う風景が見えてくる。

まだ地球儀をお持ちでない方は是非手に入れた地球儀で世界を歩くことをお勧めしたい。

オリンピックとは何なのか

2021年07月20日 | いろいろ
もうすぐ東京五輪が開催されるが、まさかのコロナ騒動で悪戦苦闘である。そのせいもあって、ヤレとかヤメロとか賛否渦巻いているが、それとは別に、そもそものオリンピックの位置づけをもう一度考えたほうがよい。

スポーツの祭典を通じて、不穏な世界情勢の緩和に一役買っていたのは事実であろう。貧困が悪を産む、と考えれば貧困国が国力浮揚のためにオリンピック開催出来るまでの国力を備えようと努力する目標にする意味も大きい。例え目標に到達しなくても、だ。かつて富める先進列強国がパワーを誇示する開催の合間に、いわゆる発展途上国が先進国の仲間入りを果たすためにオリンピックを誘導してきた。1964年の東京五輪もそうだった。それまでの五輪は発展途上国にとって国力浮揚がメインだから収支は度外視、不足は国家財政で補えばよかった。成功すればその後の経済拡大となり国全体としては勘定に合う。

オリンピックに転機が訪れたのは1984年のロス五輪だろう。ここでアメリカは儲かる五輪を計画し、見事に大黒字をたたき出したのだ。それまでオリンピックは儲からないのが定説だったのをひっくり返してしまった。これ以降、オリンピックの一層の商業化が進んだ。金を運ぶ観客を呼び込む為には何をすべきか。その果てが、アメリカお得意の野球はゴルフまで客寄せパンダよろしく種目に加えていった。1996年のアトランタ五輪のバスケは酷かった。ドリームチームと称してマイケルジョーダン筆頭に名だたるスタープレイヤーを招集して優勝。ゴルフもテニスも4大タイトルがあるにもかかわらずだ。その点男子サッカーを年齢制限したのは一定の評価が出来る。サッカーはW杯が最高の場であることを明確にメッセージとして出しているからだ。

そもそも、今回の東京五輪。当時経済で苦しんでいた日本の再生を目論んで当時の東京都知事石原慎太郎が仕掛けたものだが、その当時のみを考えたら発想は良かったのかもしれないが、考えてみたら実現するのは10年後なのである。何が起こるか分からない。そして今回、その「何が起こるか分からない」ことが起こったとも言えよう。

この前のロンドン五輪は儲からないことが露呈した。そのため、以後の五輪開催意欲が軒並みトーンダウンして今日に至っている。ここまで来ると、一体オリンピックにどのような意味があるのだろうか。今回の東京五輪が大きな岐路になるかもしれない。

使用期限や賞味期限

2021年04月27日 | いろいろ
製造物には使用期限があり、日常で出くわすのが食べ物の消費期限と賞味期限。混乱を招くのが賞味期限。賞味期限が過ぎると食べられないと錯覚する人が結構いるから要注意だ。食べ物の場合は簡単な話、腐っているかどうか、に尽きる。

相当古いものをどうするか、だが、これは食べ物の状態、色と匂いで判断する力を日頃から養っておく必要があるだろう。

もうひとつ身近なものに薬がある。飲み薬塗り薬いろいろあるが、経験上使用期限が相当過ぎても我が家の場合は今まで問題が起こったことはない。期限切れも何年という幅でだ。

塗り薬は効能は落ちるだろうが問題なく使っている。それでも結構効くから重宝している。特に海外生活をしていると古いものでも使いたくなり、使ってみれば、なんのことはない、立派に使えることが分かる。飲み薬も同じだ。以前、病院の看護婦さんに聞いたら、彼らも自分で買った薬は使用期限が切れても普通に使ってると言っていた。

世の中、周りのスタンダードに惑わされず、自分のスタンダードを持つべし、である。

人は喋るとホンネが出る ー 森発言検証

2021年02月17日 | いろいろ
森喜朗五輪組織委員長が舌禍で辞任に追い込まれた。それに対して様々な意見が飛び交っている。辞任するほどの発言でもない、という意見もあれば(日頃から横暴な)マスコミが発言の一部を切り取って辞任に追い込んだ、というのもある。日頃はまともな論陣を張るコメンテーターまで”不適切発言ではあるが、真意が曲解されている”などといささか期待外れの発言まで出ている。

さて、全文を読んでみると、大した発言ではない、とか真意が曲げられている、というレベルではなく、やはりアウトな発言だと分かる。最後に言いたかった事を強調する為(?)に日頃感じていたホンネを引き合いに出してしまったのだろう。彼のロジックを簡潔に言えばこうだ。「世の中、いろいろな組織や理事会に女性が進出しているのは喜ばしいことではあるのだが、実のところ、女性が多くなると会議が長引いてかなわん。困ったものだ。その点、五輪組織委員会の理事会にいる女性たちは(何故か、たまたまか)男性並みの働きをしていて素晴らしい」。要するに、組織委員会の女性理事は男性並みによくやってくれていることを言いたかったのだろうが、日頃のホンネ論を展開してしまった。

この発言を受けて、大挙してボランティアが辞めたことは象徴的である。森発言に不快感を覚えて辞めたのである。現代では職場において、性別等に関して不快感を与えた場合、その時点で、これは立派にハラスメントに該当してしまう。不快感を与えたらアウトなのが国際常識なのだが、日本は依然としてこの領域では後進国に属している。

参考までに、全文をサマリーする。3段に分かれている。

第一段(自分がドンの)ラグビー協会の理事会は今は女性が入っているので、女性がいなかった時に比べ、倍の時間がかかっており、これは恥ずかしいことである(これのどこが恥ずかしいことなのだろうか?)

第二段 女性は優秀(と持ち上げ)だが競争意識が強い。女性を入れる場合は発言に時間制限が必要だ、と誰かが言っていた( 自分の意見では?)。

第三段 組織委員会の女性は皆国際経験も豊かで素晴らしく、大いに役立っている。だけど欠員が出るとすぐ女性を入れたがる(女性を増やそうとしているのだから当然ではなにのか? それを”入れたがる”とは蔑視と取られても仕方がない)。

国際社会は差別には殊更敏感だが、日本はかなり鈍感だ。だが、舌禍を引き起こしたら、真意はどうあれ、退場するのがルールである。


ニセモノはなくならない

2021年02月14日 | いろいろ
戦後の日本復興の端緒は主としてアメリカからの軽工業品の受注に伴う輸出に始まった。しかし、当初の日本製品質は決して褒められたものではなく、アメリカから見れば「安かろう、悪かろう」と言うイメージが定着し、海外ブランドの流入につれ、模造品、即ちニセモノづくりも広がっていった。日本人の努力の甲斐あって、その後「品質の日本」とまで言われるようになったが、一方、ニセモノづくりは韓国中国に拡大して今日に至っている。だが、日本ではニセモノづくりが無くたったかと言えば、そうではない。今でもたまに摘発されることがある。

以前こんな話を聞いた。ルイビトン等の高級バッグ類を偽造して逮捕された関西人に言わせると、捕まって塀の向こうで2~3年過ごしても、出所したらまたやるそうだ。偽造バッグは相当なぼろ儲けなのでムショ暮らしの期間でも家族の暮らしは安泰らしい。だからまたやる。懲りない面々だが、プラスマイナスの勘定がきっちり出来るから、くさい飯を食っても止められないのだという。

消費者側でも面白い話がある。あるTV局がニセモノ特集を組み、有名ブランドのバッグを持って街を歩く女性にインタビューをした。全員本物を持ち歩いていると思いきや、中にはニセモノと知って堂々と持ち歩いている女性が何人かいた。いずれの女性も本物も持っているが、それは家に置いてあるという。汚れたりするのが嫌だから、普段はニセモノを持ち歩き、本物はここぞという時しか使わないとか。面白い消費者側の需要心理だ。

この数年ネットショップが小売りの主流になり、アマゾンや楽天が幅を利かしている。固有ブランドのネットショップなら問題はないが、単に売買の場を提供するだけの楽天などのショップ形態は今でもトラブルが多い。その一つがニセモノ販売の横行だろう。お金の集まる所には常にワルイ輩が蠢く。

最近のニセモノは表面の作りは精巧だから判別しにくい。ロゴやネームの位置、裏についてるタグなど見える所はチェック出来るが、問題は中側にある。例えば靴などは中底など見えない所に安い不良品を使う。衣服だと、規格外の糸で織ったり、糸の使用量を少なくしてごまかす。見えない所でのゴマカシは自由自在と言ってもよい。ブランド品は決して変な安売りはしない。新品で半値が付いたら疑ってかからねばならない。ニセモノ承知で買うなら別だが。