よし坊のあっちこっち

神出鬼没、中年オヤジ、いや、老年オヤジの何でも有りブログだ!

名門大学の前代未聞の不祥事

2014年10月27日 | アメリカ通信
人間が関わる以上、どこの国でも、どこの組織でも不祥事は起こる。今、アメリカの名門大学が揺れに揺れている。

全米でも30位にランクされる州立大学中の名門、ノースカロライナ州立大学チャペルヒル校。バスケットボールのレジェンド、あのマイケル・ジョーダンを輩出した大学として有名である。日本と違い、アメリカの大学は入学より卒業の方が難しい。スカラシップも充実しており、日本のように返す必要は無い。高校の成績が良いと大学から授業料を大学で負担するから来てくれ、とお誘いがかかる。又、スポーツで秀でている学生にはアスレティック・スカラシップがあり、バスケットやアメフトで将来有望な学生を取り込もうとする。特にスポーツのスカラシップでは、学生にあるレベルの学力が無いと卒業が難しくなるから、学生も勉学に励まざるを得ない状況となるから、所謂勉強の出来ないスポーツ馬鹿のままで卒業するのはあまり無い。しかし、人間のやることだから、落とし穴がある。名門チャペルヒル校にも落とし穴があった。

その事件は約5年前、地元の小さな事件として報じられた。チャペルヒル校のある学部でスポーツ系の学生の学業評価にお手盛りがされ、酷い成績にも関わらず、Degreeを乱発しているというものであった。単位が取れず卒業も危うい学生に対し、レポート一枚提出すれば、内容の如何に問わず単位を与えるという驚くべき実態であった。学校は事件を矮小化すべく、当該学部の主任教授が勝手にやったことだと、一人だけの責任転嫁で逃げ切ろうとした。しかし、地元紙の執拗な追求キャンペーンで、火種が燻り続けたため、昨年新たに就任した新学長は第三者による調査は不可避と判断し、元検察官を招き、徹底調査に着手、この度約8ヶ月の調査が終了し、”前代未聞”の結果が公表された。

この手の不祥事はたまに起こる。数年前、フロリダで起こった同様の事件では、その資格も無いのにDegreeが与えられていた学生数は64人で、この時も前代未聞と言われた。ところが、今回の事件では、少なく見積もっても3100人にのぼり、実際はこれよりはるかに多いと報告されたから、激震が走った。更に、この不正は18年間も続いており、槍玉に上がった学部主任教授ひとりの責任ではないことが判明した。組織ぐるみだったのだ。

槍玉に上がった主任教授は、実は首謀者ではなかった。首謀者はその下にいた教員で、周囲の教員やスタッフ、関連するアメフトやバスケットチームのコーチ陣も承知して積極的に活動していたのだ。この主任教授は当初は全く関知していなかったが、途中で不正が行われていることに気づくも、見てみぬ振りをしてしまったのだ。首謀者の女性教員は、スポーツに優れた学生を学内に引きとめたいが故に不正に手を染めてしまった。

人間稼業は難しい。悪魔が囁いた時どうするか。一度手に染めると次もやるのが現実だから、更正というのは難しい。見て見ぬ振りをすれば、事が発覚した時、災いとして降りかかってくることがある。さりとて、内部告発をすれば、これまた村八分にされかねない。いずれにしても覚悟の要ることである。


女性大臣辞任に見る政治風土と成熟度

2014年10月20日 | アメリカ通信
女性経産大臣の辞任会見を見たが、いろいろな意味で大変興味深い。とりわけ、今の日本の政治家や政治システムの成熟度がどの辺にあるのかが良く分かり、決まって取り沙汰される”日本的政治風土”という曖昧さが霧のように全体を包み、その曖昧さを晴らす力が働かない。

二世議員が悪いとは思わない。親と同じ道を志す子供が居たとすれば、そういう雰囲気の中で育つことはむしろ大きなプラスになるはずだ。加えて、親の地盤を引き継ぐとなれば、既に出来上がっている組織を貰うわけで、これほど楽なことはあるまい。しかし、これが落とし穴となるから、気をつけないといけないが、この女性議員は見事に嵌ったといえる。

父親の急死で急遽担がれ議員に当選したのだが、当然取り仕切ったのは地盤を形成する後援会とそれを束ねるボスである。しかも、親の代から仕えていたボスともなれば、担がれ議員であれば、恐らく何も言えまい。当世、カネの問題はボンクラ議員でも一応気にする案件だが、今回の騒動は個人商店の二代目が昔からの大番頭に任せきりで、問題が発覚して呆然としている様である。

興味深いのは、会見で第三者委員会に調査してもらうと述べたことだ。今時流行りの第三者委員会ではあるが、今回の意図は少し違うような気がする。そこには、信頼していた取り巻きに裏切られたという悔しい思いがありありと見え、きっぱり取り巻きと決別するには、この方法しかあるまい、と考えたのではないだろうか。

過去の政治とカネの問題で”身体検査”をやるようになったとはいえ、今回の大甘ミスが露呈すると、実際の効果は余り期待出来ないことになる。日本的政治風土のなせる業ということになり、いつまで経っても一向に改善はされまい。この点アメリカとはシステムと政治風土を大きく異にしている。

アメリカでも議員になった後に不祥事で叩かれることはあるが、殆どは選挙戦の最中に対立陣営やメディアが”禊”案件を公にして叩く。候補はいちいち説明し、世論を納得させる説明が出来なければ、途中で選挙戦を降りる羽目となる。選挙戦には公開討論もある。討論で目が泳ぐような答弁をしようものなら、翌日のニュースで早速取り上げられ、選挙戦に大きなマイナスを招いてしまう。こうして禊を受け、ハードルをクリアした者のみ、最後の戦いに挑む資格を得るわけで、日本の甘ちゃん候補とはえらい違いだ。

選挙戦撤退の時も、堂々とした撤退宣言のスピーチを行う。そこには議員然とした姿を見ることが出来る。その点、今回の女性議員の会見は、言葉に詰まり、目は泳ぎ、素人然とした姿で、きっと、この人は議員には向かないのだろう。大臣候補に取り沙汰されていた時、メディアは将来の初女性首相候補だと囃していたが、そういう見方はどこから来るのか。不思議な不思議な日本の政治とそれを取り巻くメディアのレベルが垣間見れる。

ハイテクとローテクの狭間で - ロートル式のすすめ

2014年10月17日 | いろいろ
科学技術の進歩で、昔ならあっけなく死んでいた多くの病気が救われている一方で、深刻な病との闘いは今も続いている。そのひとつが認知症で、夫婦揃って60の還暦を通り越すと、何かにつけワイフとの会話の話題となる今日この頃だ。認知症になりたくないのはヤマヤマなれど、向こうからやってくるから致し方ないのだが、以前観たドキュメンタリーの内容は興味深いものだった。一言で言えば、ロートル式生活のススメ、である。ロートルと突然言われても、ハイテク時代を謳歌している今の若者達には分かるまい。今や死語、あるいはそれに近いのではなかろうか。

ハイテクは確かに人の生活を便利に、楽にする。より豊かな人生を送るひとつの道具としては、無いより有ったほうが良い。今回日本人にノーベル賞が与えられたLED技術はその代表といっていいだろう。しかし、”進歩”が全て良いものばかりを運んでくるとは限らない。物によっては使われる以前から、その功罪が問われ、結局使う人間がバランスよく使うことを推奨されるのがオチで、人間、そこまで賢いかといえば、残念ながら賢くない。結局はイージーな方向に流されて、頭や手足を段々使わなくなる。

以前から、認知症が増えたのはハイテク、別の言葉で言えば便利さ、が進むのと比例しているのではないか、と思っていたのだが、そのドキュメンタリーの内容は正にその点を突いていた。高齢でもハイテク文化から距離を保っている人達には発症の率が低いという結果であった。要するに便利さに過度に頼らず、頭と手足を一生懸命使うことが認知症予防になりそうだ。

定年を迎え、第二の人生で庭仕事を始める人が多いが、これは正解だろう。斯く言うよし坊もそのひとりだ。加えて、よし坊の場合、アメリカ暮らしだからやる事は多い。日本ではやることの無いちょっとした修理は自分でやる。頼めば2万3万する修理も部品を買ってきてやれば2~5千円程度で済む。庭が広い(自慢しているわけではなく、普通の家でも日本より広い、いや広すぎ)から、やることが多い。裏庭なんか、秋の落ち葉シーズンの一ヶ月は毎日のように枯れ葉集めであっという間に2時間くらい経ってしまう。これには相当体力も要る。

結局のところ、ハイテクの良さ、便利さは有るけれど、それを上手にコントロールする術を我々は持ち合わせていないのだろう。しからば、そこから出来るだけ離れるに限る。便利さの中には不要な機能もたくさん付いていて、それはコントロール以前の問題で、オタクでもない限り、普通の人には無用のものだ。物の費用対効果で言えば出来るだけ無駄な部分は外すべきだが、費用対効果を追求しようとすると、日本とアメリカでは正反対の状況にあり、日本では不必要な機能を外そうと思っても出来にくいのが実情だ。

費用対効果の日常的訓練は日本よりアメリカの方が良く出来ている。日本は車でも電化製品でも基本はオールインワン。普段使わない機能まで満載にして”いくら”で売る。買う方も、使わないのに機能満載にグラつき、思わず手を出す。かといって、不要な機能を外した安い商品が少ないか、無いのも事実。売り手側の思惑に翻弄され、選択の余地が無いのも問題だ。アメリカでは、オールインワンも無いわけではないが、主流はベーシックに必要な機能を付加して自分の納得する値段を決めていくやり方であり、コンセプトだ。必要なものだけを買い、頭手足を使って出来る部分を出来るだけ幅広く持っておく。ひとえに、身体能力の活性化と維持をどうを計るかの問題である。

ロートル生活、やや時代遅れの生活でおおいに結構。そう思って日々ワイフと馬鹿を言い合いながら、今日も二時間庭仕事に汗をした。

現代の病巣 - 画像通信技術の功罪

2014年10月05日 | いろいろ
本の時代。読みながら作家の意図するところを想像し、自分の中でその世界を創造していく。ラジオの時代。ドラマや物語を聞きながら、その世界を想像し創造した。その時、人夫々が思い思いの形を考え、描いていたように思う。そして映画の時代が来た。ラジオの時代と異なり、それまでに無いビジュアルな画像が観客に提供された。この映画の時代でも人々は未だ十分な形で考え、想像することが出来た。映画は、監督の力量が大きく問われる。限られた一時間半から二時間という空間で、テーマをどう観客に伝えるか。叙述的手法でダラダラやる時間は無いから、カットの一つ一つに意味を持たせて映像化しない部分を観客に想像してもらっう。場面が飛んでも、文章で言えば”行間”を読んでもらう。時には、ただ風景を写しだすだけでテーマの一端を想像してもらう。”映画芸術”と言うように、確かに映画には、監督の芸術的センスというのが不可欠な表現媒体だ。映画の時代までは、ラジオの聞き手や映画の観客という受け手の側に想像や創造する余地が配分されていた。

テレビの時代が来て、連続ドラマが始まった。テレビそのものが悪いと言うつもりは無い。しかし、テレビ時代の到来で間違いなく社会が変節を始めたと思う。新しいものには常に長短、功罪が付き物で、世の常識人は「要は長短を理解し見極めてバランスよく使え」と説くのだが、一般の凡人にはそう簡単にはいかないのだ。

テレビ時代、その映像で価値があり続けるのはニュースとドキュメンタリーだろう。若干の脚色部分が入る危険性や意図しない誤認、例えばサムラゴーチ事件などが無いわけではないが、それでも事実を切り取って観客に生、或いは生に近い状況を見せてくれる。一方で娯楽としてのドラマがあり、これは映画斜陽の原因ともなった。この便利なテレビは我々をどう変えたかと言うと、より「受身」にしてしまった。テレビから発信される情報を基にいろいろ考えない訳ではないが、どちらかと言うと、その情報をただ自分の脳にインプットするだけと言う作業をし続ける。その情報が多ければ多いほど受身傾向の作業となる。連続ドラマにしてもそうだ。物語の筋書きをひたすら叙述的に追っていくだけと言ったら言い過ぎだろうか。短時間にエッセンスを凝縮する映画と違い、物語を追うだけだから”考える”部分がドンドン減っていく。試してみるとよい。叙述的だから、画面を観ずにラジオ的に聴くだけでもそのドラマが大体分かる。こうしてテレビ時代は我々の考える時間を奪い、考える力を弱くしていったような気がしてならない。

裕福な時代とともに、個の時代が叫ばれ、テレビは子供たち一人ひとりの部屋に入り込んでいく。彼らはテレビゲームに熱中し、いつしか”おひとり様”の世界が増殖していった。一家に一台、のテレビ時代にあった”テレビの前の一家団欒”の姿は最早消滅してしまったようだ。

そして現代がある。画像と通信技術の進化は凄まじく、携帯機器が”個”の時代の世界を飲み込んでしまった。”個”の時代と言えば格好いいが、読み替えると”孤”独であり”孤”立の”弧”の時代でもある。だから益々人々は便利な携帯機器にしがみ付き、例えば流行のソーシャルネットワークに繋がることで安心しているようだが、一生懸命”弧”からの脱出を試みているようでいて、実は逆に虜の度合いを増しているのに気がつかない。今時の人は生のコミュニケーションが下手である。ある番組で取り上げられていた若夫婦は家の中で携帯で意思疎通をしていると自慢げに話していた。ゾッとする話だ。

確かに技術の革新が世の中の利便性に多大な貢献をしていることは否定しない。例えば脳の解明などは画像処理やその他の技術で飛躍的に進歩した。しかし、その影でジワリジワリと社会を蝕む負の部分があることを相当意識しなければいけないだろう。考える時間を放棄し、ハンディな機器の取り扱いだけに長けた現代人。現代の病巣の深さは生半可ではないだろう。