アメリカの公開が1990年とあるから、もう30年前の作品となる。結婚してからはめっきり映画館へ出向くこともなくなり、洋画は専らテレビのロードショーに頼っていたから、この映画も恐らくテレビで観たのだろう。その意味では、初めて英語で観たお陰で、新鮮であった。
アメリカに来て、何かのインタビューでコスナーが ”自分にはインディアンの血が流れている”と語っていたから、この映画を製作し、メガホンをとったのは彼の中に特別な想いがあったのかもしれない。
この映画を観てインディアンの世界が面白いと思ったのは、その人の特徴とか行動とかを名前にすることだ。映画の題名は、コスナー演じるダンバーがオオカミと戯れるのを見ていたインディアンがそう命名した。名前という概念がなかった人類創成期は、きっとそういうつけ方をしてきたのだろう。それがつい最近まで残っていたということだろう。’自然に生きる’とはそうしたものかもしれない。
サウス・ダコタを中心にカンザスからワイオミングに至る壮大なロケシーンを観るにつけ、3年前、イエローストーンへ行く折に遠くに見えたバッドランドの景色やバイソン(バッファロー)が映画の画面と交差する。
いつも思うのだが、つくづくこの国はインディアンの土地だったのだと、痛感する。征服する者とされる者、今でもそういう世界に我々は生きている。
アメリカに来て、何かのインタビューでコスナーが ”自分にはインディアンの血が流れている”と語っていたから、この映画を製作し、メガホンをとったのは彼の中に特別な想いがあったのかもしれない。
この映画を観てインディアンの世界が面白いと思ったのは、その人の特徴とか行動とかを名前にすることだ。映画の題名は、コスナー演じるダンバーがオオカミと戯れるのを見ていたインディアンがそう命名した。名前という概念がなかった人類創成期は、きっとそういうつけ方をしてきたのだろう。それがつい最近まで残っていたということだろう。’自然に生きる’とはそうしたものかもしれない。
サウス・ダコタを中心にカンザスからワイオミングに至る壮大なロケシーンを観るにつけ、3年前、イエローストーンへ行く折に遠くに見えたバッドランドの景色やバイソン(バッファロー)が映画の画面と交差する。
いつも思うのだが、つくづくこの国はインディアンの土地だったのだと、痛感する。征服する者とされる者、今でもそういう世界に我々は生きている。