よし坊のあっちこっち

神出鬼没、中年オヤジ、いや、老年オヤジの何でも有りブログだ!

映画三昧 - The Debt

2012年02月17日 | 映画
ヘレン・ミレンのThe Debtを観た。

物語は、かつての東西冷戦下で遂行した3人のチームによるミッションの失敗を隠蔽し、ミッション成功の英雄の一人として生きてきた年老いた主人公が、過去の隠蔽が明るみに出る事実に直面し、意を決して過去の隠蔽の「ツケ」を払う為に最後のミッションに向かうという筋書きである。

この映画を観て考えた。人間生きていりゃ、いろいろ有る。罪を犯せば服役で取り敢えずツケは返せる。しかし、犯罪とは違った形で、人には言えないツケを負う事もあるはずだ。何かに失敗して負うツケもあるだろう。何もしなかった後悔で負うツケもあるだろう。ま、「人生のツケ」とでも言えばいいのだろうが、これをどこで、どうやって返すかとなると、難問だ。いまだに、よし坊の「人生のツケ」は何なのかも、分からないのだから、その先は皆目分からない。

きっと、ツケを残したまま、サヨナラするというのが筋書きかもしれぬ。


目を覆いたくなる民醜党(ミンシュトウ)

2012年02月13日 | いろいろ
ミンシュトウの三代目。少しはマシかと思いきや、期待に反しての素人人事で自らの首を絞めつつある。国会論議も、担当大臣のあまりにレベルの低い答弁で、最早見るに耐えないから、最近は見ない事にしている。この、国政の最高の場で繰り広げられ、繰り返されるアホ連中の、所謂三文芝居を見ていると、見ている自分もアホに見えてくる。だから見ない事にした。

昔は挙ってメディアが「族議員」の弊害キャンペーンを張り、悪人呼ばわりのバッシングをしていたし、それを見せつけられた我々はそんなものか、と素直に納得していたものだが、今にして考えると、明らかにメディアは無知な一般市民をミスリードしていたように思う。その道一筋とは言わぬが、その道専門の政治家がいなければ、官僚とも議論出来ないのは明白だ。知識も無く、勉強も不熱心な輩を、大臣に据えれば、当然の如く、今のような、低劣な国会になる。内閣総理大臣は、会社で言えば社長である。その社長がどんなに立派な経歴を持っていても、専門的な人事配置が出来なければ、失格なのだ。戦国を考えればよく分かる。相手の城を落す時、それまで配膳係の長を務めていた人間を、切込隊の大将に据えるバカがどこにいるだろうか。それと同じことなのだが、これが国政のレベルで行われているわけだ。

総大将を直接選挙で選ぶアメリカは、「経歴」、アメリカ流に言えば、「RESUME」を吟味して各ポジションに強力な人事配置を行い、自前のチームを作ることが出来る。アメリカの大統領はその典型である。日本でも地方自治体はそうであり、最近の快挙は、強力なリーダーシップで関西を引っ張る橋下徹大阪市長だろう。東京の石原慎太郎はその元祖と言えるかもしれない。このように、直接選挙制の下で、適材を得た時、大きな前進がある事が証明されている。その意味では、国政レベルの間接制度は完全に金属疲労を起こしており、国会改革は不可能に近い。それを分かっていながら、誰も手を付けない、いや、付けられない。ここに日本の救いがたいジレンマがある。

こういう無力感はあるが、さて、どうするか。遠からず、解散選挙となるのだろうが、市井の凡人が出来る唯一のチカラの行使は、投票でアホ議員を落すことしかあるまい。今からせっせと地元候補者のウェッブサイトで何を言っているのかを研究することから始めるべし。


Right-To-Workと最新米国組合運動

2012年02月05日 | アメリカ通信
日本の組合運動も、創成期こそ、労働者の権利をかざし過激にスタートしたものの、次第に労使協調がすっかり定着してしまい、「御用組合」などと称されて今日に至っている。それに引き換え、アメリカの組合運動は闘争精神はいまだに失われては居ない。しかし、である。時代の変化と共に、アメリカでも、その力と存在価値は年々薄れていくのが実態のようだ。

最近のインディアナ州。アメリカの23番目か24番目の「right-to-work」州に名を連ねるかの議論が70年ぶりに巻き起こり、世間の注目を集めたのだが、つい先日議会を法案が通ったようである。「right-to-work」とは、簡単に言えば、組合のある職場でも、従業員に組合加盟を強制あるいは義務付けたり、組合費の支払いを義務付けることを禁止する法律であり条令である。現在南部を中心に23州で、州の法律で定めたり、条例で施行している。

「right-to-work」のお蔭で、企業が会社をスタートする時、組合化への牽制となり、逆に組合運動の側からすると、組合弱体化の厄介な代物となる。

アメリカの労働組合は1950年代をピークとし、当時は全米労働者の3割が組合に加入していたが、以後減少に転じ、1983年には2割となり、2011年は大恐慌の吹き荒れた1930年代以来最低の11.8%にまで落ち込んでいる。

もともと、製造業における劣悪な労働環境の打開から組合運動が始まったのだが、この「right-to-work」のお蔭で、製造業における組合運動が弱体した為、その運動は組合化されていなかった連邦や地方の公務員へと向かった。現在は、全体で1400万人いる組合員だが、民間、公共ともほぼ半分づづとなっている。ただし、就労人数に対する割合から見ると、公共の組合員構成率は民間の5倍となっており、如何に組合運動が公共セクターを当てにしているかが分かる。

昨今の経済の冷え込みで、各州とも経済底上げを目指し、企業誘致も含めた活性化に躍起なのだ。インディアナ州の論争もその一貫なのである。象徴てきなのは、全米で最も組合化率が高いのがマンハッタンを含むNY州で、最も低いのが、南部のノースカロライナ州である。企業が新たに進出する時、南部を選ぶのがよく分かる。

「取締役」の読み方

2012年02月01日 | ビジネス横丁こぼれ話
昔、上司である取締役営業本部長とアフター5の飲み会で一緒になった時、この本部長殿が「毎日会議の連続で、出れば上から怒られっ放しや、トリシマリヤクではなく、トリシマラレヤクやで」と苦笑いしていたのを思い出す。以来、筆者の中では、そう読む事にしてきた。

昨年12月号で触れた光学機器メーカーO社の不正事件は、トリシマラレヤクを彷彿とさせる事件だ。真相解明の第三者委員会が役員全員の責任と退任を促し、監査役の責任にも言及した事で、日本も遅ればせながら、漸くこのレベルまで来たのかと思う。「取締役」と肩書きが付いた世の御仁はさぞかし肝を冷やしている事であろう。そうでなければ「取締役」失格だ。かつて、定年間際の形だけ「上がり」の、何もしない監査役の役割が、当時の企業不祥事で攻撃の的になり、どこの企業も表面的には監査役強化に乗り出したものだが、今回は、この重要性にも再びスポットライトを当てることになった。

国際的企業に名を連ねた会社で、しかも不正あばきが外国人社長によってなされた為、俄然世界の注目を浴びることになったが、世界の批判は、この国際的企業のみの経営不透明さに向いたに留まらず、その矛先は海外に展開する日本企業全体にも向いている。

それにしても、事件後の現経営陣による経営続行(居直り)宣言、延命姿勢を見るにつけ、日本企業だけでなく、日本という共同体を包んでいる、「ムラ社会」の思想が時代に関係なく、連綿と続いていることを実感する。そう考えると、地続きの国境を持たない島国国家の宿命と言うべきか、この国がグローバルな世界展開をしていくのは並大抵ではないと思わざるを得ない。

トリシマリヤクは、自らルールを破ってもいけないが、他人のルール破りを見つけ、或いは疑念を持ったら、それを看護してはならない。そういった取り締まる役割を負っているからトリシマリヤクなのである。他方、「取締役」は株主から取り締まられているのだが、実はトリシマリヤクという肩書きで監督している従業員からも取り締まられているというセンスも持ち合わせるべきで、それが無いと「取締役」の役割は果たせないのではないだろうか。晴れて「取締役」を拝命した暁には、その意味をよくよく考えなくてはなるまい。