集団自衛権が閣議決定され、憲法との矛盾が、以前にまして露出してきた。
周知のように憲法では対外関係の問題の解決に当たって、軍事による解決を禁止している。そこから軍隊を所有してはならないことになっているが、これを解釈によって自衛のための軍隊として、事実上、軍隊を保有してきた。今回の集団的自衛権は、自衛のための軍隊から一歩踏み出すものだが、実を言えば、日米安保条約には「集団自衛権」が明記されいる。これを憲法との関係から、付帯条項であるガイドラインとして、日本の集団自衛権が抑制されて今日に至っているわけである。これを正規の安保条約に戻そうというのが、オバマ&自民党安倍行政である。
ここで問題となるのはなにか。
集団自衛権によって戦争に巻き込まれるからだ、というのが大江健三郎氏などの主張である。本当にそうか。
私には極めて薄弱な反対論拠であるように思われる。戦争は最終的には政治な解決手段であって、今日の世界情勢の中で、戦争によって解決を図るような事態はあり得ない。かつて衛生国であった東欧では、依然として現実だが。また隊員を死に追いやるとか、ひどいのは徴兵制に至るといった言説をもっともらしく述べることにも、正気を逸した情状を感じる。
集団自衛権は、憲法に違反しているから問題なのであって、戦争に至るから問題なのではない。日米安保条約の批准は条文に照らす限り明らかに憲法違反なのだ。かろうじて解釈によってやり過ごしてきたのであって、再修正するなら憲法を改正することが本来の筋である。自民党行政の内部にもそういう意見はある。従って、この再修正(閣議決定)を放置していくことは、国家の変質に至る。
ここで、最も注意したいことは、自民党は行政を司る単なる一党派であって、国家ではないということである。
国家とは憲法の別名なのだ。
国家を領土とか国民の同一性(共通言語)とかを条件とする学者がいるが、それらは国家を機能的側面から整理したものに過ぎない。国家は国民の社会生活全般の上に、ちょこんと乗っている権力機構のすぎないのである。それを規定しているのが憲法であって、我が国はこの憲法を敗戦の中から、基本的人権の確立、文化的生活の保障について、軍事的圧力を使用しないで実現するという理想を込めて宣言しているのである。私たちの生活は社会的な関係の中の生活であって、国家という幻想に覆われた中での価値観で生活しているわけではないのである。だから人々が集団自衛に無関心とかいって民主主義の危機などと触れ回っている人は全く勘違いである。
国民の生命・財産を守るため、国家の安全を保つための集団自衛権をみとめるべきだとの安倍自民党の見解は、国家を機能的に考え、国民の広範囲な生活を覆うものとして過大に考える立場だ。国家をそのように拡大して考えるのは、大きな間違いだ。
現在、多くの国民が安倍政権を支持しているかのようにみえるのは、人々の社会生活がが新しい資本主義の段階にはいり、格差社会が広がっていることへの焦燥からなのである。
安倍政権反対派はこのことを良く肝に銘じておく必要がある。【彬】
絵は玉川上水のニッコウキスゲ。群生している。この植物は高山性ではないらしい。