小菊が花盛り。
2011年の東北大震災以来、私は新聞を読まなくなった。新聞で報道されることに信用が出来なくなったからである。このブログを始めたのも、新聞を始めとするマスメディアから流れる情報の数々に嫌気がさしたからである。その代わりにツイッターやブログなどインターネット上に交叉するデマゴーグを始め様々な心情の吐露、罵詈雑言、様々な解釈に耳を傾けるようになった。そこに社会情勢や学問の動静をめぐる今日の課題が敷き広がっているように思えたからである。
いくつか例を挙げよう。震災を契機にした放射能被害のやりとり、慰安婦問題で、虚偽の報道を長年にわたって繰り返してきた報道の顛末、沖縄の基地反対運動の実情、そしてここのきてのアメリカ大統領選挙の見事な外れから、トランプ氏の虚像の振りまき、などなど。
大衆社会では新聞やテレビなど、メディアの果たす役割が大きい。政治家の一挙一動、大事故や事件の動静、行政機関の動向など、必要以上にメディアが関与している。第四階級といわれる所以である。そして、報道の自由として、その立ち位置は、公平で「良心的」であり、不可侵なものとして守られてきた。しかしその「良心性」というのは、弱者の支援、被害者の立場、反戦平和、野党性といったイデオロギーがまとわりつき、今日の複雑な利害関係の中では、かえって誤報の元とさえなっているのではないのか。
それを暴いたのが、匿名者を旨とするツイッターで、例の小保方何某のスタップ細胞問題などはその典型だった。
ソーシャルメディアの発達で、従来の一方通行的なメディアは、いま追いつめられている。その逆作用が報道のイデオロギー的な立ち位置の強化となって、かえって事実関係を歪める報道となっているように思える。
発行部数も激減しているようだし、テレビも思ったように視聴率が伸びない。そんな低迷する様子を、先にあげた事例に象徴的に見ることができるように思う。【彬】