時期遅れのセンリョウ
ロシアがウクライナに攻め込んでいる。圧倒的な軍事力である。一体ロシアは何の利益があって攻め込んでいるのか。我々には理解できないが、彼の国の、いわば大ロシアの理想なのであろう。そうした事情なんて、私たちには知りようがない。
ただ、私たちが言えることは、戦争反対だというだけである。
もう一つ、言える。それは国家というのは、隙あればと膨張するものだということ。もちろん国家は有機体ではないから、己れ自体で動くことはできない。有機体が如く動かす政治家が作動させているのである。別に独裁者が差配する専制国家である必要はない、民主国家でも同じだ。
国家を動かすのは、国の歴史や国のあり方についての理想をもった政治家である。彼はその理想に従い統治する。しかし、その理想は往々にして政治家から独立して、逆立ちして一人歩きをしだすことがある。それが昂じると政治家そのものがその幻想に囚われて己れ自身身が動けなくなる場合がある。かつての日本が、東洋の理想を掲げ、大東亜主義として、軍人もメディアも政治家も含め突っ走ったことなどは、その典型である。反対意見の余地もなくなる。
現在のロシアもその一例なのか。国家の理想ほど危ないものはない。
翻って、日本の憲法9条を根幹とした平和主義の理想も、その幻想が逆立ちし、空虚な平和理念を抱いたまま、身動きできなくなり、暴走することもなしとはいえない。
そこでだが、国家を動かせようとするのは、権力者であるともに、その国民である。軍事だけに限ったことではない。社会福祉から経済の仕組み、教育、交通、医療すべて国民からの要望とされる。だからというわけではないが、過度に国家に依存しないようにしたい。国家が関与する範囲を狭めたい。
ところが現在の風潮は政治の及ぶ範囲を、あれやこれや些細なことまで入り込ませるようにすることが、良いことだと思われている。特に社会保障や災害に関して顕著である。軍事だけを狭め、生活に関わることを拡大することが国家的な善だと誤解しないほうが良い。国家は膨張するものだから、例えそれが社会保障といえども、なるべくそれを抑えること、それが理想社会への第一前提だと思う。すなわち小さな国家、これは保守主義思想ではなく、人間が自由であることの、将来的な理想なのである。【彬】