ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

裁判員制度は国民主権の裏返しだ

2014年10月03日 | 日記

 強盗殺人事件の裁判員裁判の裁判員になったことで急性ストレス障害(ASD)と診断された元福祉施設職員、青木日富美(ひふみ)さん(64)=福島県郡山市=が、裁判員制度は苦役などを禁じる憲法に違反するとして国家賠償法に基づき200万円の賠償を国に求めた訴訟の判決が30日、福島地裁であった。2009年5月に始まった裁判員制度の是非を裁判員経験者が問う初の訴訟だったが、潮見直之裁判長は「裁判員制度は憲法に違反しない」と述べ、請求を棄却した。(毎日新聞/9月30日夕)

 青木さんは裁判員を引受けたが、審理の中で被害者の遺体のカラー写真や被害者の断末魔の叫びを録音したテープなどが示され、死刑判決直後にASDと診断されたと訴えたものである。私は判決に異議はない。途中で辞退する道もあったからである。

 しかし、私はこの裁判員制度に当初から反対である。

 裁判というのは、法治国家の根幹をなす制度であって、法文によって刑罰を決めるものである。法文は国会が制定する。私たち国民は、法の制定を国会議員に委嘱することによって、法治主義を受け入れているわけである。

 法文は憲法の範囲以内で制定され、これを審査する権限は最高裁にある。最高裁の元には地方、高等の下級裁判所があって、そういう制度の中で裁判官が裁定する。だから裁定は法文を熟知し、過去の判例をもとに裁定する極めて限られた専門家がするのだ。原告/被告の情状によって決定されるようなものではないのである。

 一般市民を判事として加えるという裁判員制度は、以上のような法治主義の原則を明らかに損ねるている。この制度の施行にあたっては、裁判の停滞を防ぐこととか、市民感覚を判決に反映させるとかといった説明がなされた。これは各種裁判の問題を国民におもねることによって、凌ごうとする全くの弥縫策にすぎない。本来、裁判官の質量を向上することによって対処すべきことなのである。

 アメリカの陪審員制度は、開拓時代の、まだ法治の制度が確立できていない時の名残に過ぎない。そんな制度を直接民主主義などと礼賛し、人を裁くという難問(人性のアポリア)を生活者に押しつけるべきではない。

 私自身が裁判員に任命されたら、はっきり辞退する。病気とかやむをえぬ事情とかによらずに、そうする。その結果、罰則を受けようともである。もちろん抵抗はするが。【彬】

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