主に公立中学での部活動にかかわる教員の過重負担について「真由子」というハンドルネームの女性教員が問題提起していて、ネット上で議論を呼んでいる。
彼女が指摘するには、部活に関わることは教員にとって本来「ボランティアであること」であるのに、部活が教員の正式な勤務内容であるという考えが未だに世間的には根深く、部活を土日に見てくれるような熱血先生がいないようになってしまって嘆かわしいとか、部活についての援助を税金まで使ってするべきではない、学校の先生がすべき仕事だなどの、意見が出てくる。
昔の先生は部活を指導してくれていた→超過勤務は今の先生だけの問題ではない→だから今の先生も忙しいと言わずに指導しろ、という短絡的な図式を描いている、のだと。
こうした問題提起に対し毎日新聞は社説欄で解説委員の落合博氏が、
「真由子さんは6月の中学総体のために35日連続勤務をこなし、体調を崩した。部活の顧問から外してもらったが、後ろめたい気持ちを抱えたままだ」と、ブログを引用し「部活の意義と役割は認めたい。企業スポーツとともに日本の競技力を支えてきた。学校生活の一番の思い出に部活を挙げる子どもたちは多い。自ら車を運転して遠征に出かけたり、生徒を自宅に住まわせたりして成果を出してきた〈熱血先生〉の献身と情熱には頭が下がる。」とし、多くの真由子さんがいるのも確かで、部活のあり方について考えたいと結んでいる。
で、いったい落合氏は部活をどうしたいというのだろう?
部活問題に切り込んだのは、橋下大阪市長で、部活を学校教育から切り離して企業に外部委託したいと述べたのであり、これに対し賛否が渦巻いているのだ。真由子さんの発言もそうした背景の中にある。
以前、本ブログでも述べたが、「教師の負担を減らし、学校の再生(様々な問題が山積している)をはかるためにも、余分なカリキュラムは減らすべきだ。運動会などで、中高齢の女性教師が奮闘している姿を見ると本当に気の毒。あの「無法松」の映画に見る、明治時代の遺物そのものである。」のであって、部活はその典型なのである。http://blog.goo.ne.jp/yoshiotyb3/e/ad723e9edf39592342485ce43b3474
また、部活をめぐっては今でも不幸な出来事が頻繁に起こる。バスケット部のキャプテンが監督からしごきを受け、自殺した件はまだ記憶に新しい。
だから、橋下市長の提案はうなずけるものである。ただし条件がある。
それは、日本に於ける学校の役割・意味をもっと掘り下げてみることだ。
部活云々の問題は、必然的に、日本における教育の【役割】の問題にいきつく。江戸時代の寺子屋、藩校、明治になっての尋常小学校、戦争期の国民学校、戦後の小中学校など、学校はは地域社会の一歩先を行く、先取の場であった。学校は進んでいて、いいことを教えてくれるところであったから、親は無理をしてでも通学させたのである。部活もそうした流れの一環であり、特にスポーツは学校でなければ体験することのできないものであった。おそらく欧米ではこうした学校の役割を宗教が体現していたと思われる。だから、すべて教会中心であるが、日本の場合はこれが学校中心になったのである。
少子化が進む現在、学校の統廃合が進んでいるが、日本では学校の役割は子どもに教育を授ける場というだけでなく、上記のように社会統合の象徴としての役割を担ってきたのである。だから今でも選挙の投票所になり、災害の避難所になり、そして同窓会・同級会などが延々として機能しているのである。
部活を外部委託することは、従来の学校が担って来た役割を含んでのものでなければならないのだ。教師の負担を減らし、単に学校教育を機能的に効率化していくという改変では意味がない。むしろ教科の一部を民間に開放し、閉鎖的になりがちな学校を開いていく一環としてとらえるべきなのだ。
変質者が入ってくるからといって、いつも校門を閉ざしているような学校であってはならない。【彬】
*絵は路地でよく見られるようになったアメリカアサガオ。繁殖力が強く種が無数についている。