ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

一方通行のシステムを構想する

2015年05月11日 | 日記

   

                            森は、新緑であふれています。

 もうずっと昔のことになるが、気鋭の経済学者だった宇沢弘文さんが「自動車の社会的費用」(岩波新書)という本を上梓して話題になったことがある。当時発展しつつあった車社会を公共的な必要費用の面から批判したもので、私は幹線道路沿いの排ガスのひどいところに住んでいたこともあって、うなずくことも多かったのだが、同時に、自動車がダメなら鉄道に変わる他の交通手段を問題提起しなければ意味ないじゃないか、と漠然と考えていたことがある。例えば運河を利用するとか。

 その後、各種自動車のメカニック面での圧倒的な改善・改良が進み、宇沢さんが指摘した問題はほとんど解消してしまったようにも感じられる。

 今問題になっているのは、車の機能や性能より、運転者の倫理やマナー(薬物や飲酒、高齢者の心身障害など)のほうのようだ。

 私は都心に住んでいるので、運転することはない。車はタクシーを利用するくらいである。でも、幹線道路を走る途切れることのない車列を見ていると、事故などのこと以外に、車社会の将来にいくつかの疑問を感ずることがある。その一つは、車はなぜ対面交通でなければならないのか、ということ。

 結論からいうと、私は自動車の交通はすべて一方通行にすべきだと考えるのである。えっ、と思われるかもしれません。私の考えの根拠は人間の血液の流れを想定している。血液は動脈・静脈の、逆流のない流れによって、もっとも安全で効率的に栄養などの物資を供給している。これをシミュレートすることこそ交通の理想だと思うのです。一方通行でありながら、滞りなく手足の隅々にまで必要な物資を届けて、不要になった血液をまだ心臓にもどしている。こうした流れは物資の運搬という側面にだけ限定しているから可能になると思う。車を人の移動手段、つまり行ったり来たりする道具と考えると、一方通行は成り立たない。しかし自動車を運搬だけの機能に特化すれば一方通行は成り立つのである。通信機器の発達した現在、道路を動脈・静脈のように使い分けることは可能になっていると思う。これが達成されれば、交通事故はほとんど無くなるし、道路周辺の自然環境は圧倒的に改善される。

 未来に突き抜けるためには、人々の倫理的な行動やら、政治的な対策で云々する時代ではないのである。【彬】

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