夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

東京郊外の桜花は、花衣(はなごろも)、そして花筏(はないかだ)の情景を迎え・・。

2010-04-13 08:43:13 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり、
昨日の朝の9時過ぎから雨が降り、今朝の未明に雨が上がり、薄日の射す朝を迎えている。

地元の天気情報に寄れば、
朝の6時は10度、昼下がりは21度前後、夕方の6時は19度前後で、
雨上がりの朝から急激に回復して、5月中旬のような陽気の快晴と報じられている。

昨日は雨降る一日であり、昼下がりは8度ばかりの肌寒く、
今朝、ぼんやりと庭のテラスに下り立ち、めまぐるしい天候の移り変りに戸惑いを感じたりしたいる。

私は無念ながら桜の樹がないので、我が家の周辺の小公園、川沿いの遊歩道を歩いたりしている。

染井吉野(ヨメイヨシノ)の桜が満開となったのは過日の4月の初めで、
その後の私は平日の人影の少ないひととき、遊歩道の脇にあるベンチに腰掛けて、
煙草を喫いながら、桜の花を眺めたりしていた。
そして、前方を眺めると、この中の一部は早くも散りはじめて、
澄み切った青い空の中をゆっくりとさまようように舞いながら、静かに歩道に落下していた。

その後は花吹雪となった中を歩き、古人たちがこのような情景を花衣(はなごろも)と称してきたのが実感させられ、
空中にゆったりと舞いながら散る光景は、まぎれない美を感じるのである。

そして私は昨年に眺めた川べりを思い馳せたりしていた・・。
黄色い菜の花、白いダイコンの花がそれぞれに帯のように彩(いろど)って、
川面は舞い散った桜花が幾重にも浮かべ、その付近の川面は陽射しを受け、きらめきながら、音もなく流れていた。

このような情景が私の心の片隅にあるので、
昨日は雨降る中を遊歩道を歩いたのであるが、黄色なった菜の花が咲き、川べりの大半を染めていた。
しかし川面は、私が秘かに期待した桜花の花筏(はないかだ)の情景ではなく、
目をこらすと菜の花の黄色い彩(いろど)りが映(うつ)しだされていた。


私は朝の陽射しをぼんやりと受けながら、
日中のひととき散策して、近くの川沿いにある桜並木は満開が過ぎたが、ピンク色に染められたトンネルのような中を歩いたりし、
花衣、そして花筏の美景が観られるかしら、と思ったりしている。

そしてこのような思い重ねていると、
千年前の人々も私のように心を寄せる人が多いかしら、と私は思わず微笑させられたのである。



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雨降る中を遊歩道を歩けば、桜花は舞い散り・・。

2010-04-12 16:41:00 | 定年後の思い
私はこのサイトに【齢ばかり重ねた私は、早寝、早起き元気な児・・!?】と題して投稿したのは、
午前8時過ぎであったが、まもなく雨が降りだし、予測された時間より少し早いじゃないの、と苦笑したりした。

私は歯科医院の予約が11時であったので、徒歩20分の道のりであったが、一時間前に自宅を出た。
雨降る中を傘を差しながら川沿いの遊歩道を歩きだせば、人影も殆ど見かけず、雨の匂いを感じ、
その前方の桜並木は満開を少し過ぎたようであるが、ピンク色に染められたトンネルのような情景となって折、
私は心の中で微笑みながら歩いた。

桜花のトンネルの下を歩けば、歩道と付近は花びらで彩(いろど)られて、
ときおり花びらが雨降り中を空に舞うようにしたあと、枝越しにゆっくりと地上に落下していた。
そして川べりを眺めれば、黄色なった菜の花が咲き、川べりの大半を染めていた。
川の流れは清冽で、川面は私が秘かに期待した桜花の花筏(はないかだ)の情景ではなく、
目をこらすと菜の花の黄色い彩(いろど)りが映(うつ)しだされていた。

私は傘を差しながら遊歩道の外れでたたずんで見惚(みと)れたりし、
そして人影がないピンク色に染められたトンネルを眺められれば、贅沢なひとときを過ごせた、と思ったりしたのである。

私の日頃の桜花の思いは、三分咲き、そして花散る時が何よりの美麗な情景と確信してきたが、
雨降る中、このような情景に享受できれば、これ以上の望みはないと感じた。

そして、ときおり止まり歩いたりすれば、予約した時間が迫り、私は駅前の歯科医院に急いだ。




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齢ばかり重ねた私は、早寝、早起き元気な児・・!?

2010-04-12 08:00:03 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり、
昨夕、家内が4泊5日で実家に行っていたが、少し疲れた表情で帰宅した。

独り住まいの家内の母宅で、大掃除、衣服の整理など孤軍奮闘してきた。

家内の母は、高齢者の身なのである程度の身の回りの整理はしても、
季節に応じた部屋、庭の手入れまでは出来きないので、季節に応じて行っている。


お風呂に交代で入った後、
出前の寿司を夕食とし、私はビールを呑みながら、
家内の母の最近の言動を家内から聴いたりしていた・・。

私の日常の多くは、日の出と共に起き、昼寝、深夜に寝るハターンであるが、
昨日は昼寝をすることなく家内の帰宅を待ちわびたので、
少し睡眠不足となり、安堵もさることながら酔いも早かったのである・・。

結果として、10時半に早寝となり、
朝は4時過ぎに目覚めて、起きだしたのであるが、新聞が休刊日と気付き、
ネットでニュースを検索したりした。

そして地元の天気情報を検索し、
朝の6時は13度、昼下がりは8度前後、夕方の6時は7度前後で、
朝の9時過ぎから雨の降る一日となるが、花冷えかしら、と苦笑したりした。

一昨日の土曜日は19度、昨日の日曜日は22度の昼下がりで、
桜花は散り始めたが、若葉の中で風光る情景に恵まれていたのである。

週明けから雨の降る日中を向かえ、お勤めの諸兄諸姉、そして新学期となった通学の人、お気の毒と思ったりした。

私は午前11時に駅前の歯科医院で美麗な女医さんから治療を受けることとなっている。
10時過ぎに川沿いの遊歩道を歩くので、桜花の散る歩道、川面に流れる花筏が観られるかしら、
と空を見つめながら思ったりしたのである。

そして小心者の私は、長ズボンのすそが雨に濡れ、女医さんに恥ずかしいかしら、
と余計なことを思っている。

治療後はいつものように本屋に寄り、数冊を買い求めた後、スーパーで買物をした後、
ふたたび傘を差しながら、遊歩道を歩きながら樹木を眺めながら帰宅する予定である。

そして、私は空を見つめながら、いつから降るの、できうれば風もなく小雨だったら、
情感もあるのに、と心の中で願ったりしている。


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齢を重ねた私でも、秘かなあこがれの貴女は、俳人の黛まどか(まゆずみ・まどか)さん・・。

2010-04-11 16:13:30 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり、
ここ10数年、偶然に新聞、雑誌で拝読したり、テレビなどの放送に出演されたし拝見すると、
齢ばかり重ねた私は、うっとりと見惚(みと)れたり、やはりこのお方の心は澄み切っていると感心させられる。

こうした人こそ、まぎない美麗な女性と感じたりし、
昨今の女優、歌い手の方たちでも、とてもこのお方の前では、刃が立たないと私なりに確信を深めたりしている。

私は若き頃に映画青年の真似事をしたした時に、撮影所で女優さんの50数人をお逢いでき、
言葉を交わしたりした。
その後、たまたまレコード会社に35年ばかり勤めて、数多くの女性歌手を見たりする機会が多かったのであるが、
今の私にとってのあこがれの女性は、俳人の黛まどかさんである。

秘かにあこがれの人と思いながら10数年が過ぎているが、
私は無念ながら短歌や俳句を詠む素養がなく、やむえず多くの方が詠めれたのを拝読する拙(つたな)いひとりである・・。

過日、このお方が綴られた随筆を拝読すると、更に素敵な方であると思いながら、三度ばかり読み返したりしたのである。

この随筆は、総合月刊雑誌のひとつに『文藝春秋』があり、
この中の広告の中で、薩摩焼酎と名高い『白波』が掲載されて折、
《ここに、日本人のスピリットがある》
と宣伝文の主軸に対応して、黛まどかさんが『日本人のスピリット』と題して、
三月号より連載されている。

そして二回目の四月号を拝読後、たぐいまれな感性で綴られた随筆に、私は敬愛を増したのである。

無断であるが、この随筆を引用させて頂く。


     『日本人のスピリット』 二

    日本人のDNAに刻み込まれた五・七・五の内在律

私が俳句を詠み始めたのは案外遅く、二十歳を過ぎてからであった。
たまたま手にした俳人・杉田久女の評伝小説を読んで感銘を受け、
一人の女性の人生を変えるほどの俳句とはどんなものかと興味を持ったのである。

俳人の父を持った私は、句会でいい大人が喧嘩腰で議論しているのを襖越しに聞きながら、
んて大人げないのだろうと思ったものである。
小学生の私にとって俳句とは年寄りのものであり、自分の表現手段になり得るとは思えなかった。

今となっては句会で激論にる理由もよく分かるし、知らない間に影響を受けていたのかも知れない。


俳人の親を持たずとも、日本人は先天的に俳句の資質を持っている。
あらゆる表現形式の中で、俳句は助走がいらない稀有な文学である。

長く苦しい基礎練習や助走なしに、誰でもいきなり作句することができるし、観賞もすることもできる。

(略)

最近は幼稚園で俳句を教えるところも多く、子どもたちはいとも簡単に五・七・五の句を作る。
内容は他愛のいことかもしれないが、五・七・五の言葉のリズムは、
内在律としての日本人の身体に刻み込まれているのである。


また、俳句のもう一つの決まり事である季語も、私たちの暮らしに溢れている。
春になれば雛を飾り、桜を愛で、草餅を食べて、春の訪れを五感で享受する。
俳句のルールである「有季定型」は、生まれた瞬間から私たち日本人のDNAに受け継がれているのだ。


我々日本人同士なら多くを語らずとも、察し合うことで互いに理解することができる。

(略)
・・》
注)原文にあえて改行を多くした。


私が黛まどかさんに決定的に魅了されたのは、
ご自身が2001年が過ぎた頃、韓国の釜山からソウルまでの長い500キロの道のりを詠み歩いたことであり、
何かの雑誌で知り、私は驚きながら、瞬時に惚れこんでしまったのである。

たまたま、黛まどかさんの公式ホームページが掲載されていたのであるが、
残念ながらリニューアル準備中であり、
代わりとして、朝日新聞社にインタビューを受けた2007年5月21日の時、

http://doraku.asahi.com/hito/interview/html/070525.html
☆ 朝日新聞社 『どらく』インタビュー 記事 ☆


そして最近の2010年3月23日に於いて、毎日新聞愛読者の広場の中で、

https://my-mai.mainichi.co.jp/mymai/modules/shashinbu59/details.php?blog_id=117
☆ 毎日新聞社 毎日新聞愛読者の広場 ☆

このような心の思いなどを発露され、最近のお姿も、私にとっては高嶺のあこがれの人である、
とため息ばかり重ねている。




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私の友のひとりは、月刊総合雑誌の『文藝春秋』となり・・。

2010-04-11 10:35:21 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり、
昨日、月刊総合雑誌のひとつの『文藝春秋』(5月号)を買い求めて、
日中から深夜までの大半は読みふけっていた・・。

私が『文藝春秋』を定期的に読み始めたのが、1970(昭和45)年の25歳の時であった。

それまでの私のつたない雑誌に関しては、恥ずかしながら告白めいたことを綴る。

私は1944(昭和19)年に東京の郊外の農家の三男坊として生を受けた。
祖父、叔母、両親、兄2人などの7人の家族であり、小作人の方たちの協力を受けて、程ほど広い田畑を耕していた。
そして多忙期の折などは、農業大学の実習生なども受け入れていた。
このような家庭環境であったが、本にしても雑誌に関しては、農協の発刊する『家の光』しか記憶がなかったのである。

私が小学4年生を過ぎた頃、都会から引越しされた同級生のサラリーマンの家に遊びに行った時、
居間にある書物を見て、余り多くあるので驚いて、子供心に衝撃を受けたのである。

この頃の私は、月刊の漫画雑誌のひとつの『少年画報』などを下校の時、
本屋で買い求め、読みながらとぼとぼ帰宅したりした。


私が読書に目覚めたのは、高校生になってからである。
人並みに文学の文庫本、単行本を買い求めたりしていたが、
授業の時事に魅了されたので、週刊誌の『朝日ジャーナル』を買い求め、海の彼方のケネディなどの政治家に心酔していた。

大学に入学する前後から、映画専門雑誌の『キネマ旬報』に熱中し、
小学4年生の頃から独りでたびたび映画館に通ったりしてきた体験も加わり、
これが原因で大学を中退し、映画青年の真似事の期間を過ごしたりしていた。

その後、文学に移り、純文学の月刊誌『文学界』、『新潮』、『群像』、
中間小説の月刊誌『オール読物』、『小説新潮』、『小説現代』を精読したり、
総合雑誌の『文藝春秋』を不定期に購読していた。


1970(昭和45)年の25歳の時、映画・文学青年の真似事も挫折し、
遅ればせながら企業に中途入社をして、社会人のひとりとなった。
この時、私は余りにも一般的な常識の政治、外交、軍事、経済、社会などに欠けていたことに気付かされ、
劣等感も抱きながら、総合月刊雑誌の『世界』、『中央公論』、『文藝春秋』を毎月読むようになったのである。

この頃は、血気盛んな私は独身青年であったので、娯楽週刊誌の『平凡パンチ』まで読んでいたので、
私は秘かに『世界』から『平凡パンチ』まで雑誌を読んでいるのは、
日本広しといえども私ぐらい、と自惚(うぬぼ)れしてもいた時期であった。

しかしながら、たまたまレコード会社に勤めて情報畑で奮闘していると、
数多くのサラリーマンと同様に多忙となり、やがて結婚をしたり、住宅ローンの返済に苦労したりすると、
『世界』の知識についていけず、『中央公論』だけは時折、特集記事により購読するようになった。

そして結果的には、毎月に愛読している総合月刊雑誌としては『文藝春秋』だけとなり、
定年退職後の今でも、このようになっている。
年金生活で高齢者の入門の65歳の私にとっては、毎月逢える友のひとりとなっている。


私はそれぞれの寄稿文を読みながら、私と同じような思いに安堵し微笑んだり、
記載されていることの内容が程度の低いことと感じられ、綴られた著者に失望したり、
或いは私が無知だったことを知り、謙虚にご教示頂いたりしている。

ここ数年の楽しみのひとつとしては、毎月10日に発売されているが、
その日の朝、読売新聞に広告として掲載されている・・。
この時に特集記事が明記されているので、私は読みながら、やはりこの記事だった、
と私なりに予測していたことと同一の場合は、独り微笑んでしまうのである。

尚、私は『文藝春秋』の数多くの寄稿文で、読みながら理解出来なくなった時は、
ボケるの避けたいので、この世とおさらばし、自裁する時と思っている。



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ときには、年金生活の私が『おひとりさま』の日々を過ごせば・・。

2010-04-10 11:12:59 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり、
私達夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
ときおり家内は、独り住まいの家内の母宅に泊りがけで行っている。

私より14歳ばかり齢上の高齢者である家内の母は、
私が民間会社のサラリーマンの定年退職日の直前に主人に死去され、
一戸建ての独り住まいの生活をされて、6年近くなっている・・。

家内の母は身の廻り程度はある程度は出来ているが、
庭掃除、季節に応じたのカーテン、布団、衣服、暖冷房器具などの出し入れがままならす、
家内が大掃除を兼ねて季節が変わるたびに行っているのである。

今回はたまたま7日(水)~11日(日)となり、4泊5日で家内は孤軍奮闘しているのである。

私はこの間は、のんびりとした独り住まいとなるが、
家内が作ってくれた料理、スーパーのお惣菜コーナーの売り場で、適度に選定し、
食べたりしている。

そして、『燃えるゴミ』、『燃やせないゴミ』、資源として再生される『ペットボトル』、『古紙』、『ビン』の日と、
日付別のメモ用紙に書いたりして、少しボケた私は自戒させたりしている。

私は年金生活になってからは、程々に気ままな生活を過ごしているが、
更に家内が留守のを幸いに、自在な時間を送ったりしている。

私は幼年期は農家の三男坊の田舎者であったが、
齢ばかり重ねた私は少し都会風にお洒落(しゃれ)をした洋装で、駅前の本屋に行ったり、
スーパーに寄ったりし、中年以上の女性のしぐさに見惚(みと)れることもある。

居間にいると、映画のビデオ・テープ、DVDの作品を映画棚から取り出して、
テレビ画面を通して視聴したり、好きな音楽も大音量で聴いたりしている。

いずれも家内は、大音量が苦手な身であるから、平素は抑制しているが、
この時とばかり、映画の作品はある程度の音量でないと、
音楽もそれ相当の音量がないと、魅感が薄れると固く信じているので、自在にしている。


たまたま昨日の私は、顔も洗わず読売新聞を精読して、
心の節度を失くした政治家の諸兄諸姉の一部の方に、
程度の低い言動をされる、と心の中で呟(つぶや)いたりしていた。

この後、映画専門誌の『オールタイム・ベスト 映画遺産200』の『日本映画編』と
『外国映画編』を取り出して、読み耽っていたのである・・。

そして、このサイトに投稿文を一筆認めようと思い、文章を綴っている時、
玄関のチャイムが鳴り、私は玄関口に下り立ったのであるが、
30歳前後と20代前半の2人の美麗な女性が折、
少しばかり寝ぼけ眼(まなこ)の私は、どうしてなの、と戸惑ったのである・・。

30歳前後の方から挨拶を受けると、最寄の銀行の方と瞬時に思い出したのであるが、
新入の行員さんを引率して、我が家に挨拶に見えたことが言葉を重ねていくうちに判ったのである。

私は普段着で顔も洗っていなかったので、恥ずかしくなり照れ笑いをしながら、
何とか応対をしたのであった。

その後、このサイトに投稿し、再び先程の映画専門誌を読み始めたりしたのである。

そして昼下がり、突然に映画の『トラ・トラ・トラ!』(1970)を観ようと思い立ったのである。
このことは田草川弘(たそがわ・ひろし)・著の『黒澤明ハリウッド ~「トラ・トラ・トラ!」その謎のすべて~』(文春文庫)を読み終った後、
何よりも製作総指揮のダリル・F・ザナックの下で、
製作としてエルモ・ウィリアムスの過酷な労苦の多かった製作過程を学び、
この人の心情に思いを馳せながら、確か4度目であったが視聴したりした。

そして、映画は無料放送の多いテレビと違い、この当時の1970年前後も、
ともかく映画館はもとより有料なので、興行の成功が問われることを改めて実感させられたのである。


夜のひととき、過日の3月13日にNHKテレビで放映された『火の魚』をビデオで収録していたので、
観たのである。

NHKの解説文を借りれば、
《・・
文化庁芸術祭大賞受賞作品。
島で暮らす頑固な老作家のもとに、東京から若い女性編集者が通ってくる。
ある時、小説の装丁を燃えるような金魚の「魚拓」にしたいと思いついた小説家は、
彼女に魚拓を作ることを命じる。
魚拓をとるには、金魚を殺さなければならない。
やがて老作家は女性の“秘密”を知ることになる。
瀬戸内海の大崎下島を舞台に、世間から取り残された老人と、時間を慈しむように生きる女性が紡ぐ“いのち”の物語。
・・》
注)原文にあえて改行を多くした。

そして原作は室生犀星、脚本は渡辺あや、出演者は原田芳雄, 尾野真千子・・となっていたが、
私は脚本の構成と老作家の心場の表現に不満であり、演出家は忘れたが創意工夫に欠けている。
この結果、好感している男優の原田芳雄、未知だった女優の尾野真千子を生かしきれていない、
と深く感じたのである。


この後、10時過ぎに布団にもぐり、
斎藤明美(さいとう・あけみ)・著作の『高峰秀子の流儀』(新潮社)を読み始めたのである・・。

私は高峰秀子さんのファンのひとりであるので、
山本嘉次郎・ 監督の『綴方教室』(1938年)、『馬』(1941年)、
木下惠介・ 監督の『二十四の瞳』(1954年)、成瀬巳喜男・ 監督の『浮雲』(1955年)などを思い浮かべながら読んだりしたのであるが、
深夜の一時過ぎて、やむえず中断し、消灯した。


目覚めれば、朝の7時過ぎて、雨戸を開け放ち、洗面した後
煎茶、コーヒーを淹れて、ぼんやりとしていたのである。
その後、庭のテラスに下り立ち、樹木を眺めながら煙草を喫ったりしたのである。


こうしたふしだらな『おひとりさま』の日を過ごし、苦笑ばかりしている。

そして日中のひとときは、スーパーに行き、夕食用にお惣菜コーナーの売り場で、適度に選定した後、
本日発売の総合月刊誌の『文藝春秋』(5月号)を買い求めようか、と思ったりしている。




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年金生活の私は、やはり読書に魅せられることが多く・・。

2010-04-09 10:19:27 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり、
過日、2月24日から3月7日まで11泊12日で小笠原諸島の中のひとつの『父島』に滞在旅行した後、
ここ一ヶ月は相変わらず読書をする時間が多かったのである。

たまたま読んだ本を思い浮かべると、
倉本聰(くらもと・そう)・著の『疚(やま)しき沈黙 ~富良野風話(五)~』(理論社)、
紺谷典子(こんや・ふみこ)・著の『平成経済20年史』(幻冬舎新書)、
角川歴彦(かどかわ・つぐひこ)・著の『クラウド時代と<クール革命>』(角川oneテーマ21)、
橋本忍(はしもと・しのぶ)・著の『複眼の映像 私と黒澤明』(文春文庫)
田草川弘(たそがわ・ひろし)・著の『黒澤明ハリウッド ~「トラ・トラ・トラ!」その謎のすべて~』(文春文庫)、
こうした単行本、文庫新書、文庫本を読んだりした。

この間に、月刊総合雑誌の『文藝春秋』(4月号)、
季刊誌の『文藝春秋SPECIAL ~結婚という旅~』(2010季刊春号)、
国際政治経済情報の月刊誌の『フォーサイト』(4月号)、などを読み、
新聞に関しては45年ばかり購読している『読売新聞』の朝刊、夕刊を読んだりしてきた。


私は東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年に大学を中退し、映画・文学青年の真似事をした時期もあったので、
小説、随筆、歴史書、現代史、ノンフィクションなど本は5000冊前後、
ビデオテープ・DVDの映画作品は1000本前後あり、
勤めた会社がレコード会社の影響で音楽作品はカセット、CD、DVDも3000枚前後あるが、
ときおり居間で映画の作品を観賞したり、音楽を聴いたりしているが、
やはり読書をする時間が多いのである。

私は定年退職後はサラリーマンを卒業し、年金生活を始めて、
日常の買物を担当し、ときおり家の外回りの掃除と庭の手入れているだけであるが、
私は文章を綴ることも好きなので、旅行とかパソコンが故障していない限り、日々このサイトに投稿をしている。
そしてこの間にも家内の長き専業主婦の習性もあるので、
私は独りで散策をしたりし、季節のうつろいの情景を享受している。

こうして年金生活の6年生の高齢者入門を許された65歳となっているが、
映画のDVD、音楽のCDは余り増えていないが、本はサラリーマンの現役時代と同様に増えているのである。


私の幼年期は農家の三男坊として生を受けたのは1944(昭和19)年であり、
小学校に入学した当時の本に関しての記憶としては、農協が発行していた月刊誌の『家の光』しかなかったのである。
長兄、次兄は優等生で、私はいじけた劣等生であり、
高校生になって、初めて授業が楽しくなり、読書の魅力に気付いたのである・・。

読書をこよなく愛する多くの人も同じと思われるが、
たった一冊の本でも、創作者の世界に導かれながら、綴られた散文を読みながら、行間からも感じらることを私なりに受けとめ、
その時の年代、読む時の心境もあるが、つたないなりに感受性と想像力で心の深淵まで揺さぶられることが多いのである。

このような私はこの魔力から高校生の時から読書を重ねている。


今の私のパソコンの横には、
一昨日、買い求めた斎藤明美(さいとう・あけみ)・著作の『高峰秀子の流儀』(新潮社)があり、
そして秋永芳郎(あきなが・よしろう)・著作の『青函トンネル』(講談社)、
太宰治(だざい・おさむ)・著作の『ちくま日本文学 008 太宰治』(筑摩書房)がある。

斎藤明美・著の『高峰秀子の流儀』(新潮社)に関しては、
氏の『高峰秀子の捨てられない荷物』』(文春文庫)を読んだりしているが、
私は高峰秀子さんのファンのひとりなので、高峰秀子さんご自身が綴られた随筆を数多く愛読してきたからである。

秋永芳郎・著作の『青函トンネル』(講談社)は、
たまたま5月下旬に家内と共に、北東北に9泊10日間で訪れるので、
私の書庫から取り立してきた本である。

そして太宰治・著の『ちくま日本文学 008 太宰治』(筑摩書房)は、
私が二十歳前後に太宰治の作品は殆ど読んできたが、やはり北東北の旅行の前には、
『津軽 妙』を改めて読みたくなり、一昨日購入した文庫本である。


このように年金生活をしていると、私にとっては『退屈』とか『暇』という言葉は死語かしら、
と本を開き微苦笑したりしている。



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改めて、『花祭り』という言葉を学び・・。

2010-04-08 13:42:54 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり、
今朝のNHKのラジオから、本日は『花祭りの日』です、と私は聴こえ、
齢ばかり重ねた私は確固たる知識もなく、
確か5年前の頃に最寄り駅の寺院で花祭り、と明記さていたことを思い出したりしていた。

恥ずかしながら色々と調べ上げたが、1番解り易かったのは、
知識人の藤野邦夫(ふじの・くにお)氏の著作の『幸せ暮らしの歳時記』(講談社文庫)であり、
この知識にすがり、無断であるが、転記させて頂く。

《・・
4月8日の『花祭り』は、仏教の創始者である『お釈迦さま』の誕生日。
それを祝うインドと中国の風習が日本に入ってきたのは、はるか昔の606年(推古14)年の事とされている。

祭礼の名称も、中国にならって『灌仏会(かんぶつえ)』と呼ばれていたが、
1900年頃(明治30年代)から、花祭りと言われるようになった。

灌仏会とは、お釈迦さまの仏像を『灌沐(かんもく)する《水を注いで洗い清める》儀式』という意味である。

この日、お寺では『花御堂(はなみどう)』《花で飾ったお堂》に、
『浴仏盆』という水盤を置き、そこに仏像を安置して、
お経を唱えながら、竹の柄杓で甘茶をかけて、礼拝する儀式が行われる。

甘茶を掛けるのは、釈迦が生まれた時、
空から9頭の竜が香り高い水を注ぎ、産湯にしたという伝説に基づいている。
また水盤は、その時に地下から湧き出て、釈迦の足元を支えたという蓮の花を表現する。
           
肝心のお釈迦さまの像は、右手を天を指し、左手は地面を指している。
これは釈迦が生まれた後、4方を7歩ずつ歩いて、
天と地を指して、『天上天下唯独尊(てんじょうてんげ ゆいがどくそん)』《宇宙の中で、私より尊いものはいない》
といったという伝説の表現である。


釈迦の生没年については、諸説があるが、前5世紀から前4世紀にかけて、80年ばかり生きた事は確からしい。

彼はインドとネパールの国境沿いの小国、カピラバストゥを支配していた『シヤーキャ』族の国王シュッドーダナ(浄飯王)と、
妻マーヤー(麻耶)の長子として、ルンビニー園で誕生した。

釈迦というのは、この種族の名前から出ており、
『釈尊』というのは『釈迦牟尼世尊』《牟尼は聖者》という尊称の略語である。

釈迦の名字は、『ゴータマ』《釈迦族全体の名字》で、名は『シツダールタ』《悉達多》。

モンゴル系かアーリヤ系の人間だったと言われている。

彼はまたサンスクリット語で、『悟った人』《覚者》を意味する『ブツタ』《仏陀》とも呼ばれ、
それが日本で『仏(ほとけ)』となった。

更に『如来』《真理の完成人》とも呼ばれるが、これは『タクーガタ』の訳語である。

生後七日目に実母を失った釈迦は、母の妹にに育てられ、16歳で結婚。
男の子を設けたが、人生の根源にひそむ『苦』《悩み》という問題を考えつめ、
29歳で地位を捨てて、出家した。

様々な苦行を重ねたが、問題の解明に至らず、最後は菩提樹の下で思索にふけって、悟りを開いたという。

苦悩を解決しようとする釈迦の教えを伝える最古のお経は、彼の孫弟子の時代に成立したという。

日本で花祭りが盛んになったのは、
4月8日に、豊作を願って行われた古くからの農耕儀礼や、
山の神や田の神を祭る風習と結び付いたことに、一因があると言われている。

・・》
注)原文にあえて改行を多くした。


私は農家の児として育ち、やがてサラリーマンの都会の垢(あか)にまみれて35年ばかり勤めて退職した身であり、
実家は仏教のごくありふれた曹洞宗であるが、お釈迦さま、と云われても遥かに遠い存在の方である。

少し興味があったのは、『天上天下唯独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん』と掲(かか)げられたことである。
もとより、宇宙の中で私より尊いものはいない、と云ったかのような伝説はあるが、
私は孫弟子の人たちが、釈迦の教えを広く普及させるために、
権威をもたらすためにつくられた言葉と解釈している。

このようなことを考えていたら、日本の史上に於いて、
『唯独尊』のような振る舞いをされた人物はどのお方であったろうか、と余計なことを思案したのである。

鎌倉幕府の創設者の源 頼朝、室町幕府の足利尊氏、
その後の織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康かしら、と思ったりしたが、
案外、地方の一国一城の大名である殿様の方が『唯独尊』が可能であった、とも思えたのである。

全国規模の統一者は、たえず苦楽を共にしながら統治する責務と権力があるが、
地方の有力大名の方が、幾分楽でそれなりにわがままを振舞えた、と思ったのである。


私は昼下がりの陽射しを照らす常緑樹のみずみずしい新芽、落葉樹の芽吹き、或いは若葉を眺めながら、
ぼんやりと感じたりしたのである。



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懐かしき『柏原芳恵』ちゃんの私なりの想いで・・。

2010-04-08 09:43:21 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり、
読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】をほぼ毎日愛読しているひとりである。
この中に【新おとな総研】があり、『生き方!私流』とコーナーの中に、
『青春グラフィティ』があり先週から歌手の柏原芳恵ちゃんが掲載されていたので、
私なりに興味があり、その当時の思いでと共に深く精読したりした・・。

今回は第2回が掲載されて折、無断であるが転載させて頂く。

《・・
     浩宮さまからのピンクのバラ~柏原芳恵さん(2)

13歳の春に挑んだ『スター誕生!』の予選会を、ライバルたちの思わぬ応援もあって突破。
小学生の時、「テレビに出る人になりたい」と夢を語った女の子は、その年の夏、本当にテレビに出ることになった。

番組では、清水由貴子の『お元気ですか』をしっかり歌って合格。
さらに秋の決戦大会でグランドチャンピオンに輝き、芸能プロダクションにスカウトされた。
3学期の終わりには、毎週土日に大阪から上京して、発声練習やダンスのレッスンに励んでいた。

『スター誕生!』の予選の通知を受け取って以降、まさにシンデレラ・ストーリーを地で行く1年だった。

1980年6月1日、14歳の少女は、阿久悠・作詞、都倉俊一・作曲の『No.1』でデビューした。


まるでシンデレラ、ヒット連発しトップアイドルに「『スタ誕』の予選までは、
学校と塾しか知らなかったし、家でも、大人の人とは対等に口をきけないという教育を受けた。
だから、芸能界に入って、周囲の人が皆、ものすごく大人に見えました。
同時期にデビューした人たちも年上だったから、すごいお兄さん、お姉さんに見えて。
そういう中では、大人の方々の言われたとおり、
目の前に敷かれたレールの上を、ただひたすら遅れないように走り続けるだけでした。
正直、時間に追われているのかどうかも分かりませんでした」

デビューの翌年に出した『ハロー・グッバイ』が大ヒット、
その後も『恋人たちのキャフェテラス』『花梨(カリン)』『春なのに』などヒットを連発し、
トップアイドルの地位を確立した。

16歳でディナーショーを実現させたということからも、当時の人気の高さがうかがえる。

「ディナーショーをやり始めた頃から、わざわざ足を運んでくださったお客さまやファンに、
何か自分なりのメッセージを伝えたいという気持ちが芽生えてきたように思います。
歌い人(びと)であり、伝え人でありたいと」



現在の皇太子さまが彼女のファンだったことも、30年の歩みを語る上で忘れてはならない。
1986年10月、都内で行われたリサイタルに来場され、会場入り口で出迎えた彼女にピンクのバラをプレゼントされた。

「当日は、レコード会社の社長さんやテレビ局の局長さんら、私の周りにいらした大人の方々が皆、緊張されていて、
その姿を見て私も緊張した、という感じでした(笑)。
次の日の新聞は、一般紙も1面の扱い。『すごいことだったんだ』と、改めて思いました」

会場には両親も駆けつけ、リサイタル終了後、
「浩宮さま、見たよ」と喜んでくれた。その笑顔が、何よりもうれしかった。(つづく)

(読売新聞 増沢一彦) (2010年04月07日 読売新聞)
・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。

http://otona.yomiuri.co.jp/people/graffiti/graf100407.htm?from=yolsp
☆【YOMIURI ONLINE】【新おとな総研】『生き方!私流』、『青春グラフィティ』☆


私は東京オリンピツクが開催された1964(昭和39)年に大学を中退し、
アルバイトをしながら映画・文学青年の真似事をしたが、
30代の頃に妻子を養なって家庭生活を思い浮かべると、とても過ごす自信もなく、あえなく挫折した。

やむえず人生軌道を修正し、民間会社は新卒が最優先の時代であったので、
中途入社するひとつの手段としてコンピュータの専門学校に一年間学び、
ある大手の音響・映像メーカー会社に何とか中途入社ができたのは、1970(昭和45)年の春で25歳の時であった。
そして、この会社の中のレコード事業本部に配属させられ、この当時のレコード業界の中で圧倒的に首位を独走していたが、
この中のひとつの一部門が外資の要請で新たなるレコード会社として新設されることなった。
そして私も新設レコード会社に転籍させられ、商品の現場を学んだ後、
本社のコンピュータ専任者に配属させられたのは1971(昭和46)年の新春であった。

私の勤めた新設レコード会社はクラシック・ポピュラーの洋楽は強かったのであるが、
邦楽に関しては程ほどの大ヒットしかない中堅のレコード・メーカーであった。

そして1980(昭和55)年の当時の業界の邦楽に於いては、
相変わらずアイドルスターの全盛期であり、ピンク・レディ、キャンディーズの旋風、まもなく山口百恵の引退などがあり、
ポスト・アイドルの時期でもあった。
ある会社では松田聖子をデビューさせ、ある会社でも河合奈保子をデビューして、
我が社でも遅ればせながらひとりのアイドルスターに抜擢されたのが、柏原よしえ(後に、柏原芳恵と改名)ちゃんであった。

デビュー曲の『No.1』の発売したのは1980年(昭和55)6月1日であったが、
この数が月前に、我が社の大きな会議室で、柏原よしえちゃんを囲み、本社の社員の殆どが記念写真を撮ったのである。

後日、この記念写真は社員に配布されたが、
最前列の中央には柏原よしえちゃん、隣席に社長、
そして何故かしら物怖じしない無知な私が柏原よしえちゃんの横に座っていたのである。


この当時はテレビ、ラジオの歌謡番組が盛んで、リクエスト葉書などがあった時代で、
私は管理畑の営業部に勤務していたが、宣伝部よりリクエスト用の葉書が毎週配布されたのである。
各レコード会社も同じように社員に配布し、リクエストを書きながら、投函されたと思われる。
大手のレコード会社の松田聖子、河合奈保子ちゃんと違い、
我が社は中堅レコード会社のせいか、私は帰宅後の夜に、リクエスト用の葉書に柏原よしえちゃんの曲名を書いたりしたのである。

その後、配布された枚数が多くなると、居間で家内にも助けを借りて、
『ハロー・グッバイ』ね、と云いながら、サインペンの三色を使いながら色鮮やかに書いたりしたのである。

私が何よりも驚いたのは、我が社はアイドルの大スターはいなかったせいか、
私が夜に退社すると、ときおりビルの廻りに中学生ぐらいの男の子が数人たむろし、
ときには50名ぐらいを見かけたのである。
或いは勤務している私の席でも、『よしえちゃん・・は・・今どこですか・・』
と電話で問い合わせを受けたりしたのである。

このようなささやかな思いであるが、結果としては三名のアイドルの中で、
やはり大手のレコード会社の松田聖子ちゃんが突出したのは周知の通りである。

余談であるが私はこの当時は35歳ぐらいであり、個人的には他社の河合奈保子ちゃんが、
一番可愛らしい、と思ったりした男であった。

尚、その後の我が社は統廃合したりされたりした結果、
私が50歳前後になると、松田聖子ちゃんが専属契約となり、
『あなたに逢いたくて』を聴くとは予想もしなく、こうして綴りながら微苦笑している。


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雨降る日中、ときおり庭のテラスで春の息吹きを感じ・・。

2010-04-07 19:39:32 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり、
今朝の6時過ぎは11度の花曇りの朝を迎えたが、11時過ぎに小雨が降りはじめ、
先程、玄関庭の軒下から見ても、雨が降り続けている。

昼下がりは12度、夕方の6時過ぎも9度ばかりで、昨日の5月初旬のような快晴から一転して、
雨降る一日となってしまったのである。

やむえず読書に専念していたが、ときおり主庭にあるテラスの雨を避けられる片隅で、
愛煙家の私は煙草を喫ったりしていた。
そして雨降る中の樹木、草花を眺めたりしていた。

常緑樹の金木犀(キンモクセイ)、紅カナモチ等は、勢い良く新芽を伸ばし、
落葉樹のもみじ、花梨(カリン)は萌黄色の幼い葉を広げ庭を染めている・・。
そして無花果(イチジク)の樹木も、新芽を観せている。

紫木蓮(シモクレン)の花は満開となり、微風を受けると揺れている。

そしてラッパ水仙の黄色の大きな花は、重そうに少し首をかしげ、
鈴蘭水仙(スズラン・スイセン)は純白で可憐な花を幾重にも咲いているが、
雨を受けて、やはり重そうにしている。

寒のもどりのよう花冷えの日中であったが、
樹木の多くは確かな春の彩(いろど)りにつつまれている。

もみじの萌黄色の幼い葉は枝から、日増しに大きく伸ばし、
まぎれもなく春到来の息吹きを感じさせてくれ、私は長らく見つめたりしていた。


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MISIAの 『Everything』の歌、早朝のひとときを心の中で唄い・・。

2010-04-07 07:27:17 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり、
家内の母は私より14歳齢上の高齢者であるが、独り住まいとなっているので、
ときおり家内が5泊前後で滞在しながら、大掃除、季節に応じた室内の整理をしている。

たまたま昨年の晩秋より訪れていなく、本日より11日まで4泊5日となり、
私は6時過ぎに、バス停まで家内を見送りに自宅を出た。

我が家の自宅の裏手には寺院があり、この片隅に大きく育った桜が満開となり、
早朝の静寂の中を彩(いろど)っていた。

バス停からは近くの小公園、バス通りの坂道の両側に桜花が観られ、
朝もやの春霞の情景だょね、と私は家内に云ったりした。

まもなくバスが来て、家内がバスの車中から私に手を振り、
歩道にたたずんでいる私は右手を大きく上げて、応(こた)えたのである。

帰路、私はとぼとぼと歩きながら自宅に向っていると、

♪すれ違う時の中で あなたにめぐり逢えた
 不思議ね願った奇跡が こんなにも側にあるなんて

【『Everything』 作詞・MISIA、作曲・松本俊明、編曲・冨田恵一、唄・MISIA 】

このような歌が突然に心の中で唄っていたのである。

私は家内と結婚して35年を迎えた夫婦なのに、どうして、と思いながら苦笑したのである。

そして歩きながら、

♪You‘re eveything You‘re eveything
 あなたと離れてる場所でも

【『Everything』 作詞・MISIA、作曲・松本俊明、編曲・冨田恵一、唄・MISIA 】

と心の中で唄いながら、自宅の門扉が見えたりしたが、
早朝なのにどうして、MISIA(ミーシャ)なの、
と齢を重ねた65歳の私は、独りで微苦笑したりしている。


http://www.youtube.com/watch?v=aHIR33pOUv0
☆【『Everything』 作詞・MISIA、作曲・松本俊明、編曲・冨田恵一、唄・MISIA 】☆


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桜花、舞い散る中、入学式の時節を迎え・・。

2010-04-06 15:14:20 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり、
昨日は朝から小雨降り、昼下がりも3月初旬のような12度ばかりで、夕暮れには雨が上がったが、
私は外出せずに午後の大半は読書と昼寝で過ごした。

今朝は曇り空であったが10時過ぎに快晴となり、
5月の初旬のような20度前後の陽気の中、私は心身悦びながら家を出たのは11時半過ぎであった。

坂道の歩道を歩くと、微風が吹く中、満開となった桜の花びらが空中をゆっくりと彷徨(さまよ)った後、
地上に落下していた。
歩道は花びらが散乱し、道端は吹き寄せのように花びらが重ねていた。

遠方を見ると、常緑樹の中に芽吹きはじめたクヌギ、コナラの雑木があり、
ひときわ数多くの桜花が見えて、あの周辺にも桜があったのかしら、
と思わず微笑んだりした。

坂道を上がり交差点で、若きママに連れられた幼児を見かけ、この後に10数組に続いていたので、
あれぇ、小学校の入学式の後かしら、と私は感じながら微笑みを頂いたのである。

しばらく歩いた後、都立の高等学校の校門の近くで、
女子高校生のグループの5組ぐらいを見かけ、談笑しながら歓声を上げる前を通り過ぎた。
そして私は本屋、スーパーで買物を終えて、商店街を過ぎと、
音楽専門学校の桐朋学園の校門の近くの交差点で、信号待ちをしていた。

この学園は私が小学生の55年前の頃から桜の樹が多く、
私の前方は満開の情景となり、ときおり微風が吹き、桜花が散りはじめていた・・。
そして、校庭の中で、お互いに女子生徒が記念写真を撮りあったりしていた。
私は入学された高校生かしら、と思ったりしたのである。

帰路、私は坂道を下りながら、桜の花びらが舞い散る中を少し立ち止まった。
そして先程見かけた音楽専門学校に入学された女子高校生たちを思い浮かべたりしたのである。
音楽の基礎を学ばれ、やがては独創性のある旋律を見いだされるかしら、と思いを重ねたのである。
ともあれ、真摯なまなざしの女子高校生の新たな門出に、
『くじけず夢を叶(かな)えてほしい・・乾杯だょね・・おめでとう・・』
と私は心の中で呟(つぶや)いたりした。

そして、私は桜の花びらが舞い散る中、再び歩きながら自宅に向った。


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ささいなことであるが、『歳』と『才』の違いは・・。

2010-04-06 08:51:28 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
ここ45年近く、気になっているひとつがある。

日常生活で何気なく使っている年齢を表示する時、
あなたは何歳ですか、問われた場合の記載の時、『XX才』と書く人を見かける。

『才』は、才能といったように意味合いがあるので、年齢を記載する時は間違いである。

私は、市役所の指定用紙、或いは雑誌などてエッセイを綴られる方の一部の方で、
こうした誤りを見かけたりする時、
義務教育の中学校を卒業したのかしら、と私は思ってしまう。

さりげない漢字一文字でも、日本語の乱れは老若男女を問わず、
貧富さとか社会の地位とかは関係なく、そのお方の人格を表わす、と確信している。

このようなことを明記する私は、才能のない拙(つたな)い身であるので、
気にしているのかしら、と苦笑もしている。


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私なりの定年退職の前後の日々は・・。

2010-04-05 09:09:37 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
昨日、私はこのサイトに於いて、
【我ら夫婦は、風変わりなカップルかしら、と思いながらも・・。】
と題して投稿した後、改めて私の定年退職の前後の日々はどのように過ごしたのかしら、
改めて思いを馳せたりした・・。


   序章

ここ3年、団塊世代の方達が定年退職を迎えて、数多くの新聞、雑誌、テレビの番組で特集が報じられている。

私は東京オリンピツクが開催された1964(昭和39)年に大学を中退し、
アルバイトをしながら映画・文学青年の真似事をしたが、
30代の頃に妻子を養なって家庭生活を思い浮かべると、とても過ごす自信もなく、あえなく挫折した。

やむえず人生軌道を修正し、民間会社は新卒が最優先の時代であったので、
中途入社するひとつの手段としてコンピュータの専門学校に一年間学び、
ある大手会社に何とか中途入社ができたのは、1970(昭和45)年の春で25歳の時であった。

その後まもなくしてあるレコード会社に転籍させられ、
机を並べたのは、新卒の団塊世代の人々が多く、
何かと苦楽を共にしながら勤務に励んだので、身近な存在となっている。

その後まもなくしてあるレコード会社に転籍させられたが、
職場の机を並べたのは、新卒の団塊世代の人々が多く、
何かと苦楽を共にしながら勤務に励んだので、身近な存在となっている。

このような存在の団塊世代の人々であるので、
私なりに気になり、少しばかり齢上の身として、心の中で応援している。
そして、たまたま妹の2人、そして家内も団塊の世代である。

ここ3年前後、こうした団塊の世代から定年退職の挨拶状を頂いたり、
或いは定年前に退職されて第二の人生の挨拶の連絡を頂いたりしたのは、10年前頃の頃でもあった。

こうした思いも重なり、私の実際の定年退職の前後を綴ることにする。


   第一章 

私達夫婦は、定年退職後の生活を話し合ったのは、
私が本社勤務より出向を打診された55歳の直前だった。

私の勤めているレコード業界は、ピークから下降しはじめ、
各社が合併、大幅な業容の見直し、組織の改定、そして人員整理が行われていた。
私の勤めていた会社は外資で、早期退職優遇制度と称され退職の奨励、人事異動が行われ、
私は同じ業界の関連会社に出向勧告をされた。


家内と結婚後、しばらくして一軒屋を構えた時、
借入れの住宅ローンがあったので、定年の60歳まで務める人生概要設計について、
家内と話し合っていた。

このようなことがあるので、先輩、同僚、後輩の一部の方達が、早期に退職するのには戸惑ったりした。

この出向勧告された直後、家内と具体的に、自分達はリタイアした時、
どのような生活をしたいのか、そして生活資金などを話し合った。

私は定年の60歳まで働き、主(あるじ)としての責務を果たし、
その後は趣味の時間に没頭し自在に過ごしたいので、
現役時代の収支、退職金、退職後の年金推定を算出した。

私達は子供に恵まれなかったので、私達の退職後の生活収支はある程度算出し易かった。
唯、私は1944(昭和19)年生まれであるので、
年金の満額の支給は62歳であり、それまでの2年間は満額のほぼ半分となるので、このことも配慮した。

この時の私は、幸いに住宅ローンを終えていたので、
年金が満額となった62歳からの生活の収支は、私達夫婦の共通趣味である国内旅行費を除き、
年金内で生活する収支の概要を作成したりした。

こうした結果、私の年齢、家内の年齢を主軸に
1998(平成10)年から私が80歳を迎えるまで、
年次別の収支と残額を作成し、パソコンに入れて、計画、実績、差額を毎月入れることとした。

私は出向を受けて業界内の関連会社に5年勤め、定年退職日を迎えた。

この間も私の先輩、同僚、後輩の一部の方達は業界から去っていった。


   第二章
              
私は2004(平成16年)の秋、定年退職となった。

この退職日の2ヵ月前から、
家内の父が入退院を繰り返していたが危篤状態となり、家内の母と家内が交代で看病していた。

家内の父が入院した大学病院は、私の家から遠く、夜間に互いに付き添っていたので、
家内の疲労も増してきた。

私は8月末で業務を完了させ、この後は有給休暇として会社の了解を頂き、
定年を迎えたのが実態であった。

この間、家内の父が亡くなり、定年前後の諸書類を進めていたので、多忙な時期となっていた。

そして、失業保険の申請を当初予定として、5ヶ月分の失業手当を頂こうとしたが、
私は勤める意志なく、求職される方達の真摯な様子をホームページ、新聞、テレビのニュースなどで知ったので、
失礼と思い、申請手続きを断念したりした。

こうした家内の父の死去に伴い、
定年退職記念旅行、失業保険の断念は予定外であったが、
人生は予定通り進まないことも多くあるので、私なりに後悔はしなかった。


退職後の数週間後、家内と銀行を廻り、安全利回りの定期、国債などの金融資産を新たにした。


私は定年後の日常は、趣味の時間に没頭し、日々を過ごす目標であったので、
小説、随筆、歴史書、現代史を読んだりしている。
ときには映画のビデオ、DVDを観たり
音楽のカセット、CD、DVDを視聴したりしている。
そして、文章を綴るのが好きで有り、幸いにしてブログの世界を知った。

家内の父の四十九日の法事、納骨を終えた後、
独り住まいとなった家内の母と3人で墓地から程遠くない所で、
3泊4日の温泉滞在をしたのは晩秋だった。

この旅行中に、私は定年退職をしたのを改めて実感し、
日中の陽射しのうつろいを心に充たすことが出来た。


   第三章

退職後の数が月を過ぎると、落ち着きを取り戻した日常生活となった。

私は日の出共に起き、家内の牛乳とコーヒーをそれぞれのマグカップに淹れて、
家内の枕元に置く、茶坊主が一日のはじまりである。
日中は買物の役割となり、その後は散策をしたりしている。

家内の方は、料理、洗濯、掃除と多忙な身であるので、
多少の役目を負った次第である。

そして、ときたま庭の手入れをしたりしている。
日中、夜のひとときは、読書、映画、音楽を楽しみ、
そしてブログなどに綴ったりしている。

夕食の時は、私は晩酌をするので、
純米酒、ビールを呑みながら、家内と他愛ない話をしている。

ときには、家内との共通の趣味である国内旅行をし、
或いは家内の母を誘い、3人で温泉滞在旅行を行ったりしている。


退職後の翌春、私が亡くなった時、家内の老後の生活を考えて、遺言の公正証書を作成した。

私は退職の数年前から、退職後の10年間は五体満足で生かしてくれと念じ、
その後の70歳以降は余生と思っている。
酒も呑み、煙草も喫煙しているので、こうした思いは強いのである。


春先のひととき、健康保険料、住民税の請求を受けると、
私は多少覚悟はしていたが、思ったりより多かったので驚いた。
この2つの要素は、前年の年収に対応し、
私なりに年収1000万円以上の成果を50代の半ばより持続していた反動である。

現役時代は、厚生年金、所得税、地方税、健康保険料などは差し引かれていたので、
ある程度高いかしら、と思っていたが、
年金の片肺の身としては、少しため息が出たのは正直なところである。

こうした要素を過ぎれば、後は日常をいかに自分に対して充たされるか、
と思っている。

私は雑木の季節のうつろいで時の流れを教示され、
或いは買物先、駅前で女性のしぐさ、表情に魅せられ、
好奇心を失くしたらこの人生は終りだ、と思っている。


私のこの間の心情については、退職後から2が月した後、
ブログを投稿しはじめ、このサイトにも綴っている・・。

偏屈と卑屈な半生を歩み、独断と偏見の多い私の退職後の日常の心情にご興味の方は、
このサイトなどをお読み頂ければ、ほぼ余すことなく綴っている。

このような告白めいた綴りをした私は、独りで微笑したりしている。



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我ら夫婦は、風変わりなカップルかしら、と思いながらも・・。

2010-04-04 16:03:20 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
私達夫婦は子供に恵まれず家内と2人だけの家庭であり、
古惚けた築後33年の一軒屋に住んでいる。

私は東京オリンピツクが開催された1964(昭和39)年に大学を中退し、
アルバイトをしながら映画・文学青年の真似事をしたが、
30代の頃に妻子を養なって家庭生活を思い浮かべると、とても過ごす自信もなく、あえなく挫折した。

やむえず人生軌道を修正し、民間会社は新卒が最優先の時代であったので、
中途入社するひとつの手段としてコンピュータの専門学校に一年間学び、
ある大手会社に何とか中途入社ができたのは、1970(昭和45)年の春で25歳の時であった。

その後まもなくしてあるレコード会社に転籍させられ、
管理畑を35年近く勤めて、定年退職を迎えたのは2004(平成16)年の晩秋であった。


この間、家内と結婚したのは1976(昭和51)年の春であり、
数多くのサラリーマンと同様に多忙な時を過ごし、私なりに奮闘したりした。
そして現役の最後の5年間は、リストラ旋風の中、私も出向となった。

こうした中で、1977(昭和53)年の春に一戸建てを構えた時、
家内は中学生の頃から茶事を学んでいたので、
私は若さの勢いで茶室を母屋の一室に設けてしまったのである。
そして私は初期の想定以上に借金となり、ローン返済に苦闘していた時、
家内はパート、契約社員などで5年ぐらい援軍となった後、専業主婦となった。

私達は子供に恵まれかったせいか、私がたとえ深夜に帰宅しても、
殆ど毎晩、お互いの本日の出来事を素直に語りあったりした。

たとえば私の勤務している業務でも、悪戦苦闘している状況まで私は家内に云ったりしたので、
ストレス解消となり、何とか職場上でも微笑を浮かべながらも精勤できたのである。


このような私は定年退職後はサラリーマンを卒業し、年金生活を始めて、
日常の買物を担当し、ときおり家の外回りの掃除と庭の手入れているだけである。
平素の大半は随筆、近代史、ノンフェクションなどの読書することが多く、
居間で映画の作品を観賞したり、音楽を聴いたりし、
私は文章を綴ることも好きなので、このサイトに投稿をしている。
そして家内の長き専業主婦の習性もあるので、私は独りで散策をしたりしている。


家内は家の内部の洗濯、掃除、そして料理などをしているが、
家内の方が負担が多いので、私は茶坊主とったりしている。

1年の大半は私の方が目覚めるのが早いので、
コーヒーと牛乳をそれぞれのマグカップに淹れて、家内の枕元に置く。
日中のひとときは、コーヒー好きな家内に、さりげなくコーヒーを淹れたりする。


家内は血液型がA型のせいか、
私から見れば掃除、洗濯、料理などを完璧にするタイプである。

私はB型の血液らしく、何事もアバウトであるが、
好きな事に関しては寝食を忘れて平気なタイプでもある。

私達は互いの趣味の世界には、介入せず尊重している。
私達は、いずれどちらかが独り身となった時、趣味の世界があれば、と思っているのである。


共通の趣味は国内旅行であるが、こうした時は共にする時間が多いので、
多少の差異があったりする。
たとえば家内は動物などに興味があるが、
私は植物の四季折々の樹木に心を寄せたりすることが圧倒的に多いのである。

過日、家内はザトウクジラが遊泳しているところを観たいわ、と発想の元で、
小笠原諸島の父島に11泊12日間の旅行中、
3日間ほどクジラウォッヂングの遊覧船で家内はクジラを見掛けて歓声を上げたりしていたが、
私は一度観れば充分と思ったりしたが、たとえ寝食を共にした間柄といえども、
人生は妥協も必要であると思いながら、海上から観える陸上の景観を眺めることが多かったのである。

或いは旅先で、和菓子屋で煎茶か抹茶を頂きながら、
その地の銘菓を味わうのが家内の趣味のひとつであるが、
私はお供をしながら、その地の文化のひとつを享受したりしている。

私は居酒屋が好きなので、地酒を呑みながら、その地の食べ物を頂だき、
旅先の風土に思い馳(はせ)せながら、まぎれない文化のひとつである、
と家内に話しかけたりしている。

『XXちゃんさぁ・・先ほどの料理・・イマイチであるが、
これは絶品だょ・・奥が深いょ・・』
と私は家内に云ったりしている。

家内は、私の独断と偏見の悪い癖がはじまったわ、と苦笑している。

こうした風変わりなカップルも35年ばかりの歳月が流れている。





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