夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

中島みゆき(なかじま・みゆき)女史のネット無料情報に、私は深くため息を重ね・・。

2010-04-23 12:24:20 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが.
昨夕、季節はずれの冷たい雨が降りつづけている時、
敬愛しているシンガーソングライターの中島みゆき女史のことをネットで検索していたら、
驚ろきながら、しばらく深くため息を重ねた・・。

http://miyuki-lab.jp/info/
☆ 『中島みゆき研究所』 中島みゆきファンサイト ☆

私は一時間ばかり、見ていたのであるが、殆ど限りなく網羅されているので、
驚いたのである。


私は遅ればせながら『昭和』から『平成』に変る少し前に、
偶然にカセットテープを聴いて、中島みゆき女史を知ったのである。
このカセットは、私の勤務するあるレコード会社から発売されていたので、
たまたま残っていた試聴用テープを頂いた。

私なりに尊敬しているテレビの脚本家として名高い倉本聰(くらもと・そう)氏が、
初めて映画監督された『時計』のオリジナル・サウンドトラックであり、
各レコード会社が契約している有力な歌手の曲が収録されていたが、
たまたま金子由香利さんの『時は過ぎてゆく』が最初と最後に編成されていた為か、
私の勤めていた会社が発売となった。

このカセットテープの中の一曲に中島みゆき女史の『エレーン』があり、
この『エレーン』に私の魂まで揺さぶられ、少なくとも5年間ぐらい物狂いのように熱愛した。

多くの方が魅了されたアーティストに対し、
初期作品から聴いてみたいと思うように、私の場合も同様だった。

最初のアルバムの『私の声が聴こえますか』から『回帰熱』までのアルバムは、
私は短期間の間で購入し、
多岐にわたる分野を書き分ける才能の豊かさには、圧倒された。
そして中島みゆき女史の綴られた随筆された本も愛読したり、
他の方が中島みゆき女史に関しての評論された本も当然のことながら購入した。
そして、歌詞集も三冊ばかり熱読したり、コンサートは恥ずかしながら一回限りであるが、『夜会 第2回』を観たりしていた。

こうしたことの心情については、このサイトに於いて数多く投稿をしてきたので省略はするが、
熱愛が終わり平熱となった後、
1997(平成9)年の秋に、私は退社後に音楽の販売チェーンに、何気なく寄ったりした。

そしてCDの邦楽アーティストの棚で、中島みゆき女史の並ぶ数多くのCDの並ぶ外れに、
私が知らなかったのがあり、思わず手に取ったのである。

『なみろむ』と題されたCD-ROMの2枚組みの豪華なケース入りであった。

一枚目は『ろむ壱』History&Diarysと明記され、
《○シングル、アルバム、ビデオ、夜会、コンサート、書籍、提供楽曲を収録
○これまでの雑誌インタビュー、対談記事約70点収録
○プロモーションビデオを始め写真等約300以上収録》

そして二枚目は『ろむ弐』Discographyと明記され、
《○デビュー曲『アザミ嬢のララバイ』から新曲『愛情物語』まで全317曲を16bitの高音質で1コーラス収録
○全歌詞を完全収録。歌詞のキーワード検索も可能
○全曲を自動演奏するオートプレイ機能》

このように明記されて、製作・著作・発売元 株式会社オラシオン 7,800円(税別)、
と表示されていた。

私は瞬時、全歌詞を完全収録、魅せられて、
これだったら三冊の歌詞集より何かと便利である、と購入したのである。
そして私は自宅のノートパソコンで、しばらくのあいだ享受した。


このようなことを思い馳せながら、
☆『中島みゆき研究所』 中島みゆきファンサイト☆を見たりていたのである。

ネットの世界は、ウィンドウズ95の発売により、日本でインターネットの普及が始まり、
その後はハード、ソフト面は加速して、日本人の数多くの人たちに享受されていることは周知の通りである。
この間、音楽を取り巻く環境として、携帯電話で音楽を聴いたりすることが普及、拡大となってきた、
そして私が定年退職後には、【YouTube】が日本でも登場し、
利用者の投稿に寄り、ほぼ無制限の世界であるので、
まさにレコード業界の各社がこれまで培ってきた数々の曲が、利用者は無料でも視聴できるので、
まさにパンドラの箱が開けられた、確信させられ、痛感したのである。

こうしたネットで無料でも、情報や曲を聴いたりできるので、
私が驚くよりは、もとより創作されるアーティストの方たちの方が、
この15年間ばかりの激変に戸惑いを重ねたりし、しなやかに対処し音楽活動をしてきたと思われる。

私は居間にある音楽棚の中島みゆき女史のカセット、CD、DVD、そして随筆、歌詞集を眺めながら、
ネットの世界はどこまで進めば・・と思いながら、
余りにも安易に頼ると、脳裏の働きが鈍くなり想像力が欠如する人たちが増えるのかしら、
と齢を重ねた私は思ったりした・・。


尚、私が女史という敬称を使用するのは、
女性の中で、私が深く感銘を受けた社会的地位や名声のある女性に対し、敬愛をこめて使用している。

たとえば、『中島みゆき氏』では、何かしら固苦しく他人行儀のような心持ちであるし、
『中島みゆきさん』では、敬愛していても直接にお逢いし言葉を重ねた人でないので何かしらおかしく、
まして私より齢下のお方であるので、『中島みゆきちゃん』・・馴れ馴れしく失礼であるし、
『中島みゆき』などと呼び捨てにするのは論外と思ってきたのである。
やむえず、『中島みゆき様』と照れ隠しのように綴ったりする時ある。

このような思いで、『中島みゆき女史』、私の心からしてびつたりと確信したのである。

昨今の社会風潮の一部に於き、気性の勝った女性をからかい気味に言う時にも用いられる、
と何かの本で読んだことがあるが、
こうした解釈をされる方は、特に平成の初めの頃から社会が劣化した風潮の中で、
薄まった文化しか学んだことのない人である。



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金子由香里さんの唄う『小雨降る径』の私のささやか想いで・・。

2010-04-22 16:32:29 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり、
朝の6時は9度ばかりのどんよりとした曇り空で、9時過ぎからは雨が降りだしている・・。
昼過ぎには8度前後、夜の6時には6度前後が予測され、冷たい雨の降る一日となる。

昨日は5月中旬のような皐月晴れとなり、昼下がりは23度前後となり、
私は小踊(こおど)りしながら、買物、散髪屋(理容店)に行ったりし、風薫る5月みたい、と新緑の情景を享受したりした。
帰宅後、浴室を水洗いをしていたが、水も冷たさを感じなく、
まるで子供の水遊びかしら、と微笑みながら掃除をしたのである。

このような昨日だったので、急激に低下した天気に戸惑ったりし、
居間だけは久々に暖房をしたりし、天上の気候の神々もたわむれが酷(ひど)いねぇ、と思ったりしたのである。

その後、愛煙家の私は家外で煙草を喫う蛍族の6年生であるので、
庭のテラスに下り立ち、屋根がせり出し、雨に濡れない所で煙草を喫いながら、
小雨降る庭の樹木を眺めたりしていた・・。

昼下がり、庭のテラスに下り立ち、ぼんやりとしていると、

♪静かな雨 並木の雨
 あなたを待つ 胸に降る

【『小雨降る径』 訳詞・高田 三九三】 


私は心の中で唄いだした・・。

♪流れる唄 懐かし唄
 夢をささやく あのメロディー

【『小雨降る径』 訳詞・高田 三九三】 

私は自分自身、どういう心情で唄いだしたのか、解からなかった。

♪いつの日にか また逢いみん
 溢れくるわ 涙

【『小雨降る径』 訳詞・高田 三九三】 


私はふと遠い昔の日々が甦(よみがえ)ったのである・・。


確か38年前の前後、この頃の私は銀座の一角にある『銀巴里』に行き、
数多くのシャンソン歌手が近くで唄われるのを、私はコーヒーを飲みながら、名曲の数々を聴いたりしていた。

そして、近くにあるカフェ・バー形式のような『蛙たち』にも行き、
私は濃い目の水割りのウィスキーを呑みながら、数多くのシャンソン歌手が唄われるのを、
聴き惚れ、心酔していた時期であった。

この後、家内と結婚前に交際していた時も、この『銀巴里』とか、『蛙たち』にも行ったりしていた。


私達が新婚まもない時、東銀座にある東急ホテルの小さなレストランで、
デイナー形式でシャンソンを聴きながら、夕食を頂くのに、私達は参加した。

歌い手は私が魅了されている金子由香里さんだけで、
家内に『銀巴里』、『蛙たち』と違った面がこのお方は表現できる人であり、せひ観て欲しかったのである。

3曲を唄った後、ボーイさんがリクエスト曲の用紙を廻してきた・・。

私は万年筆で、『小雨降る径』と書き込んだ。

20分過ぎた頃、リクエストの3番目として、
『どなた様が・・この《小雨降る径》をリクエストして下さったのでしょうか・・』
とこのお方は言った。

私は少し恥ずかしげに、片手を少し挙(あ)げた。

このお方は少し驚いた表情されたが、唄いだした・・。

この後、数曲唄われた後、私達のテーブルに近寄ってきた。

『今晩・・来て下さって・・
あたくしの歌を・・よく聴いてくださる方よねぇ・・』
と私に向って、このお方は言った。

私はカフェ・バーの『蛙たち』などにも、よく通ったので、時折リクエストなどをしていたのであった。

そして、このお方は、
『あなた方・・お若くて・・これからの人生・・何があろうとも・・
お互いに思いやりがあれば・・大丈夫だから・・』
と微笑みながら、このような意味合いの言葉を私達に云った。

私は、人生の駆け出しの夫婦としてのあどけない私達を観て、
慰めと励ましでわざわざ、私達のテーブルに寄って下さった、と思ったりしている。


このようなささやかな思いでが私達夫婦にはあったが、
若き日々、人生を歩みだした時、『小雨降る径』をリクエストしたのだから、
この頃の私は人生に気負っていたのかしら、と先程から微苦笑したりしている。

この後、居間に戻り、金子由香里さんの『小雨降る径』を聴きたくなったのである・・。


私の持っている金子由香里さんのレコード、カセット、CDは少なくとも15枚のアルバムはあるが、
この『小雨降る径』が収録されたのはレコードだけであり、少し気落ちしたのである。

私はレコード・プレイヤーを手放しているので、やむえずネットの【YouTube】に頼って検索したのであるが、
久々に【YouTube】の上であるが、愛(いと)しき金子由香里さんの『小雨降る径』の歌にめぐり逢えたのである。


http://www.youtube.com/watch?v=lNMs3np4dIg&feature=related
☆【『小雨降る径』 訳詞・高田 三九三、唄・金子由香里】☆

私はあれから35年以上をお逢いしていないので、
このサイトで拝見する限り、金子由香里さんもお齢を召されて声量は確かに衰えたが、
この曲に対する思いは深まっている、と感じたりしている。



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映画『七人の侍』、私なりに魅了された侍の変貌は・・。

2010-04-22 11:13:31 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
昨夜、映画棚から黒澤明監督の『七人の侍』(1954年)のヒデオテープを取り出して、
居間で視聴した。

もとよりこの名作は少なくとも私は30回は観ているのが、
過日に読んだ映画の脚本家の橋本忍・著の『複眼の映像 私と黒澤明』(文春文庫)が脳裏に残って折、
そして数年前に読んだ村井淳志・著の『脚本家・橋本忍の世界』(集英社新書)も重ねあわせて、
改めて視聴したのである。

こうしたことを踏まえた上で、脚本の橋本忍、黒澤明、そして小国英雄の3氏に寄る共同脚本で、
改めて構成はもとより、多くのが出演されたセリフのひと言でも無駄はなく、
とぎすまれた展開に改めて感心させられたのである。

観賞し終わった後、七人の侍のそれぞれの私の好みが、
遅ればせながら1964(昭和39)年に初めて映画館の名画座で初めて観た時から、
私の年代と共に変貌していたことに気付かされたのである。

七人の侍のそれぞれの特徴は、フリー百科事典として名高い『ウィキペディア(Wikipedia)』の解説文をお借りすると、

《・・
☆島田勘兵衛(志村喬)

そろそろ50に手が届く歴戦の武士だが、敗戦ばかりで今は浪人。
白髪が目立つ風貌で若い頃の夢も情熱も枯れかかって、どこかしら静かに生活がしたいと望んでいる。
豪農の子供を盗人から救ったことで利吉達に助けて欲しいと頼まれる。
当初は乗る気にならなかったが、百姓達の苦痛を負け引き受けることを決意する
40騎の野武士と戦うなら少なくとも七人は侍が必要と判断する。
戦略家で冷静なリーダー。
上泉伊勢守信綱がモデルになっている。


☆片山五郎兵衛(稲葉義男)

勘兵衛の右腕的存在。
いつでも静かでおだやかだが、その物柔らかさの下に何か人をなだめるような力がある。
軍学は相当でき経験豊富な浪人。
茫漠たる風貌。
塚原卜伝をモデルにしている


☆七郎次(加東大介)

勘兵衛の最も忠実なる家臣。
何時もその影のように付き添って戦ってきた。勘兵衛いわく「古女房」。
勘兵衛の顔付きだけで、その求むるところを知り、ただちにそれに従って動く。
落ち武者となって竹槍で追われた経験があり その憎しみは強い。
一番大きな特徴は無私という事である。


☆林田平八(千秋実)

苦境の中でも深刻にならない、愛想の良い浪人。 
若く明るく柔軟で生まれつき人懐っこく、その性質が好かれてすくすくと伸びてきた。
ふざけやで、冗談ばかり言っており道化が大好きなように見え、菊千代をよくからかっている。
神経が細かく、全てによく気がついているが リーダーになって何かやるのは不得意である。
武士としての腕は少し心もとない(五郎兵衛は「腕は中の下」と評する)。
「戦に何か高く翻げるものがないと寂しい」とトレードマークとなる旗を作る。


☆久蔵(宮口精二)

修業の旅を続ける凄腕の剣客。無口-傲慢-冷酷、兵法の鬼。
自分自身を、非人間的な戒律で縛っているためストイックである。
世の中で頼りになるのは自分の腕だけだと思っており、
勘兵衛は「己をたたき上げる、ただそれだけに凝り固まった男」と評する。
しかしそれは必死の彼の努力であり、本当は優しい男である。
宮本武蔵がモデルである。


☆岡本勝四郎(木村功)

育ちがいい裕福な郷士の末っ子で半人前の浪人。
浪人になりたいと親に頼んでも許さないので家を飛び出して旅をしている。
勘兵衛の姿にあこがれて付いて行こうとするが勘兵衛に浪人の辛い現実を教えられ一時動揺している。
総てが新しい経験ばかりで総ての事件を若々しい敏感な感情で受け取っている。
勘兵衛達からは「まだ子供だ~」とよく言われている。
森の中で百姓の娘の志乃と出会い互いに惹かれ合う。


☆菊千代(三船敏郎)

勘兵衛の強さに惹かれ勝手についてきた山犬のような男。
長大な刀を肩に担いで浪人のように振舞っているが勘兵衛にすぐに「貴様、侍か?」と元々は武士ではないと見破られる。
酒癖が悪く勘兵衛達の前で酒乱状態になるが平八に見事にハメられてからかわれる。
「菊千代」という名前は勘兵衛に自分が侍だと思われたいがために他人の家系図を勝手に盗んで名乗った名前(すぐにバレる)で、
後に仲間として受け入れられた時にそのまま定着してしまう(本名は不明)。
百姓のことに関して知識が非常に多いが実は元々は百姓の出で、戦災孤児だった。
型破りで特別に血がたぎった熱い男で、百姓と侍を結びつける仲介役。
獰猛な男だが、戦うときは勇敢に戦う。(ただし戦いは喧嘩のように荒々しい)
久蔵をライバル視している。
・・》
注)原文にあえて改行などを多くした。

このように侍の特徴を明記され、それぞれの個性を発露されながら、お互いに補完しあう展開しなっている。


私は遅ればせながら25歳より民間会社に中途入社し、
中小業の為か何か時代に翻弄され苦楽の多いサラリーマン生活を35年間ばかり勤めて、
定年退職をした拙(つたない)い身である。

こうした体験が影響したと思われるが、
若き頃の血気盛んな時は、圧倒的に菊千代(三船敏郎)に魅了されたのである。

もとより島田勘兵衛(志村喬)のような戦略家で冷静なリーダーになれず、
ときおり久蔵(宮口精二)のような存在になりたいと憧(あこが)れたりした。

そして片山五郎兵衛(稲葉義男)のような軍学は相当でき経験豊富な人、
七郎次(加東大介)のように影のように付き添って戦ってきた人には、
私の性格からして遥か遠い存在なのである。
その上、岡本勝四郎(木村功)のような人には、私としては論外であった。


昨今、私の人生のこれまでの歩みは、何かしら林田平八(千秋実)のような存在だったのかしら、
と微苦笑を重ねたりしている。
人それぞれ、ご自分が何よりも愛(いと)しく、私にとっては林田平八(千秋実)は合わせ鏡、
とも思え苦笑したりしている。


尚、この『七人の侍』の出演された中で、七人の侍を除外した時、何よりも魅了されたのは
《意気地が無く、すぐに泣きべそをかく百姓。かなりのドジ。浪人探しに町へ出る。菊千代とは名コンビ》
と称せられた与平(左卜全)の存在である。
左卜全は数多くの映画に好演技をされたお方であるが、この一作でも映画史の残る存在感を示した、
と固く私は思っている。




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穀雨(こくう)の時節でも、東京郊外はつかぬまの皐月晴れに恵まれ・・。

2010-04-21 07:29:30 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが.
昨日、気象庁の予告より幾分早く午後の2時過ぎから、雨が降りだした・・。
穀雨の時節を迎えているのだから、この雨で農作物は育つのかしら、と微苦笑をしていた。

たまたま私は『おひとりさま』を過ごしているので、早寝早起き元気な児に基づいて、
夜の10時過ぎには布団にもぐり、一時間ばかり読書をした後、寝付いたのである。

今朝、5時過ぎに目覚めて、雨上がりの新緑の情景に長らく見惚(みと)れた後、
居間に戻り、ネットで地元の天気情報を見たりした。
朝の6時は13度、昼下がりは23度前後、夕方の6時は17度前後で、
快晴の一日となります。
しかし明日の22日(木)は10度前後、23(金)は17度前後、24(土)は16度前後の最高気温となり、
曇り時々雨の日が多く、お日様にさよならしますので、本日の5月中旬のような快晴を大切にしましょう、
と私は解釈したのである。

そして私は、つかぬまの皐月晴れのような一日に恵まれるので、
買物、散策、そして散髪屋(理容店)に行き、そして『おひとりさま』の責務として、
少しばかりの大掃除、浴室の手入れで、のろまの私でも忙しくなるかしら、と微笑んだりした。

そして、つかぬまの陽射しに恵まれて、私より遥かに喜んでいるのは、
農作物、樹木、草花かしら、と朝のまばゆい陽射しを見つめて思ったりしている。



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上野千鶴子(うえの・ちづこ)氏の著作『おひとりさま・・』から教示され、そして叱咤され・・。

2010-04-20 13:26:06 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり、
昨年の12月に上野千鶴子・著作の『男おひとりさま道』(法研)を読み、
ここ2週間前に前作にあたる『おひとりさまの老後』(法研)を遅ればせながら読んだりした。

いずれも、私は数多く教示されて、この二冊の『おひとりさま・・』からは、
まるで雷を打たれたように読んだりした・・。

http://www.sociohealth.co.jp/book/db1/data.cfm?code=5890753
☆ 上野千鶴子・著作 『男おひとりさま道』(法研) 平成21年11月1日 発刊 ☆

http://www.sociohealth.co.jp/book/db1/data.cfm?code=5845680
☆ 上野千鶴子・著作 『おひとりさまの老後』(法研) 平成19年7月12日 発刊☆


私達夫婦は、子供も恵まれず、たった2人の家族であり、
いずれは片割れとなるが、私は煙草を喫うし、お酒が大好き、そして運動不足の日々を過ごしているので、
私の方が先に死ぬことの確率は圧倒的に高い、と思ったりしている。

しかし、こればかりは予期できなく、家内に先立たれた思いは、このサイトに数多く綴っているので省略するが、
改めて老後設計の再チエックとして買い求めたのである。


私は続編にあたる『男おひとりさま道』を先に読んだのであるが、
私は齢ばかり重ね無知なことが多く、唖然としながら、多々教示を受けたりした・・。

たとえば、第2章の『下り坂を降りるスキル』に於いて、
この中のひとつに『男の定年、女の定年』があり、
私の考えていた《女の定年》とは全く予想外だったので、この後しばらく考えさせられたのである。

そして肝要の前作の『おひとりさまの老後』を読んだりして、
座禅をしていた私が不意に雲水である上野千鶴子氏から、不意に後ろから襟首を捕まえられて叱咤されたように感じ、
私はここ一週間は気落ちし失意となっていたのである。

このことは第6章『どんなふうに「終わる」か』の中で、
『おカネのほかになにを遺すか』と題された中に於いて、
「記念館をつくって歴史に名を残す(笑)」、「本を寄贈する」、「自分史を残す」などは大いに共感できたのであるが、
「人間は死んでなにを遺すか?」の一節に、考えさせられ、気落ちさせられたのである。

《・・
不滅のモニュメントや歴史を超えて名を残したいと思うひとびとの気が知れない。
生きているあいだによほど不完全燃焼感があったのだろうか、と同情してしまう。
・・》
(引用・ページ235、236)
注)原文にあえて改行を多くした。


私は日本文学史上に於いて、不滅の作品を遺された文人が少なくとも10数人はいるが、
こうした方に憧(あこが)れを持っているひとりである。

こうした思いの根底には、このサイトに於いて、
【改めて、私なりのブログと自己存在感・・。】
と題して、昨年の2009年8月22日に投稿しているが、あえて再掲載をする。

【・・
昨日、【『ネット検索、月間4775万人…6年で3倍・・』の記事、私は読んだ後は・・。】と題して投稿した。

そして、この投稿文の結文の前に、
【・・
私は退職後の年金生活で驚いたのは、
ブログの飛躍的な利用者の増加であり、私と同様に心の思いを自己発信する人が多いことであり、
そして2007年6月より、【YouTube】に於いて、日本語版を開始され、音楽のパンドラの箱が開けられた、
と思いながら音楽の曲が大半自在に聴くことができたことである。
・・】

と綴ったりした。
題目の検索の急増はもとより、私は日常にブログは欠かせない存在であり、
ときおり【YouTube】に於いて、音楽を甘受しているが、
昨夜の深夜に、私はとってはブログはどのような存在なのかしら、と考え込んでしまったのである。

私は2004年の秋にある民間会社を定年退職したのであるが、
まもない時、ブログの世界を知り、あるサイトに加入して、2005年2月7日に於いて、
『ブログと自己存在感・・。』と題して、投稿した。

【・・
ブログが昨今に急速で、加速されたかのように広がっている。
何故、これほど話題になり、注目され、利用されているか、
私が利用した理由を書き込めば、ひとつのヒントになると思ったりしている。


昨年の秋の定年退職の前後、私はホーム・ページを立ち上げようとしていた。

理由として、この星の下で生まれ、育ち、何を考えて、やがて死んでいくことに、
生きたいたことのひとつの証(あかし)を残していきたい、と思ったのである。

ホーム・ページの場合は、原則として実名公表なので、
政治・外交・軍事・社会・宗教・文化等の公表に、
著名人でない上、これといった専門知識がない素人の私には、一種のためらいがあった。

私の好きな山川草木のよしなごとは書けても、
身過ぎ世過ぎの年金生活の日常を過しているので、文章にほころびが生じる、と思ったのである。

世の中の専門知識を有する学者の随筆は、
論文等、或いは大学教授としての前提で、一面の遊び、としても綴ることが出来るので、
私のような素人としては、こうしたためらい、たじろいがあり、
開設したところで、来訪者が少なく、そのうちに自身が書き続けられるか、と自問したのである。

こうした折、ブログ、ブログに準じた簡素なホーム・ページのブログを知ったのである。


ブログの場合は、匿名が圧倒的に多く、ある程度の心の節度があれば、
公表できる利便性の要素が十二分ある。

新聞、雑誌の投稿には、それぞれの発行元の編集部などの見解のもとで、掲載が決められている現状であるが、
このブログの場合は、ある程度の節度があれば、何の制約も無く、
その方の自身の政治・外交・政治・軍事・社会・宗教・文化等の分野の思いでも、自在に公表できる。

そして一旦発信されたならば、当人が削除しない限り、
この星の下で存在し、ある一面、怖いところも付随するが、読まれるか、無視されるかは別問題として、
確実に残るのである。


何よりも誰にしても、ある程度の知識があれば、どのような日常生活を綴っても、
自己の存在感を提示できる世界がブログ、と思ったのである。


ここで思い出したのであるが、私が15年前頃、腰痛が酷く、救急車にお世話になり
3度目の入院となり、徹底的に治療に専念しょうと観念し、1ヶ月近く、入院していた時であった。

病室のベットに休んでいても、周囲の社会は順調に動いて、
自分の存在は一体どこにあるのか、ということであった。

私はこの時、シンガーソングライター中島みゆきを熱愛していた時期で、この中で特によく聴いた曲がある。
ベットの中で、腰を牽引しながら、CDウォークマンで何度も聴いたりしていた・・。
慰め、救い、そして再起への励みを頂いた曲を転記させて頂く。


       『永久欠番』   作詞・作曲  中島みゆき

♪どんな立場の人であろうと
 いつかはこの世をおさらばをする
 たしかに順序にルールはあるけれど
 ルールには必ず反則もある
    街は回ってゆく 人一人消えた日も
    何も変わる様子もなく 忙しく忙しく先へと

 100年前も 100年後も
 私がいないことでは同じ
 同じことなのに
 生きていたことが帳消しになるかと思えば淋しい
    街は回ってゆく 人一人消えた日も
    何も変わる様子もなく 忙しく忙しく先へと
    かけがえのないものなどいないと風は吹く

 愛した人の席が からっぽになった朝
 もうだれも座らせないと
 人は誓ったはず
 でも その思い出を知らぬ他人が平気で座ってしまうもの
    どんな記念碑(メモリアル)も 雨風にけずられて崩れ
    人は忘れられて 代わりなどいくらでもあるだろう
    だれが思い出すだろうか
    ここに生きてた私を

    100億の人々が
    忘れても 見捨てても
    宇宙(そら)の掌の中に
    人は永久欠番
    宇宙の掌の中
    人は永久欠番


この中島みゆき・女史は、私にとってこの星の下での女神である確信し、
現在でも、希有な存在感を提示できる人であり、敬愛をしている。

・・】

このような歌詞の転載がもとより著作権に抵触するかは解からなかったが、
自己存在の証(あかし)の思いが強く投稿したのである。


私はこの投稿文を深夜に読み返し、自身の定年後の心の思い、揺れを振り返ったりした・・。


私は定年退職するまでは、何かと屈折と劣等感の多い人生を過ごしたのであるが、
この地球に生を受けたひとりとして、私が亡くなる前まで、
何らかのかけらを残したい、と定年前から思索していた。
あたかも満天の星空の中で、片隅に少し煌(きらめ)く星のひとつのように、
と思ったりしたのである・・。

私はこれといって、特技はなく、かといって定年後は安楽に過ごせれば良い、といった楽観にもなれず、
いろいろと消却した末、言葉による表現を思案したのである。

文藝の世界は、短歌、俳句、詩、小説、随筆、評論などの分野があるが、
私は無念ながら歌を詠(よ)む素養に乏しく、小説、評論は体力も要するので、
せめて散文形式で随筆を綴れたら、と決意した・・。


私は若き日のひととき、映画・文学青年の真似事をした時代もあったが、
定年後の感性も体力、何よりの文章の表現力も衰えたので、ブログ、ブログに準じたサイトに加入し、文章修行とした。

そして多くの方に読んで頂きたく、あらゆるジャンルを綴り、真摯に綴ったり、ときには面白く、おかしく投稿したりした。
そして苦手な政治、経済、社会の諸問題まで綴ったりしたが、
意識して、最後まで読んで頂きたく、苦心惨憺な時も多かったのである。


私の最後の目標は、人生と文章修行の果てに、
たとえば鎌倉前期の歌人のひとり鴨長明(かもの・ちょうめい)が遺され随筆の『方丈記』があるが、
このような随筆のかけらが綴れれば、本望と思っている。


このような思いが、つたないなりに私は秘めたりしているので、
日々に感じたこと、思考したことを心の発露とし、
原則として国内旅行で自宅を留守にしない限り、毎日数通ぐらいは投稿している。

そして、何より肝要なことは、人それぞれ光と影を持ちあわしているので、
つたない私でも、ささやかな光、そして秘められた影を余すところなく綴るのが命題と思ったりしている。


このような身過ぎ世過ぎの年金生活をしながら、
言葉による表現、読書、そして思索の時間を過ごしたりすると、
私にとっての年金生活は暇、安楽というのは死語である。

長々と綴ったりしたが、最後に信愛している中島みゆき女史に敬意し、
『HAFE』、『エレーン』に続き、最も感銘している『永久欠番』を掲げることにする。

この『永久欠番』は、『歌でしか言えない』と題されたアルバムの中で、
6曲目に選定された曲で、1991年10月23日に発売され、私の人生観に影響を受けた稀(まれなアルバムのひとつである。

【YouTube】に投稿されたお方の中で、特に魅了された方から拝借させて頂く。

http://www.youtube.com/watch?v=720iyPtOQRc
☆【『永久欠番』 作詞、作曲・中島みゆき、編曲・瀬尾一三、唄・中島みゆき】☆

・・】

このような思いで私の命が果てるまでの命題を綴っていたあるが、
この上野千鶴子氏の思考の言葉
《・・
不滅のモニュメントや歴史を超えて名を残したいと思うひとびとの気が知れない。
生きているあいだによほど不完全燃焼感があったのだろうか、と同情してしまう。
・・》

私は深く受け止めながら、考えさせられたりしているのである・・。
文才もなく、何かと屈折と劣等感の多い私にとっては、途方もない高望みだったのかしら、
と思ったりした。
そして、生きがいとしてきた散文の綴りなどを断念し、安楽な年金生活に甘受した方が限りなく楽だし、
とも思ったりしたりした。

しかし、難問を乗り越えてこそ、私なりの残され人生がある、と思えたりした。

果たして・・と深くため息を重ね、ここ一週間が過ぎている。




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穀雨(こくう)の時節を迎え、私はぼんやりと・・。

2010-04-20 07:11:58 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが.
過日の17日より『おひとりさま』を過ごし、何かと平素の時間帯から乱れているので、
ふたたび早寝早起き元気な児に復帰しょうと、
10時過ぎに布団にもぐり、一時間ばかり読書をした後、寝付いたのである。

今朝、5時過ぎに目覚めて、30分ぐらいした後に、玄関の軒下で煙草を喫ったりしていると、
曇り空の中で雨の匂いのような空気につつまれたを感じ、どうしたの、
と私は空を見つめたりしていた。

居間に戻り、カレンダーを見たら、『穀雨(こくう)』と明記されて折、
私は微笑みがら地元の天気情報をネットで検索したりした。
朝の6時は12度、昼下がりは16度前後、夕方の6時は13度前後で、
曇り空から午後3時過ぎに小雨が降る、と明示されていた。

そして明日以降から23日の金曜日までは、曇り時々雨が多く、
私は苦笑しながら空を見つめたりしていた。


過日の17日の土曜日は41年ぶりの季節はずれの小雪が舞い、
一昨日の18日、昨日の19日は春めいた陽気につつまれて穏やかな陽射しの中で過ごせたのであるが、
ここしばらくは、陽射しからさよならかょ、と私は心の中で呟(つぶや)いたりしていた。


もとより穀雨の時節は、暖雨にうるおい百穀生じ育つ、と古人からの伝えられているので、
私は幼年期に農家の児として育った体験からして、
農作物は陽射しと雨と土で育つと固く信じているので、昨今の天上の気候の神々の余りにも酷いたわむれで、
野菜の高騰のニュースを視聴したりすると、苦笑するひとりである。

そして農作物に従事される労苦の多い農家の方たちのお陰で、
穀雨の時節が過ぎ、農作物は育ち、やがては野菜の収穫となり、
買物担当の私はスーパーの野菜売り場で新鮮な品にめぐり逢える楽しみとなるのである。
こうしたことをぼんやりと曇り空を見つめながら、思い馳せたりしている。

尚、サラリーマン育ちの家内は野菜は高いわねぇ、と時折云ったりすると、
薬などのビタミン剤を飲むより、野菜の方が遥かに廉(やす)いし、美味しい上、何よりも心身健全である、
と農家の児だった私は明言している。


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ふたたび、年金生活の私が『おひとりさま』の日々となり・・。

2010-04-19 09:44:33 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり、
家内は家内の母とふたり旅で、過ぎし17日より24日まで広島市内と四国の道後温泉に訪れている。

私達夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であるが、
独り住まいの家内の母の要望である広島にある『平和記念資料館』を訪れたりし、
家内は33年ぶりぐらいの母娘の旅行となっている。

そして過日の7日から11日まで家内は独り住まいの家内の母宅に大掃除で行ったりしていたので、
私は再び『おひとりさま』の生活となってしまったが、
家内が作ってくれた料理、スーパーのお惣菜コーナーの売り場で、適度に選定し、食べたりしている。

そして、日付別のメモ用紙に書いたりして『燃えるゴミ』、『燃やせないゴミ』、『ペットボトル』、『古紙』などの日と、
市から指定された場所に出したりしているが、
私は家内の留守のを幸いに、更にぐうだらな日々を過ごしたりしている。

たまたま昨日などはスーパーで買物したりし、この間の大半は読書と昼寝、
深夜には映画のビデオを観たりしていた。

読書に関しては、斎藤明美・著の『高峰秀子の流儀』(新潮社)を読み終わった後、
書棚から高峰秀子さんの随筆の文庫本を取り出して、再読したりしていた。
『コットンが好き』、『おいしい人間』、『にんげん住所録』である。
そして、肝要の『わたしの渡世日記』の単行本は、
家内の父が生前に我が家に来宅した時に、差し上げてしまったので、
駅前に行った時に文庫本を買い求めて、再読しょうかしら、と思ったりしている。

映画に関しては、何を観ようかとビデオ棚の前にたたずんで、
五分ほど迷った結果、『マルサの女』(1987年)となった。

そして、定年退職後の日々の定例事項となっている、このサイトに投稿文を綴ったり、
ときおりテラスに下り立ち、庭の新緑の樹木を眺めたりして煙草を喫ったりしていると、
ぐうだらな生活をしていても、一日が過ぎるのが早く、ため息をしたりしている。




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久方(ひさかた)に、母と娘のふたり旅は・・。

2010-04-18 11:49:57 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり、
昨日の早朝、家内が旅立つので、4時に起きだした。

家内は家内の母とふたりの旅行であるが、広島市内に3泊した後、四国の道後温泉に4泊する旅行で、
昨年の年末に家内の母が我が家に来宅し、滞在した6日間のひとときに決めたことである。

家内の母は私より14歳ばかり齢上の高齢者であり、かの太平洋戦争の時は旧制・中学生であり、
この当時として数多くの人と共に軍事工場などで、従業されられていた・・。

ここ五年ばかり、生きているうちに観たい、という念願に基づいて、
沖縄の『ひめゆりの塔』、『平和の礎』のある『平和祈念公園』』、鹿児島の知覧にある『特攻平和会館』、
長崎の『長崎原爆資料館』などを私たち夫婦は共に訪ねてきた。

今回は広島の平和記念公園内にある『平和記念資料館』となり、
おかあさん・・女子挺身隊のようだね、と私は笑いながら家内の母に云ったりした。

沖縄、長崎、広島・・そして敗戦記念日は私はひとつの深い命題であるが、
家内達は予備知識さえも調べず、ただ観て感じる、ことに私は困ったりしていたので、
事前に書物とか参考なる資料を手渡してきたが、読んだ気配もなかったのである。

私は巡礼のような慰霊の旅かと思ったりしてきたが、観光めぐりのように思えて、
目的の定まらない旅行に感じで、今回の旅行に関しては辞退したのである。


私は早朝の4時過ぎに玄関庭の軒下で煙草を喫いながら、
霙(みぞれ)まじりの雨を眺めたりしていた。
私の住む地域では、昨日からの小雨が降ったり止んだりし午前中には雨が上がると予測されていたが、
霙(みぞれ)かょ、と季節はずれの天上の気候の神々のたわむれに驚いたりした。

居間に戻り、家内に、
『霙(みぞれ)まじりの雨・・やみそうもないよ・・
僕たちの旅行を通しても・・旅立つ日に雨が降り続けているのは初めてだねぇ・・』
と私は云ったりした。

そして前日にキャリアーカー(引き車)の大きめの旅行バックを最初に訪れる広島のシティホテルに送付していたので、
『旅行バック・・送ってて正解だったねぇ』
と私が過日の3日前にしぶる家内を説得して、宅配便で送付する提案をしたので、家内は微苦笑していた。

この後、再び玄関の軒下に下りれば、霙(みぞれ)まじりの小雪のように舞い降っていた・・。


私は家内をバス停まで見送る為に、5時45分過ぎに自宅を出たのであるが、
霙(みぞれ)まじりの雨となり、歩道はシャーベットのように滑りやすい雪の解けた状態であった。

『おかあさんと・・羽田であった後、待合所から電話を頂戴ね・・』
とバスを待っている時に私は家内に云ったりした。

私達夫婦は家内の母と羽田空港からの旅立ちの時は、
京浜急行の『羽田空港前』のプラットフォームのベンチで待ち合わせ、
その後は搭乗口に近い待合所でゆっくりと待機しているのが通例であった。

まもなくタクシーの空車が見えて、私は手を上げてタクシーを停車させた。
そして、家内の乗せたタクシーが遠ざかった後、
私は自宅に戻り、雨戸を明け、ガス・ファンヒーターを点けて、居間だけを暖房したのである。


8時20分過ぎに家内から電話連絡があり、
『母と娘の口げんかはよいが・・お互いに足などに捻挫だけは注意した方がよいよ・・』
と私は最後の言葉として、家内に云ったりしていた。

その後、9時過ぎに雨は上がり、そして明るくなり、
私はテラスに下り立ち、庭の白いベェールのような淡い雪を眺めたりしていた。

そして、まもなくして陽射しが射しこんで、空は青さを増してきた。
何気なし庭を眺めたら、白いベェールの情景は消え、しっとりとした黒い地表となっていた。

私はこのような情景を見ながら、
お母さんと遠い所に行くのは、これが最後だわ、あとは私達と一緒にいつものように温泉滞在旅行にするわ、
と家内が私に一ヶ月前に云ったりしたことを私は思い出したりしていた。

そして、家内の父が健在していた時、ときおり私達夫婦は家内の両親と旅行をしてきたことを想いだされたりした。
その後、確か家内の母とふたりだけの旅行は、私達が結婚して一年近い時に、
日光の奥地にある湯元温泉に宿泊しながら、1泊2日の短き旅行を楽しんだのは、
33年ぶりかしら、と思ったりしたのである。

家内は60歳の年金受給者の身となり、家内の母は80歳の迎えようとしている後期高齢となるが、
過ぎさる歳月は余りにも早く、果たしてこれからの残された人生は・・
と微(かす)かに風が吹き、庭の樹木の枝葉を揺らすのを長らく私は見つめたりした。



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ソフトバンク、音楽事業参入の私なりの思いは・・。 【下】

2010-04-17 14:11:12 | 時事【政治・経済】等
              最終章

読売新聞・経済部の三宅隆政、山本貴徳の両記者に寄る昨今のレコード業界については、
昨年の2009年11月4日に於いて、

《・・
JVC・ケンウッド・ホールディングスが音楽ソフト事業の売却方針を固めたのは、
CDやDVDなどの音楽ソフト市場は今後も縮小し続けると判断したからだ。

音楽ソフトの生産額は、1998年の6074億円をピークに年々減少し、
2008年は3617億円と10年連続で前年実績を下回った。

人口減少に加え、インターネットを通じて端末携帯に曲を贈る音楽配信が、
急速に普及しているためだ。

一曲単位で購入できる音楽配信が手軽さで人気を集める一方、
CDアルバムの購入者を減らし、単価下落を招いている。
好みの多様化でミリオンセラーとなるヒット曲も減り、音楽ソフト市場は行き詰まり状態にある。

日本コロムビアが2001年、米投資ファンド傘下に入ったほか、
ソニーが2008年に独メディア大手との合弁会社BMGを完全子会社化するなど、
業界再編が加速している。
「国内では、数社しか残らない」(業界関係者)とする見方も出ている。

・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。


このように掲載されている記事は、確かに正鵠な記事である。

私が定年退職した2004年(平成16)年の秋であるが、
この数年前の頃から、携帯電話による音楽有料配信が急速に伸び、更に音楽ソフト商品が低下してきた時代であった。

そして定年の数年後、私さえ、何気なしに最近の音楽を視聴する為に、
【YAHOO! JAPAN】の音楽無料の動画サイトで、
コブクロ、GLAY、徳永英明、セリーヌ・ディオン等の歌の数々を10数曲を視聴した・・。

この無料でプロモーション・ビデオのような曲を視聴できるので、
最初の頃の私は驚きながらも、びっくりするほど享受できたのである。

少なくとも10数年前の頃であったならば、
音楽CD、DVD、ビデオ・テープの販売店で、プロモーション・ビデオが店の一角で映し出されていたが、
現世は簡易にネットで自分の好みの曲を選定し、ある程度視聴できるので、
時代の流れにため息をしたりし、視聴していた。


その後、まもなく、遅ればせながら世界中の話題と数多くの方たちが利用している【YouTube】を見て、
それぞれジャンルでどこまでの範囲が視聴できるのか、
と若き頃の私はシャンソンの世界にに魅せられていたので、試してみたことがあった・・。


たまたま検索項目を《 シャルル・アズナヴール 》とキーインしたのであるが、
『イザベル』、『ボエーム』、『愛のために死す』などの名曲が、
当然フランス原語で表示されていたが、仰天し、小躍りしたり、ため息をしながら聴き惚れたのである。

この後、エディト・ピアフの歌声が聴きたくなり、
『水に流して』などを聴いたりしたが、『愛の賛歌』を聴いた後、
確か美空ひばりさんも唄っていたと思いだし、美空ひばり、とキーインし、
このお方の『愛の賛歌』が表示されて、仰天さたのである。
そして、この【YouTube】は、無料でも視聴できる制度の上、ほぼ何でも有りの世界、に驚いたのである。


こうした結果、私は 【YAHOO! JAPAN】は、あくまでレコード会社が広告宣伝の一環として、
プロモーション・ビデオの代わりに公開したのであって、ある程度は制約されている。

しかし、【YouTube】は利用者の投稿に寄り、ほぼ無制限の世界であるので、
まさにレコード業界の各社がこれまで培ってきた数々の曲が、利用者は無料でも視聴できるので、
まさにパンドラの箱が開けられた、確信させられ、痛感したのである。

そして音の多少の劣化を問わない数多くの人たちは、【YouTube】を利用し、
驚異の伸びとなっているのが現状でもある。


こうした中、従来の音楽ソフト商品は低下を重ね、
大型販売チェーン店のタワーレコード、HMVなどは資本元が代わったり、
或いは新星堂、すみやのようなチェーン店さえも、経営合理化として希望退職制度が行われてきた。

この間、肝要のレコード会社は各音楽配信会社への許容範囲を拡大したり、
不法な音楽配信、利用者に悩まされたりしながらも、
単に音楽そのものを製作・販売するだけでなく、契約したアーティストのグッズ商品などで分野拡大を図ったりし、
あらゆる面の音楽活用を模索しながら、一部は実施している。


さて、今回のソフトバンクの『ビクター』、『テイチク』の両レコード会社の買収により、
音楽事業参入を図り、《魅力的なサービスやコンテンツを配信して収益を得るモデル》を目的とされる命題で、
従来に試みてきた数々のレコード会社の手法に、新たなソフトバンクの斬新なネットの活用世界を展開して、
この音楽業界に大いなる新風をもたらすことを期待している。

そしてJVCは、映像関連機器に経営資源を集中するため、やむえず音楽部門を売却される、と読んだりしているが、
私が勤めていたポリグラムの資本主はオランダのフィリップスであったが、
10数年前に半導体に経営資源を集中させる為に、音楽部門のポリグラムをカナダのシーグラムに売却し、
フィリップスが復興したことがある。

こうした確かな企業の事例もあり、より奮闘して復活を期待している。


このように思いつくまま綴ってきたのであるが、
かってレコード会社の片隅に35年ばかり勤めたひとりの戯言と解釈して頂ければ、幸甚である。


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ソフトバンク、音楽事業参入の私なりの思いは・・。 【中】

2010-04-17 11:13:08 | 時事【政治・経済】等
             第1章

私は東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年に大学を中退し、
アルバイトをしながら映画・文学青年の真似事をしたが、
30代の頃に妻子を養なって家庭生活を思い浮かべると、とても過ごす自信もなく、あえなく挫折した。

やむえず人生軌道を修正し、この当時も民間会社は新卒が最優先の時代であったので、
何とか大企業に中途入社する為に、
ひとつの手段としてコンピュータの専門学校に入学したのは1969(昭和44)年の24歳の時であった。
たった一年ばかりソフト学科を学び、近所の家電販売店の紹介で、
ある大手の音響・映像の会社の首脳陣のお方を知った。

日本ビクターという会社で、中途入社の募集があり、確か経理、情報分野の要員であった。
私はこのお方のご尽力もあり、入社試験、そして面接を二回ばかりした後、ほぼ内定となった。

この当時の日本ビクターは、確かビジネス週間誌『ダイヤモンド』で、
民間企業の申告所得ベスト100位以内に常連する大企業であり、
私は内定する直前、このお方から会社に来るように云われた。

私は大企業の重役の役員室は生まれて初めての上、内定の確定ができるかどうかの瀬戸際であり、
この頃は私は一般社会の常識も殆ど無知で、向う気の強かった私も緊張した。
『情報畑も良いけれど・・経理畑はどうかしら・・』
とこのお方は柔らかな視線で私に云った。
『経理関係は・・不得意の分野でして・・』
と私は云った。

このお方にしてみれば、事業本部単位の独算採算制が経営方針のひとつでにあり、
経理本部は昇進などで何かと有利と聞いたりしていたので、ご好意の上、私に云ったのである。

『私は情報分野でも苦手で・・できましたら音楽事業本部に入れれば、最も嬉しいことでして・・』
と私は厚かましいことを懇願して、このお方に申し上げたのである。

『君がどのように想像しているか解からないが・・決して華やかな分野ではないょ・・
音楽の管理畑でいいねぇ・・』
とこのお方は私の要望を受け入れて下さった。

私はハード製品のテレビ、ステレオ、ラジオなどの事業本部より、ソフト商品の方が波長に合い、
同じ働くなら音楽事業本部の方が何かと刺激があると思い、無理難題を申しあげたのである。

このような状況で何とか日本ビクターに中途入社が出来たのは、1970(昭和45)年4月であった。

私は本社に初出社後、音楽事業本部の見習い社員となり、
ともかく現場を学べと指示されて、いきなり横浜工場にある商品部に配属となった。
隣接した製造部でレコード、カセット、ステレオ8(エイト)の商品を製造された後、
商品部は受け取り、商品の中央拠点として、各営業所の商品在庫までコントロールする部署であった。

この当時の音楽事業本部は、レコード市場に於いて、圧倒的な首位の座であった。
本体のビクターレコードの森進一、青江三奈、RCAレコードで内山田洋とクールファイブ、藤圭子、
フィリップスレコードからは森山良子などが、ヒットを多発していた。

私は入社早々、森進一、青江三奈などの曲名も知らず、
君は何も知らないんだねぇ、と上司たちは私の音楽に無知にあきれていた。
やむえず私は退社後、自宅の近くのスナックでジュース・ボックスで、ビクターの販売している歌手の曲を学んだり、
そしてクラシックに関する知識の一環として、音楽月刊雑誌の『レコード芸術』を読みはじめたのである。

数ヶ月した頃、フィリップスレコードが外資の要請により、レコード会社として独立すると知ったのである。
この当時、数年前にCBSがソニーと折半でCBS/ソニーのレコード会社が設立され、
外資の資本参加のはじまりでもあった。

私はこのフィリップスレコードが独立した日本フォノグラムというレコード会社に転籍の辞令を受けて、
レコード会社はすべて中小業であるので、何かと苦楽の大波、小波をまともに受けたのである。

こうして新レコード会社で商品管理の現場を学び、
半年過ぎた頃に中途入社の対象の正社員登用の3泊4日の研修を受けた後、
翌年の1月中旬に本社のコンピュータ専任者の辞令を受け、私なりに奮闘がはじまったのである。

システムの運用、開発に関しては、既にビクターの音楽事業本部の情報関係者で完成していたので、
枝分かれのように部分独立させて、私は企業システムの運用に未知、不慣れもあり、
この情報関係者の先に出向き、教示して頂き学んだのである。
このような関係でビクターの音楽事業本部の本社の要員と業務上で、交流を重ねたりした。

こうした中で、改めて企業のサラリーマンは、甘くないと悟ったのである。
一人前の企業戦士になるために、徹底的に鍛え上げられる中、私なりに孤軍奮闘したりすると、
休日に小説の習作をする気力もなくなったのである・・。


          第2章


まもなくビクターの音楽事業本部もレコード会社として独立し、その後RCAレコードも分離独立したので、
ビクターのレコードはCBS/ソニーに首位の座を明け渡し、その後も長期に及びCBS/ソニーの独走となった。


こうした中で、独立したビクター、RCA、私が勤めたフォノグラムは、
日本ビクターからの資本関係の比率は多少は違いがあったとしても、
兄弟会社のような存在となり、共同システムを開発しあったりし、お互いに交流を重ねたりした。

そして各レコード会社の情報責任者が集結した日本レコード協会の情報システム部会などで、
業界としての共通のシステム考案し協議したり、研修旅行なども毎年一回を繰り返し、
各社の情報責任者とも淡き交流を重ねていた。

こうしている中、勤めているフォノグラムは業績に低迷し、経費削減のひとつとして、
情報処理をビクター情報センターに委託を止めて、自社で完全処理体制を命じられ、
私は数名と共に互いに奮闘したのである。
ソフトの基幹の開発は外部のソフト専門会社に委託したので、
プロジェクトを作り、管理の説明、そしてシステムの協議し、オフコンの大型を導入してもらい、
検証処理を繰り替えたりすると、結果としては日曜日だけは休日にしょう、と私は苦笑しながら云ったりした。

ある日、テスト処理をしている深夜、私はビルの外階段の踊り場で、
煙草を喫いながら六本木から観る防衛庁の非常灯を通して、青山ツィンタワーを観たりすると、
ワーナー・パイオニアの入居しているビルであり、
あそこの会社は7名で情報部隊で編成しているが、我が社は3名かょ、
とレコード会社の格差を深く感じたりしたのである。
       


         第3章

私が勤めていたフィリップス・レコードを主体する日本フォノグラムは、
外資はアメリカのCBSとソニーで折半としたCBS/ソニーに続いて第二番目となり、
オランダのフィリツプス50%、日本ビクター40%、松下電器10%との資本構成で通産省から認可され、
1970(昭和45)年の6月に設立された。

そして1972(昭和47)年の1月に於いては、欧州本土の二強であるオランダのフィリツプスと西ドイツのシーメンスが、
イギリスのEMIに対抗するために音楽分野で合併して、ポリグラムを設立した。

日本でのシーメンスはポリドール、フィリップスはフォノグラムであり、
お互いに二頭立てのような馬車のように競争させられたが、
しばらくの年月は私達のようなレベルでは、お互いに交流はなかったのである。

1980(昭和55)年4月に於いて、東芝EMIに所属していたアリスが脱退し、
アリスのヤング・ジャパンがポリグラムと折半で、ポリスター・レコードを設立した。
そして販売受託は私達のフォノグラムが担当し、製造はポリドールがした程度であった。

その後、日本市場に於いて、ポリドールが業績が低迷となり、
日本の筆頭株主の富士電機が1983(昭和58)年の10月前に日本ビクターに譲渡した後、
日本ビクターはポリドールの再生を図る為に、私達のフォノグラムをポリドールに販売委託させたのである。

私は自社の独自システムを完成してまもない時に上層部の人から指示され、
ポリードルに販売委託する管理面に関する対応をし、
初めて具体的にポリドールの管理畑の主要の方たちと対応協議を重ねたのである。

私達のレベルにおいては、ポリドールとフォノグラムの合体のポリグラムとして本稼動をするのかしら、
と期待をしていたのであるが、実際に本稼動をしたのは10年後の1993(平成5)年の4月からであった。

この10年間に於いては、ポリドールは新生となった社長のもとで、
受託販売を成功を重ね、大幅に成長し、そして日本ビクターの株主率を低下し、やがて外資100%に変貌をした。
この少し前、私達のフォノグラムも外資100%となったりしていた。

このポリグラムが本稼動をしたのは1993(平成5)年の4月からであり、
私達のフォノグラムはポリトールと合体したのであるが、
実質はポリドールが圧倒的に販売額が大きく、組織、社員数も大きくポリドールに吸収合併されたのが実態である。


          第4章

やがて私達はポリグラムの一員としてお互いに健闘していたが、
その後まもなく社長が交代され、自社の邦楽強化、管理体制の強化で首脳陣も大幅に改定され、
外資のメジャーにふさわしい会社に大きく変貌をした。

その後、ポリグラムがカナダの洋酒を主体とするシーグラムに買収をされた。
このシーグラムの傘下にMCAレコードがあり、成長が望まれる音楽市場の強化が目的であると、
私達は知らされたのである。
MCAレコードはユニバーサル・レーベルなどのを管轄され、
日本の市場に於いては、日本ビクターがMCAと合弁で、MCAビクターのレコード会社を設立していた。

こうして私達がシーグラムの傘下としてポリグラムに勤め、MCAレコードの取り扱いの中、
両者の互いの戦略の合意として、ビクター音産の改称後のビクター・エンタティメントにポリグラムは販売委託し、
ポリグラムはMCAレコードを傘下に収めた。

その後は、肝要のシーグラムをフランスのビバンディが買収し、まもなくユニバーサル・ミージックと改称した後、
再び私たちは自社で販売網の体制として、今日に至っている。

こうした株主の変貌で、私達はポリグラムからユニバーサル・ミージックに変化したのであるが、
この音楽業界を取り巻く環境が、この15年間で大幅に変化したのである。


このことは図らずも読売新聞の経済部の記者にご指摘されたとおり、
《・・
音楽ソフトの生産額は、1998年の6074億円をピークに年々減少し、
2008年は3617億円と10年連続で前年実績を下回った。

人口減少に加え、インターネットを通じて端末携帯に曲を贈る音楽配信が、
急速に普及しているためだ。

一曲単位で購入できる音楽配信が手軽さで人気を集める一方、
CDアルバムの購入者を減らし、単価下落を招いている。
好みの多様化でミリオンセラーとなるヒット曲も減り、音楽ソフト市場は行き詰まり状態にある。
・・》

レコード業界は、業界全体の売上げピークは1998(平成10)年で、
デパート業界と同様にかげりが見え、
この前後に各社が社内業務の見直し、組織の大幅な改定、グループ会社内の統廃合、
そして資本による合併などが行われたりした。

これに伴ない、正社員のリストラが行われ、人事配置転換による他部門の異動、出向、
早期退職優遇制度により退職が行われた。

先輩、同僚、後輩の一部の人が、第二の人生を選択し、早期退職優遇制度に申請を出されていたが、
私は定年まで勤め上げる思いが強くあったので、彼等の決断を見送っていた。

その後、私が人事担当の取締役から、出向の話を打診された時、
私は出向を受け入れ、取引会社のひとつに勤めはじめた。

出向先は神奈川県の東名高速道路に隣接した所にある物流会社の本社であり、
日本レコードセンターという会社である。
この会社は日本ビクターの資本が中核となり、私が入社直後に勤めた商品部が母体となり、
各レコード・メーカーの協業として、音楽ソフトの商品を全国に保管はもとより、
音楽ソフトの販売店などに物流する専門会社であった。

音楽ソフト商品のレコード、カセット、CD等、映像商品としてビデオテープ、DVD等を運営管理している。
そしてそれぞれの物流センターは、
販売店からの日毎の受注に応じた出荷や返品を含めた商品の出入り、保管などの業務管理を行っている。


私はこの中のひとつのユニバーサル商品の専用の物流センターに通ったが、
センター長をはじめとする正社員の5名の指示に基づいて、
若手の男性の契約社員、アルバイトの10名、
30代と40代の多い女性のパートの100名前後の職場であった。

私は、このセンターで歓迎会をして頂き、
『鮭(サケ)が生まれた川に再び戻るように・・
音楽ソフト商品を取り扱う物流商品センターに・・30年ぶりに戻りました・・』
と照れながら挨拶をしたりした。

そして5年後、私はこの出向先で定年退職をしたのは、2004(平成16)年の秋であった。


私は大手、中堅のレコード会社の体験を時代の変貌と共にしながら、
ある時は障害レースのようにくぐり抜け、数多くの人とめぐり逢い、別れも告げたりしてきた。
そして、この間に満天の星空のように音楽の曲を知ったりした。

私はレコード業界の各会社はもとより中小業であり、
この勤めた35年の間でも、幾多のレコード会社の興亡もあり、つたない私は翻弄もされたが、
私は定年退職後は、更にレコード業界は激動な時代を加速していると知り、
私が勤めた時代は、確かに幸福な時代を過ごせた、と改めてかみ締めたりしている。


今回、日本ビクターが傘下の音楽ソフト専門会社であるビクターエンタティメントを売却する方針と知り、
私は何かとビクターエンタティメントにお世話になった身として、寂しく愛惜を重ねたりしている。

次回は私が定年退職後のここ5年前後の、私が感じてきたレコード業界の加速された激動な時代を綴る。


                             《つづく》



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ソフトバンク、音楽事業参入の私なりの思いは・・。 【上】

2010-04-16 18:18:36 | 時事【政治・経済】等
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
今朝、いつものように読売新聞の朝刊を見たら、2面の『総合』の記事のひとつとして、

《 ソフトバンク、「ビクター」「テイチク」買収
      音楽ソフト JVCと大筋合意    》

という見出しで、詳細記事が掲載されて折、
私のサラリーマン現役時代は、たまたまレコード会社に35年ばかり勤めていたので、
私なりに深く精読した・・。

この詳細記事に関しては、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】に同様な記事が掲載されているので、
無断ながら転載させて頂く。


     ソフトバンク、「ビクター」「テイチク」買収へ

音楽事業への参入を目指してJVC・ケンウッド・ホールディングスと交渉しているソフトバンクが、
JVC傘下の日本ビクターの音楽子会社2社を買収することで大筋合意したことが15日、明らかになった。
月内に発表する。
ソフトバンクは将来的に2社とも完全子会社化する方向だ。

ソフトバンクが買収するのは、「ビクターエンタテインメント」と「テイチクエンタテインメント」で、
音楽制作を手がけるグループ会社なども含む。

ソフトバンクは5月に2社の株式の過半数を取得する方向で、JVCと出資額などを最終調整している。
残りの株式も、年内にビクターから買い取る案が有力となっている。

ビクターエンタはサザンオールスターズやSMAPら、
テイチクは石原裕次郎、和田アキ子といった人気歌手の著作権などを、それぞれ管理している。


ソフトバンクの子会社でネット大手のヤフーは、
曲を紹介したりする総合音楽サイトを手がけ、映像配信サービスも提供している。
2社の豊富な音楽ソフトを活用すれば、ネットビジネスなど幅広い分野で相乗効果が期待できる。

ビクターエンタを巡ってJVCは、昨秋にもゲームソフト大手のコナミと売却交渉を行ったが、
金額面などが折り合わず破談になった。
JVCは、ビデオカメラなどの販売不振で業績が悪化しており、映像関連機器に経営資源を集中するため、
音楽事業の売却先を探していた。

(2010年4月16日03時07分 読売新聞)
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。

http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20100416-OYT1T00132.htm
☆【YOMIURI ONLINE】 ソフトバンク、「ビクター」「テイチク」買収へ☆


このように詳細記事を読みながら、過日の4月6日に読売新聞に掲載されていた記事も読んだりしてきた私は、
微苦笑もしたりしたのである。
この6日に掲載されて詳細記事に関しては、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】に同様な記事が掲載されているので、
無断ながら転載させて頂く。


     ソフトバンク、音楽事業参入でコンテンツ強化

ソフトバンクがビクターエンタテインメントに出資して音楽事業に参入するのは、
インターネットの配信ビジネスが急拡大する中、魅力的なコンテンツ(情報の内容)を充実させる狙いがある。

豊富な楽曲を手に入れ、NTTやKDDIなどライバルの通信会社との競争を優位に進める考えだ。

ソフトバンクは通信回線を敷設し、
通信料で収益を得るビジネスモデルから、魅力的なサービスやコンテンツを配信して収益を得るモデルに重点を移しつつある。

米アップルやグーグルと似た路線で、音楽事業への出資はその一環と位置付けられる。

ソフトバンクの携帯電話機には、インターネット大手ヤフーの携帯サイトにつながる専用ボタンがあり、
自社の携帯電話利用者をヤフーに誘導している。

そのヤフーは、楽曲を紹介したりする音楽サイトや、映像配信サービスを展開している。
自前で優れたコンテンツを持つことが、他の通信大手との差別化を進め、収益を高める武器になる。


一方で、JVC・ケンウッド・ホールディングスが、ビクターの音楽事業の売却を模索するのは、
業績悪化が深刻になり、赤字が続く非中核事業を抱えきれなくなっているからだ。

音楽事業を巡っては、昨年末にゲームソフト大手のコナミとの売却交渉が頓挫した際、
JVCは「中核事業として再建する」と説明していた。
しかしその後、ビデオカメラの販売が振るわず、不適切会計が発覚するなど、
投資家らの視線が厳しさを増し、再度売却を試みざるを得なくなった。

JVCは、ビクターとケンウッドが2008年に経営統合して発足したが、統合効果を発揮できていない。
統合前に2社で計約8000億円あった売上高は、09年度末には4000億円に半減する見込みだ。

また、音楽業界にとってもソフトバンクの動向は注目される。
音楽業界はユニバーサルミュージックやエイベックス・グループ・ホールディングス、
ソニー・ミュージックエンタテインメントの大手3社の市場占有率は計46%で、
ビクターエンタは第4位。

各社ともネット配信の拡大で収益は減る傾向にある。
ソフトバンクの参入が業界再編の呼び水になる可能性もある。

(三宅隆政、山本貴徳)

(2010年4月6日10時44分 読売新聞)

注)記事の原文にあえて改行を多くした。

http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20100406-OYT1T00340.htm?from=nwla
☆【YOMIURI ONLINE】 ソフトバンク、音楽事業参入でコンテンツ強化☆


この記事が読売新聞で掲載されていたが、肝要のJVC・ケンウッド・ホールディングスに於いては、
否定していた。
http://www.jk-holdings.com/press/2010/04/press_100406.pdf
☆JVC・ケンウッド・ホールディングス  4月6日 本日の一部報道に関して ☆

しかし、本日の16日の読売新聞の記事に関しては、交渉中を認めたような微妙な形で発表されたので、
ソフトバンクが、「ビクター」「テイチク」を買収し、本格的に音楽事業参入すると理解したのである。

http://www.jk-holdings.com/press/2010/04/press_100416.pdf
☆JVC・ケンウッド・ホールディングス  4月16日 本日の一部報道に関して ☆


私はこの報道された記事を読み、昨年の11月4日に読売新聞に於いて、
《ビクターが音楽部門売却として交渉先はコナミが最有力》
この記事を読み、深く注視してきたひとりである。

この時の思いは、このサイトに於いて、
【『ビクターが音楽部門売却へ』、私なりの深い思いは・・。】
と題して11月4日、5日の両日に3回にわたり投稿しているが、今回は大幅に加筆して、掲載をする。

【・・
   『ビクターが音楽部門売却へ』、私なりの深い思いは・・。
        
               序 章

私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
今朝、いつものように読売新聞の朝刊を見たら、一面のトップ記事に、

《 ビクターが音楽部門売却
         交渉先 コナミが最有力 》

という見出しで、詳細記事が掲載されて折、
たまたま私のサラリーマン現役時代は、レコード会社に35年ばかり勤めていたので、
私なりに深く精読した・・。

この詳細記事に関しては、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】に同様な記事が掲載されているので、
無断ながら転載させて頂く。



    ビクターが音楽部門売却へ…サザンやSMAP所属

電機メーカーの日本ビクターとケンウッドの持ち株会社「JVC・ケンウッド・ホールディングス」が、
ビクターの音楽ソフト事業をゲームソフト大手のコナミに売却する方向で調整していることが3日、明らかになった。

月内にも決定する。
消費低迷や音楽のネット配信の拡大などで、音楽ソフト市場は縮小傾向にあり、
今後も業界再編の動きが相次ぐ可能性がある。

JVCは、音楽ソフト子会社「ビクターエンタテインメント」株の過半数を売却する方向でコナミと交渉している。
JVCは、音楽ソフト大手のユニバーサルミュージックなどにも売却を打診した模様だが、
現時点ではコナミが最有力とみられている。

JVCは、売却益を映像関連機器など中核事業の強化に充てる。
一方、コナミは、ゲームソフトを中心に映像や音楽ソフト、携帯電話向け配信などの事業を展開しており、
買収が実現すれば幅広い分野で相乗効果が期待できる。

ビクターエンタテインメントは1928年に日本ビクターの音楽事業部門としてレコード生産を開始。
72年にレコード会社として分離された。
現在はサザンオールスターズやSMAPなど有名アーティストが多く所属している。

ただ、国内音楽ソフト市場でのビクターの占有率(シェア)は7%で、
ユニバーサルミュージック(16%)、
エイベックス・グループ・ホールディングス(15%)、
ソニー・ミュージックエンタテインメント(15%)の3強から
大きく離された4位にとどまっている。

JVCは、昨秋以降の景気悪化で業績が低迷し、
2010年3月期の税引き後利益が200億円の赤字となる見通しだ。
特に傘下のビクターは、欧州テレビ事業が縮小を迫られるなど業績落ち込みが深刻で、
立て直しが急務となっている。

◆JVC・ケンウッド・ホールディングス◆ 
日本ビクターとケンウッドが2008年10月に統合して設立した持ち株会社。
事業分野は音響・映像機器や車載機器、業務用無線機器、音楽ソフトなどで、
10年3月期連結売上高は4300億円の見込み。従業員は1万9540人(09年3月現在)。

(2009年11月4日03時25分 読売新聞)


注)記事の原文にあえて改行を多くした。


私は読売新聞の一面のトップニュースを精読した後、
《解説2面》と明示されていたので、この解説も深く読んだのである。

読売新聞・経済部の三宅隆政、山本貴徳の両記者に寄る解説記事である。
簡潔に音楽ソフトの実態を適切に纏(まと)め上げられた記事であり、無断であるが、転記させて頂く。

《・・
      音楽部門売却

副題には、ネット配信普及で市場縮小

JVC・ケンウッド・ホールディングスが音楽ソフト事業の売却方針を固めたのは、
CDやDVDなどの音楽ソフト市場は今後も縮小し続けると判断したからだ。

音楽ソフトの生産額は、1998年の6074億円をピークに年々減少し、
2008年は3617億円と10年連続で前年実績を下回った。

人口減少に加え、インターネットを通じて端末携帯に曲を贈る音楽配信が、
急速に普及しているためだ。

一曲単位で購入できる音楽配信が手軽さで人気を集める一方、
CDアルバムの購入者を減らし、単価下落を招いている。
好みの多様化でミリオンセラーとなるヒット曲も減り、音楽ソフト市場は行き詰まり状態にある。

日本コロムビアが2001年、米投資ファンド傘下に入ったほか、
ソニーが2008年に独メディア大手との合弁会社BMGを完全子会社化するなど、
業界再編が加速している。
「国内では、数社しか残らない」(業界関係者)とする見方も出ている。


注)記事の原文にあえて改行を多くした。


私はこの両記事を深く精読し、私も音楽ソフト会社に勤めた身であり、
音楽ソフト会社、この業界に私なりに深い愛惜の思いあり、次章から綴る。


                            《つづく》


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年金生活の無力な私でも、『鳩山首相』への思いは、軽蔑を深め・・。

2010-04-16 09:41:20 | 時事【政治・経済】等
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり、
昨夕、ぼんやりと読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】を見て憂いたのである。

無断であるが、転載させて頂く、

《・・
   「哀れでますますいかれた鳩山首相」…米紙酷評

【ワシントン=小川聡】
14日付の米ワシントン・ポスト紙は人気コラムの中で、
13日に終わった核安全サミットに出席した36人の各国首脳たちがオバマ米大統領との近さを競い合ったとしたうえで、
「このショーの最大の敗北者は断然、哀れでますますいかれた日本の鳩山由紀夫首相だった」と鳩山首相を酷評した。

コラムは看板記者のアル・カーメン氏の執筆で、
「首相はオバマ大統領との公式会談を望んだとされるが、
夕食会の席での非公式な会談が慰めとして与えられただけだった」と解説。

米政府のこうした対応の理由について、
「日米を分断している沖縄の米軍普天間飛行場問題を通じ、
鳩山首相はオバマ政権の高官たちに、信頼できないという印象を植え付けた」と指摘した。

さらに、「ますますいかれた」との表現は、「オバマ政権高官たちの評価」だとした。

一方で、「オバマ大統領と90分にわたって会談した胡錦濤・中国国家主席は、
勝者リストのトップに位置した」と指摘し、大統領が胡主席に握手をしながらお辞儀する写真を掲載した。

4月15日11時12分配信 読売新聞
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100415-00000362-yom-pol
☆【YOMIURI ONLINE】「哀れでますますいかれた鳩山首相」…米紙酷評☆


私は日頃からの思いは、
政権をになう最高権力者の首相は、多少の批判があっても独裁政権でない限りやむえないが、
軽蔑までされたら首相の座は終わりだ、
と確信しているひとりである。

私はこの記事を読み終った後、海外メディアさえからも、こうした冷笑された記事を読み、
日本人のひとりとして赤面したりした・・。

私は無力な年金生活で、もとより政治の世界に疎(うと)い身であるが、
黙認は賛意とみなす議会制民主主義の政治の怜悧な哲学あるので、
やむえず、日本人のひとりの有権者の責務として、ときおりこのサイトにも投稿している。

私は昨年の民主党が政権になり、ときおり『鳩山首相』の言動を新聞、雑誌で読んだり、
テレビのニュースを視聴した限りであるが、
あきれることが圧倒的に多いので、軽蔑の対象の人となっている。


このような心情になっているのは、このサイトに於いて数多く綴ってきたが、
何通かの投稿文を過去に遡って再掲載する。

2010年2月15日に於いては、
【 社民党の普天間移設に伴う、『期限付き九州北部案』、私は何よりも怖かった・・。】
と題して投稿している。

【・・
昨夜、ブログに準じたサイトのひとつの【OCN Cafe】の知人の投稿文に於いて、
このことを初めて知った。
そして詳細内容が知りたくて、たまたま時事通信社の基幹ネットの【時事ドツトコム】に掲載されていたので、精読したのである。

無断であるが、転載させて頂く、

《・・
    社民、期限付き九州北部案で調整=国民新にシュワブ陸上案-普天間移設

社民党は14日、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の新たな移設案として、
従来の米領グアムへの移設案に加え、
九州北部に5~10年の期限付きで移転する案を17日の沖縄基地問題検討委員会に提示する方向で調整に入った。

一方、国民新党は米軍嘉手納基地(同県嘉手納町など)への統合案に加え、
米軍キャンプ・シュワブ陸上部(同県名護市)への移設案を提起する方針を固めた。

両党関係者がそれぞれ明らかにした。
ただ、社民党内では、国内の地名を挙げれば支持者の離反を招きかねないとの懸念も根強い。
同党は国内への移設案を提示する場合、検討委員の「私案」と位置付ける方針だ。 

社民党は九州北部について、米海兵隊が遠征時に使う強襲揚陸艦の母港(米海軍佐世保基地)があり、
米側の理解も得やすいと判断。

具体的には海上自衛隊大村航空基地(長崎県大村市)や佐賀空港(佐賀市)などの活用を想定している。

ただ、同党はグアムや米自治領北マリアナ諸島のサイパン、テニアン両島への国外移設を最優先で要求。
九州に移す場合でも期限を設け、最終的にはグアムなどへの移設を目指す方針だ。

一方、国民新党が提示する嘉手納統合案とシュワブ陸上案には、地元の強い反対が予想される。
このため、同党は大村基地や陸上自衛隊東富士演習場(静岡県御殿場市など)、サイパン、テニアン両島などへの訓練移転も合わせて提案する。
(2010/02/14-15:10)
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。

http://www.jiji.com/jc/c?g=pol&k=2010021400108
☆【時事ドツトコム】 社民、期限付き九州北部案で調整=国民新にシュワブ陸上案-普天間移設 ☆


私は政治分野も疎(うと)い身であるが、今回の社民党の普天間基地移設に伴う『期限付き九州北部案』、
たとえ期限付きとはいえ、余りにも国民性の配慮に欠けた横暴な案に、
このような立案の発想が私には何よりも怖かったのである。

社民党の諸兄姉の議員は、日本の防衛の中の沖縄、そして普天間基地の移転問題を、
感情論でなく、国際の主要国のそれぞれの怜悧な国益を配慮した上で、
日本における国益とは何かを思考し、立案して頂きたいのである。


この後の私は、昨年の12月中旬から読んでいた読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】を思い出し、
改めて深く読んだりしたのであった。

そして普天間移設に伴う問題だけでも大人になりきれない鳩山首相を思い浮かべ、
もとより沖縄県民はじめ、日本の国民を思いながら、涙をぬぐったのである。


http://www.yomiuri.co.jp/feature/20091215-481540/news/20091216-OYT1T00537.htm
☆ 【YOMIURI ONLINE】 問題こじらせた首相…検証 特集 普天間 ☆

・・】



2010年1月30日に於いては、
【 鳩山首相の施政方針演説は、新興の宗教家のような発言・・!? 】
と題して投稿している。

【・・
昨夜、NHKのニュースで鳩山首相の施政方針演説を視聴し、私は少しボケたのかしら、と感じたのである。

恐れ多くも日本を代表する首相の施政方針演説とも思えず、
疲れ果てて寝言で云われたのか、或いは新興の宗教家のような独創性ある鳩山・新宗教家の発言かしら、
と思ったりし、困ったお方が政治の最高権力者の首相になられた、
と私は国民のひとりとして、憂(うれ)いたのである。


今朝、ぼんやりと読売新聞を読んでいたのであるが、
三面の政治面の記事を読み、《異色演説 驚く党内》の見出し記事を読だりしながら、
私は苦笑をしたりした。
そして、この首相の施政方針演説に関しての《社説》記事を読んで、
記事の途中から、思わず襟を正して、正鵠な論評をされる方もいる、と精読したのである・・。


この記事に関しては、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】に於いても、
ほぼ同一の記事が掲載されていたので、無断であるが転載させて頂く。

《・・
   施政方針演説 危機打開の決意が足りない(1月30日付・読売社説)


財政危機にも、政治倫理の問題にも正対せず、政策断行の優先順位も不透明だ。

鳩山首相の初の施政方針演説を要約すれば、そのようなことになろう。

首相は、演説の中で「いのち」という言葉を多用して「私の政治理念」を語った。
子どもたちの、働く人々の、地球の「いのちを守りたい」と言われて、
異論をはさむ人は、まずいない。

首相は、2010年度予算案について、「いのちを守る予算」だと強調し、
公共事業費の2割近い削減や、所得制限のない子ども手当の創設などを例示した。

しかし今、「いのち」を言うなら、
景気の二番底を心配したり、解雇の不安に苦しめられたりしている人々に、十分目配りする必要があったろう。

景気や雇用対策については、踏み込み不足は明らかである。

10年度予算案は、借金が税収を上回るという異様な予算だ。

だが、首相は、財政規律の確立への戦略はこれから策定すると言い、
社会保障費の安定財源として欠かせない消費税率引き上げについては、全く素通りした。

民主党が昨年の衆院選で掲げた政権公約(マニフェスト)は、
予算編成の過程で、一部修正に追い込まれている。
だが、その総括も、今後の公約見直しの方向性も、示されなかった。

これでは、有権者への説明責任を放棄したに等しい。
そこをあいまいにしていては、今後展開しようとする政策の中身も工程も、定められるはずがない。

こんな調子では、いくら「責任ある政治」の実践を唱えようが、説得力を欠いてしまう。


首相は、自らの資金管理団体をめぐる偽装献金事件に関して、改めて陳謝した。
ところが、小沢民主党幹事長の資金管理団体による土地購入事件については、言及しなかった。

これはおかしい。首相と小沢氏は、ともに政治不信を招いた重大な責任がある。
逃げの一手では、国民の理解は得られまい。


外交問題も心もとなかった。
米軍普天間飛行場の移設問題で、首相が5月末までの移設先決定を表明したのは当然だ。
だが、こじれた日米同盟関係の修復へ、不退転の決意を示すべきだった。

異色の演説は、首相なりの創意だろう。
だが、言葉だけが走って政策内容に明確さを欠いては、施政方針としては物足りない。
このままでは、内政も外交も混迷が避けられないのではないか。

(2010年1月30日01時30分 読売新聞)
・・》

注)記事の原文にあえて改行を多くした。

http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20100130-OYT1T00077.htm
☆ 【YOMIURI ONLINE】 施政方針演説 危機打開の決意が足りない(1月30日付・読売社説)☆


もとより世界の主要国は、外交、軍事、経済、微力な文化などを背景とした国益に基づき、
怜悧な国際政治が行われている中、
ぞれぞれの主要国も内外の諸問題があるが、特に日本は諸問題が山積しているので、
鳩山首相のような夢想家か、或いは新興の宗教家のような独創性ある鳩山・新宗教家のような言動には、
時間を無駄にお付き合いをしている猶予はないのである。

民主党の現政権は、実質は周知の通り、小沢一郎氏の下にあるので、
小沢一郎氏の責務として、鳩山首相を解任させ、
民主党の中で有力な前原誠司、野田佳彦、岡田克也の各三氏から首相として選定し、
早く正常な政権運営をさせるのが、日本国民に対する民主党政権の責務である、
と確信している。

このようなことを無力で政治に疎(うと)い私は、妄想か希望か判らないが、
ぼんやりと思ったりしているのである。
・・】



2009年12月10日に於いては、
【 『「オバマ」より「オバサン」を選ぶ』、思わず笑い・・!? 】
と題して投稿している。

【・・
今朝、いつものように読売新聞の朝刊を読んでいたら、
『「オバマ」より「オバサン」を選ぶ』と明記された見出しを見て、私は瞬時に微苦笑した後、
不謹慎ながら思わず笑いころげたのである・・。

この記事は、『週刊新潮』の12月17号の広告記事で、何かしら今週の特集として、
《 「日米同盟」壊滅の日 》
と題して、6つの記事が掲載された中のひとつに、

《『「オバマ」より「オバサン」を選ぶ
         福島瑞穂(少子化担当相)への妙な友愛 》

と題されたいた。

この見出しを私が読んだけなのである。

私は日頃から、週刊誌の記者の俊敏と英知に感心をしていたが、
こうした切れ味の鋭さを見ると、川柳などはたじたじかしら、と感じたのである。

今回の沖縄の米軍普天間飛行場の移転問題は、
もとより鳩山首相の決断不足が、こうした昏迷に至ったのである。


民主党と名付けられたクラスが、わんぱく坊主の威力で、
どのクラスより多い人数となり、ひときわ大金持ちの児を生徒会委員長に選んだ。
そして委員長は、わんぱく坊主の顔色をときおりうかがい、
隣の社民党、国民新党と命名された両クラスと仲良くしょうとしていた。

ところが社民党のクラスが、ご自分の信念を貫く為に、
連立で生徒会は成り立っているのよ、と錦の旗を振りかざして、委員長にせまったのである。
もとより社民党のクラスの生徒は意見がまばらで、信念を名目に統一した意見として、
せまっただけなのである。

私は少しボケた身ながら、このように妄想していたのである。

この後、この六つの特集記事の横には、
《「日本ルネッサンス 緊急提言
   「鳩山さん、日本を自滅させるおつもりですか」
                       櫻井よしこ 》
と明示された記事の見出しが掲載されていた。


私はかねがね『週刊新潮』は辛口の記事の多い週刊誌と知っていたけれど、
今週のメニューは激辛かしら、と無力な年金生活の私は思ったりしたのである。


尚、国際主要国はもとより怜悧な国益に基づいて、
外交、軍事、経済力などを背景とした政治が行われている今日、
鳩山首相は顔を洗い直して、早期に決断するのが何より肝要である。
・・】



昨年の夏に衆院選の前に、民主党の政権が実現した時、
多くの日本人を今より幸せに導かれるのか、と疑問に思いながら、
2009年8月23日に於いて、
【 『それでも私は、あえて自民党に投票する』・・!? 】
と題して投稿している。

【・・
(略)
・・
昨日の朝、いつものように読売新聞を読んだり、NHKのニュースなどで今回の衆院選を視聴したりしていたが、
『それでも私は、あえて自民党に投票する』と題して投稿文を考えたりしたのである。
多くのマスメディアが民主党の圧勝、と報じられる中、
果たして民主党の政権は多くの日本人を今より幸せに導かれるのか、と疑問視しているのである。

私は無念ながら政治の世界も疎(うと)く無力な年金生活のひとりであるが、
いたたまれず過日に投稿したことがある。

7月29日【年金青年、民主党の政権公約で危惧すること・・。】

8月11日【鈴木亘氏の 『「骨太2009」で立ち行かなくなる社会保障』 を拝読して・・。】

8月18日【『小沢氏 どこに導くのか 日本を』・・。】

このような思いもあるが、民主党の政権は政権公約を準拠しょうとする余り、
来年の半ばで党内で混乱し、結果として今より更に日本を悪化させ、
国民の多くが戸惑い、失望し、憂う心情が蔓延することがなければよいが、と妄想をすることもある。

もとより、今回の衆院選に於いては、有権者が重視されている争点として、
☆『年金などの社会保障』31.8%
☆『景気や雇用』25.8%
☆『少子化や子育て』10.0%
☆『中央省庁の改革』8.2%
☆『消費税などの税制改革』7.8%
と読売新聞の本社世論調査で都内有権者の要望が8月26日の朝刊に報じられたりしている。

私は何よりの緊急問題は、生活基盤の根幹となす『景気や雇用』が最優先と確信している。
しかし、雇用対策に関しては、政権公約としては、
自民党は3年間で100万人の職業訓練の実施、年長フリーターの正社員化支援等、
民主党は月額10万円の手当て付きの職業訓練制度の創設、全労働者への雇用保険の適用等、
私はこの程度ぐらいで果たして救済ができるか、
と世界経済の百年に1回ぐらいの最悪期に日本は果たして対処できているのか、と思ったりしているのである。

たまたま私の現役時代の後輩(50歳)のひとりが失業されて、
職業訓練センターに行ったが定員がいっぱいでとても・・
先行きが見えない・・せめて雇用保険の失業給付期間を延期してくれれば・・
と私は一週間前に電話連絡を受けたりしたのである。

この後の私は、100年に1回ぐらいの最悪期であるので、
特例として少なくとも失業給付期間は3年間として、
と同時に国民給付金を二十歳以上の国民に、1000万円を支給して、日本経済の活性化のカンフル剤とする。
こうしたことは、国の財源は一時的に借金は激増するが、
後世の人からは、あの当時の劇薬のようなカンフル政策で蘇った、と感謝されると妄想したりしている。

このような思いでここ数日を私は過ごしてきたのであるが、
今後の政治の混乱を避ける意味合いから、
今回の衆院選の民主党の圧勝を許さず、あえて自民党に投票する、という心情になったのである。

そして、自民党の20年間以上の衆議員の方で、立候補している方は、
急遽辞退し、有権者の前で土下座して、これまでの責任を詫びるのが、せめて残された心の礼節と確信しているのである。

このように少しボケた私は思ったりしていたのであるが、
『それでも私は、あえて自民党に投票する』などと恐れた投稿分は纏(まと)まらない、
と無力な私は嘆いたりしている。
(略)
・・】


このように拙(つたな)い思いであるが、私なりに深い思いを重ねながら、真摯に投稿してきた。

私は今回の記事を読み、改めて鳩山首相、小沢一郎氏は辞任し、
本来の清新な政権与党として、党内の派閥のような人脈を凌駕して、
有力な前原誠司、野田佳彦、岡田克也の各三氏から首相として選定し、
早く正常な政権運営をさせるのが、日本国民に対する民主党政権の責務である、と確信している。



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齢ばかり重ねた私でも、石川ひとみ(いしかわ・ひとみ)ちゃんの『まちぶせ』の歌を唄い・・。

2010-04-15 07:33:04 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり、
今朝の5時半過ぎに、玄関庭に下り立てば、小雨が降っていた・・。

そして居間に戻り、地元の天気情報を眺めたら、
朝の6時は7度、昼過ぎは6度前後、夕方の6時は6度前後で、
午前中は小雨が降り、午後は曇り、と報じられていた。

私は、横並びの日かょ、と驚きながら、
ここ一週間のめまぐるしい天気に、油断したせいか風邪気味となり、少し元気がないのである。

私はテラスに下り立ち、雨の当たらない外れで、
空を見つめたり、小雨降る中の若葉の樹木をぼんやりと眺めていたら、
突然、心の中でひとつの歌を唄いだした・・。


♪夕暮れの街角 のぞいた喫茶店
 微笑み見つめあう 見覚えある二人

【 『まちぶせ』 作詞、作曲・荒井由美 】


私は何気なしに、この歌を心の中で唄っていたのであるが、
少し気落ちした時に唄うひとつの歌で、何故かしら私にとっては元気付けてくれるの歌で、
定年退職の数年後の励ましの心の常備薬になったりしている。


この歌は数年前、NHKの音楽番組で、
徳永英明さんが『まちぶせ』、『恋におちて ~Fall in Love』を唄っていたので、
この影響かしら、と苦笑している。

この『まちぶせ』に関しては、確か1981(昭和56)年の頃だったと思われるが、
可愛らしいアイドル歌手のひとり、石川ひとみが、
ユーミンの作詞、作曲された曲を唄っていたのを思い出したりしている。

そして4年前の頃から、この『まちぶせ』等の女性が唄った名曲を徳永英明さんが、
カバーした三枚のアルバムが大ヒットしているのは、ニュースなどで見ていた。

私はこの『まちぶせ』は、私の好きな歌のひとつであり、
はからずも有数な男性歌手の徳永英明さんが唄ったので、
声も衰えた素人の私でも、恥ずかしながら心の中で唄うようになったのである。

もとより作詞されたユーミンさんは、少女の多感な揺れ動く心情を的確に表現した歌と私は絶賛してしまうが、
もうひとりの私は、齢ばかり重ねてきた私の心の中の励ましの歌になっているのである。


♪好きだったのよあなた 胸の奥でずっと
 もうすぐわたしきっと あなたをふりむかせる

【 『まちぶせ』 作詞、作曲・荒井由美 】


このような歌を小雨降る庭を眺めながら、心の中で私は唄っている。


http://www.youtube.com/watch?v=rYm9LOEi6bU
☆【『まちぶせ』 作詞、作曲・荒井由美、編曲:松任谷正隆、唄・石川ひとみ】☆




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たがが『野草』、されど『野草』は何より日本文化の基本である・・。

2010-04-14 08:11:57 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり、
今朝は4時に目覚めたが、読売新聞の配達される一時間前であったので、
ぼんやりと読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】を見ていた。

そして偶然に【地域】の【東京23区】を見て、
私の住む近くのことのニュースであり、そして読みながら思わず微笑んだりした・・。

無断であるが転載させて頂く。

《・・
         多摩川の緑春の味

野草の天ぷらを競い合って食べる園児たち 
子どもたちに身近な自然に親しんでもらおうと、調布市の調布多摩川幼稚園(染地3)は
10日、多摩川河川敷に自生する野草を食べるイベントを開いた。
ぽかぽか陽気の中、参加した約70組の親子連れが、春の恵みに舌鼓を打っていた。

同園では、川を舞台にした環境学習を行うNPO法人「多摩川塾」と連携し、昨秋、河川敷のイナゴを食べる会を開催。
これが好評だったため、今回のイベントが企画された。
河川敷では、同塾長で俳優の中本賢さん(53)らの指導を受けながら、
園児たちがセリやヨモギなど約10種類の野草を集め、天ぷらやおひたしに。

同市国領町の東山凛花ちゃん(3)は「おうちでも食べたい」と、ビニール袋いっぱいの野草を持ち帰っていた。

(2010年4月11日 読売新聞)

・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/tokyo23/news/20100411-OYT8T00112.htm?from=navr
☆【YOMIURI ONLINE】 【地域】の【東京23区】 『多摩川の緑春の味』 ☆


私の住む地域では、私が小学生を卒業した1957(昭和32)年の頃までは、
京王腺の駅周辺の商店街を除けば、田畑が広がり、竹林、そして雑木林もある緑豊かな村であったが、
ここ50年前頃から住宅街に変貌しているので、公有地で自生した野草を見つけることは少なくなっている。

やむえず、私が買物でスーパーの生鮮野菜売り場で、特に『春の七草』の時節には、
『春の七草』と称した可愛らしいパックがうず高く積み上げられている。

セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベ、ホトケグサ、スズナ、スズシロが詰め込まれている。
スズナは野菜のカブであり、スズシロはダイコンであることは多くのお方に知られている。

私はこの七草を見たりして、遠い日の幼年期の頃が想いだされる・・。


東京の郊外の農家の子として生を受け、1951(昭和26)年の小学一年生の頃は、
祖父、父が健在で、程々の広さの田畑を耕していた。

旧暦の1月7日は、今の暦では2月中旬頃であるので、
田んぼのあぜ道、畑の小道の外れに色々な野草が数多くあった。

叔母の二人は、未婚であり、ノビルやヨモギを取り、私達にも食べさせてくれた。

ノビルは今でいうとラツキョの小型の形をしており、真っ白な小玉が先端にあり、
さっとお湯をとおした後、味噌に砂糖を加えた甘味噌を付けて口に含んだりした。
早春の頃は、カブ、ダイコン、ホウレンソウ、ネギ等の野菜の中、
子供心にもノビルは春の香りを感じたりしていた。

ノモギも叔母達が摘んで、撞(つ)きたての餅などに入れ、私達も香りと歯ごたえを共にした。

ナズナはペンペングサと呼んでいたが兎(ウサギ)を兄達が飼っていたので、餌としていたと思われる。

この他の七草は多分生えていたと思われるが、幼年期であったので、記憶が定かでない。

私の住む地域では、1957(昭和32)年を過ぎた頃から田畑は消えうせ、急激に住宅地に変貌した。


私はあの時代に口にした早春の食べ物として、主庭の一角にフキを植えている。
二月の初旬頃にフキノトウとして、頂いている。

現役時代、激務の業務を終え、休みの昼下り庭に下り立つと、
フキノトウを見かけると、10幾つかは摘めるので、家内に手渡しする。

水洗いをした後、フキノトウに味噌を少しつけ、アルムホイルに包んで火であぶる。

私も台所の一角の簡易テーブルで、弐合徳利とぐい呑みで待機する。

フキノトウの苦味、香り、歯ごたえを味わい、ぬるめの辛口の純米酒を呑むと、
春が来た、と思っている。
庭先を観れば、白梅は莟(つぼみ)か数輪の花が見られる時期である。

退職後の今は、原則として日中のお酒は自粛しているので、
夕食前に味わうが、特にフキノトウに関しては昼前、昼下りのひとときは、味は倍増すると確信している。

待ち焦がれた早春、フキノトウを摘みながら、今年も・・と感動しながら味合うので、
実感もさることなから余情を増すのかしら、と酒大好きな呑兵衛のひとりとして思っている。


このように私のささやかな思いがあり、園児が野草のセリやヨモギなど約10種類の野草を摘まれた、
と知り微笑んだのである・・。

こうした野草は、無念ながら私の住む周辺の公有地で自生した野草を見つけることは少なく、
スーパーの生鮮野菜売り場で鮮度から少し過ぎた品を見かけたりする。

昨今の園児たちは、こうした野草があたりまえのように感じることに憂い、
自生した野草を自分で摘み、そして頂くことが、何よりの日本文化の基本であると私は確信している。

そして、園児たちが農作物のジャガイモ、サツマイモなども歓声を上げられながら、
地中を掘りながら収穫しているニュースなどをテレビで視聴したりすると、
私は限りなく喜ばしいことと思ったりしている。


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季節がめぐるたびに、一青窈(ひとと・よう)さんの『ハナミズキ』に心を託して・・。

2010-04-13 22:06:48 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり、
子供に恵まれなかったので、家内と2人だけの家庭となり、古惚けた一軒家に住んでいる。

昨日の午前9時過ぎから雨が降りだし、今朝の未明まで降り続いていたが、日の出前には雨は上がり、
朝の6時過ぎに主庭のテラスに下り立つと、
樹木の枝葉は雨粒をたたえて、清々しい、潤(うるお)いのある情景となっていた。

若葉の色合いは、萌黄色からこの二週間ばかりで黄緑色から新緑色に染められ、
私はさりげない日ごとにうつろう枝葉を眺めたりしていた。

9時前に陽射しが差し込み、空は青さを増し、ときおり微風が吹き、まさしく風光る情景となっている。
そして、私は皐月晴れの頃の陽気かしらと感じながら、
私は昨日の少しばかり肌寒い雨降る日であったので、戸惑いながらも主庭の樹木、草花を眺めたりしていた。


このような移ろいの中、昼のひととき買物に最寄のスーパーに向ったのであるが、
道路際にある躑躅(ツツジ)、皐月(サツキ)が咲きはじめ折、
買物の帰路に広場を通り抜けようとした時、花水木(ハナミズキ)の樹に白い花が咲きはじめて、
付近の落葉樹の多い公園は新緑となり、ときおり微風が吹き、小枝の若葉も揺れ、私は微笑んだのである。

そして、ここ10数年に建てられて大きなマンションの前にある小公園を通り過ぎると、
花水木(ハナミズキ)の樹木は、可憐な白い花は三本あり、それに並ぶように淡い桃色の花は二本あり、
私はしばらく見惚(みと)れたりした。

この花水木(ハナミズキ)の樹木たちは、昨年の秋には数多くの朱紅色に染めたられ葉となり、
秋日和の陽射しを受けていたことも思い馳せたりしたのである・・。


そして私は自宅に向いながら、突然にひとつの歌が脳裏に浮かび、心の中で静かに唄いだしたのである。

そして遊歩道に人影が少ないのを確かめて、小声で唄いだしたのである。


♪薄紅色の可愛い君のね
 果てしない夢がちゃんと 終りますように
 君と好きな人が 百年続きますように

【 『ハナミズキ』 作詞・一 青窈、作曲・マシコタツロウ 】


私なりに、残された歳月で私自身の夢を実現をさせる命題もあり、
そして私たち夫婦は、この先いつまでもつつましながらも年金生活の楽しい生活が続くわけでなく、
いずれ片割れになる・・。

このような思いを重ねたりしたのである。


確か数年前だったと思われるが、NHKの音楽番組の中で、
一青窈(ひとと・よう)さんと徳永英明(とくなが・ひであき)さんが、デュエットでこの歌を唄っていた。
私は遅ればせながら、退職後にこの一青窈ちゃんの『ハナミズキ』に魅了されて折、
改めてこの歌をお二人が唄うのを視聴したのであるが、
胸が熱くなり、やがて涙を浮かべそうなくらい感銘を受けたのである。

無念ながら【You Tube】には、デュエットでこの歌を唄っていたのがなく、
私は男の子のひとりである上、一青窈ちゃんのような美麗で深淵まで深めた歌声を唄えないので、
徳永英明さんが独りで唄う歌に魅了されながら、【You Tube】でたびたび聴いたりしていた。

http://www.youtube.com/watch?v=w9bxyOGTsrI&feature=related
☆【 『ハナミズキ』 作詞・一 青窈、作曲・マシコタツロウ、唄・徳永英明 】


私は彼のように透明感あるシルキー・ヴォイスのようには唄えないけれど、
私なりに齢を重ねた65歳の体力と声も衰えた身であるが、心を込めて精一杯唄ったのである。


♪僕の我慢がいつか実を結び
 果てない波がちゃんと止まりますように
 君と好きな人が百年続きますように

 君と好きな人が百年続きますように


【 『ハナミズキ』 作詞・一 青窈、作曲・マシコタツロウ 】


私は小声で唄っているうちに、胸が熱くなり、
そして瞼(まぶた)も熱くなり、齢を重ねると涙もろくなる、と実感しながら家路に向ったのである。




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