夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

体力の衰え、物忘れも多くなった私でも、日々新たなめぐり逢いに、微笑みながら感謝して・・。

2018-05-16 15:50:09 | ささやかな古稀からの思い

私は年金生活の73歳の身であり、私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、
我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭の中で、築後39年を過ぎた古ぼけた一軒屋に住んでいる。

そして世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域に住み、
生家も近く、結婚前後の5年を除き、私としてこの地域に68年住んできた為か、
調布の里っ児、或いは原住民かしら、と思ったりすることもある。

最寄駅としては、京王線の場合は、『つつじが丘』、『仙川』の両駅は徒歩15分である。
そして小田急線の場合は、『喜多見』、『狛江』の両駅は徒歩20分となっている。

或いは私が長らく通勤で利用した小田急線の『成城学園前』駅は徒歩30分となっているが、
何かしら京王線と小田急線にサンドイッチされたかのような辺鄙(へんぴ)な地域に住んでいる。

いずれも路線バスの利便性は良いが、年金生活を始めてから原則として散歩も兼ねて、
根がケチの為か路線バスを利用することなく、ひたすら歩いたりすることが多い。

           

私は年金生活の当初から、我が家の平素の買物に関して、
自主的に買物専任者として宣言し、家内から依頼された品を求めて、
独りで殆ど毎日、スーパー、専門店など歩いて行き、買物メール老ボーイとなっている。

我が家は朝のひととき、家内が新聞に添付されているスーパーのチラシを見た後、
赤のサインペンで丸印を付けたりする・・。

まもなく私は手渡されて、赤丸が付いたのが本日の買物の対象品であり、
そして私が店内で魅せられた品を追加するのが、我が家の鉄則となっている。

やがて私は我が家の買物の責務を終えて帰宅した後は、
やはり独りで自宅周辺の3キロ範囲を歩くことが多くなっている。

           

こうした中、
付近に流れている野川の両岸にある遊歩道を歩いたり、
或いは小公園、小学時代に通学した旧市道を歩いたりしている。

ときには最寄駅の商店街に立ち寄り、知人と談笑したり、
都立の神代植物園に遠征したりすると、中学時代の同級生に逢う時もある。

こうした時、偶然だよねぇ・・、とお互いに再会を喜びながら、
過ぎし中学時代のそれぞれの同級生のことを話したりすると、長話になったりする時もある。

           

私は65歳の頃から体力の衰えを実感させられたり、恥ずかしながら70歳を過ぎた頃から
物忘れが多くなった、と改めて気付き、
独り微苦笑する時もある・・。

たとえば家内とテレビの旅番組を共に視聴したりしている時など、
あそこも行ったよねぇ、と私は家内に言ったりした時、その地の情景などは鮮やかに重ねることができても、
肝心の地域名が言葉に出来ないことが、もどかしさを感じることがある。

こうした中、私は亡き母の遺伝を純粋に受け継いだ為か、恥ずかしながら男の癖におしゃべりが好きで、
何かと家内と談笑したり、ご近所の奥様、ご主人など明るく微笑みながら談笑したりしている。

そして私は、遊歩道、公園などを散策していると、見知らぬ男性、
女性グループの御方たちと、話しかけられたり、或いは話しかけたりして、談笑し、
殆ど毎日過ごしている。

或いは、知人とか友人と時折お逢いする時は、しばらく、と私は笑いながら逢ったりして、
明るい日中だとコーヒーを飲んだり、
夕暮れすぎの場合はビール、水割りのウィスキーを呑みながら、談笑をしたりしている。

           

或いは私が勤めていたあるレコード会社のOB会と称せられる懇親会に出席したりすると、
上司だった御方たち、或いは同世代の数多くの人と談笑したりしている中、
数人から、XXさんは感性もお若いですょ、と私は社交辞令のお世辞を頂くこともある。
          
或いは女性グループの中で談笑している中、たまたま音楽の話題となり、
他社の『いきものがかり』を定年後に偶然に聴き、
何かと吉岡聖恵(よしおか・きよえ)ちゃんの歌声に、励まされていますょ、
特に『YELL(エール)』は、高齢者の私でも心身のビタミン剤ですょ、と私は言ったりした。

こうした中で、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。

ときには遊歩道、公園などを歩いたりしていると、見慣れた情景でも、樹木、草花など、
初めて気づかされて、こんなに美麗な花だったの・・新たなめぐり逢いに感謝をしたりしている。

           

このように私は日々散策したりすると、
イギリスの湖畔詩人と称されたワーズワースは、湖水地方の緩やかな谷と丘が連なる道、
或いは小さな町の田舎道を、何十キロでも平気で歩いたと伝えられているが、
私も少しばかり真似事をしているかしら、と微笑んだりする時もある。

私は無念ながらイギリスの湖水地方には訪れたことはないが、確か20年前の頃、

NHKのBSに於いて、湖水地方について連続番組を視聴し、少しだけ情景は学んだりした。

そして肝要のイギリスを代表するワーズワースには、何かと海外文学に苦手な私は、
詩にも素養がなく、恥ずかしながら無知なひとりである。

たったひとつ記憶しているは、私が高校2年生の下校時、映画館に立ち寄って観た作品からであった。

エリア・カザン監督の『草原の輝き』(1961年)で、ナタリー・ウッドが扮する高校女学生が、
教室で詩を朗読するシーンであった。

草原の輝き
花の栄光
再びそれは還(かえ)らずとも
なげくなかれ
その奥に秘めたる
力を見出すべし

私はストリーに涙ぐみ、そしてこの詩には瞬時に魅せられ、そして二回目を見て、
字幕スーパーを薄暗い座席でノ-トに書き留めて、
詩を創られた御方が、ワーズワースと知り、私は17歳の時であった。
            
私は後年になると、ワーズワースも波乱に満ちた人生航路を歩んだと学んだが、
もとより詩に託した才能で、後世にも多くの方に敬愛されている人である。

そして私は《・・ワーズワースは、生まれ育った地で、生涯にわたってこの地を散策し続けた・・》に、
つたない私でも、瞬時に琴線(きんせん)が静かに奏(かな)で始めたのであった・・。

                        

私はこの地域で生を受けて、やがて都心の高校に通学して、
都心の底知れぬ魅力に圧倒的に魅了され、通勤を含めて45年ばかり彷徨(さまよ)ったが、

定年後に年金生活を始めて、私の住む3キロ範囲を歩き廻るのが、何よりも心身安らぎを得ている。
           
そしてここ10年、デパートで買物、懇親会、冠婚葬祭などで都心に出れば、
人出の多さに疲れ果て、やがて我が家の最寄駅のひとつ『成城学園前』駅に降り立つと、
何故かしら安堵している。

このような心情を秘めた私は、たとえ時代、住む国と地域、才能も天と地の差があるが、
ワーズワースさんのお気持ち・・少しは理解できますょ、と私は微笑み返しをする時もある。

こうして私は年金生活を始めて、早や14年生になるが、
つたない定年退職時まで歩んだ私でも、人並みに程々の年金を頂き、
平日の閑静な時に自由に散策ができることに、改めて倖せを感じたりしている・・。

           

帰宅後の午後の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。

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にほんのブログ村、私が加入している『gooブログ』とはバナー【IN】対応できず、私は降参と苦笑を重ねて・・。

2018-05-15 15:21:33 | ささやかな古稀からの思い

昨日の午前中は、私はいつものように家内から依頼された品を求めて、
最寄りのスーパーを2店ばかり買物して帰宅した後、
やはり自宅から3キロ以内の遊歩道、小公園などをひたすら歩き廻ったりした。

やがて帰宅した後、汗ばんだ服を着替えた後、年金生活を始めた当初より、
昼食だけは、お互いに束縛しない方針できているので、
私は今回はヨーグルトを二分の一箱を賞味し、つぶあんのあんぱんをひとつ食べたりした。

この後、ぼんやりと本日のブログの投稿文をぼんやりと思案したりした。

ここ数年の私の殆どの投稿文は、年金生活を過ごしている中、思案とか思索していることなど
ひとつのテーマを決めて、真摯に、ときには楽しく綴ったりしている。

            

やがて年金生活13年半を過ごしてきた中、
定年退職した当時に思案した以上に、安楽に過ごしてきたので、
家内、兄妹、友人、知人などに感謝する意味合いのことを思い浮かべたりした・・。

まもなくあふれた思いを伝わるように熱意ばかりで、一気呵成に書き上げてしまい、
送信したのは午後2時半過ぎであった。
『 人生は後半戦が勝負、つたないサラリーマン航路を歩んだ私は、年金生活の中で微笑み返しして・・。 』

私が加入しているブログは『gooブログ』であり、早や13年近くとなり、
ブログのランキング『にほんのブログ村』も、投稿文ごとに評価のような形態に気づいて、
8年近くとなっている。

やがて私は、こっそりと『にほんのブログ村』の中で、私の投稿文を見ると、
《・・『にほんのブログ村』、バナーはメンテナンスのため、現在、ご利用できません・・》
と表示された。

            

私が加入している『gooブログ』に於いては、「外部サービス連携」があり、
ブログのランキング『にほんのブログ村』も連動できるので、
私は最近活用してきたが、今回の表示は困ったなぁ・・と思ったりした。

『にほんのブログ村』の定例メンテナンスは、15日と予告されていたので、
了解していたが、14日に突然にメンテナンスの実施には戸惑ったりした。

私が久々に力を入れた投稿文なのに、お読み頂いた御方の一部の御方がご好意で、
バナーがなければクリックできず、結果的には『IN』対応できない状態となってしまった。

この後、私は数時間ごとに、『にほんのブログ村』の私の投稿文を見たが、
相変わらず、《・・『にほんのブログ村』、バナーはメンテナンスのため、現在、ご利用できません・・》
と表示され、メンテナンス時間が終わっていないなぁ、と教示された。

            

本日の朝方、『にほんのブログ村』の私の投稿文を見たが、やはり同じ内容が表示された。

やがて私は午前中は、いつものように買物、散策を終えて、やがて昼食後、
『にほんのブログ村』の定例メンテナンスは、予定時間より早く終了し、
私が危惧したバナーも解消されて、対応可能となっていた。

たまたま私にとって、久々の力作は、
昨日の午後2時半すぎから、本日の朝まで、お読み頂いた御方の一部の御方がご好意で、
バナーがなければクリックできず、結果的には『IN』対応できない状態となり、
やむなく私は降参しますよ、と苦笑を重ねたりしている。

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人生は後半戦が勝負、つたないサラリーマン航路を歩んだ私は、年金生活の中で微笑み返しして・・。

2018-05-14 14:44:02 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭の中で、築後39年を過ぎた古ぼけた一軒屋に住み、
ご近所のそれぞれの宅は自動車を所有しているが、我が家は
自動車もない稀(まれ)な家となっている。
           
私は民間会社の中小業のある会社に35年近く勤めて、2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
この間、幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりしたが、
最後の5年半はリストラ烈風が加速され、あえなく出向となった。

そして、私は出向身分であったので、リストラ烈風の中、
会社の首脳部が社員を自主退職させる希望退職優遇制度などの免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。

しかしながら根底の実情は、この当時は大企業も盛んにリストラが実施されている中、
たとえ私が定年後に新たな職場を探しても、これといった突出した技術もなく、
何よりも遠い勤務先の出向先で、私なりに奮闘して体力も気力も使い果たしてしまった。

このような拙(つたな)いサラリーマン航路である上、           
そして定年退職するまで半生期は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、つたない言動も多く、
ときおり敗残者のように感じることも多く、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。

            

私が年金生活の当初から、我が家の平素の買物は、
私は自主的に買物専任者として宣言し、家内から依頼された品を求めて、
独りで殆ど毎日、スーパー、専門店など歩いて行き、買物メール老ボーイとなっている。

この後は、やはり自宅から3キロ以内の遊歩道、小公園などをひたすら歩き廻ったりして、
季節の移ろいを享受している。

このような午前中の過ごし方を定例事項のように過ごしてきた・・。

例外として、家内のボディガード、お供そして荷物持ちで、3週間に一度ぐらい駅前で買物、
或いは年に3回ぐらい都心の新宿にある伊勢丹、小田急、京王などのデパートに買物、
そして庭の手入れ、国内旅行、懇親会、冠婚葬祭などで小用がない限り、定年後の13年半を過ごしてきた。

            
         
私が買物とか散策する時の容姿は、この時節は制服のような定番の服装として、
スポーツシャツにストレッチパンズの長ズボン、ウォーキング・シューズ、そして帽子を被(かぶ)り、
紳士用のショルダー式バックを園児のように斜め掛けをしている。

そして散策する時には、殆どコンバクト・デジカメをネクタイのように首回りから下げて、颯爽と歩き、

歩いている中で瞬時に魅了された情景を、一期一会ねぇ、と思いながら撮ったりしている。

こうした根底として、もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
いつの日にか認知症、或いは脳梗塞などの難病に遭遇したら、困窮するので、
ひたすら歩き、ときおり大股で歩いたり、或いは足早に歩くことが多くなっている。

            

私は定年後に年金生活の始めた直後、独りで近所の遊歩道を散策したりすると、
こんなに自由に散歩できるなんて、許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。
                          
或いは雑木の多い小庭に古ぼけたの家に住みながら、
何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時を過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりしていた。

この間、私は中小業の民間会社に奮戦している50代の時、同僚が病死されたり、
そして知人は定年前の59歳で病死し、残されたご家族の心痛な思いが、痛いほど理解させられたりしてきた。
           
やがて私は2004年(平成16年)の秋に定年退職した後、
年金生活を始め、やがて62歳の時、現役時代の一時時期に交遊した友も、無念ながら病死したりした。
       
まもなく、知人のひとりの奥様が病死されて、
この知人は『おひとりさま』となり、私たちの多くは哀悼をしながらも、動顛してしまった。

こうした根底には、私たち世代の周囲の男性の多くは、60代で妻が夫より先に亡くなることは、
考えたこともなく、こうしたことがあるんだぁ、とこの人生の怜悧な遭遇に深く学んだりした。

                                   
                                 
やがて私は高齢者入門の65歳を過ぎてから、心身ともに自立し健康的に生活できる期間の健康寿命は、
男性の平均としては71歳であり、平均寿命は男性の場合は80歳と知った時、
恥ずかしながらうろたえたりした・・。

そして70代となれば、多くの人は体力の衰えを実感して、75歳まではこれまでどおりの自立した生活ができるが、
80歳が見えてくる頃には、介護を必要とするのが多くなり、
やがて80代後半では何らかの介護付き施設に入居する可能性が高くなる、と専門家の発言から学んできた。
            
ここ数年は会社時代の少し先輩、或いは後輩の68歳が、いずれも大病で入退院を繰り返した後、この世を去ったり、
ご近所の私と同世代の知人が、突然に脳梗塞で死去されて、数か月の先は誰しも解らない、冷厳なこの世の実態に、
私は震撼させられたりしてきた・・。
                      
もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
歩くことが何より健康体の源(みなもと)と思い、そして適度な熟睡する睡眠、或いは程ほどの食事が、
セカンドライフ健康体の三種の神器として思い、過ごしている。


私たち夫婦は、幸運にも大病に遭遇せず、今日を迎えているが、
健康寿命、やがて逝去も余りにも格差がある、と私は思い馳せたりしたりして、
ここ5年ぐらい幾たびか私たち夫婦は、一日を大切に過ごそう、とお互いに言い交したりしている。

            

私は友達、知人は自身が選ぶことができ、こうした中で悪感情の末、疎遠になったり、解消できるが、
家族の親子、兄妹は、愛憎、確執があっても、一生つきまとい、手を切ることができない間柄となっている。

しかしながら血は水より濃いと称されるように肉親、夫婦、親子、兄妹だけが知りえる
互いの喜びがあり、互いに共有してるのが家族である。

このように家族に対しては、私はブラス思考となっているひとりである。

こうした考えをぼんやりと思い馳せると、
モーリス・メーテルリンクさんの童話『青い鳥』のように、
幸せな『青い鳥』は、人誰しもそれぞれのお住まいの身近な所にいる、と私は確信を深めたりしている・・。

                      
       
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、2人だけで第二人生の歳月を過ごすので、
結果としては定年後の長い人生は、お互いの趣味を尊重して、堅実な生活を過ごせば、
年金生活でも何とかなると、定年後に年金生活を始めたりした・・。

そして定年前のサラリーマン時代の私は、数多くの人たちと同様に多忙で、
家内は我が家の専守防衛長官のような専業主婦であり、日常の洗濯、買い物、料理、掃除などで、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などのささやかな時間で過ごしてきた。
         
そして定年後の年金生活を始めた私としては、このペースを崩すのは天敵と確信し、
平素の買物専任者を自主宣言したりした。

或いは昼食だけは、お互いに制約することなく、自由な時間で、
お互いに殆ど我が家で、きままに食べたりしている。

そして午後の大半は私は随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書、
ときおり20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
或いは音楽も聴いたりしている。

こうした中で、家内は料理、掃除、洗濯などを従来通りしてくれるので、
せめて家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、私は素早く察知して、日に6回ぐらい茶坊主の真似事もしている。

            

そして人だれしも長所、短所はあるが、私は短所の方が多いので、
家内の短所には目をつぶり、長所を伸ばそうと心がけてきた・・。

家内は料理、洗濯、掃除などを積極果敢にする専業主婦の優等生であるが、
血液型A型となっている。

そして我が家では一年に数回、私はB型、家内はA型の為か、ボタンの掛け違いのように差異が発生し、
険悪になることもある。

やがて私は、映画、文學、音楽に関しての粗雑なコメント以外は、私たちの人生に大勢に影響がないと判断して、
いつまでも心のわだかまりを残すことは、夫婦としてよくないと思い、15分以内に妥協して、
『ボクが悪かった・・XXちゃんのおしゃる通りです!!』
と家内の前で、私は床に伏して詫びたりしている。

このように我が家は家内安全となり、離婚などは無縁である、と私は微苦笑したりしている。

                      
         
こうした中、私たち夫婦の年金生活を、ご近所の方の奥様たちが見かけて、
あなたたちは仲良し恋しねぇ、と社交辞令のお世辞を頂くこともある。

しかしながら日常生活の実情は、私は家内のことを、婚約する前の頃から、『XXちゃん・・』と呼んでいるが
家内は日頃の多くは、私のことを『あなた・・』と呼ぶことが多いが、
ときには、たわむれで、『XXクン・・』と苗字で呼ぶこともある。

しかしながら2004年(平成16年)の秋、年金生活を始めてまもない頃、
私は家内から依頼された買物の購入品などで間違えたりすると、
『ボケチィンねぇ』
と家内は笑いながら、私に言ったりした。

この日以降、私が何かで日常生活で失敗した時、
『ボケチィンねぇ・・』とか、ある時は『ダメオ(駄目夫)クンねぇ・・』
と家内は微苦笑しながら、私に言ったりしている。

                    

私は73歳の身であり、私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

私たち夫婦は年金生活を過ごして、早や14年目になっているが、
幸いにもお互いに大病に遭遇せず、過ごしてきた。

そして私たち夫婦は40数年寝食を共にしてきた結婚生活の中で、幾重かの人生の荒波を乗り越えてきたが、
ここ13年半の年金生活は、定年退職するまで何かと悪銭苦闘が多かった為か、
予測した以上に安楽の日々を過ごしてきた。


世の中は少年時期から青年時期を過ごした後、やがて後年になって、ボクの青春時代はあの時期だった、
と走馬灯ように、その時の出来事を思い馳せたりすることがある。

このようなこともあるので、今こうして過ごしている私たち夫婦は最良の日々かしら、と私は感じたりしている。

          

昨年の9月、楠木 新さんが著作された『定年後』(中公新書)を購読している中で、
驚嘆させられた一節があったりした。



『定年後』(中公新書)


《・・定年退職者を取材した時に、

「毎日やることがなくて困っている」、「一番自由な今が一番しんどい」、「家で居場所がない」、
「暇になったのに焦る」、「嫌な上司もいないよりはマシ」などと語られることがある。
なかには「このままの毎日が続くと思うと、自分の人生は何だったのかと思うときがある」とまで発言した人もいたのである。

彼らの発言と住宅地や都心をまわった取材を重ね合わせてみると、
在職中は組織内での上司や同僚、部下との濃密な人間関係を築いているにもかかわらず、
退職後はその関係が切れてしまい、自分の居場所が見つからなくなっている、ということだ。

今まで長い間、企業社会のなかで朝から晩まで共同作業をやってきた人たちが、
いきなり一人ぼっちになっては、力も意欲も湧かないのは当然であろう。・・》

            

私は東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の秋、
大学2年の時に、映画の脚本家になりたくて、中退した。
                                                    
そして専門の養成所に学び、この養成所から斡旋して下さるアルバイトをしたりして、
映画青年の真似事をし、シナリオの習作をしたりした。

やがて警備員などの契約社員をしながら文学青年の真似事をして、
純文学の新人コンクールに応募したりしたが、当選作の直前の最終候補作の6作品の直前に敗退し、
やむなく安定したサラリーマンの身に転向を決意した。   
               
そして何とか大手の企業に中途入社する為に、
あえて苦手な理数系のコンピュータの専門学校に一年通い、困苦することも多かったが、卒業した。
          
やがて1970年〈昭和45年〉の春、この当時は大手の音響・映像のメーカーに何とか中途入社でき、
そして音楽事業本部のある部署に配属された。

まもなく音楽事業本部の大手レーベルのひとつが、外資の要請でレコード専門会社として独立し、
私はこのレコード専門会社に転籍させられ、中小業の多い音楽業界のあるレコード会社に35年近く勤め、
この間に幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりした。

そして最後の5年半は、リストラ烈風が加速される中、あえなく出向となったり、
やがて私は出向先で2004年(平成16年)の秋に、何とか定年退職を迎えることができた。

このような定年退職まで、拙(つたな)い人生航路を歩んだ私であるが、
長らくサラリーマン航路を第一線で過ごされ頭脳明晰な御方が、
定年迷子になって・・おかしいよ、と微苦笑させられたりした。

                 

私たち夫婦の両親は、今や家内の母だけとなり、遠方の地に一戸建てに住んでいる。

こうした中で、遠い地に独り住まいをしている家内の母宅に、
家内は家内の妹で交互に、介護に泊りがけで行く日もあり、
     
この間、我が家は私が『おひとりさま』の生活となり、これも人生だよねぇ、
と私は独り微苦笑したりしている。


私たち夫婦は、幸運にも大病に遭遇せずに今日に至っている。

これからの日々は、体力の衰えを増すことを実感しながら、

やがていつの日にか、どちらかが不運にも大病になったり、
最悪の場合は死別して、おひとりさまとなったりする。


こうしたことは自助努力も必要であるが、こればかりは神様か仏様か解らないが、
天上の采配に寄ること思ったりしている。
            

このように年金生活を過ごしているが、こうして過ごしている昨今こそ、
いつまで続くか解らないが、私たち夫婦にとっては最良の日々、と私は感じ深めている
 

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ときには小庭の手入れ、早朝6時より私たち夫婦が奮闘しても、やがて体力の衰えた私は、あえなく敗退して・・。

2018-05-13 13:48:03 | ささやかな古稀からの思い

私は中小業の民間会社に35年近く勤め、2004年(平成16年)の秋に定年退職となり、
その後は多々の理由で年金生活を始めた身である。

そして東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住み、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭で、
雑木の多い小庭に囲まれて古ぼけた一軒屋に住み、ささやかに過ごしている。

昨日の夕食の時に、私は家内に、『明日(あす)、庭の手入れをするよ・・』と言ったりした。

ここ一か月、常緑樹、落葉樹の雑木は、枝葉は伸び、入梅前に一度は剪定をしなければ、
と一週間前から思うばかり、体力の衰えた私は、さぼったりしてきた・・。

            

我が家の敷地は変形5角形で、家屋を建つと、玄関庭と主庭となり、
原則として小庭の手入れは私の責務の範疇であるが、蚊(か)の出る5月下旬頃から10月頃までを除き、
体力の衰えた私を見かねて、ときおり家内の支援を受けることもある。

ご近所のお宅の殆どは植木屋さんに年に数回依頼しているが、
我が家の小庭の樹の剪定は、私たち夫婦が自己流で樹木の剪定しているのが、
私が定年後、ここ14年目の実態となっている。
        
私が2004年(平成16年)の秋に定年退職した以前は、
5年ごとに植木屋さんに依頼するたびに、大きくなってしまった樹、
そして枝葉の処分料が多かった為か、年に50万円前後を要してきたが、
この間は、私がこっそりと植木屋さんの剪定した状況を物真似をして剪定してきた。

そして私が定年後まもなくして、ご近所より少し広い我が家は、少し樹高は低くしているが、
植木屋さんに年に数回依頼すれば、数10万円と教えられたりした。

こうした時、家内は私たちの旅行3泊4日が2回ぐらいできるわ、と言い、
小庭の手入れは私の責務の範疇であったが、年に数回は家内の手助けを借りている。

             
                                         
昨夜、天気情報を視聴したりしたが、明日の13日は午前中は曇り、
昼過ぎより小雨が降ります、と報じていた。
私は雨の降り前に、朝早く起きて・・小庭の手入れかょ・・と微苦笑したりした。

近くにいた家内は、『あたしも手伝うから・・早期決戦ねぇ』と微笑んだりした。

今朝、私は4時半過ぎに目覚めて、やがて家内と共に談笑しながら朝食を頂だいたりした。

やがて私たち夫婦は6時少し前に、玄関庭に下り立った・・。

こうした時の私の容姿は、ストレッチパンズの長ズボン、着古したスポーツシャツ、
帽子
ウォーキング・シューズ、帽子、滑り止めの軍手をし、剪定鋏(ハサミ)を腰の周りにしている。

家内はトレーナー姿にエプロンした容姿でタオルを姉さん被(かぶ)り、
ウォーキング・シューズの万全な容姿で、滑り止めの軍手をしている。

そして私は切れ味抜群の鋸(のこぎり)右手に持ちながら、
適度な台に乗り、枝葉を切り落としはじめた。

家内も鋸(のこぎり)右手に持ちながら、伸びた枝葉を切り落としたり、
或いは剪定鋏(バサミ)を器用に使ったりしていた。

私は今年の誕生日を迎える74歳となり、家内は誕生日を迎えると69歳となり、高齢者夫婦に該当するが、
それぞれ奮戦すれば2馬力だよなぁ、と私は微苦笑したりした。

                   

やがて我が家の歩道に面した垣根のカイズカイブキ、アカネモチ、ツバキ、
或いは小庭にあるサカキ、モミジ、キンモクセイなどを剪定したりした。
              
私は若き40代の頃は、殆どの雑木は樹高10メートル前後にしていたが、
齢を重ねた60代の頃から、樹高3メートル前後ぐらいにしなければ、
手入れが困難になる、と家内の助言に基づいて、小ぶりに剪定したりしてきた。

しかしながら私は無念ながら体力の衰え、30分毎に簡易椅子に座り、ペットボドルの煎茶を飲み、
5分ぐらい休息としたりした。

そして40代の頃は、55分ぐらい剪定したり、草むしりをして、
5分ぐらい休憩で奮戦していたよなぁ、と私は苦笑したりした。

やがて私たちは3時間ぐらい樹木の剪定をした後、剪定は中断して、
散乱している枝葉を市から指定されている『燃えるゴミ袋』のLLサイズ
(45リットル入り、有料・10袋入り、840円)に、
袋に破れないように入れる為、私たちは枝葉を適度に剪定鋏(バサミ)で切ったりした。

この後、家内は剪定が終わっていない樹に、枝葉を切り落とし始めたが、
『XXちゃんさぁ・・疲れたから・・やめない?・・』
と私の方から家内に提案したりしたのは、午前11時過ぎであった。

            

そして風呂を沸いた頃、家内に先に入ってもらい、
私は主庭に移動して、片隅にあるテラスに簡易椅子に座り、煎茶を飲んだりした。

私は若き40代の頃は、こうした時はお寿司屋さんから頂いた大きな湯呑茶碗で、
冷酒を二杯ぐらいは呑んで待機していたが、
その後の50代の時は、殆どビールを呑んだりしていたが、
今や煎茶を飲む身となり、やはり齢かしらと苦笑したりした・・。

まもなく家内が居間から、小声で
『お風呂を上がったわ・・選手交代ょ・・』と私に言ったりした。

『了解致しました!!・・』
と私は若き自衛官に負けないように大声で応(こ)えた。

私は体力の衰えてきた中で、ハァ~ィ、と応(こた)えるのは、ボケてきたと誤解されるので、
たとえ夫婦間であっても、せめて返事ぐらいは清く正しくしている。

やがて私は小庭からお風呂場に向かう途中、市が指定された我が家の門扉の内側に、
『燃えるゴミ袋』のLLサイズが14袋あり、私はお互いに健闘したよなぁ、と私は微苦笑したりした。

そして私は家内の奮闘に鼓舞されて、朝6時より5時間ばかり奮戦したが、
今こうして投稿文を綴っているが、けだるさを感じて、やはり齢だよなぁ・・
と心の中で呟(つぶや)いたりしている。

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老化の元凶AGEを防ぐ、食事の7ルール、こっそりと高齢者の私は学び、やがて微笑みながら・・。

2018-05-12 15:55:29 | ささやかな古稀からの思い

先程、私は長らく愛読しているネットの【NIKKEI STYLE】を見ている中で、
『 老化の元凶AGEを防ぐ 医師に聞く食事の7ルール 』と見出しを見たりした。

私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の73歳の身であるが、
AGE・・って何なのょ・・と思いながら、好奇心に負けてしまい、
記事を読んだりした。

この記事の原文は、『日経ヘルス 』の2018年5月号に掲載された記事のひとつで、
AGEを長年研究するAGE牧田クリニックの牧田善二院長にインタビューされた記事で、
関連の【NIKKEI STYLE】に再構成されて、5月12日に配信され、
無断ながら記事の大半を転載させて頂く。

《・・何をどう食べるかで、老いの進み方が変わってくる。

            

カギは、肌や骨などの老化の元凶、AGE(エージーイー、終末糖化産物)を増やさないこと。
医師が薦めるちょい足しレシピ、食べ方ルールなどを一挙公開。
実践すれば10年後の若々しさが大きく変わるはず。


朝は、ベーコンエッグでたんぱく質をとり、野菜や果物不足を補うために、フルーツジュースをごくり・・。
もしも、このような朝食が続いているようなら要注意。
体内に老化の元凶物質、AGE(終末糖化産物)がたまっている可能性がある。


AGE(終末糖化産物)は、たんぱく質に糖がくっつき劣化する「糖化」反応でできる。
このAGE(終末糖化産物)が体の中に増えると、肌や骨、血管などの老化が進みやすい。


「体を構成するたんぱく質の3割以上を占めるのが、コラーゲン。
肌のコラーゲンが糖化してAGE(終末糖化産物)が増えると、シミやシワのもとに。

骨や血管のコラーゲンにAGE(終末糖化産物)がたまると、骨粗しょう症や動脈硬化の原因になることも。
ほかにも加齢に伴う様々な病気につながる」
と、牧田クリニックの牧田善二院長は説明する。

            

AGE(終末糖化産物)がたまる主なルートは、
(1)体内のたんぱく質そのものが糖化する
(2)食事でとったAGE(終末糖化産物)が体内に蓄積する、の2つ。


たんぱく質は、血糖値が高い状態が続くと糖化しやすいので、血糖値に気をつけ、
「たんぱく質の糖化を防ぐ、抗糖化食品をとる対策を」と牧田院長。


また、「食品に含まれるAGE(終末糖化産物)の約7%は、消化の過程で体内にたまるので、
AGE(終末糖化産物)量が多い食品は避けて」(牧田院長)。



ここからは、2つのルートに応じた“老けない食べ方”


【老けやすい】
   全身の老化を進める主な原因は、AGE(終末糖化産物) 
   体内のたんぱく質が糖化して、AGE(終末糖化産物)


写真:NIKKEI STYLE


体内でAGE(終末糖化産物)を作らない


体内にどれくらいのAGE(終末糖化産物)が、たまっているのかを知る指標となるのが、
糖尿病の検査で調べるヘモグロビンA1C(エーワンシー)だ。

赤血球中のたんぱく質であるヘモグロビンが糖化する初期反応物質で、
検査数値が高いほど全身の糖化も進んでいるといえる。


「この数値が基準より高めという人はもちろん、
日ごろからAGE(終末糖化産物)の多い揚げ物などを好んで食べる人などは、
AGE(終末糖化産物)化を防ぐビタミンB1やB6、カテキンなどの成分をとるといい」と牧田院長。

ビタミンB1には糖質の代謝を促し、B6、カテキンはAGEの吸収を阻害する働きもある。


3つの成分を一緒にとれる牧田院長イチオシのレシピが「粉茶豆乳」。
ビタミンB1、B6が豊富な豆乳に、カテキンの多い粉茶を混ぜるだけで簡単だ。


作りおきには、食品に含まれるAGE量を約半分に減らしてくれるという酢と、
ビタミンB1の抗糖化作用を持続させるアリシンが一度にとれる「酢タマネギ」を。

豚肉やウナギなどのビタミンB1が豊富な食材に足すだけで、
AGE(終末糖化産物)の摂取量をぐんと減らすことができる。


このほかにも、鶏むね肉などに多く含まれるカルノシンやベリー類のアントシアニンといった抗酸化成分は、
糖化を加速させる活性酸素を除去してくれる。

オイルを上手に使って血糖値を急激に上げない食べ方や、
抗糖化作用のあるワインなどもAGE(終末糖化産物)を減らすのに効果的だ。

            

■糖化を防ぎ美肌を作る 老けない食べ方ルール7

AGE(終末糖化産物)を作らない大本命といえるのが、ビタミンB1、B6、カテキンなどの抗AGE(終末糖化産物)成分。
これらの成分を手軽にとれる、7つの食べ方ルールをご紹介する。


【ルール1】
    揚げ物・焼き物には酢やレモンをちょい足し! 
    酢やレモンに含まれるクエン酸には、食品中のAGE(終末糖化産物)を減らす働きがあり、
    「肉をマリネしてから焼くと、ただ焼く場合に比べAGE(終末糖化産物)量が約半分に減ったというデータも」(牧田院長)。

    糖の代謝をスムーズにする働きもあるので、AGE(終末糖化産物)が多めの食事には、レモンや酢をお供に。

【ルール2】
    メインにはカルノシン豊富な鶏むね肉を 
    カルノシンは、動物の筋肉や肝臓の中にある抗酸化物質。
    
    抗疲労物質として注目される成分の一つで、糖化を促進する活性酸素を取り除き、
    強力にAGE(終末糖化産物)を抑え、肌を若々しく保つ効果があることもわかってきた。
    メインの食材には、カルノシンが豊富な、鶏むね肉を選ぼう。

【ルール3】
    サプリやキノコでビタミンB群をとる
    ビタミンB1とB6は、糖尿病合併症の治療でも使われる抗AGE(終末糖化産物)ビタミンの代表格。

    お互いが助け合って働くため、B群のサプリメントなどでとれば効率がいい。
    食品ではキノコ類にビタミンB群が豊富。
    キノコには、ほかにもビタミンDや食物繊維のβグルカンも含まれる。

            

【ルール4】
    αリポ酸を含む緑黄色野菜をしっかりとる 
    αリポ酸には、細胞での糖の代謝にかかわり糖化を防ぐ作用がある。

    また、ビタミンCの約400倍ともいわれる強力な抗酸化作用があり、疲労回復にも効く。
    葉物類やトマトなど、緑黄色野菜に豊富に含まれる成分なので、毎日こまめにとる習慣を。

【ルール5】
    果物はジュースではなく「少量を丸ごと」が鉄則! 
    ブルーベリーなどに含まれるアントシアニンには、シワの原因となる活性酸素を抑え、
    AGE化を抑制する働きがある。

    ただし「果糖は糖質の中で最もAGE(終末糖化産物)を作りやすく、その速さはブドウ糖の約10倍」と牧田院長。
    市販のジュース類には、果糖を多く含むものが多いので、「果物は少量を丸ごととるのがお薦め」という。

【ルール6】
    炭水化物にはオリーブオイルをプラス 
    ご飯、パンやパスタなど、炭水化物だけの食事よりも、
    オリーブオイルなどの脂質と一緒に食べたほうが、食後血糖値は上がりにくい。

    AGE対策には、オリーブオイルで調理したパスタは大正解。
    パンやおにぎりにもプラスして。

【ルール7】
    お酒は、抗糖化・抗酸化作用があるワインを 
    ワインには赤でも白でも、抗糖化作用と抗酸化作用があり、
    「適量なら、翌朝の血糖値を下げる働きもある」と牧田院長。

    白ワインには、利尿作用やダイエット効果もあり、牧田院長も毎日愛飲しているという。
    赤ワインには、ポリフェノールも含まれる。
    甘口より糖質量の少ない辛口を、グラス1~2杯の 適量で。

            

【調理法も工夫して 老けない食べ方】

AGE(終末糖化産物)が多い食品を控える

肉や魚、チーズなどたんぱく質の多い食材は、
「焼く・揚げる」などの高温調理で食品中のAGE(終末糖化産物)量が増えやすい。
老化を防ぐには、できるだけ「ゆでる・蒸す・生」がお薦めだ。



大量のAGE(終末糖化産物)を体内に入れないためには、調理法による違いを知っておくことが重要だ。
「食品中のAGE(終末糖化産物)を最大限に増やしてしまうのが、高温での調理。
揚げるよりは焼く、焼くよりは電子レンジ加熱、ゆでる・蒸すなどの調理法がAGE(終末糖化産物)は抑えられる。
刺身のような“生”だとさらに少ない」と牧田院長。


高温調理で特にAGE(終末糖化産物)が増えやすいのが、肉や魚、チーズ、卵など、たんぱく質が多い食品だ。
同じ鶏むね肉でも、焼いたり、揚げたりすることで、AGE量はぐんと高くなる。

ベーコンやフランクフルトソーセージなども、焼くと1食分なんと1万KU以上と、
1日の摂取目安量の7000KUを超える超高AGE(終末糖化産物)食になるが、
ゆでたり、電子レンジ調理なら低く抑えられる。

卵料理もゆで卵だと、目玉焼きの6分の1以下で済む。


また、しょうゆや味噌などの大豆を使った調味料は、醸造の過程でたんぱく質の糖化が進むが、
「少量を普通に使う分には、問題ない。
ただし、魚の『照り焼き』など、砂糖が入ったしょうゆに漬けて焼く調理法は、AGE(終末糖化産物)ができやすい」と牧田院長。


とはいえ、揚げ物などの高温調理食品や、高AGE(終末糖化産物)食品をどうしても食べたいときには、
レモンや酢、緑黄色野菜を上手に使って、表を参考に、「老けない食べ方」を身につけていこう。・・》


注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
            

私は東京の調布市に住む年金生活の73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。

そして雑木の多い小庭の中で、古ぼけた一軒屋に住み、
私たち夫婦はお互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごして、早や14年目となっている。

こうした中で、食事に関しては、ここ3年は殆ど変わらず美味しく頂いている。

            

私は幼年期に農家の児として育ったので、齢ばかり重ねた今でも、

朝食は、ご飯と汁、おかずと香の物で成り立っていた庶民の一汁三菜(いちじゅうさんさい)の真似事をしている。

私の朝食の原則として、前菜を必ず頂いている。

タマネギをスライスし、生ワカメとあえて、そしてミッカンぽん酢とお醤油をかけて、
大きな皿に盛大に食べたりしている。

やがて十六穀米の入った白米のご飯を半合ばかり盛ったお茶碗、インスタントのワカメの味噌汁、

納豆、コブの佃煮、シラス干し、福神漬けを必須として、
これ以外はカブの醤油漬け、カブの葉の塩漬け、焼きノリなどを
加える時もある。
そしてシャケの瓶づめ、或いはサバ缶のミソ煮で頂くことが多い。

家内は時折つきあうが、大半は食パンにジャム、オレンジ・ママレード、或いはブルーベリーを塗り、

二枚ばかり食べながら、ホット・コーヒーを飲みながら頂くことが多い。
そしてバナナなど果物も食べたりしている。
           
昼食は私はホット・コーヒーを飲みながら、小さな塩フランスバンを三ばかり食べたりしていたが、
家内はケーキのような菓子パンを食べることが多い。

しかしながら昼食は、お互いに自由な時間を過ごしているので、
それぞれ自在に食べることが多いのが、実態となっている。


そして私は4月から9月までは、トマトを二つを食べた後、キュウリを2本食べ、
10月から3月までは、やはりヨーグルトを箱の半分を食べた後、リンゴを一個ばかり食べたりしている。

          
                                                          

やがて夕食の時は、私は前菜として、冷凍のブロッコリーを電子レンジで少し温めて、
やはりミッカンぽん酢とお醤油をかけて、食べてきたが、
ここ半年は、ニンジンを千切りにして、電子レンジで少し温めて、
ゴマドレッシングに少しお醤油をかけて、食べている。


そしてその日に応じて牛肉、豚肉、鶏肉、ラム肉など200グラム程度に、
キュベツなどの野菜を多めに頂いたりし、

ときにはシイタケ、シメジ、マイタケなどの茸(きのこ)も好きで、食べたりしている。

こうした中で、お酒に関しては節制しているが、5日毎にウィスキーの濃い水割りを飲んだりしている。


家内は肉と野菜を食べたりした後、プリンかショートケーキを食べたりしている。


このような食事内容が、真実一路のように変化がなく、ここ三年ばかり続いたりしている。

          
            
          

こうした朝食、夕食を頂いている中でも、 私は平素は亡き母の遺伝を素直に受け継いだ為か、
男の癖におしゃべりで、家内と談笑をしたりしている。

こうした日常生活の食事となり、ときおり駅前に買物とか旅行の旅先の時は、
家内の要望を聞いて、食事処で少し背延びした料理も頂いたりしている。
                          
ときおり家内が独り住まいの家内の母宅に、家内の妹と交代で、看病で宿泊することも多くなっていて、
私は我が家で『おひとりさま』の生活になるが、
こうした時でも、殆ど食事内容が変わらなく過ごしたりしてきた。

                      

こうした中、70代を迎えてからは、心身共に自立し健康的に生活できる健康寿命を意識して、
確かな『生きがい』と『健康』、そして『気力』を持続できるようにと願いながら
プラス思考で過ごしているのが実態となっている。

もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
歩くことが何より健康体の源(みなもと)と思い、そして適度な熟睡する睡眠、或いは程ほどの食事が、
セカンドライフ健康体と信愛し、年金生活を過ごしている。

今回、AGE(終末糖化産物)を長年研究されている牧田クリニック牧田善二院長より、
体内でAGE(終末糖化産物)が増加すれば、
やがて肌はシミ、シワ、骨は骨粗しょう症、血管は動脈硬化、身体はガン、脳はアルツハイマー症に・・
と学んだりした。

こうした老化現象の対策として、具体的な食生活の7か条を学んだりし、多々教示されたりした。

そして当面として、ここ数年は私がこよなく愛食している食物も、心も身も美味しく頂いているので、
いつの日にか、メニューを変えようかなぁ・・と微笑んだりしている。

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神代植物公園の『春のバラフェスタ 』、昨日は雨降る中を私は傘を差して鑑賞し、独り微苦笑を重ねて・・。

2018-05-11 16:22:03 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。

そして雑木の多い小庭の中で、古ぼけた一軒屋に住み、
私たち夫婦はお互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごして、早や14年目となっている。


私は幼年期に農家の児として育てられた為か、父の妹である叔母が未婚当時に畑の一角に、花壇を作り、
仏様とかお墓にささげる花を見たりしてきたので、里花には愛惜を秘めているひとりである。

或いは田圃(たんぼ)とか遊歩道の片隅に咲いている野花も恋しく、長年に見惚(みと)れたりしている。

そして家内は中学生の頃から茶事を習ってきたので、私は婚約の頃から茶花を教えられて、
魅了されたりしてきた・・。

このように里花、野花、茶花に関しては、少しばかり知っているが、洋花に関しては、殆ど無知な男である。

                        

こうした中で、薔薇(バラ)の花に関しては、何かしら気品のある女性が高価なドレスを召したような、
或いは裕福な家庭で育っている高嶺の花のような女性と感じたり、
私は定年退職した60歳の頃まで、近寄りがたく気後(きおく)れしまい敬遠してきた・・。

そして何かと卑屈と劣等感を秘めてきた私でも、遅ればせながらイギリス、フランスなどの文化を知る為には、
やはり薔薇(バラ)は欠かせない、と確信を深めたりした。

やがて年金生活の60代に国内旅行で『バラ園』があった時、鑑賞する時もあったりし、
私の住む地域の都立『神代植物公園』に於いて、恒例の『春のバラフェスタ 』、『秋のバラフェスタ 』などで、
数多くの美麗な薔薇(バラ)を鑑賞して、感性の衰えた私でも、魅了された。

            

こうした心情を秘めてきた私は、今年も恒例の『春のバラフェスタ 』が開催されていると知ったりした。

             

昨日、私は前夜の天気情報に於いて、明日の10日は、相変わらず三月下旬のような寒さですが、
午前9時頃まで曇りですが、この後は急速に回復して快晴の日となります・・と報じていたので、
私は神代植物公園に行き、恒例の『春のバラフェスタ 』を鑑賞しょう思い、朝の9時過ぎに出かけた。

そして私は最寄り駅のひとつ京王線の『つつじが丘』駅に向かい、15分ばかり歩いた後、
駅前より路線バスに乗車して、やがて神代植物公園の正門前に到着した。

どんよりとした曇り空の中、入園すると、雨がポッリ・・ポッリ・・と降りだしてきた。
私はどうしてなのょ、と思いながらバックから折りたたみ傘をだして、
傘を左手に差しながら、小雨となった中を歩いたりした。

そしてバラ園に着いたが、幾百の多彩なバラにめぐり逢えたが、
私はデジカメで美麗なバラを撮るには、困ったなぁ・・と感じたりした。

私は1キロ近いデジカメ本体は、首にデジカメ用のストラップをネクタイのように提げて、
こうした中で、魅了された情景を両手でデジカメ本体を握って、撮っている習性となっている。

今回は、雨降る中、左手は傘を差し、右手だけでデジカメ本体を操作を始めたが、
やはり少し重さを感じて、やむなく傘を差してしる左手で、デジカメ本体の一部を支えたりした。
こうした結果、フィールド・ジャケットの一部は濡れたりした。

             

或いは、バラを撮るために、ときおりしゃがんで、撮ったりすると、長ズボンは濡れたりした。

             

こうした中、遠雷の音が聞こえ、まもなく本降りとなった・・。

             

私は神代植物公園には、ここ10年に於いて少なくとも24節季のように幾百回ぐらい、
園内を遊学してきたが、本降りの雨の中は初めてであり、戸惑ったりした。

             

しかしながら本降りの雨の中のバラも、美麗だよねぇ、と単細胞の私は撮り続けた。

             

やがて2時間近く撮った後、雑木林を歩いた後、神代植物公園を辞したりした。

             
この後、自宅で一時間過ぎた午後2時頃、雨はやみ、急速に天気は回復して、
晴れ間となった・・。
こうした予期せぬ天気のうつろいに、この人生にも色々あったからねぇ・・
と心の中で思いながら、私は独り微苦笑を重ねたりした。
           

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"ミスター年金"より、公的年金の基本、現状、今後の状況、年金生活の私は改めて学び、やがて安堵を重ねて・・。

2018-05-10 13:44:59 | ささやかな古稀からの思い

昨夜、愛読しているネットの『プレジデントオンライン』を見ている中で、
【 「公的年金は潰れる」論は「トンデモ系」 】と題された見出しを見たりした・・。

私は東京の調布市の片隅に住む年金生活の73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭の中で、築後39年を過ぎた古ぼけた一軒屋に住んでいる。

そして私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごして、早や14年生となっている。

我が家は厚生年金に関して、生活費の基盤なので、何かと注視している。

こうした中で、厚生年金は微減してきたので、将来はどのようになってしまうのか、
ときおり無力ながら、この先どのくらい減ってしまうのか、不安になってしまったことも事実であった。

このような心情もあり、やはり公的年金に関しては、何かと気になり、精読してしまった・・。

           

この記事は、"ミスター年金"と称されている香取照幸(かとり・てるゆき)さんの個人的見解であるが
厚生労働省で政策統括官、年金局長、雇用均等・児童家庭局長を歴任され、
内閣官房内閣審議官として「社会保障・税一体改革」を取りまとめた賢人の御方である


今回、公的年金に関して、インタビーュを受けた記事であり、
誰しもが判りやすい
公的年金の基本、現状、今後の状況を明言され、
『プレジデントオンライン』の2018年5月9日の配信されていた記事である。

殆どの御方が老後の不安の中で、公的年金に関しても難題と思われ、私は共有致したく、
あえて
無断であるが、この記事を殆ど転載させて頂く。

           

《・・

今の日本はすでに1人で1人を支える「肩車」状態

公的年金制度の基本的仕組みは

「働いている現役世代が生み出した付加価値を、生産から退いた高齢者に配る」ことです。

公的年金制度は、よく「肩車」や「騎馬戦」などにたとえられますが、
「働いている人が、働いていない人を含めた全人口を支える」
という意味では、公的年金も普通の社会と基本構造は同じです。

2015年の日本の総人口は約1億2700万、生産年齢人口は約7700万ですが、
実際に働いている人数(労働力人口)は6600万で、総人口の約50%にすぎません。

6600万人で1億2700万人を支えている。

今の日本だってすでに「1人で1人を支える『肩車』」になっているのです。

今、日本経済は潰れていません。
しかし今後日本は、さらなる高齢化・少子化・人口減少・労働力人口減少が
進んでいろいろ厳しい局面を迎えます。

このことは公的年金についても言えることです。
支え手が減って、受給者が増える。
制度は潰れはしませんが、バラ色の給付というわけにはいきません。

公的年金制度の課題は、日本社会と日本経済が直面する課題そのものです。
できる改革は、進めていかなければなりません。
「公的年金は、日本社会・経済の縮図」なのだということをまず理解してください。

           

▼年金は貯蓄でもなく、金融商品でもない

このことから、公的年金を考えるときのポイントをいくつか導き出すことができます。

第1に、公的年金は「付加価値の分配」ですから、経済の実力以上の年金制度というのはありえません。
もし現役世代が負担に耐えきれず、年金が潰れるというときが来るとしたら、
その前に日本経済が潰れているはずです。
逆に言えば、日本経済が潰れない限り、公的年金は潰れません。

第2に、年金が抱える課題は、年金の世界だけで考えていても、解決できません。
処方箋の多くは、年金制度の外にあります。

少子化/家族支援対策・経済政策・雇用労働政策等々、日本社会・経済の課題解決が
年金制度の課題解決につながります。

第3に、経済学者の大好きな年金の財政方式に関する論議は、問題解決にとって意味を持ちません。
積立方式でも賦課方式でも、民営化しようがどうしようが、
「現役の生んだ付加価値の分配」という制度の本質に変わりはありませんから、
それで給付水準が上がるわけでも、年金財政がより安定するわけでもありません。

制度が潰れるわけでもないのに、土台ごとひっくり返すような制度変更をするのは、馬鹿げています。

           

もうひとつ大事なことがあります。

公的年金は「貯蓄」でも「金融商品」でもない。
「保険」だということです。


何を「保険」の対象にしているかというと、「長生きのリスク」です。
寿命は誰にもわかりません。
「長生きしても困らない」ためにあるのが公的年金です。
だから世界中どこでも、公的年金は必ず「終身給付」です。

「生きている限り、いつまででも保障します」が公的年金の基本機能です。
払い込んだ保険料の総額とは関係ありません。

金融商品である私的年金との決定的な違いはここにあります。
「保険」ですから、損得論は無意味です。
死んでお金は持っていけませんし、その必要もないはずです。

以上、簡単なことですが、多くの経済学者のみなさんは、
社会保障の基本哲学をちゃんと勉強していないのか、よくわかっていない人が多いです。

「公的年金は潰れる」、「巨額の債務超過・積立不足がある」、「民営化すれば効率化できる」なんて
まだ議論している人がいたら、その人の唱えている社会保障論は、まず「トンデモ系」と思っていただいて結構です。

           

■今後30年間が「労働力人口減⇔高齢者増」の厳しい時期


これらのことを頭において、これから10年、20年先の公的年金制度がどうなるか、
どうすればいいのかについて考えてみます。


今後、労働力人口は減少します。
現在6600万人の労働力人口は、2030年には最大5300万人にまで減少し、
その後も減少していきます。

他方で65歳以上の高齢者人口は、2040年あたりまで増え続け、その後減少に転じます。
その後は労働力人口も、高齢者人口も減っていきますが、
高齢世代と現役世代の人口バランスは取れていくので、年金制度は安定していきます。

つまり、今後20~30年間が
「労働力人口が減るのに、高齢者は増え続ける」という一番厳しい時期だということです。

この「胸突き八丁」をどう乗り切るかが、日本社会と経済全体の課題であり、
社会保障と公的年金制度の課題でもあるわけです。

この課題を解決する抜本的な対策は、
支え手=働く人を増やし、総人口に占める労働力人口の割合を増やすか、
増やせないまでも、せめて維持するかしかありません。

少子化対策はもちろん大事ですが、2018年生まれた子どもが、
支え手になるまでには20年かかりますから、同時に足元の対策が必要です。

元気な高齢者には、働いてもらう、
より多くの女性が、普通に働けるようにする、
若い世代をフリーターなどで無駄に使わないで、ちゃんとフルタイムで働いてもらう、ということです。

大きな視点で、公的年金制度の持続可能性、財政の安定と老後の所得保障の両立を考えるのなら、
雇用と年金をセットにした制度設計が、ぜひとも必要です。

現役の雇用と所得の保障が、公的年金制度の安定とその人自身の老後保障につながるからです。

「日本社会の課題」とか言って他人任せにして、
公的年金制度は、自分では何も改革しないのか?  と言われそうです。
もちろんそんなことはありません。

           

この厳しい20~30年間を乗り切るために、公的年金制度では2つの仕掛けを用意しています。

1つは積立金の活用です。
日本の年金積立金は、約170兆円(2017年3月末)。
日本の公的年金基金(GPIF)は、世界最大の年金基金です。

この積立金と運用益を計画的に取り崩して、
給付に回すことで、現役の負担上昇や高齢者の給付水準低下を抑制します。

もうひとつが「マクロ経済スライド」です。
それは簡単に言えば「現役世代が負担できる範囲に収まるように、年金給付を調整する」という仕組みです。

年金給付は、実質価値維持のため物価スライドしますが、
一定の計算式に従って、このスライド率を割り引くことで、年金の実質水準を引き下げ、
年金給付総額を調整して、長期的な収支バランスを確保する、というのがマクロ経済スライドです。

この仕組みの導入によって、公的年金財政は安定しましたが、
給付水準は、少しずつ引き下げられていきます。

マクロの制度は維持できてもミクロ、
つまり個々の受給者にとっての年金の所得保障機能は、縮小していくわけです。

そして当然ながら、マクロ経済スライドによる調整が長期化すればするほど、
給付水準は、より大きく低下します。

なので、この仕組み導入後の公的年金制度の課題は、
ミクロの給付をいかに守るか、つまりマクロ経済スライド調整期間をいかに短くするか、
ということになります。

そもそもこの「マクロ経済スライド」は、永遠にやりつづけるものではありません。
年金財政の長期的収支が確保できれば、そこで終わりになります。
端的に言えば「胸突き八丁」を乗り切るための仕掛けなのです。

           

■約50年間で平均余命は10年以上延び、その分、老後期間が延びた


ではどうすれば調整期間を短くできるか、考えてみましょう。

経済成長はもちろん大事です。
成長して給与が増え、保険料収入が増えれば、それだけ年金財政は安定し、
個々人の将来の給付も確保できます。

より重要なのは、先ほど述べた支え手=労働力人口を増やすことです。
非正規労働者への社会保険の適用拡大も同じこと。
年金制度の支え手を増やし、同時に個々人の将来の年金給付も確保する、ということです。

さて、この「支え手を増やす」を、別の視点から考えてみましょう。
年金制度の基本構造は、ミクロでもマクロでも同じです。

ミクロで考えると「現役のうちに、引退後を含めた一生分の所得を確保する」ということですし、
それを束にしてマクロで考えれば
「現役世代が生んだ付加価値で、引退世代に年金を給付する」ということになります。
1人でやるか、社会全体でやるかだけの違いです。

人口が高齢化する、高齢者が増えるというのは、平均寿命が長くなり、
一人一人が長生きするようになったことの結果にほかなりません。

とすれば、もし平均寿命(引退時点での平均余命)が10年伸長したとするなら、
そのうちの何年かは働く期間にして、引退年齢を後ろ倒ししなければ、
ミクロで見てもマクロで見ても、これまでどおりの収支バランスは、成り立たないことになります。

           

この約50年間に日本人の平均余命は、10年以上延びました。

しかし就労期間は、それに見合うようには延びていません。
平均余命が延びた分、ほぼ老後期間が延びているような状態です。

ミクロでバランスが取れれば、マクロでもバランスが取れます。
平均余命の延びに見合って、就労期間を延ばすことで、バランスを取ることができれば、
マクロ経済スライドによる給付水準調整期間が短くなって、受給水準は維持されますし、
そもそも年金制度加入期間が長くなりますから、年金額もアップします。

スウェーデンでは、平均余命の延びに対して、どのくらい就労期間を延ばせば、
給付水準が維持できるかを国民に示しています。
たとえば1930年生まれと1995年生まれを比較し、65歳時点での平均余命は6年9カ月延びているので、
引退年齢を4年4カ月延ばすと、バランスする(給付水準が維持できる)、という具合です。

繰り返しますが、年金は、社会や経済の縮図です。
平均寿命の伸長に合わせて、働く期間を長くするというのは、
本人のためにも、社会全体の持続可能性を確保するためにも、必要なことです。
そのことを年金の世界で考えれば、こうなるというだけの話です。

かくして、話は戻ります。
雇用保障と年金をセットにした制度設計。
雇用政策と一体となった年金制度改革。

これがぜひとも必要です。
「普通の人が、普通に働いて普通に暮らせる」仕組みの構築を目指し、
雇用と年金は一体的に考えるということです。・・》
      

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
                

過ぎし2015年の12月下旬に、私は嘉悦大学教授の高橋洋一さんのひとつの寄稿文、
【「日本の借金1000兆円」はやっぱりウソでした
       ~それどころか…なんと2016年、財政再建は実質完了してしまう! 
          この国のバランスシートを徹底分析 】
と題された寄稿文を読んだりした。

この御方は、1980年、大蔵省(現財務省)入省、理財局資金企画室長、内閣参事官など歴任され、
小泉内閣、安倍内閣では 「改革の司令塔」として活躍され、2007年には財務省が隠す「埋蔵金」を公表し、
政策シンクタンク「政策工房」会長されている賢人である。

私は読み終わった後、私は大手メディアの新聞、テレビなどは日本の借金は1100兆円を超えている、と報じられているのは、
財務省が国の財政が悪化し、これからも支出の多くを占める社会保障費に危惧して、
資産合計を抜きにして、負債合計だけの1171.8兆円を声高に公表されている、と感じたりした。

そして悪しき表現で明記すれば、財務省は社会保障費は殆ど使用する高齢者を人質に、
消費税など増税しないと財政危機になりますょ、そして年金は激少したり、医療、介護も低下しますょ、
と私は思い馳せて、苦笑させられた。

                 

やがて昨年の2017年3月下旬に、信愛している高橋洋一さんの著作
『 年金問題は嘘ばかり ~ダマされて損をしないための必須知識~ 』(PHP新書)を購読して、
私は年金制度に多々教示したりした。
   
この表紙には、財務省、厚労省、金融機関がひた隠す年金の『真実』も明記されて、
やがて私は年金に関しては安堵してきた。

           

今回の記事の"ミスター年金"の公的年金の基本、現状、今後の状況を学び、
改めて《・・日本経済が潰れない限り、公的年金は潰れない・・》に論説を信愛させられたりした。

そして私は、信愛している高橋洋一さん、そして今回の"ミスター年金"の香取照幸(かとり・てるゆき)さん、
おふたりの
賢人から私は学び、私は年金に関しての不安は払拭できて、安堵を重ねている。

そして私たち夫婦の晩秋期の不安は、いつの日にか、介護・要となり、
介護施設にお世話になる時と思われる。

やむなく、何かとブラス思考の私は、人それぞれ永(なが)らえるのは、自助努力も肝要であるが、
こればかりは神様か仏(ほとけ)さまの采配によるよなぁ・・と微苦笑したりしている。

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『小雨降る径』の歌、今朝かぼそい声で私は唄い、やがて私たち夫婦の新婚時代を思い馳せられて・・。

2018-05-09 14:01:43 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の73歳の身であるが、
今朝、二階の寝室で眠り込んでいる私は、屋根に雨脚が強くはじける音で目覚めたりした。

やがて玄関の軒下に降り立ち、ぼんやりと小庭に降りしきる雨を眺めていたら、
まもなく何かと単細胞の私は、ひとつの歌が脳裏から舞い降りて、かぼそい声で唄いだした・・。

♪静かな雨 並木の雨
 あなたを待つ 胸に降る

【『小雨降る径』 作詞・Robert CHAMFLEURY、訳詞・坂口 淳、作曲・Henry HIMMEL 】 

このような歌を唄った後、この歌を盛んに聴いたりしていた頃が想い浮かび、
過ぎ去る年の私たち夫婦の新婚時代を甦(よみがえ)ったりした・・。

              

確か45年前の前後、この頃の独身の私は会社を退社後に、
幾10回ぐらい銀座の一角にあるシャンソン喫茶として名高い『銀巴里』に通うように行き、
数多くのシャンソン歌手が近くで唄われるのを、
私はコーヒーを飲みながら、名曲の数々を聴いたりしていた。

そして、近くにあるカフェ・バー形式のような『蛙たち』にも行き、
私は濃いめの水割りのウィスキーを呑みながら、数多くのシャンソン歌手が唄われるのを、
聴き惚れ、心酔していた時期であった。
そして、ときおり歌をリクエストをしたりしていた。

この後、家内と結婚前に交際していた時も、この『銀巴里』とか、『蛙たち』にも行ったりしていた。

               

私たち夫婦は、1976年(昭和51年)の3月下旬に結婚し、新婚生活の始めた。
入居した所は、東京都と千葉県の間に流れる江戸川沿いにある『国府台』であり、
この駅の付近には東京医歯大、和洋女子大、国府台高校などある学園街であった。

京成電鉄の『国府台』駅より商店街を抜けると、真間川が流れ、
この近くに賃貸マンションがあり、ここの最上階のひとつの2DKを借り入れた。

角部屋の窓を開けると、樹木に覆われた小高い丘にお寺があり、
私はこの窓辺から観える景観に瞬時に魅了され、貸り入れることを決めたりした。
そしてこのお寺は、由緒ある弘法寺(ぐほうじ)であることを知るのは後日ある。

私はこの当時は音楽業界のあるレコード会社に勤めて、コンピュータの専任者として、
兄弟会社のようなレコード会社の担当者と共に、
未熟な私は指導を受けながら、システム開発を共にして奮闘したりしていた。

そして家内は専業主婦として過ごす中、
中学生の時から茶事を学んできた延長として、週に一度にお茶の先生の宅に訪れて習ったりし、
料理、洗濯、掃除も手を抜くこともなく、何かと従順な新妻であった。

               

こうした中で、私たち夫婦が新婚まもない1977年(昭和51年)の晩春だったと記憶しているが、
東銀座にある東急ホテルの小さなレストランで、
デイナー形式でシャンソンを聴きながら、夕食を頂くのに、私たち夫婦は参加した。

歌い手は、私がこの当時圧倒的に心酔していた金子由香里さんで、
私は、金子由香里さんが『銀巴里』、『蛙たち』と違った面が表現できる方、
と私は感じたりしていたので、家内を誘ったりした。

そして金子由香里さんが3曲を唄った後、ボーイさんがリクエスト曲の用紙を廻してきた・・。

私は万年筆で、『小雨降る径』と書き込んだ。

やがて20分過ぎた頃、リクエストの3番目として、
『どなた様が・・この《小雨降る径》をリクエストして下さったのでしょうか・・』
と金子由香里さんは言った。

私は少し恥ずかしげに、片手を少し挙(あ)げた。

金子由香里さんは、リクエストした方が人生の苦楽に未熟な若い方であり、
少し驚ろかれた表情されたが、唄いだした・・。

この後、数曲唄われた後、私たちのテーブルに近寄ってきた。

『今晩・・来て下さって・・
あたくしの歌を・・よく聴いてくださる方よねぇ・・』
と私に向って、金子由香里さんは言った。

私はカフェ・バーの『蛙たち』などにも、幾たびか通ったりし、
金子由香里さんの歌を聴きたくて時折リクエストなどをし、記憶されていたのかしら、と私は照れたりした。

そして、金子由香里さんは、
『あなた方・・お若くて・・これからの人生・・何があろうとも・・
お互いに思いやりがあれば・・大丈夫ですから・・』
と微笑みながら、このような意味合いの言葉を私たち夫婦に言った。

私は、人生の駆け出しの夫婦として、希望と幸福に満ちたあどけない私たちを視(み)て、
人生は波乱に満ち、たとえ苦難にあっても、励ましと慰めがあれば・・このように配慮されて下さり、
わざわざ私たちのテーブルに寄って下さった、と思ったりした。


このようなささやかな思いでが私たち夫婦にはあったが、
若き日々、人生を歩みだした時、『小雨降る径』をリクエストしたのだから、
この頃の私は人生の怖さ、痛みも知らず、ただ気負(きお)っていたのかしら、
と結婚生活42年を過ぎた私は、人生には世間の荒波などもあったからねぇ、微苦笑したりした。

この後、私は金子由香里さんの『小雨降る径』を急に聴きたくなったりした・・。

                

私の音楽収納棚には、金子由香里さんのレコード、カセット、CDは少なくとも15枚のアルバムはあるが、
この『小雨降る径』が収録されたのはレコードだけであり、少し気落ちしたりした。

私はレコード・プレイヤーを手放しているので、やむなくネットの【YouTube】に頼って検索し、
久々に【YouTube】の上であるが、
愛(いと)しき金子由香里さんの『小雨降る径』の歌に、めぐり逢えた・・。


http://www.youtube.com/watch?v=8ynlEywBSBI&playnext=1&list=PLC14E9415E89B51B1
☆【YouTube】【『小雨降る径』 作詞・Robert CHAMFLEURY、訳詞・坂口 淳、作曲・Henry HIMMEL 、唄・金子由香里】☆

私はあれから42年近く金子由香里さんにお逢いすることなく、
ときおりCDのアルバムで聴いたりするばかりであるが、
お齢を召されもお元気なのかしら、と私は小雨降る小庭を眺めながら思ったりした。

               

余談であるが、過ぎし6年前、私が勤めていた会社でOB懇親会の中、
洋楽畑に在籍されていた金子由香里さんの弟さんとお逢いした時、少し談笑した後、
私は何かと金子由香里さんには人生の機敏を教えられました、と御礼の言葉を重ねたりした。

『そうぉ・・姉貴がねぇ・・』
と少し照れくさそうに弟さんは私に言ったりした。
 
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自分の命は自分で決める時代、医師・作家の鎌田 實さんより教示され、やがて私は共感を深めて・・。

2018-05-08 15:26:28 | ささやかな古稀からの思い

先程、ネットでニュースを見たりした中で、
『 自分の命は自分で決める時代  /鎌田實の健康連載 と題された見出しを見てしまった。

もとより鎌田實(かまた・みのる)さんは、医師・作家であり、
長野・諏訪中央病院院長で「健康づくり運動」を実践され、
脳卒中死亡率の高かった長野県の長寿日本一に貢献されている御方である。

私は年金生活の73歳の身であるが、幸いにも入院するような大病には遭遇せず生活をしてきたが、
確固たる死生観はなく、漠然としているが、いつの日にか晩年期の中で、思惑を重ねると思われので、
聡明なお人柄の医師・作家の鎌田實(かまた・みのる)さんから学ぼうと思い、読んでしまった・・。

この記事は、日刊スポーツのネットに於いて、『 鎌田實の人生100年時代をどう生きるか 』連載記事で、
今回、第29回として、『 自分の命は自分で決める時代 』2018年5月8日に掲載され、
私たち高齢者にとっては、切実な難題でもあり、お互いに共有致したく、あえて無断であるが転載させて頂く。

《・・自分の命は自分で決める時代

             

 
・「多死時代」がやってきた

2025年には、団塊の世代が後期高齢者に突入し、43万人の介護難民が出ると言われています。
同時に「多死時代」がやってきます。

国の推定によると、現在年間136万人の死者数は、2040年には168万人に達します。


内閣府の調査では、5割を超える人が「自宅で最期を迎えたい」と答えていますが、
現実には自宅13%、病院75%。希望と実態には大きな隔たりがあります。



・「死の哲学」を持とう


自分なりの「死の哲学」を持つ必要があるように思います。

「渡る世間は鬼ばかり」の橋田寿賀子さんと対談をしました。
彼女は「認知症になったら安楽死がしたい」と望んでいました。
日本では安楽死は認められていませんが、たくさんの賛同の声があがりました。


思想家の西部邁(にしべ ・すすむ)さんが今年1月、自ら命を絶ちました。
「自裁死」と言われています。

病院で不本意な延命治療も受けたくないし、自宅療養では、家族に迷惑がかかる。
そんな中、西部さんらしい自己決定をされたのだと思います。


安楽死も自裁死も、日本では勧められていません。


・延命治療はいるかいらないか自分で決めておこう


食事が取れなくなって、胃に穴を開けて、そこから栄養を取っている人が26万人います。

ぼくは食べられなくなったら無理な治療をしないようにと周りに伝えています。
胃ろうや人工呼吸器が必要になったときに、
そういう治療を受けるか拒否するか、最も自分らしい生き方を示すチャンスです。



日本人は、曖昧に決定を先延ばしして生きる傾向があるが、
自分の死をどうしたいか、紙に書いておこう。
人生100年時代には、命のリテラシーが大切。自己決定をしましょう。・・》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。

             

私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の14年生の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭の中で、古ぼけた一軒屋に住み、ささやかに過ごしている。

こうした中、私たち夫婦は幸運にも大病に遭遇せずに、今日に至っている。

私の父は、肝臓を悪化して、町の医師に来宅して頂き、自宅治療をしていたが、
まもなく私が小学2年生の時に、42歳の若さで病死した。

やがて母は、モルタル造りのアバートを経営して、実家から別居していた。

こうした中で私が結婚前に母と同居していた時、
私が20代の終わりの頃、生前だった私の母と談笑した後、
母は、遠い親戚の裕福の女性の御方が、身体を壊して、高級な介護施設に入居されていたが、
母が見舞いに行った時は、植物人間のような状態であった、と教えられた。

『あたし・・嫌だわ・・そこまで生きたくないわ』
と母は私に言った。

母は寝たきりになった時の自身の身を想定し、実家である長兄の宅などで、
下半身の世話をなるのは何よりも険悪して、何気なしに死生観のことを話し合ったりしていた。

そして容態が悪化して、病院に入院して、一週間ぐらいで死去できれば、
多くの人に迷惑が少なくて良いし、何よりも自身の心身の負担が少なくて・・
このようなことで母と私は、自分たちの漠然としながらも死生観は一致していたりした。

こうした母の根底には、敗戦後の前、祖父の弟、父の弟の看病を数年ごとに看病し、
やがて死去された思いがあったと思われる。

そして近日に植物人間のように状況で、介護されている遠い親戚の方を見た思いが重なり、
このような考え方をされたのだろう、とこの当時の私は思ったりしたのである。

やがて母は私が50代の初め、婦人系のガンで、都内の病院で幾たびも入退院された後、
私が53歳の時、母は78歳で亡くなった。

しかし母が懸念した下半身の世話をなることがなかったので、私なりに安堵したことは確かであった。

             

私は年金生活を始めて、3年過ぎた頃から、
いつの日にか認知症、脳梗塞など、そして寝たきりになる前に、

ポックリとこの世と別れを告げたい、と思ったりしている。
                       
過ぎし9年の晩秋ある日、私の自宅の近くの川沿いの遊歩道を歩いていた時、
この遊歩道は片側が帯状に小公園となり700メートル前後あり、
樹木、草花が四季それぞれに彩(いろど)っている場所で、私の散策の好きなひとつのコースでもある。
      
そして、いつものように木のベンチに私は座り、ペットポドルの煎茶を飲みながら、少し休息をした・・。

この時に、どうした思いか解らないが、いつの日にか命が果てる時は、
晩秋の午前のやわらかな陽射しの中、ポックリと死を迎えられたら本望である、と脳裏をかすめたりした。

この遊歩道で、独りで歩き、好きな本を抱(かか)えて、突然に命が果てる、
といった状況を願ったりした・・。

               
                                             
或いは、いつの年か身体の変調を感じて、自宅で寝ていて数日し、悪化を増す中、
布団の中でオシッコを一度だけ漏らしたりして、死去後のことなどを家内に伝言する。
やがて救急車で病院に運ばれて、入院して数日後に死去する。

そしてこの間に家内からは
『あなたとの生活・・楽しかったわ・・』
と心の中で感じてくれれば充分である。

やがて私の葬儀の中、家内が私の兄妹、知人に、
『一週間前の頃は・・いつものように買い物に行ったり、散歩もしていたの・・』
と家内が言ったりしてくれれば、私はあの世で満足していると思われる。

このような終末期を私は思いめぐらしてきた・・。

             

しかしながら、親戚の叔父さん3名も、終末期に3年から5年も入院され、
こうした中、ふたりの叔父さんは自分の意思はなく、多大な手厚い治療を受けて、病院で亡くなってきた。

こうした話を私は聞いたりしてきたが、
自分で食物を口に運び、食べられなかったら、もとより延命治療は断り、
痛みだけを執(と)って下さる平穏死を選ぶょ、と私は家内に幾たびも言ったりしてきた。

家内も胃ろうや人工呼吸器などの延命治療は、お断りですから・・
と私に言ったりしている。

今回、この記事を読み終わった後、
《・・自分の死をどうしたいか、紙に書いておこう・・》、
確かに本人は意識がなかった場合、家族、医師も、延命治療の判断に戸惑うと思われる。

結果として、本人の終末期の治療を用紙などに明記していないと、
本人の願いとは、余りにも差異がある治療となることを、改めて教示されたりした。

             

この後、私は溜息を重ねたりした・・。
人生100年と昨今言われたりしているが、現在の男性の平均寿命は確か80歳だし、
私はプラス5年で85歳まで生かされれば充分だょ、と思ったりしている。

しかしながら、
人それぞれ永(なが)らえるのは、自助努力も肝要であるが、
こればかりは神様か仏(ほとけ)さまの采配に寄るよなぁ・・と微苦笑したりしている。
            
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認知症になりやすい生活、そして認知症セルフチェック、高齢者の私は学び、やがて少しばかり安堵を重ねて・・。

2018-05-07 15:18:30 | ささやかな古稀からの思い

昼過ぎ、ときおり愛読している朝日新聞社系の基幹サイト【AERA dot.】を見ている中、
【 こんな生活は認知症予備軍のサイン! セルフチェックで判明  】と見出しを見てしまった。

私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の73歳の身であるが、
恥ずかしながら70歳を過ぎた頃から齢を重ねるたびに、物忘れが多くなった、と改めて気付き、

独り微苦笑する時もある・・。

たとえば家内とテレビの旅番組を共に視聴したりしている時など、
あそこも行ったよねぇ、と私は家内に言ったりした時、その地の情景などは鮮やかに重ねることができても、
肝心の地域名が言葉に出来ないことが、もどかしさを感じることがある。

日頃の私は、 いつの日にか認知症、或いは脳梗塞などの難病に遭遇したら、困窮するので、
自宅から3キロ以内の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受しながら、
ひたすら歩き、ときおり大股で歩いたり、或いは足早に歩くことが多くなっている。 

もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わない上、
何よりも自身が自覚できない言動をする認知症は、私は何よりも恐れたりしている。

このような深情を秘めた
私は、どのようなことですか・・と思いながら、
真摯に学びたく記事を精読した。

この記事の原文は、週刊朝日増刊「ハレやか」4月号に於いて、
国立長寿医療研修センター長の遠藤英俊医師にインタビュされて、明確に回答された記事で、
【AERA dot.】に於いて5月7日に配信されていた。

もとより高齢者にとっては、老後の難題のひとつであり、多くの御方と共有いたしたく、
あえて無断であるが、記事の大半を転載させて頂く。

            

 《・・人間は、ただ長生きすればいいわけではありません。
健康な脳を持ち、友人たちと楽しく外出できる足腰を保ち、心にハリがなければいけません。
つまり、健康寿命を延ばすことが重要といえます。


認知症にならないための大切なポイントは3つです。
1つ目は「定期的な運動」、
2つ目は「バランスのよい食事」、
3つ目は「人に関わる」こと。

特に1と2は、糖尿病や高血圧、がんなどの生活習慣病の予防で言われていることと同じです。
つまり、生活習慣病を予防することが、認知症予防の第一歩なのです。


【認知症になりやすい生活】

□肉ばかり食べる
□野菜をあまり食べない
□間食が多い
□喫煙者
□毎日2合以上のお酒(日本酒、ビール、ワイン等)を飲む
□外出を好まない
□運動をほとんどしない
□耳が聞こえにくい、目が見えにくい 

            


■チェックシートで確認し、かかりつけ医に相談を 


認知症は、ある日突然、脳に異変が起きるというものではありません。
5年、10年と少しずつ変化が始まります。
認知症を発症したとしても、予防対策を生活に取り入れることで進行を遅らせることができます。
認知症に怯える必要はないのです。


でも、「最近、同じことを言う」、「家への帰り道なのに迷った」。
そんな症状をいくつか自覚してきたら、認知症の一歩手前のMCI(軽度認知障害)の可能性があります。

MCI(軽度認知障害)は、生活を送る上では支障はないものの、もの忘れがあったり、
認知機能が低下したりしている状態をいいます。
このタイミングで適切な対応を始めることが重要です。

 
認知症は自分自身の気づかないところで、進行しているかもしれません。

下のチェックシートで確認し、14問中、3つ以上、当てはまったら専門医に相談することをオススメします。

認知症専門医に診てもらうのが最善ですが、抵抗がある場合は、かかりつけ医に相談したり、
地域包括支援センターの相談窓口に行ったりしてみてもいいでしょう。


「本を読む。頭を使った生活を心がける」、「週に3回は適度な運動を行い、足腰を丈夫に保つ」、
「深酒やたばこはやめて、規則正しい生活を送る」、「生活習慣病の予防、早期発見、治療に努める」、
「何事にも好奇心を持つ」、「人づきあいを大切にし、社会参加をする」。
認知症を予防する習慣は決して難しくはありません。


            

【認知症セルフチェック】


□同じことを何度も言ったり、聞いたりする

□物の名前が出てこなくなった
□置き忘れやしまい忘れが目立ってきた
(財布や通帳などの金銭の管理や、鍵などの場所を忘れるなど)
□以前はあった趣味をやめてしまった、物事への関心や興味が失われた
□身づくろいや整理整頓、掃除などが面倒くさくなった、だらしなくなった
(服を選ぶのが面倒になった、など)
□毎日続けてきた日課、習慣をやめてしまった、面倒になった
□時間や場所の感覚が不確かになった
□慣れたところで道に迷った、目が見えにくい
□財布などを盗まれた気がする、またはそう言う
□些細なことで怒りっぽくなった
□蛇口・ガス栓などを閉め忘れたり、火の用心ができなくなったりした
□複雑なテレビドラマが理解できない
□夜中、急に起き出して騒いだ
□料理などができなくなった、以前より面倒に感じる、鍋を焦がすなど失敗をする

■3つ以上当てはまったら病院へ。2つ以下でも頻度が高い場合や強く出ている症状があれば相談を。・・》

注)記事の原文に、あえて改行など多くした。
                    

回の記事を読み終わった後、【認知症になりやすい生活】の中で、
「喫煙者」の私は、困ったなぁ・・と苦笑した。

過ぎし学生時代よりタバコを喫い始めて、自制心が少し欠けた私は、未だにやめられなく、
年金生活を始めた当初より、我が家では室内厳禁と自主的に宣言して、
玄関の軒下、テラスに降り立ち、タバコを喫ったりしている。

もとより『嫌煙』の世の中であり、外出の時は場所をわきまえて喫ったりしている。

「毎日2合以上のお酒(日本酒、ビール、ワイン等)を飲む」に関しては、
私は65歳まで、お酒大好きなひとりで、毎晩呑んだりしてきた。

しかしながら66歳以降は、冠婚葬祭、懇親会、国内旅行以外は、
原則として5日に一回、ウィスキーの濃い水割りを呑み、これ以外は休肝日となっている。

これ以外は、【認知症になりやすい生活】の各項目、該当しないょ、と微苦笑している。

            

私たち夫婦は、子供ら恵まれなかったので、たったふたりだけの家庭であるが、
私は亡き母の遺伝を純粋に受け継いだ為か、恥ずかしながら男の癖におしゃべりが好きで、

何かと家内と談笑したり、ご近所の奥様、ご主人など明るく微笑みながら談笑したりしている。

そして私は、遊歩道、公園などを散策していると、見知らぬ男性、
女性グループの御方たちと、話しかけられたり、或いは話しかけたりして、談笑し、
殆ど毎日過ごしている。

こうして歩く時の私は、紳士バックを園児のように斜め掛けして、颯爽と歩いたりしていることが多いが、
大半はデジカメをネクタイのように首から掛けて、歩いている中で瞬時に魅了された情景を、
一期一会ねぇ、と思いながら撮ったりして、記憶のかたみとしている。
             
このように歩いていると、ほぼ1キロを15分ぐらいであるので、
やはり時折、足早に歩いたり、或いは意識して、大股で歩いたりしている・・。


             

或いは、知人とか友人と時折お逢いする時は、しばらくねぇ・・、と私は笑いながら逢ったりして、
日中はコーヒー、夕暮れからはビールか水割りのウィスキーを飲みながら、談笑をしたりしている。

ときおり国内旅行を私たち夫婦は幾たびか重ねてきたが、
旅先でも、私は食事処、ロビーなどて隣席した見知らぬ方でも、話しかけて談笑したりしている。
                          
こうした中で、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。

             

私は午後の大半は、私は随筆、ノンフィクション、近現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

こうした中、ブログの投稿文を綴ったり、数多くの御方の投稿文を読ませて頂き、
多々シニア世代の日常生活を学び、人生の確かな教科書と学んだりしている。

このように日常生活を過ごしてきたので、今回の【認知症セルフチェック】の各項目、
幸いにも該当しないなぁ・・と少しばかり安堵を重ねて、微苦笑をしたりした。

しかしながら、この世はまさかの出来事に遭遇することもあり、
認知症だけは勘弁して欲しい、と念願しながら歩く時もあるのが、現状となっている。
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ブログのランキング、『にほんブログ村』と『人気ブログランキング』に加入して、やがて昨今は混迷してきたが、結論として・・。

2018-05-06 15:16:11 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。

そして雑木の多い小庭の中で、古ぼけた一軒屋に住み、
私たち夫婦はお互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごして、早や14年目となっている。

過ぎし2004年(平成16年)の秋、私は民間会社の中小業のある会社に35年近く勤めて、定年退職となり、
この間、幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりしたが、
最後の5年半はリストラ烈風が加速され、あえなく出向となった。

そして遠い勤務地に勤め、この期間も私なりに奮闘した結果、
身も心も疲れ果てて、疲労困憊となり、定年後はやむなく年金生活を始めたひとりである。

            

そして年金生活を始めてまもない時、偶然に本屋の店頭で一冊の本にめぐり逢え、
私は初めて『ブログ』の世界を知った・・。
 

この本は『はじめよう! みんなのブログ』(インプレス)と題された、
別冊インターネット・マガジンであった。
     
そしてブログの世界は、多くは匿名制度であり、ある程度の良識を根底に於けば、
それぞれの御方が自由に、私生活の出来事から、政治、外交、軍事、経済、社会などの分野まで表現でき、
日本でも2002年(平成14年)の頃から急速に普及し、
誰でも発信できる人類史上初めての時代が到来している。

この少し前の時代は、もとより各専門知識のある有識者が、雑誌、新聞などに寄稿文を掲載することができる時代で、
私のように無名で素人の身は、せめて新聞・雑誌などの読者コーナーで、記事を投書できる範囲であり、
そして掲載の判断は、編集部の意向で決められていた。

こうした結果として、私は自在に私の生活のことから、政治、経済、社会などに専門知識がない私でも、
私なりの思いを発露でき、何よりブログはホームページより手軽に開設、運営できると感じ、
ブログに加入しょうと決意した。

                      
        
そして2004年(平成16年)11月12日にある大手のブログサービスに加入し、
早や丸13年半が過ぎて、14年生を迎えている。

しかしながら、この後、2つばかりのブログサービスに彷徨(さまよ)った後、
この【gooブログ】に翌年の2005年(平成17年)1月19日に加入したりした。

そして、この後に他のブログサービスに加入して熱中して、2度ばかり【gooブログ】を中断したが、
2008年(平成20年)の5月以来は継続し、今日に至っている。    
       
このような軌跡で、ブログの世界を知って丸13年半が過ぎて、早や14年生に進級した。

結果としては、パソコンの故障、国内旅行などしない限り、日に少なくとも一通は投稿してきた。

                 
                                                               
こうした私の根底には、私の幼少時代から年金生活している現在までの生きてきた心の軌跡を発露して、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)の残したいからであった。

或いは年金生活を過ごしている今、日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
                    
私の投稿文の殆どの内容は、幼年期からサラリーマン退職時まで、
そして年金生活の日々の心情を脚色もないありのままの思い、真情を投稿文に認(したた)めたく、
あますことのないように綴ってきた。

私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情を大切にしているひとりである。

そして恥ずかしながら数多くの駄文を綴ってきたが、
ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、と言っても差し支えない。

              

こうした中で、投稿文の中では、改行を多くし読みやすいようにしている。
或いは6年半前の頃から、何とか写真を添付することが出来たので、

乏しい筆力を補(おぎ)いながら、カット代わりに写真を掲載したりしている。

そして私の投稿文の最初の一行に於いては、殆ど私の住んでいる地域を明記している。
このことは私が投稿文の中で、散策、買い物したりする場合、日本のどの地域なのか、
初めて読んで下さる方に理解して頂く為である。

         
私はブログを投稿する際、ひとつのテーマを決めて、真摯に、ときには楽しく綴ることもあるが、
不勉強の為に筆力が乏しいながら、最後までお読み頂けるように試行錯誤をしたりしている。

しかしながら私の投稿文の内容は、あふれた思いを伝わるように熱意ばかりで、
一気呵成に書き上げてしまい、ときには長き投稿文になったり、
投稿文を送信した後、読み返したする時、つたない綴りが多いので反省する時もある。

              

私は投稿文の時に、多くの方に読んで頂きたい自己顕示欲もあり、

この間、私が加入している【gooブログ】のサイトは、
2008年(平成20年)の頃は、確か加入数150万人ぐらいで、
この当時の私は写真を添付する技量もなく、ひたすら散文らしき文を綴り投稿文としていた。

そして私のサイトは訪問者数は、長らく日々300人前後が多く、
【gooブログ】の総加入数の中に於いては、
多くある広大な砂糖黍(さとうきび)畑の中のたった一本の砂糖黍(さとうきび)のような存在であった。

このように私は、やがて埋もれてしまい、誰からも読まれなく無視されることが想像されて、
つたない私でも、余りにも悲しきことで愕然とするので、ひとつの対策をした。
      
こうした思いからひとつの方法として、
やはりブログのランキングに加入して、程ほどに上位にランキングされれば、
少しでも多くの御方に読んで頂けると、つたない投稿文ながら自己顕示欲が増して、加入することとした。

          
          
そしてブログのランキングのサイトも幾つか彷徨(さまよ)うように加入したが、
『人気ブログランキング』の『随筆・エッセイ』に加入し、今日に至っている。

その後、2010年(平成22年)の秋に、やはりブログのランキングの『にほんブログ村』に再加入した。

私は2008年〈平成20年〉の頃に『にほんブログ村』に漠然と加入し、
何かしら他のブログのランキングに魅了され放置していたが、
投稿文ごとの具体的なランキングに気付かされて、ふたたび本加入させて頂いた。

そして現在は、『人気ブログランキング』に於いては、『随筆・エッセイ』に所属し、
『にほんブログ村』に関しては、加入時は『随筆・エッセイ』系に重点していたが、
5年前の秋の頃から、世代のよしみに甘えてシニア日記系『60歳代』に移行した。

にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
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やがて私は古希と称される70歳となり、これに連動してシニア日記系『70歳代』となった後、
何故かしら訪問数が半減し、70代はブログを投稿される方が少ないからかしら・・と微苦笑したりした。
  
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やがて今年の3月上旬、私が加入している【gooブログ】に於いては、
《・・常時SSL化とは?
ウェブサイトにおいて全てのページをhttps化(暗号化)し、安全性を高めるセキュリティ手法です。
常時SSL化することによって、より安全にブログをご利用いただけるようになります。

実施前:http://blog.goo.ne.jp/

実施後:https://blog.goo.ne.jp/  に変更されます。


※常時SSL化対応前に投稿された記事やブログのURLは、自動的にhttpsへ変換されます。
お客様で設定変更をする必要はございません。・・》
        
このような告知がされたが、無念ながらブログの技量に乏しい私は、
どのようにしたらすべては理解できず、無力ながら対応させたが、
【gooブログ】から外部サービス連携として、『にほんブログ村』は対応できたが、
『人気ブログランキング』の対応が判らず、特にバナーの表示に戸惑ったした。

そして片方のブログのランキングを対応させたり、混迷した結果、
やむなく変形な状態で対応をしてきた。

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このような恥ずかしい状態が、二週間ぐらい思惑しながら過ごしてきた・・。

そして昨日、私は『人気ブログランキング』に於いては、加入以来わずか3名だけコメントを交わしただけで、
殆ど大半は『にほんブログ村』で知りえた数多く御方であり、
今後はブログのランキングとしては、『人気ブログランキング』は取りやめて、
『にほんブログ村』だけにするのが、本筋と結論した。

          

たかがブログのランキングされどランキングであり、私は2か月ぐらい混迷してきたが、
改めて『にほんブログ村』を通して、私のつたないブログを読んで下さる御方に、
私がブログが継続できた原動力もあり、偏(ひとえ)に感謝する共に、
今後ともよろしくお願い致します。

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ゴールデンウィーク、たまたま『おひとりさま』となった私は、とりとめなく過ごし、独り微笑みを重ねて・・。

2018-05-05 13:32:23 | ささやかな古稀からの思い

今朝、私は6時に起床し、朝食後に台所で、家内から借りた可愛らしいエプロンを付けて、
かぼそい声で鼻歌を唄いながら、大皿、小皿、小鉢、茶碗、グラスなどが散乱していたので、
恥ずかしながら一日一回だけ、皿洗いをしたりした・・。

私は
東京の調布市の片隅みに住む年金生活の14年生の身であるが、

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭の中で、古ぼけた一軒屋に住み、ささやかに過ごしている。

こうした中で、遠い地に独り住まいをしている家内の母宅に、
家内は家内の妹で交互に、介護に泊りがけで行く日もあり、

こうした時は私は我が家で、独りぼっちの『おひとりさま』の生活を過ごしている・・。

たまたま過ぎし4月26日より8泊9日の予定で行っているが、一日延長となり、
本日、家内が我が家に夕方に帰宅予定となっている。

こうした中、私はゴールデンウィークに準じた期間を気ままに過ごしてきた・・。

           

食事に関しては、平素と殆ど変わりなく食べたりしているが、
夕食用として家内が準備してくれた料理を主体に食べたりしている。

そして4泊以上になる時は品切れとなり、
私がスーパーのお惣菜(総菜と同意語)売場で買い求めた品を並べて

食べているのが実態となっている。

しかしながら我が家の平素の買物に関しては、年金生活を始めた当初より、
私は買物専任者を自主宣言をして、家内から依頼される品を求めて、私は独りでスーパー、専門店に行っている
買物メール老ボーイなのであり、苦も感じることなく、ここ数年はベテランかしら、と微笑む時もある。

           

4月26日、陽気に恵まれていたので、都立の神代植物園に行き、
いつものように4時間ばかり園内を歩き廻ったりした・・。

 こうした中で、少し大きな樹に薄紫色した花が咲いて、何の花かしら、と私は近づいて、
記憶のかたみとして、写真を撮り始めた・・。

           

この時、美麗な御婦人が私に近づいてきて、
『この桐の花・・素敵ですけれど、なかなか巧く撮れませんよねぇ・・』
と私に言ったりした。

そして私は、『これが桐の花でしたか・・恥ずかしながら初めて知りました・・』
と私は微笑みながら御婦人に言ったりした。

こうして私たちは言葉を交わし始めて、15分ぐらい立ち話をした。

何かしら御婦人は、フェイスブックと思われるスマホより大きな情報機器で、
風景、花を映して、俳句を詠まれて、これを知人などに送信されている、
と私は教えられたりした。

           

こうした中で、御婦人は近日中の掲載した画面を私に見せて下さり、
お香の匂いを私は感じながら、良きご趣味です、と私は瞬時に応(こた)えたりした。

私は亡き母の遺伝を純粋に受け継いだ為か、恥ずかしながら男の癖におしゃべりが好きで、
平素は何かと家内と談笑したり、ご近所の奥様、ご主人など明るく微笑みながら談笑したりしている。

そして私は、遊歩道、公園などを散策していると、見知らぬ男性、
女性グループの御方たちと、話しかけられたり、或いは話しかけたりして、談笑したりしている。

この御婦人とも談笑しながら、御歳は81歳と会話の中で言われたり、
都心の各名所などを散策されて、殆ど毎日のように発信されている、と私は教えられたりした。

道理で溌溂とした御様子、素敵な日常生活をお過ごしですね、
と私は麗(うるわ)しい御婦人に好感を増しながら言ったりした。

私はこうした御歳を重ねながらも気品を秘めた御婦人に、やがて別れを告げて、
良き一期一会だったよねぇ、と心の中で呟(つぶや)きながら、幸せのひとときを享受したりした。

                 

やがて帰宅後、急いでブログの投稿文を書き終えた後、遅い
昼食とした。
昨年の10月からの定番となった、ヨーグルトを箱の二分の一を食べた後は、
樹の年輪のような形状した
バームクーヘンを少し食べたりした。

 
このように、たまたま『おひとりさま』になった私は、
この期間は、とりとめなく過ごして、独り微笑んだりしている。
                         
                            

相変わらず家事は手抜きで、きままに生活している。

午前中のひととき、自宅から3キロ以内の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、

季節のうつろいを享受している。

ここ一か月、若葉の色合いに見惚(みと)れ、萌黄色から黄緑色、そして色合いを深めて深緑色に染められ、

私はさりげない日ごとに移つろう雑木のたわわな枝葉を眺めたりしてきた。

空は青さ一色で、ときおり微風が吹くと薫風かしらと感じたり、
風光る情景に身も心も寄せたりしてきた。

ときには陽射しは初夏のような陽気となり、この時節にしては少し早いじゃないの、と思いながら、
少しばかり大きなモミジの葉を拡げた下で、緑陰に身を寄せたりした。

そして、ここ2週間ぐらい前の頃から彩(いろど)ってくれている躑躅(ツツジ)の紅色の花に
見惚(みと)れたりしていた。

             

  
やがて、午後の大半は、私は随筆、ノンフィクション、近現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

こうした中、ブログの投稿文をしているが、たまたま『おひとりさま』になると、
家事の合間にしている関係で、投稿時がまばらとなり、独り微苦笑したりしている。

今回、きままな生活をしている中、音楽の名曲を遅ればせながら学び、
少なくともここ一週間で朝、夕に百回以上熱中して、視聴している曲があり、
異例であるが、恥ずかしながら、公開すれば、この名曲である。

https://www.youtube.com/watch?v=KPrf-svWUAQ
【YouTube】:Andrea Bocelli & Sarah Brightman ・・『 Time to say goobye』

私は音楽に関しては、楽譜も読めなく、楽器も弾けなく、つたない感性で聴ているが、
周知の通り、この原曲は『君と旅立とう』(イタリア語・Con Te Partiròコン・テ・パルティロ)で、
イタリア出身で、世界からも賞賛されている盲目のアンドレア・ボチェッリの代表的オペラティック・ポップ楽曲である。

何よりも今回、圧倒的に感銘をさせられたことは、
やがて1996年に、イギリス人のソプラノ代表歌手のサラ・ブライトマンは、
アンドレア・ボチェッリにデュエットを申し出て、
曲名及び歌詞の一部をイタリア語から英語の「タイム・トゥ・セイ・グッバイ(英語: Time To Say Goodbye)」に変更し、
共演したことである。

これがヨーロッパ全土で爆発的にヒットし、やがて全世界に大ヒットし、
名曲のひとつとなり、今日に至っている。

           

恥ずかしながら私は、アンドレア・ボチェッリの曲は少しばかり聴いてきたが、

ソプラノ歌手のサラ・ブライトマンに関しては、無知であった。

そしてこの御方サラ・ブライトマンの略歴には、驚いたりしたが、
何よりも《・・アンドレア・ボチェッリにデュエットを申し出て、
曲名及び歌詞の一部をイタリア語から英語の「タイム・トゥ・セイ・グッバイ(英語: Time To Say Goodbye)」に変更し、
共演したことである。・・》

私は偶然にこのデュエット曲を聴いたが、もとよりアンドレア・ボチェッリの唄声は素晴らしく、
初めて知ったソプラノ歌手のサラ・ブライトマンの唄声、しぐさには、

震えるほどに圧倒的に魅せられてしまった。

やがてこの曲の背景を知り、この御方の略歴を学び、
恐れ入りました・・と私は思い深めて、ここ一週間で百回以上視聴している。

           

私は読書が好きで、昨日は駅前まで15分ばかり歩き、
読んでみたい本を三冊ばかり買い求めたりした。

萩原博子さんの『老前破産 ~年金支給70歳時代のお金サバイバル』(朝日新書)、
牧野知弘さんの『老いる東京、甦(よみがえ)る地方 ~お金と人の流れが変わる!~』(PHPビジネス新書)、
高橋洋一さんの『「官僚とマスコミ」は嘘ばかり』(PHP新書)であった。

いずれの御方は、私が年金生活13年半の中に於いて、幾たびか書物を購読したり、ネットで寄稿文を読み、
敬愛してきた諸氏である。

そして私は、無念ながら専門知識に欠落しているので、お勉強ねぇ、
とボケないうちに、知っておきたい知的好奇心で、読み始めている。

            

今回のゴールデンウィーク、たまたま『おひとりさま』となった私、
このように
きままに過ごして、孤独とか退屈などは死語だよねぇ・・と掃除機で、
各部屋を清めたりして、微笑んだりしている。


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つたない何かと気弱な私でも、ときには自己顕示欲が強く、やがて反省ばかり繰り返し、独り微苦笑をして・・。

2018-05-04 15:00:21 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の73歳の身であるが、
今朝6時に起床し、まばゆい陽射しを眺めて、まもなく洗面した後、
パジャマからスポーツシャツと長ズボンに着替えたりした。

やがて居間にあるビデオ棚の上に向かって、心の中で呟(つぶや)いたりした後、苦笑してしまった・・。

         

私は曹洞宗を学ばれた書家・詩人の相田みつを氏の『日めくり ひとりしずか』に毎朝向って、
何かと気弱な癖に、ときには傲慢と独断、そして偏見の多い私を戒(いまし)めている。
     
世の中で著名な『相田みつを』氏を遅ればせながら学んだのは、
過ぎし1999年(平成11年)の5月中旬、私たち夫婦は家内の両親を誘い、
伊香保温泉に2泊3日で滞在した時、 ある民芸土産店で私はひとつの品に目がとまった・・。
               
『ひとりしずか』、と大きく題され、みつを、と署名されていた。

そして私は手に取り、ページを捲(めく)ると、
著名なこの御方の名は知っていたのであるが、遅ればせながら初めて接した書物の言葉、そして書体であった・・。

               

この言葉を読み終わった後、瞬時に圧倒的に魅了された・・。
               
私は幾つになっても拙(つたな)い我が身を振り返り、
私の父は、無念ながら私が小学2年の時に病死された体験もあり、
私はこの『トイレ用日めくり』を買い求めた後、その日に応じたページに、
さりげなく深い人生の教訓の言葉を特有な書体で書かれ、
この日以来、私はこの御方を秘かに慈父のように、人生の師と掲げたした。


本日の氏の格言に、私は苦笑させられたのは、何かと気弱な癖に、ときには自己顕示欲が強く、
やがて反省しながら自己嫌悪となったりしたが、
幾たびも繰り返してきた人生航路であったりした・・。

          
      
私は1955年(昭和30年)の小学4年生の頃から、独りで映画館に通ったりした映画少年であったが、
都心の高校に入学した直後から、遅ればせながら読書の魅力に取りつかれたりした。

新潮文庫本、岩波文庫本を中核に読み、ときおり単行本を購読したのであるが、
創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時、感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
心の深淵まで綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力に引きづり込まれた。

たまたま小説に熱中していた私は、ある小説家の作品を読んでいたら、
このくらいの作品だったら、僕だって書けそうだ、
と自惚(うぬ)れながら、高校一年の夏休みに50枚ぐらいの原稿用紙に、 初めて習作した。

そして 私は写真部に所属していたが、まもなく文芸部の先輩に見てもらったりした。
やがて一週間が過ぎた頃、川端康成(かわばた・やすなり)さんの影響を感じられるが、
何よりも青年の心情が感傷過ぎている、と苦笑されたりした。

こうした高校生活を過ごしたりし、映画は相変わらず映画館に通い鑑賞し、
映画専門誌の『キネマ旬報』などを精読し、付随しているシナリオを読んだりしていた。

こうした中で、脚本家の橋本忍(はしもと・しのぶ)さんが脚色された『切腹』(監督・小林正樹、1962年)を観て、
圧倒的に感銘させられ、やがて大学2年の時に、映画の脚本家になりたくて、中退した。

                    

まもなくて専門の養成所に学び、この養成所から斡旋して下さるアルバイトをしたりして、
映画青年の真似事をし、シナリオの習作をした。

やがて養成所の講師の知人の新劇の長老からアドバイスを頂き、
映画で生活をするは大変だし、まして脚本で飯(めし)を食べていくは困難だょ、
同じ創作するなら、小説を書きなさい、
このような意味合いのアドバイスを頂いたりした。

この当時の私は中央公論社から確か『日本の文学』と命名された80巻ぐらいの文学全集を読んでいたが
その後に講談社から出版された『われらの文学』と名づけられた全22巻の文学全集を精読したりした。
こうした中で、純文学の月刊誌の『新潮』、『文學界』、『群像』を愛読していた。

やがて私は契約社員の警備員などをしながら生活費の確保と空き時間を活用して、
文学青年のような真似事をして、この間、純文学の新人賞にめざして、習作していた。

しかし大学時代の同期の多くは、大学を卒業して、社会人として羽ばたいて活躍を始めているらしく、
世の中をまぶしくも感じながら、もとより私の方からは連絡も避けていた。

そして私はこの世から取り残されている、と思いながら、
明日の見えない生活をしながら、苦悶したりしていた。

そして純文学の新人賞に投稿していたが、三回ばかり最終候補6作品の寸前で敗退し、
落胆していた時、親戚の叔父さんから、
今は良いとしても、30歳を過ぎた時、妻子を養って家庭を持てるの、 と私は諭(さと)されて、
確固たる根拠もなく独創性があると自信ばかり強い私は、あえなく挫折した。

                    

その後、やむなくサラリーマンに転職する為に、コンピュータの専門学校で一年ばかり学び、
この当時として大手の音響・映像メーカー会社に何とか中途入社ができたのは、
1970年(昭和45年)の春で25歳の時であった。

そして、この会社の中のレコード事業本部に配属させられ、
この当時はレコード業界の中で圧倒的に首位を独走していたが、
この中のひとつの一部門が外資の要請で新たなるレコード会社として新設されることなった。

そして私も新設レコード会社に転籍させられ、商品の現場を学んだ後、
本社のコンピュータ専任者に配属させられたのは1971年(昭和46年)の新春であった。

私は大学中退の上に中途入社の身であったが、大学を新卒されて入社した人の同年齢の方に、
多少の卑屈と劣等感がありながらも、給与など含めた待遇に早く追いつきたく、
ときには悪目立ちする時もあったりした。

                    

たとえはアイドルスターの全盛期の1980年(昭和55年)の当時、
ある会社は松田聖子さんをデビューさせ、ある会社でも河合奈保子さんをデビューして、
私が勤めていた会社も、ある新人をアイドルスターを抜擢した。

そしてデビュー曲の数が月前に、社内の大きな会議室で、このスターを囲み、
本社の社員の殆どが記念写真を撮ったりした。

この時、このスターと社長は最前列の中央に座ったが、四列ぐらいある中、
私たち平社員は、片隅でもじもどと躊躇ったりしていた・。

こうした時、社長が私たち平社員に向って、前に来て早く座れなさい、と小声で言った。
そして私は最前列の社長の横に座っている邦楽制作本部長の横に座ったりした・・。

このようなふるまいを35年近く勤める間、年に一度ぐらい私はしたりし、
後日に何かと気弱な私は、自己嫌悪をしたりした。

                    

2004年(平成16年)の秋に定年退職した私は、まもなくブログの世界を知り、
パソコンの故障、国内旅行をしている以外は、毎日投稿している。

こうした中、私が加入している【gooブログ】のサイトは、
2008年(平成20年)の頃は、確か加入数150万人ぐらいで、
この当時の私は写真を添付する技量もなく、ひたすら散文らしき文を綴り投稿文としていた。

そして私のサイトは訪問者数は、長らく日々300人前後が多く、
【gooブログ】の総加入数の中に於いては、
多くある広大な砂糖黍(さとうきび)畑の中のたった一本の砂糖黍(さとうきび)のような存在であった。

このように私は、やがて埋もれてしまい、誰からも読まれなく無視されることが想像されて、
つたない私でも、余りにも悲しきことで愕然とするので、ひとつの対策をした。
       

こうした思いからひとつの方法として、
やはりブログのランキングに加入して、程ほどに上位にランキングされれば、
少しでも多くの御方に読んで頂けると、つたない投稿文ながら自己顕示欲が増して、加入することとした。

          
          
そしてブログのランキングのサイトも幾つか彷徨(さまよ)うように加入したが、
『人気ブログランキング』の『随筆・エッセイ』に加入し、今日に至っている。

その後、2010年(平成22年)の秋に、やはりブログのランキングの『にほんブログ村』に再加入した。

私は2008年〈平成20年〉の頃に『にほんブログ村』に漠然と加入し、
何かしら他のブログのランキングに魅了され放置していたが、
投稿文ごとの具体的なランキングに気付かされて、ふたたび本加入させて頂いた。

そして現在は、『人気ブログランキング』に於いては、『随筆・エッセイ』に所属し、
『にほんブログ村』に関しては、加入時は『随筆・エッセイ』系に重点していたが、
5年前の秋の頃から、世代のよしみに甘えてシニア日記系『60歳代』に移行した。

やがて私は古希と称される70歳となり、これに連動してシニア日記系『70歳代』となった後、
何故かしら訪問数が半減し、70代はブログを投稿される方が少ないからかしら・・と微苦笑したりした。
         
こうした中で、つたない私の投稿文に於いて、気楽に綴ったのが上位になると戸惑い、
真剣勝負のように綴ったのが評価されず下位となり、落胆したりする時もあったりしている。

          

しかしながら何よりシニア世代のサイトを読ませて頂き、
それぞれの御方の人生の生きた教科書、と多々教示させられ、
日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学んだりして、感謝を重ねている。

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ブログ応援 適切な距離とは?、人生案内のひとつを読み、やがてブログ14年生の私は微笑みを重ねて・・。

2018-05-03 13:05:42 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市の片隅に住む年金生活の73歳の身であるが、
中小業の民間会社に35年近く勤め、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職した後、
多々の理由で年金生活を始めたりした・・。

やがて年金生活をしていると、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを心の発露の表現手段として、
このブログのサイトに綴り投稿するのが、生きがいのひとつとなっている。

そして原則として少なくとも国内旅行で不在、或いはパソコンが故障しない限り、殆ど毎日投稿してきたので、
早やブログ14年生となっている。
                       

今朝、購読している読売新聞の朝刊を読んでいる中、定例の『人生案内』があり、
平素は殆ど読まない私は、【 ブログ応援 適切な距離とは?】と大きく見出しされていた。

私は長年にブログの投稿文を重ねてきた中、多々コメントを頂いたり、
或いは多くの投稿文を読ませて頂き、私はその御方にコメントを綴ったりしてきたので、
どのようなことですか、と思いながら精読してしまった。

無断であるが、読売新聞を48年ばかり購読しているよしみに甘えて、転記させて頂く。

《・・[人生案内]ブログ応援 適切な距離とは?

30代女性。あるブログを気に入っていて応援していますが、そのやり方が適切か不安です。

このブログの管理人はおもしろい人で、楽しい記事を掲載しており、私は毎日のように訪問しています。
コメント欄があるので、記事が載るたびに感想を書き込んでいました。

しかし先日、別のブログを運営する友人が
「しょっちゅう感想を書き込まれると返事に困るんだよね」と言うのを聞き、
もしかしたら私の感想も迷惑かも、と思うようになりました。

ブログには、どこから訪問したかを分析する機能もあり、
しょっちゅう見ているのがわかると、管理人が気味悪がるかなあ、と心配です。

私は昔から、人と適切な距離をとるのが苦手です。
以前、好きな漫画家に何回もファンレターを出し、そのたびに返事をもらったことがありますが、
仕事の邪魔だったかもしれないと最近、反省しています。

管理人にとって、どういう読者がありがたいのでしょうか。(岡山・T子)

            

回答された御方は、社会学の著名な大学教授の山田昌弘さん

面白いサイトを見つけてよかったですね。
私はブログの管理人の経験はありませんが、メディアで発信する人間の一人として、回答させていただきます。

感想は来れば来るほど、うれしいものです。
感想が来て迷惑という人は、そもそも発信しません。

たとえ批判的なコメントであっても、何も来ないよりいいです。
ブログを運営している友人の話は、「うれしい悲鳴」というよりも「自慢話」として聞いてください。

漫画家さんのケースでも、反省することはないですよ。
ファンレターが励みになって、仕事が進むという人は多いです。
仕事の邪魔と思えば、そもそも返事をしないのですから。

当の管理人さんも、漫画家さんも、あなたのような読者をもって幸せだと思います。

一つ注意していただきたいのは、人の悪口を書かないでほしいということです。
内容に関する批判はいいのです。

当人に対するものでなくても、個人に対する人格攻撃などを書くと、
それをきっかけに炎上してしまうこともあります。
それに注意しながら、今まで通りブログを楽しんで、感想を書き込んでください。・・》
             

私は自身の投稿文も大切であるが、数多くの御方の投稿文を読ませて頂いたりした。

私は特に数多くの50代以上の数多くの諸兄諸姉の投稿文を読ませて頂きながら、
いつも感じられることは、日記として綴られている場合は、
その人なりの思いをその御方ご自身の言葉で、淡々と綴られているのに、
圧倒的に感動を覚(おぼ)えたりしてきた。

そして日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、と教示されることが圧倒的に多く、
お住まいの地域、これまで綴られた人生航路の軌跡に思い重ねながら、
何よりも生きた人生の教科書、と確信を深めたりしている。

こうして読ませて頂きながら、私は秘かに励ましを感じたり、微笑んだりして、
確かな人生の底知れぬ哀歓を学びながら、年金生活を過ごしたりしている。

或いはその地域の情景の四季折々の移ろいを背景とし、
デジカメの数葉を掲載され、絵葉書のような観光地の解説でなく、
その方ご自身の言葉で綴られるのに感動させられたりしている。

そして言霊(ことだま)を信愛し、何よりも投稿文で吐露(とろ)しなければ、
この人生を生きて行くことはできない、
このような圧倒的に心の深淵まで描写できる方もいる。 

            
                           
こうした数多く投稿文を読ませて頂く中、たとえたった一行の綴りでも、
私は瞬時に琴線(きんせん)が静かに奏(かな)で始めて、
やがてその御方のブログに魅了されて、愛読者のひとりになってきた・・。

或いはコメントを頂いたり、或いは私は数多くの方の投稿文を読ませて頂き、
感きわまってコメントをしたりしている。

或いはそれぞれのお方よりコメントを頂き、
私は思いかけずに喜んだり、私の投稿文をこのように解釈されたのかしら微苦笑したりし、
返信を認(したた)めたりしている。

こうした中で望外の喜びとして、ブログサイトを開設していない数名の方より、
幾たびかコメントを頂き、もとより私は本心を発露して、返信を認(したた)めてきたりした。

            

そしてブログの投稿文を13年半の中、ブログ上で出逢い、
やがてコメント上で心の交流を盛んに重ねても、ふとしたことで疎遠になり、別れとなる場合もある。
        
私がブログを初めてまもない2004年(平成16年)の12月の時、
ブログ形式に準じた【簡単gooホームページ】に加入している中、
確か一カ月後に、九州の北部にお住まいの60歳前後と思われる奥方と投稿文に於いて、
コメントをお互いに始めたりした・・。

その後、2年ぐらい高校生の交換日記のように、この当時も私は日々投稿文を綴っていたこともあり、
殆ど毎日コメント欄で心の交流を重ねた。

こうした中で、この奥方が一枚の写真を添付し、散策する時何かと魅せられている小花のひとつです、
と投稿文に掲載されていた。

私は恥ずかしながら無知であったので、ネットで検索したら、
『オオイヌノフグリ(大犬の陰嚢)』と明記されていたので、植物学者は文学性の感性が余りにも欠落している、
と思い苦笑した。

そして『瑠璃唐草』、『天人唐草』、『星の瞳』とも名づけられていたので、
この奥方に、『星の瞳』に瞬時魅せられました、と私はコメントしたりした。

           
           ☆2008年3月、私が近くに流れている野川の川べりで、偶然に『星の瞳』にめぐり逢い撮った一葉☆
   
こうした淡き心の交流を2年半していたが、ご主人様がご病気となり、入退院をされる中、
奥方の投稿文も途絶え、やがて私たちの交流も途絶えがちとなり、
まもなく加入している小さなある簡易なブログサイト自体が閉鎖となり、そして交流も終えてしまった。

このような私にとっては、貴重な思いを秘めているので、
『星の瞳』を通して、この奥方は、私の年金生活を始めて不安な心情の中、
心おだやかに過ごせたので、女神のような人と私は思っている・・。

そして、その後に私は春先に散策したりする時、『星の瞳』を見かけたりすると、
あの奥方はどのように過ごされているのかしら、と思ったりし早や10年が過ぎている。

          

これまで私の人生のリアルの世界でも、たとえば現役サラリーマン時代に於いても、
盛んに交流していた友に於いて、人事異動で地方に転勤となったりして、
やがて疎遠となったりしてきた。

年金生活をしている中でも、私たち夫婦は国内旅行が共通の趣味であるので、
ときには観光ホテルなどに滞在プランで共にしたメンバーの人たち、
或いは団体周遊観光で旅路を共にしたこともあったりした。

こうした旅先で知り得た人たちと、宿泊している館内の食事処、大浴場、ロビー、
或いは私たち夫婦が街中を散策している時に、お逢いしたりし、お互いに談笑したりした。
        
もとより旅先で知り得た人たちは、それぞれ生を受けた環境も違い、
その後に育った状況、学歴、その後の社会人として職業、結婚生活・・、
やがてシニア世代となり、それぞれの生活をしていて、誰ひとり同じ人生航路を歩んできた人はいないのである。

その上、人それぞれ思考、信条、性格、趣味なども違うし、この広い世界で同じ人はいないが、
私たち夫婦は旅路で交流して、人生のひとときを共にし、
旅の終わりに近づくと、私たち夫婦は『また、いつ日にか旅先で、お逢いしたいですねぇ』
とそれぞれのご夫妻に愛惜の挨拶をしたりすることもある。

しかしながら、その後にお逢いしたことは殆どないのが実情であった。
                                                
過ぎゆく人生は、出逢いと別れを幾たびか体験すると古来から伝えられているが、
ネットのブログで、私が投稿文、コメント上で交流してきた方たちも、
歓び悲しみを共にしてきたので、同じかしら、と思い深めたりしている。

          
   
そして現代の私は、私がブックマークに掲げた人を中核に、
毎日のように数多くの御方の投稿文を読ませて頂きながら、
日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学んだりしている・・。
           
このように私は、感じ深めていることは、この広い空の下で、未知のそれぞれの御方に投稿文、
或いはコメント上で、めぐり逢えたこと、
私にとっては心の宝物、と改めて感謝を重ねている。


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お茶を摘む情景を視聴して、やがて私は失われた時を求めて、幼年期の生家に思いを馳せて・・。

2018-05-02 14:28:46 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の73歳の身であるが、
昼のテレビのニュースをぼんやりと視聴していた時、
本日は『八十八夜(はちじゅうはちや)』の日を迎えて、各地のお茶の名産地では、
茶摘みが行われました、と報じられていた。

そして茶畑で、新芽摘みのイベントが行われる中。
茜襷き(あかねだすき)に姉さんかぶりをした10名ぐらいの女性たちが、お茶を摘む情景が映しだされて、
いいよなぁ・・、と瞬時に魅了されたりした・・。

          
          ☆気象庁の公式サイト【tenki.jp】より、この写真をお借りしました。

そして何かと単細胞の私は、心の中でひとつの歌を唄いだしてしまった・・。
♪夏も近づく八十八夜、 野にも山にも若葉が茂る・・【『茶摘(ちゃつみ)』 作詞、作曲・不詳 文部省唱歌 】

この後、ぼんやりと遠い昔の私の幼年期の生家に於いて『茶摘み』をしていた頃が思いだされた・・。

                         

私は1944年(昭和19年)の秋、東京都の北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の農家の三男坊として生を受けた。
長兄、次兄の次に私は生まれたのであるが、
何かしら祖父と父などは、三番目の児は女の子を期待していたらしく、幼年の私でも感じたりしていた。

もとより農家は、跡継ぎとなる長兄、この当時は幼児は病死することもあるが、
万一の場合は次兄もいるので、私は勝手に期待されない児として、いじけたりすることがあった。

そして私の後にやがて妹がふたり生まれ、 祖父、父が初めての女の子に溺愛したしぐさを私は見たりすると、
私は益々いじけて、卑屈で可愛げのない言動をとることが多かった・・。

しかし祖父は不憫と思ったのが、自身の名前の一部を私の名前に命名した、
と後年に父の妹の叔母から、教えられたりした。

私が地元の小学校に入学する1951年(昭和26年)の春の当時は、
祖父、父が中心となって、小作人だった御方たちの手助けもある中、 程ほど広い田畑、
そして田んぼの中のひとつには湧き水があったり、所有している田んぼの中には小さな川も流れ、
母屋の周辺は竹林、雑木林が周辺にあった。

こうした中、この当時のこの地域の程々の農家は、お茶の樹を持ち、
自宅用にまかなっていた時代の頃である。

                         

私の生家は母屋、土蔵、納戸小屋の二軒の中、宅地からゆるい坂を登りきると、
防風林代わりの欅(けやき)が50数本があった。

確か3メートルぐらい間隔で植えられ、樹高は30メートル以上あった。
隣接した欅(けやき)が互いに寄り添うになると、晩秋に片方の欅(けやき)を伐採したり、
そして雑木林にあるクヌギ、コナラなどが大きくなり過ぎた樹木を伐採し、
祖父と父は薪(まき)割り作業などをして、翌年の一年間分の薪(まき)と小枝を作ったりしていた。

その先は平坦な地で陽当りが良く、春のお彼岸を過ぎた頃には、
野菜のトマト、キュウリ、ナス、ウリなどを種から幼葉までの育てる苗床が幾重にもあり、
洗濯の干し場にも利用されていた。

この平坦な所を抜けると畑となっていて、その先が村道であった。
この村道と畑の境界線としてお茶の樹が植えられていた。
幅は1メートルを超え、高さは150センチぐらいで、80メートル前後の長さであった。

                         

5月の初旬の頃になると、祖父の指示により、新芽を手摘みをしていた。

一家総出で祖父、父や母、そして父の妹の叔母2人、小作人だった御方にも支援も借りたりしていた。
私は幼児の3歳頃は、邪魔をしないように、付近に莚(むしろ)を敷いた上で、置いていた、
と後年に母から教えてもらったりした。

そして新芽を摘んだ後、宅地の一角で生葉撰り(なまはより)と称せられるお茶の葉から
混ぜりものや蝕まれた葉を取り除く選別作業をしていた。

その後、生葉(なまは)を新鮮なうちに、竈(かまど)の上に幾重か重ねた蒸篭(せいろ)で蒸した後、
団扇(うちわ)などで扇(あお)いで、よく冷(さ)ました。

そして、母屋の前の宅地の中央で、幅180センチ、縦360センチぐらい、
高さは90センチぐらいの長方形の大きな台の下の地面に炭火をおこし、
長方形の大きな台の上に薄い鉄板を敷いて、先程のお茶の葉を揉(も)んでいた・・。

やがて煎茶として出来た後、しばらくした後に大きな桐箱、茶包みの箱に収納した。
この煎茶は、もとより家族一同が朝、昼、夜などで1年を愛飲したり、
祖父の一言に寄り、来宅した御方に1部の方に差し上げたりしていた。

こうした中で、私は祖父からは、何かと可愛がってくれたが、
煎茶を淹れる時、いい加減な振る舞いで淹れる、と怒られた。
               
やがて私が1953年(昭和28年)の小学2年の三学期に父が病死し、
翌年の1954年(昭和29年)の5月に祖父も他界され、
生家は大黒柱の2人が亡くなり、没落しはじめた・・。

          

もとより農家としては、肝要な農作業のノウハウと労力も減退し、
田畑の作業も出来る範囲が大幅に減少したので、生計は低下を余儀なくされた・・。

数年過ぎると、お茶を摘む労力もままならず、垣根代わりの細くて長い茶畑は放置され、
やむなく煎茶は買い求めることとなった。

やがて1955年(昭和30年)の頃から、生家の地域一帯は、
都会に住んでいた人たち達が、移転して周辺に家を建てられ始めたりした。

私が小学校を卒業した1957年(昭和32年)の春であるが、
この頃になるとベットタウンとなり、田畑は激少し、竹林、茶畑も消え去り、
新興の住宅街となり大きく変貌した・・。

                         

このようなことをぼんやりと思い馳せたりした・・。

お茶の葉は、冬の寒い時期にゆっくりと養分を蓄えて育ち、春になると少しずつ芽を出し始め、
4月から5月頃に、いち早く芽吹いた茶葉を収穫してつくった新茶(一番茶)は、
その後に摘まれる茶葉よりも、栄養価やうまみ成分が多く含まれている、と伝えられている。

このような関係で、古人から新茶は、「新茶を飲むと病気にならない」、
「八十八夜のこの日にお茶を飲むと長生きする」など名言を思い重ねたりした。

昨今の我が家は、年金生活の中で、私は家内の茶坊主の真似事となり、
煎茶を淹れたりしているが、こうした時に時折亡き祖父の表情、しぐさを思い浮かべることがある。
そして丁寧に淹れながら、お茶を作って下さる御方の労力に感謝して、頂いている。

          

余談であるが、私は煎茶をこよなく愛飲しているが、ここ4年買い求めているのは、
百グラム千円以内として、選定した煎茶は、一番摘みの《・・渋みと苦みを抑えた コクのある旨味・・》
と明記された掛川茶となっている。


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