好きな庭いじり以外は何もしない明治の男だった。そんな父が大晦日間近になると、裏の海に家中の障子を運び出し、凍てつくような冷たいしぶきの中で洗った。兄と二人で手伝いながら、逆さまに立てて上から貼っていくと、ぼた落ちした糊の染みが出来ず、合わせ目に埃が溜まらないということをいつの間にか学んだ。
やがて父が亡くなり、サラリーマン一世一代の大仕事として家を新築する際、こだわって10枚の障子を立てた。和風の玄関の西日の窓には松や紅葉を透かす紙を貼り、客間には子供の頃から憧れていた雪見障子を立てて、その外に一間廊下を走らせ、外の庭に枯山水と杉苔、つくばいと灯籠をあしらって、炬燵に蹲りながら時たまの太宰府の雪景色を楽しむ。友人が描いてくれた絵に因んで、この部屋を「牡丹の間」と名付け、陋屋そのものを「蟋蟀(こおろぎ)庵」と称し、自ら「ご隠居」と名乗って悦に入っている。
朝日を浴びる仏間の腰高窓の障子の外にはネットを張って、朝顔や夕顔、紛れ込んだ山芋を這わせて、その風に揺れる影絵を愛でる。
父が逝って20年、自分自身がその歳までもう10年のところまで生きてきた。新しく張り替えた障子越しに、和紙の風合いに和らげられた冬の日差しを浴びながら、思い出すことの少なくなった父のことを思う。着物の裾をからげて波しぶきを浴びていた素足の白さと、糊刷毛で障子の桟を叩く父の記憶は、何故かいつも後ろ姿である。
暖かい大晦日の夜、家内とふたりでいつものように大宰府天満宮の脇の光明寺に並び、除夜の鐘を撞いた。それぞれに煩悩を払って、新しい年が明けた。 (2003年3月:写真:夏楓)