その知らせは出張先の沖縄に届いた。
前日、北部・辺土名の取引先を訪ね、最北端の辺戸岬から与論島を見た。もう、何度目の岬訪問だろう。しかし、快晴の空の下、これほど鮮明に島影を望んだのは初めてだった。いつも激しく吹き付けていた風も、その日は珍しく穏やかで、初めて伴った同僚に沖縄の岬の風景を誇らしく披露してやれた。
一夜明けて、南部の客先訪問に出掛けようとルーム・キーに手を伸ばしたとき、電話が鳴った。覚悟してはいたものの、一瞬受話器を取る手にためらいがあった。
幸い、全日空の11時45分発の空席が取れた。あとのことを同僚に託して飛んだ。
福岡着13時20分。福岡空港に向かって高度を下げつつあった時間…平成4年7月22日午後12時46分に、母は待ち切れずに逝った。
家内の紀子と妹の長男の良太だけが看取った。苦しみもなく、火が消えるように呼吸が鎮まり、ふっと途絶えたという。嫁と孫一人ではあったが、母にとって最も幸せな臨終であったろうと思う。
20年ぶりに隣りに住み、次男の嫁でありながら、自分の両親をほったらかしにしたまま、そして自らも病を抱える身を厭わず、紀子は親身になって母の世話をし続けた。勝ち気な母であり、感謝の言葉は全くと言っていいほど口にする事はなく、紀子が報われることは少なかった。しかし、最後の3ヶ月あまりは紀子にすっかり甘え、居心地の良さを素直に口にするようになっていた。
老人性痴呆が進み、下の始末が出来なくなった母は子供に還った。入院するまでの1ヶ月あまり、少しでも元に戻そうと、紀子は文字通り献身した。3度の食事、朝夕の散歩、下の始末…夜も何度も起き出して、汚してしまった寝具の取り替えと洗濯に追われた。
花冷えの季節、温めた蒲団に包まれて「ああ、極楽々々…」と子供のように喜んで眠りにつく母を、紀子は嬉しそうに見守っていた。
5月の連休明けに風邪をこじらせた。たいしたことはないと思ったのだが、念のために老人病院に連れていった。胸に大きな影があり、肺炎を起こしていた。婦長が無理に空きのないところにベッドを押し込んでくれて、そのまま入院することになった。下の方も紀子の努力にもかかわらず、既に家庭での世話の限界を超えていた。
病院の中を歩き回っていた足が止まり、入浴が出来なくなり、やがてベッドから下りなくなり、食事を自分で摂ることを億劫がるようになり…こうして急速に老いが進んでいった。
6月下旬、食事を嚥み下すことが不可能になり、時を同じくして右半身の麻痺と昏睡が始まった。点滴と酸素呼吸で危篤状態のまま一進一退が続いた。呼びかける声に時たま反応していたのも、やがて脳の障害から来る麻痺が全身に及び、応えなくなった。兄弟や孫まで動員して、泊まり込みでの24時間の付き添いを重ねた。回復するケースもあると看護婦や介護助手の人達は慰めてくれたが、間違いなく徐々に母は私達のもとから遠ざかりつつあった。
その予感を誰よりも強く感じ、それだけに誰よりも回復を祈り続けた紀子の心を読んだように、母は臨終の時を選んだ。
「紀子さん、あんたがいてくれたらそれでよかけん、ウチはもう行くね…」
まだ少し温もりが残る母の死に顔に触れつつ、確かにそんな母の声を聞いた。勝ち気に生きた明治の女が、素直に感謝の言葉を口に出来なかった償いを、こういう形で示したのだろう。
父が死んで9年、気ままに、そして存分に好きなことをやって、父と同じ7月に逝った。まるで父が迎えに来たかのように。…入院77日目の真昼だった。
出来るだけのことはしてやれたし、83歳の天寿を全うした歳に不足はない。だから、74歳で去った父の時にくらべ、悲しみは薄い。しかし、全ての生活のリズムの中心核にいた母を失った寂しさは、日毎に強まっていく。そして、その寂しさを誰よりも深く感じ続けるのは間違いなく紀子なのだ。
7月24日、炎熱の午後に多数の人達の暖かい見送りを受けて、母は仏になった。悲しみでなく、会葬してくれた人々の心が嬉しくて泣いた。
葬儀は父を越えていた。最後の孝行には勿体ないほどの過分の弔いだった。
「紀子さん…」と呼びかける母の声は、もうない。
(1992年7月:写真:ノコンギク)