蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

晩秋の花火

2005年01月30日 | 季節の便り・花篇

 木枯らしの先走りが夕闇を断ち切り、ウインド・チャイムがコロンと鳴った。裏口の辺りから少し掠れがちなコオロギの声が転がってくる。すだく虫の声は秋の草むらの風物詩だが、コオロギはむしろ冬を手繰り寄せるような憂いがあって何故か心を絞る。
 初夏の闇で鳴く地虫(ケラ)の声も哀しい。腹の底から染み込んで来るような空気の震えは、コオロギと同じようにいつも逝った人を思い出させて心が沈む。
 コオロギは澄み切った音色を転がす盛りの頃より、晩秋の少し疲れて掠れ始めた頃がいい。陋屋を「蟋蟀(コオロギ)庵」と名付けた所以である。庵というからには、軒が傾き屋根にペンペン草を立てた廃屋こそ相応しいのだが、残念ながらその姿は心の中だけにある。
 猛暑と台風に痛めつけられ、幾つもの山野草の鉢を駄目にした。丹誠込めて2年がりで二株に増やしたヤマシャクヤクも枯れた。5年目のダイモンジソウも、昨年手に入れたジンジソウも、そしてサギソウも駄目になった。「やはり野に置け」という戒めだったのだろう。つい気軽に庭先で楽しもうと欲を出して、野草園で求めたり友人から手に入れたりした。
 命を輝かせるにはそれなりの条件がある。澄み切った大気と風、春の日差しをたっぷり浴びて、やがて夏木立に覆われた木陰で花時を待つという自然の環境を庭先に再現するのは難しい。
 コオロギの声に合わせるように、日照りや乾きに強いイトラッキョウが見事にピンクと白の花を咲かせた。細いネギのような葉を鉢いっぱいに拡げ、その中から何本もの花茎が伸びて、そこに花火のように小さな花をびっしりとつけた。花時の長い花である。まだ残暑の火照りを残す頃に蕾を膨らませ始め、たけなわの秋を過ぎて、そろそろ木枯らしが吹くかと思われる頃まで楽しませてくれる。
 今年は花時の3週間を留守にした。ロスとメキシコで遊んで11月初旬に戻って来た私達を、盛りを過ぎたイトラッキョウが枯れもせずに花を開かせて待っていてくれた。
 暑い夏を引きずり、短い秋を経てやがて冬が来る。コオロギの声に憂いを重ねながら、今夜は先だった人達に思いを馳せることにしよう。
            (2005年1月:写真:イトラッキョウ)