蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

ぬくもりの宿

2005年01月08日 | 季節の便り・花篇

 三俣山山頂から日が昇った。未明の外気温は3度。冷気にきりっと引き締められた湯上がりの肌を、朝日のぬくもりの矢が心地よくほぐしていく。閉じた瞼の裏に、オレンジ色の眩しさが踊った。風音もない静寂の中に、木立を縫って様々な小鳥の声が転がってくる。標高1000メートルを超える高原の日差しに、もう夏の後ろ姿は見えない。限りない優しさだけが全身を包んだ。
 自称「山屋」の正昭・宏子夫妻から誘いが来た。正昭さんが思いがけない入院手術で数ヶ月山を離れた。新婚旅行さえザックとテントをかついで山にはいり、度々ヒマラヤにはいって5000メートル級の山々を経巡る夫妻に、この長い山断ちは前代未聞のことだったろう。「快気祝いと足試しをかねて久住にはいるけど、どう?」
 宏子さんは小学校以来の家内の無二の親友。一見男勝りでありながら、50年以上家内から目を離さず優しく庇護してくれている。正昭さんとはお互いにリタイアしてからのお付き合いだが、優しさと包容力に心服して、兄貴としてお付き合いさせていただくようになった。40年ぶりに山歩きを再開した「出戻りトレッカー」の私達を、思いっきりペースダウンして遊ばせてくれる上に、山野草を教えてくれる師でもある。
 湯坪温泉を抜けて山にはいり、路傍に車を置いて1287メートルの一目山を目指した。逆光を受けた一面のススキの山肌を風が走り、銀色に波打たせる。その足もとには、色とりどりの秋の草花が可憐に揺れていた。ノギクの薄紫、ウメバチソウの純白、ゲンノショウコの濃いピンク、サイヨウシャジンの紫、そして足の踏み場にためらうほどに、リンドウが今盛りだった。ヤマラッキョウはススキの揺らぎに誘われるように、まるで姫手鞠のような球状の花を揺らしている。山頂から久住連山の山濤を遠望しながら、正昭さんの健脚の復活を祝った。
 Kヒュッテの一夜。国有林に包まれた素朴な文字通り山小屋だが、ある山荘の調理長だった幸三さんの山の幸料理と、餅肌美人のミサエ夫人の飾らない明るいもてなし、今時珍しいほどに優しい息子の隆也君、今は働きに出ている乗馬好きの妹の裕子さん……一家の醸し出すぬくもりに触れたくて山仲間達が集う宿である。野草の天麩羅や鹿刺しを肴に快気祝いのビールを呑みながら、茸鍋をつついて夜が更けた。
           (2003年11月:写真:リンドウ)

ひと夜限りの

2005年01月08日 | 季節の便り・花篇

 漲るように月下美人が咲いた。しつこかった残暑もようやく去り、もう今年は花も終わりだなと思っていた9月下旬、思いがけず25輪もの蕾をつけた。猛暑ではなく冷夏でもなく、最後まで姿が見えなかった今年の夏は、例年になく花つきが悪かった。旧盆過ぎて訪れた厳しい猛暑が呼び水になったのか、少し肌寒さを感じる秋風の中に、遅れ馳せの花どきを迎えようとしている。
 開花直前にこの秋最初の冷え込みがやって来た。11月中旬並という寒さはやはりこたえたのか、いくつかの蕾が勢いを失った。一斉に花どきを合わせるかと思っていたのに、微妙な差でふた晩に分かれ、雨の宵にまず14輪が妍を競った。
 夜8時を過ぎる頃、俄かに蕾が膨らみ始める。それまでのゆっくりした成長からは想像もつかない速さで、みるみる膨らんでいく。そして、ある瞬間から弾けるように濃密な芳香が漂い始める。部屋中が一気に花の香りで埋め尽くされ、少し換気しないと息苦しくなるほどの濃厚さなのだ。
 しかし、たった一夜に命の全てをかけて咲く純白の花の美しさは見る者を圧倒してやまない。訪れる蜂も舞い遊ぶ蝶もいない夜、ひっそりと、そして華麗に花びらを拡げるこの花には、我が家だけの長い長い歴史がある。
 かつて本土復帰3年目の沖縄に移り住んだとき、庭先に多肉性の植物があった。それが月下美人とも知らず、その一葉を摘んで郷里・福岡の父に送った。花好きの父が3年後に見事に花を咲かせた。
 父が丹精を篭めて鉢を増やし、やがて父が逝き、残された母がその世話を引き継いだ。花は忘れることなく、毎年同じように美しく咲き香った。9年後、母も父の後を追って鬼籍に入った。最後の月日は鉢の手入れも放置され、月下美人も殆ど枯れかかって、もうこれまでかと思われた。僅かに緑が残る一葉を摘み採って二つに切り、新しい鉢に挿してみた。翌年、それぞれが新しい芽を伸ばし、今日のふた鉢になった。もう1メートルを遙かに超える古木である。
 夜が明けると、一夜の妍を競った花はすっかりしおれ、力無く花茎をのばし切ってうなだれた。その後を追うように、残りの蕾が今宵の開花の準備にはいっていた。
 日毎に空が高くなり、梢の先に亡びの色が忍び寄ってくる。その向こうの雲の佇まいは、もうすっかり秋だった。
                     (2003年9月:写真:月下美人)