蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

再会の氷河

2005年01月11日 | 季節の便り・旅篇

 バンクーバー空港で迎えてくれた娘の顔が何故か眩しかった。単身、アトランタで男勝りの仕事をこなす逞しさを微塵も感じさせない小柄な身体が輝いていた。久しぶりの親子対面の舞台をカナディアン・ロッキーと決めて成田から飛んだ。
 フィリピンの大学から始まった次女の海外生活は、カナダ・サスカチェワン州の語学研修、アメリカ・ジョージア州の大学を経て、アトランタ就職で本物になった。その生活現場を初めて訪ねる序でに(それは初めてのアメリカ訪問でもあったのだが)念願のカナダを親子3人で旅することにしたのだった。
 リムジンを借り切ってバンクーバーで一日遊んだ後、エドモントンに飛び、ガイドの車で西に6時間、何もなかった地平線から、氷河を抱いた壮大なロッキー山脈が次第に迫り上がってくる。8月の終わり、ドライブの途中降った霰が山では新雪となり、吹く風の冷たさはすでに初冬。ジャスパーの湖畔で一夜を過ごし、山脈沿いにアイス・フィールド・ハイウエイを三日かけて南下する豪快な旅の始まりだった。
 マリーン・レイクに始まり、アサバスカ滝、サンワプタ峠、コロンビア大氷原、ボウ峠、レイク・ルイーズ、モレーン・レイクを経てバンフに至る道筋、何度嘆声を挙げたことだろう。氷河に削られた峻険な嶺々の圧倒的な存在感、蒼く輝く氷河、エルクやムース、ブラック・ベア親子などの生き物たち、目を見張るほどに透明で神秘的な湖水(午後9時近い遅い夕暮れの中で見たモレーン・レイクの水の色を、いったい何に譬えたらいいのだろう)、霙に叩かれながら辿ったコロンビア大氷原の風の冷たさ…息つく暇もなく繰り広げられる大自然の饗宴にひたすら酔い痴れた。
 針葉樹林帯の中に聳える優雅な古城のようなバンフ・スプリングス・ホテルでリッチな眠りに沈んだ。すぐ近くをボウ河が流れ、ボウ滝が激しくせせらぐ。そう、ここはかつてマリリン・モンロウの映画「帰らざる河」のロケ地でもあるのだ。映画好きな私たちにはこたえられない旅の醍醐味だった。
 カルガリーからナイアガラ瀑布を目指してトロントに飛んだ、三日間雄渾な氷河の嶺々に慣れた目には、あの巨大な滝がもうそれほど大きくは感じられなかった。
           (2004年9月:写真:カナディアン・ロッキー)

とっておきの夏

2005年01月10日 | 季節の便り・旅篇

 高速艇の舳先でコバルト色の濤が砕けた。本土ではまだ梅雨の真っ盛り。鉛色の福岡空港を飛び立って1時間半、ここ沖縄はひと月早く梅雨が明け、沸き立つような入道雲が豪快に夏を謳い始めたばかりだった。梅雨に閉じこめられて萎縮している本土の観光客や学生が動き始めないこの6月の末の1週間が、我が家恒例の夏開きなのだ。
 泊港から西へ40㌔、穏やかな海を高速艇で50分、美しいサンゴ礁に囲まれた慶良間諸島・座間味島に着く。本土復帰後、海洋博をきっかけに沖縄本島の自然は哀しくなるほどに破壊され尽くした。色とりどりのサンゴが失われた海には、もう魚影は薄い。しかし、ここ観光のメインコースを外れた慶良間には、息を呑むほどに透明な海が生きている。
 港で待っていた送迎バスに乗ってお馴染みの古座間味ビーチに着くと、真っ黒に日焼けしたビーチ・ガールののぞみちゃんがかいがいしく迎えてくれる。挨拶もそこそこに水着に着替え、マスクとシュノーケルを借りて真っ白な砂を踏んで海にはいった。波打ち際から数メートルも泳ぐと、もうそこはサンゴ礁。マスクの向こうに色とりどりの熱帯魚が群れ寄ってくる。恥ずかしくなるほどに透明な水が身体に染み込み、波間に漂いながらいつしか別世界に飛翔していた。もう真夏の日差しが容赦なく全身を叩く。その痛みが、夏開きの実感なのだ。
 先年、娘の招待を受けマイアミから25000トンの豪華客船で三泊四日のカリブ海クルーズに出た。バハマ経由でカリブ海の小さな無人島に沖泊まりして一日ビーチを楽しんだとき、膝ほどの深さで魚影に囲まれた。しかし、その驚きは後にこの座間味を始めて訪れたときに呆気なく覆されてしまった。真っ青な空とエメラルドグリーンのサンゴの海に群れなす熱帯魚の絢爛は比類がなかった。以来、我が家のとっておきの夏開きが毎年ここで繰り広げられることになる。
 夜、島に住み着いた知人から民宿に電話がはいった。カツオが手にはいったから、刺身つまんで泡盛呑みながらユンタク(おしゃべり)しないかという嬉しい誘い。家内といそいそと出掛けた。近所のウミンチュ(漁師)と談笑しながら酌み交わす泡盛は限りなく芳醇だった。降るような星空がドーム状に水平線まで覆い、笑い声の中を島の夜が豊かに更けていった。
               (2004年6月:写真:古座間味ビーチ)

振り向いた冬

2005年01月10日 | 季節の便り・花篇

 春の雨が秋月城址の桜を優しく叩いていた。3月晦日に近い日、咲き始めたまだ若い花びらは雨に負けることもなく、シッカリと満開に向けて準備を進めている。
 束の間の寄り道で春を確かめ、ためらいながらもやっぱり予定通り山に向かうことにした。山屋の中川夫妻から届いた「マンサクの花を見に行こうよ」という誘いは、拒みがたい魅惑だった。
 豊後中村から十三曲がりを駆け上がる頃には雨も上がった。車の窓から吹き込む山の冷気はビックリするほどにまだ鋭い。首をすくめながら窓を閉じ、足もとから吹き上げる暖気の中に逃げ込んで大将軍まで駆け上がったとき、思いがけない景色が眼前に拡がった。
 飯田高原・長者原。鉛色の空の下、雄渾な三俣山、噴気を吹き上げる硫黄山、そして大きく裾を拡げる星生山に連なるお馴染みの峰々が真っ白に化粧しているではないか。下界の雨をもたらした戻り寒波が、山に季節外れの雪を呼び戻した。そればかりではない。夜来の冷気と風が木々の梢にびっしりと霧氷の花を咲かせているのだ。長年憧れながら冬山に縁がなく、初めて出会った霧氷だった。しかもよく見ると、三俣山の斜面の真っ白な霧氷の中に無数の黄色い花が潜んでいる。今真っ盛りのマンサクが霧氷仁包まれて、思いがけない早春と晩冬の競演を繰り広げているのだった。
 霧氷の中に身を置いて、風に鳴る音を聴きたくなった。牧の戸峠に車を置いて、沓掛山の斜面を登った。外気温2度、吹く風はカミソリのように鋭く、呼吸するたびに胸の奥に冷たい刃を突き刺す。氷を呑むようなその透明な緊張感は、むしろ快感だった。冬枯れのススキや灌木の梢の先に2センチほどの「海老のしっぽ」が同じ向きに育ち、風の呼吸に身を任せている。この季節に長くはもたない霧氷。多分、やがて雲が切れそうな気配、日差しが戻ればあっという間に消えていくのだろう。
 一夜明けたKヒュッテの庭先に、僅かに雪を置いたアセビが小さな壺状の花をみっしりと開いていた。葉に毒を持ち、馬を痺れさせるから「馬酔木」と書く。しかし、可憐に早春を演出する花房は、むしろ馬を恍惚と酔わせる花と思いたいほどに優しい花である。
 日差しが暖かく戻り、気まぐれに振り向いた冬が見せてくれた霧氷の饗宴はもうなかった。
                    (2004年3月:写真:アセビ)

早春賦

2005年01月09日 | 季節の便り・花篇

 年の瀬の木枯らしに、採り残した夕顔の種子がカラカラと鳴った。葉を落とした木々と沈んだ緑が庭を一段と侘びしくさせ、いくつかの山野草の鉢も今は眠りの季節、師走のほの暗い木陰で、ひっそりと時を待っている。
 暮れの大掃除。庭先を掃き終わって松葉箒を立てた瞬間、木枯らしの中にふと甘い香りが漂った。父の庭から移し置いたつくばいの傍らに、一握りの水仙が早くも清楚な花を咲かせ、精一杯の香りを振り撒いていた。
 人それぞれに春への思いを託すものがある。私のとって、その真っ先の使者が水仙なのだ。それも、とりどりの色彩と花びらを拡げる西洋水仙ではなく、いたって慎ましい日本水仙にこだわり続けている。
 まだ現役として会社人生を戦っていた頃、毎年年末の2ヶ月を取引先訪問に当てていた。最後の6年を広島で終えた。中・四国11県、およそ7000キロを走るハードな旅だったが、数百軒の取引先を訪い歩く旅は、人の温もりを確かめる楽しい時間であり、疲れを忘れさせてむしろ快感だった。
 高知県のとある片田舎の取引先で、いつも溢れるほどに群れ咲く水仙に迎えられた。玄関先の小さな流れの傍らで、その群生は訪れるたびに年毎に膨らんでいった。
 高知の師走は空が高く、山陰の重く暗い空の下での巡回を終えて辿り着くと、目を見張るほどに眩しかった。その日差しを浴びながら香りに包まれ、ホットしてその1年の仕事を納めるのが例年の習わしだった。 これから厳冬期にはいるというのに、水仙の香りは紛れもなく春を目の前に引き寄せてくれる。夏人間の私にとって、冬は冬眠の季節であり、風邪に苛まれながらひたすら耐える季節なのだ。縮こまった胸に、甘い香りが命を注ぎ込んでくれる。
 松が明けるとすぐに第2の使者が訪れる。道端に春の空のかけらをちりばめたように青い花が一面に咲く。オオイヌノフグリという名前が可哀想なほどに可憐な早春の花である。年々この花時が早まっているように感じるのは気のせいだろうか…。
 そしてこのころ、巷ではテレビにラジオに「早春賦」の唄が流れ始める。名のみの春に胸をキュンと切なくさせるその旋律の中を、小春日に誘われたテントウムシがツッと横切って…春はもうそこまで来ているのだ。
                     (2004年1月:写真:水仙)

ぬくもりの宿

2005年01月08日 | 季節の便り・花篇

 三俣山山頂から日が昇った。未明の外気温は3度。冷気にきりっと引き締められた湯上がりの肌を、朝日のぬくもりの矢が心地よくほぐしていく。閉じた瞼の裏に、オレンジ色の眩しさが踊った。風音もない静寂の中に、木立を縫って様々な小鳥の声が転がってくる。標高1000メートルを超える高原の日差しに、もう夏の後ろ姿は見えない。限りない優しさだけが全身を包んだ。
 自称「山屋」の正昭・宏子夫妻から誘いが来た。正昭さんが思いがけない入院手術で数ヶ月山を離れた。新婚旅行さえザックとテントをかついで山にはいり、度々ヒマラヤにはいって5000メートル級の山々を経巡る夫妻に、この長い山断ちは前代未聞のことだったろう。「快気祝いと足試しをかねて久住にはいるけど、どう?」
 宏子さんは小学校以来の家内の無二の親友。一見男勝りでありながら、50年以上家内から目を離さず優しく庇護してくれている。正昭さんとはお互いにリタイアしてからのお付き合いだが、優しさと包容力に心服して、兄貴としてお付き合いさせていただくようになった。40年ぶりに山歩きを再開した「出戻りトレッカー」の私達を、思いっきりペースダウンして遊ばせてくれる上に、山野草を教えてくれる師でもある。
 湯坪温泉を抜けて山にはいり、路傍に車を置いて1287メートルの一目山を目指した。逆光を受けた一面のススキの山肌を風が走り、銀色に波打たせる。その足もとには、色とりどりの秋の草花が可憐に揺れていた。ノギクの薄紫、ウメバチソウの純白、ゲンノショウコの濃いピンク、サイヨウシャジンの紫、そして足の踏み場にためらうほどに、リンドウが今盛りだった。ヤマラッキョウはススキの揺らぎに誘われるように、まるで姫手鞠のような球状の花を揺らしている。山頂から久住連山の山濤を遠望しながら、正昭さんの健脚の復活を祝った。
 Kヒュッテの一夜。国有林に包まれた素朴な文字通り山小屋だが、ある山荘の調理長だった幸三さんの山の幸料理と、餅肌美人のミサエ夫人の飾らない明るいもてなし、今時珍しいほどに優しい息子の隆也君、今は働きに出ている乗馬好きの妹の裕子さん……一家の醸し出すぬくもりに触れたくて山仲間達が集う宿である。野草の天麩羅や鹿刺しを肴に快気祝いのビールを呑みながら、茸鍋をつついて夜が更けた。
           (2003年11月:写真:リンドウ)

ひと夜限りの

2005年01月08日 | 季節の便り・花篇

 漲るように月下美人が咲いた。しつこかった残暑もようやく去り、もう今年は花も終わりだなと思っていた9月下旬、思いがけず25輪もの蕾をつけた。猛暑ではなく冷夏でもなく、最後まで姿が見えなかった今年の夏は、例年になく花つきが悪かった。旧盆過ぎて訪れた厳しい猛暑が呼び水になったのか、少し肌寒さを感じる秋風の中に、遅れ馳せの花どきを迎えようとしている。
 開花直前にこの秋最初の冷え込みがやって来た。11月中旬並という寒さはやはりこたえたのか、いくつかの蕾が勢いを失った。一斉に花どきを合わせるかと思っていたのに、微妙な差でふた晩に分かれ、雨の宵にまず14輪が妍を競った。
 夜8時を過ぎる頃、俄かに蕾が膨らみ始める。それまでのゆっくりした成長からは想像もつかない速さで、みるみる膨らんでいく。そして、ある瞬間から弾けるように濃密な芳香が漂い始める。部屋中が一気に花の香りで埋め尽くされ、少し換気しないと息苦しくなるほどの濃厚さなのだ。
 しかし、たった一夜に命の全てをかけて咲く純白の花の美しさは見る者を圧倒してやまない。訪れる蜂も舞い遊ぶ蝶もいない夜、ひっそりと、そして華麗に花びらを拡げるこの花には、我が家だけの長い長い歴史がある。
 かつて本土復帰3年目の沖縄に移り住んだとき、庭先に多肉性の植物があった。それが月下美人とも知らず、その一葉を摘んで郷里・福岡の父に送った。花好きの父が3年後に見事に花を咲かせた。
 父が丹精を篭めて鉢を増やし、やがて父が逝き、残された母がその世話を引き継いだ。花は忘れることなく、毎年同じように美しく咲き香った。9年後、母も父の後を追って鬼籍に入った。最後の月日は鉢の手入れも放置され、月下美人も殆ど枯れかかって、もうこれまでかと思われた。僅かに緑が残る一葉を摘み採って二つに切り、新しい鉢に挿してみた。翌年、それぞれが新しい芽を伸ばし、今日のふた鉢になった。もう1メートルを遙かに超える古木である。
 夜が明けると、一夜の妍を競った花はすっかりしおれ、力無く花茎をのばし切ってうなだれた。その後を追うように、残りの蕾が今宵の開花の準備にはいっていた。
 日毎に空が高くなり、梢の先に亡びの色が忍び寄ってくる。その向こうの雲の佇まいは、もうすっかり秋だった。
                     (2003年9月:写真:月下美人)

至福への旅立ち

2005年01月07日 | 季節の便り・花篇

 三日目、雨が来た。大分県・由布岳の山頂から這い下りた雲が、登山口の湿原を覆った。下界は既に初夏への歩みを予感させる頃なのに、山は漸くたけなわの春。40種ほどの山野草を訪ね歩いた旅が、やがて終わろうとしていた。
 お目当てのエヒメアヤメは、雨に濡れ露を置いて、美しく紫の花を拡げていた。
 タレユエソウという別名が何ともゆかしく、春の雨によく似合う。図鑑の写真に添えられていた「絶滅危惧種」という文字が、ふと花ビラにダブった。山野にあるがままの多くの種が、動物も植物も滅んでいく。その陰にあるのは全て傲慢な人間の営みである。湿原のそこここにある窪みが、何かを語りかけてくる。早春の山肌を飾る錦糸玉子のようなマンサクの花が、原因不明で咲かなくなってきているいう記事を読んだのは、つい先日のこと。3月末の久住・飯田高原、牧の戸峠から三俣山山麓にかけて、戻り寒波の霧氷に包まれて日差しに輝いていた一面のマンサクが記憶に新しい。
 大気汚染、地球温暖化、環境破壊等忌まわしい言葉を連ねて、人は生かされているこの地球を、もう引き返せないところまで自ら追い込もうとしている。
 エヒメアヤメを庇い包むように、思いがけずサクラソウの原種が車輪のように華麗に咲き誇っていた。草むらには淡い紫色のヤマエンゴサクが群れ咲き、可憐なバイカイカリソウが白くこうべを垂れる。この自然の風情を、私達はいつまで守ってやることが出来るのだろう。何もしないで、あるがままにそっとしておこう…そう思いながら、一つの花も踏まないように、細心の注意を払って山道を戻った。
 移ろう花のひとつひとつを写真を添えて紹介しながら、この季節の変化の優しさを語ってみたいと思った。題して「季節の便り」。少年の日、虫に魅せられて自然との触れあいを始めた。先年、会社人生を終えて改めて自分自身の生き様を問う日々に回帰したとき、山野草を教えてくれる得難い友人夫妻と親交を深める機会を得た。虫を追っていたカメラの望遠レンズをクローズアップレンズに差し替えて、山野の小さな花たちを訪ねる旅が始まった。それは私にとって、残された余生を豊かに育む「至福のとき」の始まりでもあった。                (2003年5月:写真:エヒメアヤメ)

父よ

2005年01月04日 | つれづれに

 好きな庭いじり以外は何もしない明治の男だった。そんな父が大晦日間近になると、裏の海に家中の障子を運び出し、凍てつくような冷たいしぶきの中で洗った。兄と二人で手伝いながら、逆さまに立てて上から貼っていくと、ぼた落ちした糊の染みが出来ず、合わせ目に埃が溜まらないということをいつの間にか学んだ。
 やがて父が亡くなり、サラリーマン一世一代の大仕事として家を新築する際、こだわって10枚の障子を立てた。和風の玄関の西日の窓には松や紅葉を透かす紙を貼り、客間には子供の頃から憧れていた雪見障子を立てて、その外に一間廊下を走らせ、外の庭に枯山水と杉苔、つくばいと灯籠をあしらって、炬燵に蹲りながら時たまの太宰府の雪景色を楽しむ。友人が描いてくれた絵に因んで、この部屋を「牡丹の間」と名付け、陋屋そのものを「蟋蟀(こおろぎ)庵」と称し、自ら「ご隠居」と名乗って悦に入っている。
 朝日を浴びる仏間の腰高窓の障子の外にはネットを張って、朝顔や夕顔、紛れ込んだ山芋を這わせて、その風に揺れる影絵を愛でる。
 父が逝って20年、自分自身がその歳までもう10年のところまで生きてきた。新しく張り替えた障子越しに、和紙の風合いに和らげられた冬の日差しを浴びながら、思い出すことの少なくなった父のことを思う。着物の裾をからげて波しぶきを浴びていた素足の白さと、糊刷毛で障子の桟を叩く父の記憶は、何故かいつも後ろ姿である。
 暖かい大晦日の夜、家内とふたりでいつものように大宰府天満宮の脇の光明寺に並び、除夜の鐘を撞いた。それぞれに煩悩を払って、新しい年が明けた。       (2003年3月:写真:夏楓)

初めのつぶやき

2005年01月04日 | 全体
 それは一つの衝動かもしれない。突然何かに呟いてみたくなることがある。誰に読ませたいというものではない。家族だけに、或いは限られた身近な人に読ませることはあっても、公に広く発表しようという気はさらさらない衝動だった。小エッセイと云えば聞こえがいいが、たまたま機会あってちょっとした新聞や小冊子に載せることはあっても、決して積極的に望んだものではなかった。
 書き溜めていたものを、先年三つのテーマに括ってワープロで叩き、2セットの作品集を自作してみた。会社人生を終えて悠々自適の日々に、なんとなく自分史に代えて纏め上げたものだったが、これが一つの弾みとなって、時たまその衝動の赴くままにパソコンの原稿用紙に向かうことが多くなった。
 「季節の便り」という息の長いテーマがある。それは時として山野草であり、昆虫であり、旅であり、家族であり、いずれも掌篇ともいうべき短いエッセイの連なりである。それに、もう一つの趣味の自分で撮った写真を添えて小さな世界を切り取ってみる……つぶやきの中に、ささやかな自分だけの満足があった。
「没後、追悼出版してあげようか」という娘の戯れ言に苦笑いしながら、満更でもない夜が今日も更けていく。
  (2005年1月 :写真:ヨシュアツリー・カリフォルニア)