北方領土交渉は、ロシア側には返還の意思がないことが明らかにされ、厳しい状況に陥っています。
そのなかで、実は戦後間もなく、「択捉島と国後島の主権を放棄した」と日本政府が公式に表明した時期があったのだそうで、日本政府自らが「四島返還」を難しくしている事実があるのだそうです。
サンフランシスコ講和条約では、日本は千島列島に対する「すべての権利、権原及び請求権を放棄する」と明記されています。但し、ソ連は条約に調印していません。
この千島列島について、1951年9月8日の講和条約署名の前日、当時の吉田茂首相は演説で千島列島は「北千島」と「南千島」に分かれ、択捉、国後の二島は「南千島」との認識を示しています。
そのうえで、「日本開国の当時、千島南部の二島、択捉、国後両島が日本領であることについては、帝政ロシアも何ら異議をさしはさまなかった。ただ得撫(ウルップ)以北の北千島諸島と樺太南部は、当時日露両国人の混住の地であった」と述べていました。
しかし、同年10月19日には外務省の西村熊雄条約局長が衆院の特別委員会で「(サンフランシスコ講和)条約にある千島列島の範囲については、北千島と南千島の両者を含むと考えている」と答弁し、南千島である択捉、国後両島も、サンフランシスコ講和条約で放棄したと公式に認めたのだそうです。
吉田首相(当時)が、9月8日のサンフランシスコ講和条約署名の前日、千島列島は、北千島と南千島に分かれ、北千島は日露両国人の混住の地とし、千島南部の二島、択捉、国後両島が日本領であることについては、帝政ロシアも何ら異議をさしはさまなかったと、南千島の国後、択捉とを分けたのに、翌月、西村熊雄条約局長が、国会答弁で、両島が講和条約の放棄に含まれると認めたのです。。
吉田首相の演説から、1ヶ月も経たないうちに、吉田首相の南北分割で国後・択捉を講和条約の対象から外そうとした意図を、外務省条約局長が覆したのです。
米国の圧力下にありながら、ソ連に有利で、日本の国益には反する南千島(国後、択捉)も放棄に含むことにした背景はなになのか。
1951年は、未だ吉田首相の任期中です。(吉田首相は、1954年12月7日に内閣総辞職)
西村熊雄条約局長が、その後フランス大使に任命されている状況は、栄転だったのでしょうか、左遷だったのでしょうか。
西村熊雄 - Wikipedia
国際司法裁判所で「北方領土は日本固有の領土なのか?」「日本は一度も北方領土を放棄してないのか?」と論戦になれば、西村熊雄条約局長の国会答弁は、日本は負ける根拠となりうるのです。
日本はその後、東西冷戦が激化する中で、米国の圧力もあり、「北方四島は日本固有の領土」と主張を変えていって(吉田首相の南北千島分割論に近づけた?)、1956年の日ソ共同宣言では平和条約締結後の歯舞群島と色丹島の引き渡しは明記したものの、国後、択捉両島については触れていないのですね。
日本側は「後の交渉に委ねた」と解釈しているが、ロシア側にとっては、歯舞、色丹の「二島返還」で幕引きを図るとの意図だったのか。
しかし、ロシアの今日の姿勢は、1島たりとも返還する意図はないとの姿勢。
一時の謎の外務省条約局長の4島放棄答弁の迷走はあったにせよ、北方領土の返還無くして、平和条約の締結はあり得ませんし、対露経済支援や経済投資もあってはなりません。
国家の主権をないがしろにする姿勢がみえれば、竹島を不法占拠している韓国、尖閣から沖縄を侵略しようと活動をエスカレートさせている中国が、圧力を強めてきます。
# 冒頭の画像は、サンフランシスコ条約前、ポーツマス条約(1905年)の北方日本領
ヒイラギナンテンの花
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そのなかで、実は戦後間もなく、「択捉島と国後島の主権を放棄した」と日本政府が公式に表明した時期があったのだそうで、日本政府自らが「四島返還」を難しくしている事実があるのだそうです。
【外交安保取材】日本政府が触れたくない過去…かつては「北方領土は二島」の見解 - 産経ニュース 2019.3.20
日露間の平和条約締結交渉が進み、北方領土問題の行方が焦点となっている。日本政府は「北方四島は日本固有の領土」との立場を維持しているが、実は戦後間もなく、「択捉(えとろふ)島と国後(くなしり)島の主権を放棄した」と公式に表明した時期があった。政府が過去の経緯に自ら触れることはないが、「四島返還」を難しくしてきたのは、戦後大きく揺れ動いた日本側の態度にもある。
■苦しい「政府の法的立場」
政府は2月22日、一枚の答弁書を閣議決定した。
「北方領土問題に関する政府の法的立場に変わりはない」
立憲民主党の初鹿明博衆院議員(49)が「北方四島はわが国固有の領土か」とただした質問主意書に対する政府の公式見解だ。「わが国固有の領土」とストレートに表現できないところに、政府の置かれた立場の難しさが表れている。
政府が主張してきたように、択捉、国後、歯舞(はぼまい)、色丹(しこたん)の北方四島は、かつて一度も他国の領土となったことがない。1855年の日露通好条約で択捉島とウルップ島の間に国境線が引かれたあと、1875年の樺太・千島交換条約でも、1905年のポーツマス条約でも、北方四島は日本領のままだった。
四島が奪われたのは第二次大戦末期、正確には日本が降伏を宣言した後のことだ。日ソ中立条約を無視して対日参戦したソ連軍は、1945年8月18日に千島列島への攻撃を開始し、同月28日に択捉島、翌9月1日から4日にかけて国後、歯舞、色丹の三島を占領した。
ソ連の法的地位を受け継いだロシアも、この国際法違反の事実を認めなければならないはずだが、ラブロフ外相は「第二次大戦の結果、(北方四島が)正当にロシア領となったことを認めない限り、平和条約締結交渉は進展しない」と強気の姿勢を崩さない。
大戦末期の1945年2月に米英ソ3カ国の首脳が署名したヤルタ協定には、ソ連の対日参戦と引き換えに、千島列島がソ連に「引き渡される」と書かれている。ソ連側からみれば、実際に参戦したのだから、千島列島は「正当に」引き渡されたということなのだろう。
日本が千島列島に対する「すべての権利、権原及び請求権を放棄する」と明記したサンフランシスコ講和条約も、ロシア側の根拠の一部になっている。ソ連は条約に調印していないのにもかかわらずだ。
もっとも、こうしたロシア側の理屈も、千島列島に北方四島が含まれないことを証明できれば、論争にはならない。実際、樺太・千島交換条約では、北方四島は対象になっていない。
■国後と択捉は「南千島」?
しかし、日本政府は千島列島の範囲をめぐり、大きくぶれた時期があった。
1951年9月8日の講和条約署名の前日、当時の吉田茂首相は演説で「日本開国の当時、千島南部の二島、択捉、国後両島が日本領であることについては、帝政ロシアも何ら異議をさしはさまなかった。ただ得撫(ウルップ)以北の北千島諸島と樺太南部は、当時日露両国人の混住の地であった」と述べた。千島列島は「北千島」と「南千島」に分かれ、択捉、国後の二島は「南千島」との認識を示したことになる。
同年10月19日には外務省の西村熊雄条約局長が衆院の特別委員会で「(サンフランシスコ講和)条約にある千島列島の範囲については、北千島と南千島の両者を含むと考えている」と答弁した。南千島である択捉、国後両島も、サンフランシスコ講和条約で放棄したと公式に認めたのだ。
ラブロフ氏のいう「四島ともロシア領」は飛躍しすぎだが、択捉、国後の二島については、一定の根拠を与えたことになる。
日本はその後、東西冷戦が激化する中で、「北方四島は日本固有の領土」と主張を変えていった。米国が1956年の日ソ共同宣言署名前に、「二島返還」で妥結しないよう強く求めてきたことが背景にあった。
その結果、共同宣言では平和条約締結後の歯舞群島と色丹島の引き渡しは明記したものの、国後、択捉両島については触れていない。日本側は「後の交渉に委ねた」と解釈しているが、ロシア側にとっては、歯舞、色丹の「二島返還」で幕引きを図るとも読み取れる。
安倍晋三首相(64)とロシアのプーチン大統領が昨年11月、共同宣言を基礎に交渉を加速させることに合意したことで、「日本は歯舞、色丹二島の返還で手を打つのではないか」との憶測を呼んでいる。日本政府がどういう着地点を描いているにせよ、交渉の出発点が「二島返還」であっては「一島」すらおぼつかない。日本政府が「過去」を封印したい理由は、ここにある。
(政治部 力武崇樹)
日露間の平和条約締結交渉が進み、北方領土問題の行方が焦点となっている。日本政府は「北方四島は日本固有の領土」との立場を維持しているが、実は戦後間もなく、「択捉(えとろふ)島と国後(くなしり)島の主権を放棄した」と公式に表明した時期があった。政府が過去の経緯に自ら触れることはないが、「四島返還」を難しくしてきたのは、戦後大きく揺れ動いた日本側の態度にもある。
■苦しい「政府の法的立場」
政府は2月22日、一枚の答弁書を閣議決定した。
「北方領土問題に関する政府の法的立場に変わりはない」
立憲民主党の初鹿明博衆院議員(49)が「北方四島はわが国固有の領土か」とただした質問主意書に対する政府の公式見解だ。「わが国固有の領土」とストレートに表現できないところに、政府の置かれた立場の難しさが表れている。
政府が主張してきたように、択捉、国後、歯舞(はぼまい)、色丹(しこたん)の北方四島は、かつて一度も他国の領土となったことがない。1855年の日露通好条約で択捉島とウルップ島の間に国境線が引かれたあと、1875年の樺太・千島交換条約でも、1905年のポーツマス条約でも、北方四島は日本領のままだった。
四島が奪われたのは第二次大戦末期、正確には日本が降伏を宣言した後のことだ。日ソ中立条約を無視して対日参戦したソ連軍は、1945年8月18日に千島列島への攻撃を開始し、同月28日に択捉島、翌9月1日から4日にかけて国後、歯舞、色丹の三島を占領した。
ソ連の法的地位を受け継いだロシアも、この国際法違反の事実を認めなければならないはずだが、ラブロフ外相は「第二次大戦の結果、(北方四島が)正当にロシア領となったことを認めない限り、平和条約締結交渉は進展しない」と強気の姿勢を崩さない。
大戦末期の1945年2月に米英ソ3カ国の首脳が署名したヤルタ協定には、ソ連の対日参戦と引き換えに、千島列島がソ連に「引き渡される」と書かれている。ソ連側からみれば、実際に参戦したのだから、千島列島は「正当に」引き渡されたということなのだろう。
日本が千島列島に対する「すべての権利、権原及び請求権を放棄する」と明記したサンフランシスコ講和条約も、ロシア側の根拠の一部になっている。ソ連は条約に調印していないのにもかかわらずだ。
もっとも、こうしたロシア側の理屈も、千島列島に北方四島が含まれないことを証明できれば、論争にはならない。実際、樺太・千島交換条約では、北方四島は対象になっていない。
■国後と択捉は「南千島」?
しかし、日本政府は千島列島の範囲をめぐり、大きくぶれた時期があった。
1951年9月8日の講和条約署名の前日、当時の吉田茂首相は演説で「日本開国の当時、千島南部の二島、択捉、国後両島が日本領であることについては、帝政ロシアも何ら異議をさしはさまなかった。ただ得撫(ウルップ)以北の北千島諸島と樺太南部は、当時日露両国人の混住の地であった」と述べた。千島列島は「北千島」と「南千島」に分かれ、択捉、国後の二島は「南千島」との認識を示したことになる。
同年10月19日には外務省の西村熊雄条約局長が衆院の特別委員会で「(サンフランシスコ講和)条約にある千島列島の範囲については、北千島と南千島の両者を含むと考えている」と答弁した。南千島である択捉、国後両島も、サンフランシスコ講和条約で放棄したと公式に認めたのだ。
ラブロフ氏のいう「四島ともロシア領」は飛躍しすぎだが、択捉、国後の二島については、一定の根拠を与えたことになる。
日本はその後、東西冷戦が激化する中で、「北方四島は日本固有の領土」と主張を変えていった。米国が1956年の日ソ共同宣言署名前に、「二島返還」で妥結しないよう強く求めてきたことが背景にあった。
その結果、共同宣言では平和条約締結後の歯舞群島と色丹島の引き渡しは明記したものの、国後、択捉両島については触れていない。日本側は「後の交渉に委ねた」と解釈しているが、ロシア側にとっては、歯舞、色丹の「二島返還」で幕引きを図るとも読み取れる。
安倍晋三首相(64)とロシアのプーチン大統領が昨年11月、共同宣言を基礎に交渉を加速させることに合意したことで、「日本は歯舞、色丹二島の返還で手を打つのではないか」との憶測を呼んでいる。日本政府がどういう着地点を描いているにせよ、交渉の出発点が「二島返還」であっては「一島」すらおぼつかない。日本政府が「過去」を封印したい理由は、ここにある。
(政治部 力武崇樹)
サンフランシスコ講和条約では、日本は千島列島に対する「すべての権利、権原及び請求権を放棄する」と明記されています。但し、ソ連は条約に調印していません。
この千島列島について、1951年9月8日の講和条約署名の前日、当時の吉田茂首相は演説で千島列島は「北千島」と「南千島」に分かれ、択捉、国後の二島は「南千島」との認識を示しています。
そのうえで、「日本開国の当時、千島南部の二島、択捉、国後両島が日本領であることについては、帝政ロシアも何ら異議をさしはさまなかった。ただ得撫(ウルップ)以北の北千島諸島と樺太南部は、当時日露両国人の混住の地であった」と述べていました。
しかし、同年10月19日には外務省の西村熊雄条約局長が衆院の特別委員会で「(サンフランシスコ講和)条約にある千島列島の範囲については、北千島と南千島の両者を含むと考えている」と答弁し、南千島である択捉、国後両島も、サンフランシスコ講和条約で放棄したと公式に認めたのだそうです。
吉田首相(当時)が、9月8日のサンフランシスコ講和条約署名の前日、千島列島は、北千島と南千島に分かれ、北千島は日露両国人の混住の地とし、千島南部の二島、択捉、国後両島が日本領であることについては、帝政ロシアも何ら異議をさしはさまなかったと、南千島の国後、択捉とを分けたのに、翌月、西村熊雄条約局長が、国会答弁で、両島が講和条約の放棄に含まれると認めたのです。。
吉田首相の演説から、1ヶ月も経たないうちに、吉田首相の南北分割で国後・択捉を講和条約の対象から外そうとした意図を、外務省条約局長が覆したのです。
米国の圧力下にありながら、ソ連に有利で、日本の国益には反する南千島(国後、択捉)も放棄に含むことにした背景はなになのか。
1951年は、未だ吉田首相の任期中です。(吉田首相は、1954年12月7日に内閣総辞職)
西村熊雄条約局長が、その後フランス大使に任命されている状況は、栄転だったのでしょうか、左遷だったのでしょうか。
西村熊雄 - Wikipedia
国際司法裁判所で「北方領土は日本固有の領土なのか?」「日本は一度も北方領土を放棄してないのか?」と論戦になれば、西村熊雄条約局長の国会答弁は、日本は負ける根拠となりうるのです。
日本はその後、東西冷戦が激化する中で、米国の圧力もあり、「北方四島は日本固有の領土」と主張を変えていって(吉田首相の南北千島分割論に近づけた?)、1956年の日ソ共同宣言では平和条約締結後の歯舞群島と色丹島の引き渡しは明記したものの、国後、択捉両島については触れていないのですね。
日本側は「後の交渉に委ねた」と解釈しているが、ロシア側にとっては、歯舞、色丹の「二島返還」で幕引きを図るとの意図だったのか。
しかし、ロシアの今日の姿勢は、1島たりとも返還する意図はないとの姿勢。
一時の謎の外務省条約局長の4島放棄答弁の迷走はあったにせよ、北方領土の返還無くして、平和条約の締結はあり得ませんし、対露経済支援や経済投資もあってはなりません。
国家の主権をないがしろにする姿勢がみえれば、竹島を不法占拠している韓国、尖閣から沖縄を侵略しようと活動をエスカレートさせている中国が、圧力を強めてきます。
# 冒頭の画像は、サンフランシスコ条約前、ポーツマス条約(1905年)の北方日本領
ヒイラギナンテンの花
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