前の日記を読み返してふと思ったんだけど。。。
「もっとキラキラを取り戻そうよ~」って自分が思ったのは事実だし、それはそれでいいんだけど、
人には人それぞれの思いや道があるものね。
不自由を味わうことから自由への道を歩き出す、そんなルートを選ぶ人だっているわけで、それは個人個人が好きなように決めること。
どの道がいいとか悪いとかがあるわけじゃないし、そもそもハタがどうこう言うことじゃない、言えるものでもない。
読む人の状況によっては 「~しようよ」っていう表現に とまどいや反発やプレッシャーを感じてしまうかもしれないね。
ささやかな個人の日記だから 何をどう書こうといいようなものかもしれないけど、「私はこう思う、こう感じる」って書き方ならともかく、人に呼びかける・働きかけるような表現は もっと考えて使った方がいいな。。。ってちょっと反省したのでした。
このところしきりに「感じるままに」とか「本来の自分に戻って」とか そういう方に意識が向くのは、先週見た映画「ミツバチの羽音と地球の回転」の影響かもしれません。
昔ながらの自給自足の島の暮らしや自然を守るために、対岸の原発建設計画を、たった500人ほどの しかも平均年齢70歳以上の島民で 28年にもわたって阻止し続けている 山口県祝島の人たちの生活と、
脱石油・脱原発を決め、新しいエネルギー源を開発し 持続可能な社会を目指すスウェーデンの取り組みを描くこの映画。
ここに出てくる祝島のおじいちゃんおばあちゃんたちがね、もうここ熊野のおじいちゃんおばあちゃんたちとそっくりなの
海と山、島と半島、和歌山と山口の方言の違いこそあれ、姿かたちも 生きる姿勢も 語られる言葉も 私がここで日ごろ見かける年配の人たちとあまりにもそっくりで、ついつい感情移入してしまって。
会場には 前作「六ヶ所村ラプソディー」で知られる監督の鎌仲ひとみさんもいらしてて、上映会前後にはトークやディスカッションが行われました。
この日は、朝は地元の一斉清掃で 「土地を守る」ということについて思いを馳せ、
その後、地元中学校の日曜参観で 「“人間本来の 自ずと感じる力 ” を失わせる社会のシステム」についてあれこれ考えさせられ、
晩がこの上映会。
なんかもう いろんな思いが混沌と頭の中を渦巻いてる感じだったんだけど。
映画の中で、原発反対運動のリーダーの人がおっしゃってました。
「わしらだけで原発建設をやめさせることはできない。
それはわかっている。
でも、多くの人々が氣づいて動き出すまで 引っぱって止めておくことはできる」
正確な言葉は覚えてないけれど、こんなふうなことだったと思います。
鎌仲監督も言っておられました。
「これを見てくださったみなさんお一人お一人が、持続可能な社会を創るために行動してください」
その昔 広瀬隆さんの「東京に原発を!」を読んで、講演会も聞きに行ったことのある私、当時しきりに考えたのは、どうやって反対意見を盛り上げるか、どうやって日常の電気使用量を減らせばいいか、などといった、外側からの短絡的な行動ばかり。
でも この日考えたのは、そして今思うのは、
この社会を作ってる私たちの思考が システムによって氣づかぬうちにゆがめられ 制限されて本来の自分を忘れかけてしまっているのならば、
一見遠回りのようでも その思い込みをこつこつ解いて、あるがままのほんとうの姿に戻っていくしかないんじゃないかなっていうこと。
いのちに根ざしたところから生きて行動していたら、わざわざこの地球の環境を壊してしまうような選択を そもそもするはずがないもの。
そんなこんなですご~く濃い一日だったんですが。
そのときの 湯掻き棒で引っかき回した渦がまだいくぶん残ってるかのような頭の中に、子どもたちの無邪気な喧騒が響いてくると、
なんだかほっとするんですね
そしてついつい言いたくなっちゃうんです(^^ゞ
この子たちの方がほんとうなんだよ、自然なんだよ、パワーあるんだよ
それを大人がわざわざ型にはめて元氣削いじゃうなんて もうやめようよ
って。
でも、いくら思いがつのろうと、ちっちゃな私にできるのは、今自分の目の前のことだけ。
人をコントロールしたり変えたりはできないのだから。
自分が自分の真ん中を見失わないようにして、こつこつと一歩ずつ進んでいく、それしかない。
だったら 私は私の道を 楽しく歩いていこう♪
ときに似たような歩みの人と出会って 連れ立って行ければ それもまたうれしいし、
あ、こんな生き方も悪くないな。。。って誰かに思ってもらえるようなことでもあれば、それはとってもしあわせなこと♪
自分の道をゆく
結局そこに戻ってくるのね~
「もっとキラキラを取り戻そうよ~」って自分が思ったのは事実だし、それはそれでいいんだけど、
人には人それぞれの思いや道があるものね。
不自由を味わうことから自由への道を歩き出す、そんなルートを選ぶ人だっているわけで、それは個人個人が好きなように決めること。
どの道がいいとか悪いとかがあるわけじゃないし、そもそもハタがどうこう言うことじゃない、言えるものでもない。
読む人の状況によっては 「~しようよ」っていう表現に とまどいや反発やプレッシャーを感じてしまうかもしれないね。
ささやかな個人の日記だから 何をどう書こうといいようなものかもしれないけど、「私はこう思う、こう感じる」って書き方ならともかく、人に呼びかける・働きかけるような表現は もっと考えて使った方がいいな。。。ってちょっと反省したのでした。
このところしきりに「感じるままに」とか「本来の自分に戻って」とか そういう方に意識が向くのは、先週見た映画「ミツバチの羽音と地球の回転」の影響かもしれません。
昔ながらの自給自足の島の暮らしや自然を守るために、対岸の原発建設計画を、たった500人ほどの しかも平均年齢70歳以上の島民で 28年にもわたって阻止し続けている 山口県祝島の人たちの生活と、
脱石油・脱原発を決め、新しいエネルギー源を開発し 持続可能な社会を目指すスウェーデンの取り組みを描くこの映画。
ここに出てくる祝島のおじいちゃんおばあちゃんたちがね、もうここ熊野のおじいちゃんおばあちゃんたちとそっくりなの
海と山、島と半島、和歌山と山口の方言の違いこそあれ、姿かたちも 生きる姿勢も 語られる言葉も 私がここで日ごろ見かける年配の人たちとあまりにもそっくりで、ついつい感情移入してしまって。
会場には 前作「六ヶ所村ラプソディー」で知られる監督の鎌仲ひとみさんもいらしてて、上映会前後にはトークやディスカッションが行われました。
この日は、朝は地元の一斉清掃で 「土地を守る」ということについて思いを馳せ、
その後、地元中学校の日曜参観で 「“人間本来の 自ずと感じる力 ” を失わせる社会のシステム」についてあれこれ考えさせられ、
晩がこの上映会。
なんかもう いろんな思いが混沌と頭の中を渦巻いてる感じだったんだけど。
映画の中で、原発反対運動のリーダーの人がおっしゃってました。
「わしらだけで原発建設をやめさせることはできない。
それはわかっている。
でも、多くの人々が氣づいて動き出すまで 引っぱって止めておくことはできる」
正確な言葉は覚えてないけれど、こんなふうなことだったと思います。
鎌仲監督も言っておられました。
「これを見てくださったみなさんお一人お一人が、持続可能な社会を創るために行動してください」
その昔 広瀬隆さんの「東京に原発を!」を読んで、講演会も聞きに行ったことのある私、当時しきりに考えたのは、どうやって反対意見を盛り上げるか、どうやって日常の電気使用量を減らせばいいか、などといった、外側からの短絡的な行動ばかり。
でも この日考えたのは、そして今思うのは、
この社会を作ってる私たちの思考が システムによって氣づかぬうちにゆがめられ 制限されて本来の自分を忘れかけてしまっているのならば、
一見遠回りのようでも その思い込みをこつこつ解いて、あるがままのほんとうの姿に戻っていくしかないんじゃないかなっていうこと。
いのちに根ざしたところから生きて行動していたら、わざわざこの地球の環境を壊してしまうような選択を そもそもするはずがないもの。
そんなこんなですご~く濃い一日だったんですが。
そのときの 湯掻き棒で引っかき回した渦がまだいくぶん残ってるかのような頭の中に、子どもたちの無邪気な喧騒が響いてくると、
なんだかほっとするんですね
そしてついつい言いたくなっちゃうんです(^^ゞ
この子たちの方がほんとうなんだよ、自然なんだよ、パワーあるんだよ
それを大人がわざわざ型にはめて元氣削いじゃうなんて もうやめようよ
って。
でも、いくら思いがつのろうと、ちっちゃな私にできるのは、今自分の目の前のことだけ。
人をコントロールしたり変えたりはできないのだから。
自分が自分の真ん中を見失わないようにして、こつこつと一歩ずつ進んでいく、それしかない。
だったら 私は私の道を 楽しく歩いていこう♪
ときに似たような歩みの人と出会って 連れ立って行ければ それもまたうれしいし、
あ、こんな生き方も悪くないな。。。って誰かに思ってもらえるようなことでもあれば、それはとってもしあわせなこと♪
自分の道をゆく
結局そこに戻ってくるのね~