毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

探究 ・ 実験 ~ こころとからだの相関関係  その1

2016年07月31日 12時34分31秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


去年の3月、腕を傷めました。

その発端について書いた記事が こちら

そして その後の経過 その1  その2

この二つは例によって長文なので 要約すれば、この腕の痛みも 感覚フォーカスで解消できるらしいと氣づき、からだに起こる痛みやアクシデントも 実は心の引っかかりやわだかまりの投影なのではないか?と思いついて、その線に基づき あれこれ試しているところです、という内容。

・・・・・・って 2行で要約できるの

二記事合わせて4000字以上を物した労力は いったいなんだったんでしょう。。。。リンク貼る意味ないではありませんか

まあ、詳しい経過を知りたいので 長文もOK、という方のみお読みいただければ幸いです (T_T)




で その後、わずかな痛みは残るものの 日常生活に支障がないところまで回復し、ほとんど氣に留めなくなっていたのですが、ちょうど6~8月のバイトの終盤あたりから 再びじわじわぶり返し、しまいには 手を背中に回す、頭上に上げるなどの何氣ない動作がほとんど出来なくなって、不自由を強いられることに。

感覚フォーカスで 一時的に痛みが薄らいでも じきに元の木阿弥、お手上げのまま年を越し、実家で暮らし始めたのですが。




父とここまで長期間 正面切って顔つき合わせての暮らしは 初めてといっていいもので、昔ながらのネガティブな親子ドラマが再現されるたび 感覚フォーカスしては手放す、の繰り返しの中、「なんかいい感じに変わってきたじゃない、自分♪」 とひそかに快哉を叫ぶ回数が増えてきたある日、ふと氣づいたのです、あの執拗な腕の痛みが いつのまにかすっかり薄らいでいることに。

同時に ピンときました。

あれは、長年の父へのわだかまりが 身体的痛みという形をとって現れ、注意を引いていたのだと。

そもそも痛みが始まったのは、昨年の父の誕生祝いに実家に駆けつけた最中のこと、そして それから年末まで 父とは会っていなかったのです。

あの痛みはどうやら、父との間に 再現してじっくり味わい直し 終わりにすべき課題が残されているよ、と知らせる合図だったようです。




以来、からだのどこかに痛みや違和感を覚えるたび、これはどんな思い込みの表れ? と 内に探りを入れるのがクセになりましたが、その後のさまざまな体験を通じて、からだのトラブルは 単にからだだけの問題じゃない との確信が いよいよ深まっていったのです。