毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

主従交代

2016年11月18日 15時44分24秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


当ブログにたびたびご登場いただく津留晃一さんのメッセージ集、きょうもその一節から始めましょう。


痛みに反応する自分がいます。しかし痛がっている人はあなたの中のほんの一部分です。「痛い」と思っている人は自我です。そして自我という意識の集合体の中の痛みを伝達する役割の部分さんです。 (中略) 

あなたとは「痛いと思っている人」を癒す人で、痛いと思っている人ではありません。痛みがやってきたときに「痛いなー」と思っている人から、「あっ、痛みがここにあるということを理解する人」になって下さい。どんなことであれ、反応しているのはあなたそのものではありません。そんなあなたはもう観察者です。あなたの世界から痛みが消える瞬間です。あなたは痛みがどんなモノかを知っている者であり、痛んでいる者ではありません。   (津留晃一メッセージ集 「反応」 より)





小我 = 自分 と当然のように思い込み 疑いもしなかった貴秋が 小我以外の自分の存在を初めて意識させられたのは、かれこれ4年ほど前のことでしょうか。

もう何で読んだか忘れてしまいましたが、「しゃべり 動き 感じている自分を見つめる もうひとりの自分」 に言及した文章を目にして ピンと反応し、自身の内の “見つめるもうひとりの自分” を見つけようと探り始めたのです。

“見つめる自分” の存在は 文章を読んだ瞬間受け入れましたが、それがどういうものかもわからないまま 実際にその視点を捉えるのは難しく、半ば強引にそういう自分がいるものと決め込み なんとかその感触をつかもうと 躍起になってトライし続けたものです。




その後 感覚フォーカスがすっかり板につき さまざまな痛みやわだかまりのもとである体感を 外から見つめる習慣が定着したところで、それまで当たり前に 「私が苦しい、私が痛い」 だったところに 「苦しい、痛いと感じている部分がある」 という新たな見方が出現しました。

小我と自分、ぴったり一体化していた両者の間に 隙間が生じ、「部分である小我」 と 「小我を見ている自分」 に分かれて、後者の存在に 光が当たり始めたのです。

小我はもはや 自分すべてではなくなり、そのウエイトが次第に小さくなるのと反比例して 「見ている自分」 の存在感がじわじわ増してゆき、やがては こちらが “自分” の主体なのだと思うまでになりました。

そうはいっても 小我がそう簡単に沈黙できるはずもなく、「アタマがひとしきりぐるぐるしたあげく ふとわれにかえって また出しゃばったことに氣づく」 がえんえん繰り返されて今に至るわけですが、以前は考えられなかった 「パニック寸前のマインドからハートの自分に戻る」 なんて難易度の高い移行ができるほど 真我 ・ ハート = 主 小我 ・ マインド = 従 というバランスに慣れ親しむようにはなってきました。




真我に浸る時間が増えるほど、悩みとは小我の自作自演だったのだという思いが強くなります。

真我であるとき 悩みや怒り、不安などは その影すらも見当たらないからです。

悩みとは 解決するものではなく ただそこから離れればいいだけのもののようです。

すでに小我によって 五感の世界にがっちり形作られたいくつもの問題が この先どうなってゆくのかはまだわかりませんが、真我の占める割合がさらに大きくなるに従い おのずと収束していくことだけは確かだと思えます。

解放されたい悩みや問題があるのなら、あれこれ策を講じるよりもまず マインドからハートへと向かう道を行くこと、今ならためらいなくそう言える氣がしています。