毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

お金の話 ~ その4

2017年01月10日 14時40分11秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


「これから現行の貨幣制度が崩壊し 新しいシステムに移行するだろうが、そのとき大切なのは 物や行為に価格をつけないこと」  (木内鶴彦さんの発言だと又聞きで教えられたもの)




「お前は自分の認識しないものは価値がないというのか?ファンタジーは現実ではないというのか?しかし、未来の世界はファンタジーからしか生まれ育たない。我々が創造するものの中でこそ、我々は自由なのだ」  (ミヒャエル ・ エンデ著 「サーカス物語」 より)




「部族全体の幸福に貢献するものならなんでもメディシンとなる。骨折を治す才能や薬を持つのはいいことだが、卵を見つける才能とくらべてどっちが上ということではない (中略) どちらも個人それぞれの能力なのだ」   (マルロ ・ モーガン著 「ミュータント ・ メッセージ」 より)




「第一に、何が人生の浪費かを判断するのは、あなたがたではない (中略) 他人の魂の旅を判定するのは、あなたの役割ではない。あなたは、自分が何者かを決めるべきであって、ほかの誰かが何者であるか、あるいは何者でないかを判定する必要はない」  (ニール ・ ドナルド ・ ウォルシュ著 「神との対話」 より)






天が無償でふんだんに与えてくれるものを、いつの頃からか私たち人間は 所有の概念で縛って囲い込み、条件付きで交換するようになった。

心が頑なに不自由になり 互いが分離する方向に進んだわけですね。




ところで 「価値」 っていったいなんなんでしょう。

まずなんとなく浮かぶのは、それは 比較があって初めて意味を成すもののようだ ということ。

AよりBのほうが美しい・ 性能がいい ・ 使い勝手がいい、だからAよりBのほうが 多くの人に望まれる → 値打ちがある、高値をつけても売れる、というような。

しかもこの物差しの力は、物ばかりか いのちある動植物や 私たちひとりひとりの働きや生き様にまで及んでいます。

動植物は公然と売買され、私たちの労働や時間も 当然のごとく換金対象となる。

それほどまでにこの 「価値がある ・ ない」 という意識は 私たちの内にしっかり浸透しているのですね。




でも、“いのち” ってほんとうに物差しで計れるものなの?

人であれ 他の生き物であれ 計量の対象となり 価値を付けられることを許したとたん、それは無限の “いのち” から 有限の “商品” に変わります。

そして そんな意識が高じて 地球環境を荒廃させ、多くの生物を絶滅に追いやり続けているんだよね?




それにしても、かけがえのない絶対のいのちを 一商品にまで貶めてしまう 「価値」 という物差しを、私たちはなぜ手放そうとしないのでしょう。

「オンリーワン」 「win - win」 などの言葉が一時期よく聞かれ 絶対であるものを愛しむ世界への憧れを感じさせましたが、それでもやはり 「価値あるもの」 認定を目指して 商業活動はもとより 教育 ・ スポーツ ・ 芸術などあらゆる分野での競い合いは 勢いを増す一方。

頂点に立てるのはほんの一握りで 大半は敗者、競争に負けるリスクのほうがずっと高いわけですが、そんなリスクを背負ってでも いつか勝者となる夢を諦め切れない、「価値あるもの」 の座争奪戦には 麻薬のような抗いがたい吸引力がある氣がします。

子どものころからいい子の優等生だった貴秋、その力の強さは身に沁みて知っていますから (^^ゞ

「価値」 の物差しを手放すよりも 「価値」 争いの勝者を目指す方に魅力を感じずにおれない。。。。そんな氣持ちの奥には いったいなにがあるんだろう?

好奇心の赴くまま 自身の心の内を探っていくうちに見えてきたものは、やはりというか 幼い頃の体験としっかり結びついていました。






















お金の話 ~ その3

2017年01月10日 06時09分49秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


もう20年ほど前になりますが、ある損保代理店でテレコミュニケーター (企業相手に電話で保険商品の案内をする仕事) のバイトをしていたとき、ちょうど生保との相互乗り入れが始まり 新たに生命保険についての講習を受けていて 上司に言われた言葉を今でも覚えています。

「あちこちの駅前に生保会社の大きなビルが建っているのを見ればわかるでしょう?それだけ顧客に支払われるものより会社側の利益のほうが大きいということですよ」




私たちは、必要なもの ・ 欲しいものを 対価を払って手に入れることが当たり前になっています。

まず差し出す側の希望や要求が伝えられ、それに同意して初めて欲しいものを受け取れる社会的取り決めに従っているわけですが、この取り決めは 無自覚のうちに 私たちを自身の本質である無条件の愛から遠ざけてしまいます。

先に価格をつけた時点で その対象は 条件付き ・ 有限のものになってしまうから。

そして、対価を求める時点で 差し出すという行為も無償ではなくなってしまうから。

対価との交換となれば、それは 「OKなら渡す、いやなら渡さない」 という条件付きの行為となり このコントラストの世界にしっかり組み込まれますから、五感を超えた本質の世界からは いやおうなしに遠ざかることになります。

さらに、この交換システムの中にいる限り 利益を乗せることで 本来の価値以上のものを請求せざるを得ないので ますます無償の愛から離れてゆき、私たちのもともとの性質を表現する喜びも豊かさも失われてしまうのです。

今の私たちの日常生活は 当然のごとくそんな交換行為で成り立っており、条件をつけるとか より多くを要求するとかいう意識の働きを 知らず知らず習慣付けられている。

お金のシステムに深入りすればするほど 自身の本質を忘れ、制約が増え、ネガティブな感情も増えてゆくようです。




これに氣づいたときは かなりショックだったなぁ (T_T)

ほんとうの自分に戻ろうと毎日けんめいに努力しているのに、まさか大切にしていた穏やかで平凡な暮らしそのものが枷となって 足を引っ張っていたなんて。。。。




けれど、そもそも私たちは 自分たちの命や肉体をはじめ 空氣 ・ 水 ・ 食べ物 ・ その他あらゆるものを 無償で天から授かっているのですよね。

天は対価なんか取らないで 必要なものすべてを氣前よく与え 無限の愛を注いでくれているのに、私たち人間は いったいなにやってるんだろう?




その昔、「お金は当初 交換券として生み出された」 と聞いたことがあります。

物々交換だと 重いものや持ち運びしにくいもの、鮮度が落ちやすいものには不便なので、いったん軽く小さく劣化しにくいものと引き換えてから 改めて望みのものと交換すればよい、そのために発明されたのがお金だ、と。

それを長い間信じていましたが、単純に交換なら 等価交換で十分なはず。

利益だの利息だのというものが発明されたのは なぜなんでしょう。




このあたりについては、「お金の成り立ち」 などという検索ワードで調べれば 丁寧な説明文や動画がぞくぞくと出てきます。

が、真我さんが貴秋に示したのは 少し違う方向でした。

「パパラギ」 に始まり 「神との対話」 の “神” の言葉、児童文学者 ミヒャエル ・ エンデ氏の言葉、臨死体験者 木内鶴彦さんの未来への提言、その他さまざまな視点との出会いを経て、そもそもこの世のあらゆる物事に 「価値 ・ 価格」 という物差しがつけられた その奥に何があるのかを追うことになったのです。