大晦日の夕方になって買い忘れたものに氣づき、薄暗くなりかかった中を スーパーまで自転車飛ばした帰り道、わずかに赤みの残る空にふと目がいったとき 不意にぱっと浮かんだのが、これまでずっとずっとず~っと自身を○×評価してきた意識。
正しく答えられたら○ 間違えたら×、ほめられたら○ 叱られたら×、自分の意見が支持されたら○ 支持されなかったら×、エトセトラ エトセトラ・・・・ と いつもいつも○か×かで振り分けてきた。
でも、○だろうと×だろうと 私は私、おんなじ私。
外になにがくっついたってとれたって、私本体はなにも変わらない。
なら そんなレッテル貼りになんか意味があったんだろうか。
大事なのは いつも変わらないこの自分で、それと比べたら ○だの×だのなんて どれほどのものでもないじゃないか。
そこで はたと氣づいたのです、そのなにがどうなろうと変わらない自分こそ あの “在る” のことなんだ、って。
自分でないものに触れることで初めて 自分とそうでないものの境目がわかり、「これが自分」 だと実感できる。
なら 自分でないものがなかったら、私自身も消える?
いや、なにをどうしようと決して最後まで消えないものがある、それが “在る” という感覚だ。
“在る” は絶対、そして私も絶対。
そんな絶対の私が 外側にくっついたり外れたりする評価なんかに惑わされることはなかった。
外がどうなろうと “在る” の私には なんの影響もない。
私を揺らがせ不安にさせるのは、絶対のはずのものに 外の評価を受け入れ当てはめて 一喜一憂する自身の意識だけ。
。。。。と言葉にすると かさ高くて重たくて時間かかってまだるっこしくてやれやれだけれど、実際にはぱっと身の内に弾けるように一瞬でわかって、同時に背筋がピンと伸び 心がすっと軽くなったのです。
もう大丈夫。
どれだけ動じたって揺らいだって、この “在る” に戻ってくればいいんだから。
“在る” は絶対の安全地帯で 私のホーム、ここにいれば かすり傷ひとつつくことはない。
そのために 内に留まる練習をしてたんだね。
やっとわかった、いろんなことがつながった (^^)
「自分なんかなんの値打ちもないんだ、むしろ迷惑な存在なんだ」
自己否定の説明によくついてまわるこういうふうな文言をいくら読んでも 到底自分のこととは思えず、「いや いくらなんでもそこまでは否定してないし」 と長いこと他人事にしていましたが、これはどうやら 言語化されたものをアタマでつかんでいたためらしい。
言葉、それも他者の言葉に置き換えられたものを 理詰めで当てはめようとしても なかなかぴんときませんが、実際自分の中に見つけたものは 言葉にならないある種の感覚であり、またそれを見つけようとして見つけたのでもない、一瞬のひらめきで これまで疑問だった自身の不自然な選択や行動と ほとんど意識していなかったその感覚とが いきなり結びついて ああ! と腑に落ちたのですから、やはりこういうことに マインドが納得するような形での答というものはないのでしょう。
それでもあきらめず きっと見つかるはずだとどこまでも追ってゆけば、時満ちて “わかる” ときが必ずやってくるのですね。
理屈を超えたところで起こったことは その結果も理屈では捉えきれないようで、あれ以来 表向きはさしたる変化も認められませんが、ただときおり 「あれ?なんか前とちがう」 と氣づくのは、同じような出来事に 明らかに前と違う反応をしている自分を見たとき。
おそらくもっとも根深いところに張り付いていたのだろう思い込みの発見は、長年の課題であったお金と豊かさのことも含め やはり影響が大きかったようです。