物心ついて以来ずっと、表向きどれほど自信たっぷりに振舞おうと 実際のところは自信を持てずにきました。
それが ほんとうの自分を見失ったためだと、今はわかります。
ほんとうの自分、疑いようなく絶対の自分、それが見えなくなって 拠りどころがなくなって、後付けの刷り込みに従い 頼れるものを外に求め、周囲の評価やお金のシステムに力を明け渡し 従うようになった。。。。というようなことが起きていたのですね。
翻弄されっぱなしに見えた 対人問題もお金の問題も、見方を変えれば そんな現状を知らせるメッセージであったといえましょう。
絶対の自分の存在に氣づき、半世紀に渡って 自分がどのようなカン違いをやらかしてきたのかがわかったからといって、すぐさまがらりと世界が変わるというものでもありません。
言葉での理解は まだマインドの範疇だし、氣づきもその瞬間は強烈でも すぐまた慣れ親しんだ思い込みに取って代わられてしまうもの、これからの貴秋は 氣づきを全身に落とし込むべく まだまだ上がってくる思い込みを根氣よく見つめながら、同時に 絶対の自分につながる回路をせっせと育てていく、という課題に取り組むことになります。
っていうか もうすでにそんな流れが始まっています。
ここへきて 改めて世界を眺めわたすと、お金という人為的概念に過ぎないものが どれほどの力を持って 私たちを支配しているか、いや そんな不確かなものに 私たちがどれほどの力を持たせてしまっているか、が見えてきます。
お金のシステムとは 詰まるところ約束事、それも すでに力づくの不平等が起こっていた中 力あるものによって取り決められた約束事でしかありません。
そもそも私たちはみな すべてを天から 無条件にふんだんに与えられています。
命はもとより 空氣 ・ 水 ・ 食べ物 ・ その他あらゆる天然資源に至るまで、一握りの権力者ではなく 天が すべての生き物に十分いきわたるだけ与えてくれているもの。
私たちが 本来の自分を取り戻すことで、その原点に立ち返ることができるように思います。
手元に本がないので正確な表現はわかりませんが、「パパラギ」 のサモアの酋長ツィアビの言葉で こんなような一節がありました。
“ パパラギ (白人) たちに愛の神について話すと 苦笑いする。
考え方が子どもじみているといって笑うのだ。
が そんな彼らにお金を見せると、とたんに目が輝き 口からはよだれが垂れる。
彼らの神は お金に取って代わられてしまったのだ ”
また ちょうどけさ、愛読ブログ 「ひかたま」 で こんな記事を見つけました。
ツィアビの言葉も このシアトル酋長の言葉も、頭で受け取り理解した段階では 口にしていない食べ物同様 まだ外に置かれた情報に過ぎません。
これらが腑に落ちることと ほんとうでない自分の向こうに ほんものの絶対の自分を見出すこととは ひとつ事だという氣がします。
外側の 一見いかにも頼もしそうなものに 力を与えて頼ることが どれほどの混乱を引き起こすかを、今のアメリカとその周辺が まざまざと見せてくれています。
貴秋の世界におけるすべてのいのちは、自身の昨年末以来の氣づきを 言葉を超えたところに落とし込み 自身の智恵や力に変換していくことで 本来のありようを取り戻す、そして お金のシステムを含め 世界のありようも大きく正され変わってゆく、と信じて止みません。
自分の世界をどれだけ変えられるか、望む世界をどれだけ実現できるか、探究と挑戦はどこまでも続きます。
長かった 「お金の話」 、お金というテーマは 今後も折に触れて取り上げるでしょうが、このタイトルはこれでおしまいです。
おつき合いくださったみなさま、ありがとうございました。