このところスポーツ絡みでもやもやを感じることが多く、ブログに書こうとしてはうまく表現できなくて削除ということが続いていたのですが、愛読ブログ 「ひかたま (光の魂たち) 」 のきょうの記事 「スポーツの勝ち負けと社会」 は まさにそんな貴秋の胸の内を余すところなく代弁してくださったようで、つかえが下りた氣分です。
テレビがある実家では、2月の平昌冬季オリンピックに始まり サッカーワールドカップやらアジア競技大会やら夏の全国高校野球やらと いつになくスポーツ中継に触れることが多かったのですが、人間ってこんなすごいことができるのかと数々のプレーに目を奪われる陰で どうもうまく言葉にならないもやもやがどんどん溜まっていました。
「ひかたま」 ブログ主の森井啓二先生のおかげで正体が見えてきたそのもやもやを、貴秋もようやく文章にできそうです。
スポーツを目にするたびに思うのですが、そもそもスポーツって なぜ戦ったり競ったりするのが前提なんでしょう?
もちろんそうしたい人がそうする自由はあるわけですが、初心者や一部のアマチュア愛好家はともかく、能力が高くなればなるほど 競ってこそスポーツと駆り立て後押しする力が強く働くように思えてなりません。
ここで貴秋が氣になるのが、きのうの記事にも書いた 「ゼロに戻す」 という話。
以前大好きで欠かさず見ていたほのぼの系動物アニメ 「しろくまカフェ」 で、普段は親友のシロクマさんとグリズリーさん両チームの草野球試合の話があったのですが、シロクマさんの知略というよりむしろワル知恵といいたいような作戦に引っかかって逆転負けを喫し 試合後両チーム入り混じっての慰労会でも釈然としない顔のグリズリーさんに ペンギンさんが声をかけます、「試合が終ればノーサイド」 と。
この 「試合が終ればノーサイド」 というせりふが、スポーツ番組を見るたびに脳裏に響くのです。
競争相手があるほうが挑戦する意欲も湧くし能力も上がるということで試合をしても、その都度ノーサイドでゼロに戻せれば 感情的なわだかまりは残らないでしょう。
が、それをさせないシステムが 今のスポーツ界にはある。
能力が高く もっともっと伸ばしたい磨きたいと望む人ほど、いやおうなくこのシステムに呑み込まれざるを得ません。
そこは一握りの勝者をこれでもかともてはやし、多くの敗者には目もくれない 「 一将功成りて万骨枯る」 世界。
頂点を目指すほど 本人も周りも勝ちへの執着が強くなり、やがてその多くが口にするのが 「地元 ・ 日本 ・ その他○○のために勝つ」 という言葉。
これって。。。。戦地へ赴いた多くの兵士たちの言葉と同じじゃないですか?
学校の授業にも日常の暮らしにも当たり前に存在するスポーツ、健全の象徴のようにいわれるスポーツ、それが知らず知らずのうちに敵愾心や勝ちへのこだわりを多くの人々の意識に浸透させ定着させているとしたら、それでも私たちの国は平和だと言い切れるでしょうか?
きっかけひとつで スポーツの 「勝つ」 が 戦争での 「勝つ」 に変わらないと、誰が保証できるでしょう?
森井先生のブログの
“相手を打ち負かすことによって得られる勝利の快感は
砂糖や麻薬と同じように
終わりなくエスカレートしていく怖れがある
と思います。
その意識は
スポーツを超えて
社会全体に浸透していく・・・・・。”
という言葉に 心から同意します。
私たちの意識が言葉や感情になり、行動を生み、私たちの世界を創っています。
スポーツという一見健全な営みを通して 意識の底に絶えず 「勝つ快感」 や 「負ける不安」 を刷り込み続ける仕組みが当たり前のように備わっているいま、私たちは自身の心の奥に潜む思いを 注意深く点検する必要があるのではないでしょうか。
この穏やかで平和な暮らしをこれから先も続けたいと願うのならば。