毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

対立する二極の向こうから現れるもの

2020年06月12日 22時44分04秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見

これまでたびたび 「ほんとうの自分に目覚めませんか?」 と誘いかけるような文章を書いてきましたが、だからといって目覚めるのがいいことで目覚めないのが悪いことだというわけではありません。

私たちはほんとうの自分の素晴らしさを体験的に知るために ほんとうの自分でない要素をも体験しようとこの世界に肉体をもって生まれてきたのですから、五感を超えた領域の記憶を失くしたまま悩んだり苦しんだり迷ったりするのもまた大切なこと。

自身をちっぽけなヤツ、弱いヤツ、ダメなヤツと思うのも、置かれた境遇を辛い、悲しい、苦しいと感じるのも、この世界ならではの貴重な体験です。




磁石は真ん中でS極とN極に分かれていますが、ではN極側の半分を切り落としてしまえばS極だけになるのかといえばそうではなく、切り口側に新たなN極が生じるのだそうです。

私たちは幼い頃から 「いい人になりなさい、正しいことをしなさい」 と教えられてきましたが、この形ある世界での私たちは 「相反する二極で一対」 なのであり、悪いことや正しくないことだけをことごとく取り除こうとするのは 一極だけの磁石を作ろうとする試みと同じく無理な注文です。

神と悪魔が同時に内在するのが私たち人間というもの、もちろん自身を表現するのにどちらを選ぶかの決定権はつねに持っていますが、氣に入らない要素だけをきれいさっぱりなくしてしまうのは不可能です。

あの 「神との対話」 の 「抵抗すれば相手はますます大きくなる」 との神の言葉どおり、受け入れられない面をどうにかしようとすればするほどかえって存在感を増し、自己を責めればセルフイメージが下がって自信を失い、受け入れられない自分を他者に投影して責め立てれば 相手も反撃してきて争いになり・・・と負が大きくなるばかり。

このところコロナの “自粛警察” 問題やSNSを通じてのタレントバッシングなどで露わになってきたギスギストゲトゲした風潮は、煎じ詰めればS極だけ ・ N極だけの磁石を作ろうというムリな試みから生じたひずみのようなものではないでしょうか。




私たちは 自分の中に否定したい要素を見てとると、反射的に払いのけようと力んで身構えます。

自分ひとりだけなら 自己弁護するか正しい自分に戻る方法について一心に考えを巡らせるか、他者の指摘を受ければ 反発するか自責の念に駆られるか認めたふりをして受け流すかします。

それらがいずれも無駄で空しい努力だというなら、では負を切り捨てず かつよくあろうとするとは具体的にはどういうことか。

貴秋は最近、それが 「感じる ・ 味わう」 ことなのだと腑に落ちました。

否定したいものを見つけて緊張を覚えたら、身も心も力を抜いて その感覚に全身をゆだねる。

痛みや圧迫感や締め付け感が体内で荒れ狂うに任せ、無抵抗でただ見つめる。

それが 氣をそらすことなく受け止める ・ 受け入れるということであり、一度しっかり味わったそれらはお役御免となり、次第に鳴りを潜め おとなしくなってゆきます。

否定的要素そのものが消えてなくなるわけではありませんが、反応が穏やかになったぶんこちらにもゆとりが生まれ、状況に応じてその要素を表に出すか否か 冷静に意識して選ぶことができるようになります。




否定的要素も自分の一部と理屈抜きに受け入れ抗わなくなると、強硬に自己主張しなくなったそれらに代わって 立ち込めるように滲み出るように 自然と現れるものがあります。

それこそが、雲の向こうから光さす太陽のように 対立する二極を超えて起きてくる、私たち人間の本質。

顕在意識が否定的要素に対抗して作り出した 外に向かってアピールするための “いい人” ではなく、いい悪いの対立を超えておのずと姿を現したほんとうの自分、外の評価に関係なく内から快いと感じる人間本来の性質です。

評価を求めて善悪正誤の二極間で振り回されるのをやめ、否定的要素が内在することは十分に知りつつ その選択は望むままにできる、それが ほんとうの自分の素晴らしさを知りたくて 本来ないはずの要素もあえて味わおうとこの世界にやってきた私たちがもっとも心地よく感じるありようなのではないでしょうか。