毎日がしあわせ日和

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映画 「アーヤと魔女」 ~ 人を操る力が幸せを呼ぶ

2021年09月13日 14時33分55秒 | 大好きな本・映画・ほか
公開延期になっていた ジブリ映画最新作 「アーヤと魔女」 、8月27日から公開されてたんですね。

昨年末にNHKで放送されていたのを録画して以来 すっかりハマッた作品、1~2月はほとんど毎日のように見ていました。

で 評判はいかにと YAHOOのレビューを見に行ったら。。。あらら 5点満点の2、78点、びっくりの低評価。

思わずレビュー全部に目を通しましたが、星一つ ・ 二つのレビューでもっとも多かった 「終わりが唐突、中途半端」 という不満は、テレビで見た貴秋と父も 「え~、ここで終わり!?」 と声を上げたぐらいですから、お金払って映画館で見た人たちがそう思うのは無理もないか。

3DCG技術についての不満は貴秋にはよくわからないし、「ヒロインが可愛くない」 「ジブリらしくない」 というのはそれぞれに好みがあるから、これも仕方ないよね。

でもひとつだけ 「いや、それは。。。」 と言いたくなる点が。

ヒロイン ・ アーヤの人を操る能力について、「人たらし」 「ずるがしこく利己的」 「わがまま」 「あざとい」 など否定的なイメージを持つ人が多かったようなのですが、これには思わず違う角度からの意見を述べてみたくなりました。

そもそも貴秋がこの作品に夢中になった要因のひとつが、このアーヤの能力の見事さだったからです。

まず最初に申し上げておかねばなりませんが、アーヤ愛炸裂で 以下かなりの長文です。

しかも 公開期間中だというのに 盛大にネタバレしておりますので、映画をまだご覧になっておられない方、これから見に行かれる方は、くれぐれもご注意くださいね。















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以下ネタバレご注意




「人を操る」 。。。たしかにあまりいい印象は持てない表現ですね。

試しに類語 ・ 関連語を調べてみたら、「丸め込む」 「騙しのテクニック」 「手玉に取る」 「いかさま」 「でたらめ」 「二枚舌」 「八方美人」 などなどネガティブワードのオンパレード。

他者を思い通りに動かそうと 心にもないお世辞を並べておいて 陰でこっそり舌を出す、そんなイメージが浮かびます。

実は貴秋も 初見はそんな印象でした。

「子どもの家」 の園長先生に 「(どこかの家庭にもらわれて) 園長先生とお別れするのが一番イヤ」 と悲しげに告げたり、欲しかったセーターを贈られて 「ああ、私 園で一番の幸せ者ね、園長先生大好き!」 と小躍りして抱きついたり、もらわれた先の住人マンドレークに 「お願い、小説家のお仕事を手伝わせて、おじさんの役に立ちたいの」 と涙ながらに訴えたり、と どこか不自然で演じている感が否めなかったからです。

しかし、そんな不自然さは枝葉に過ぎないのだということが 見ていくうちにわかってきました。




たしかに表現こそ相手が受け取りやすいようにデフォルメしていますが、アーヤの能力の本質は、それが決してウソではないというところにあります。

例えば、マンドレークに 「小説家のお仕事を手伝わせて」 って、小学生ぐらいの子が何を手伝うつもりなのかと思っていたら、終盤アーヤがマンドレークの原稿の感想を述べるシーンで 「すっごい面白かった!」 というその話の内容は、冒頭の墓場のお化けパーティを抜け出して 禁じられた塔へ上っていくくだりで アーヤ自身が友だちのカスタードに語って聞かせた話そのままじゃありませんか。

最初にマンドレークの小説を読んだときは 「なにこれ、クソつまらない」 「時間のムダだわ」 と秘かに酷評していたアーヤ、自身のアイデアをさりげなく伝えて 彼自身の作品として書き上げるよう仕向け、「続きはいつ読ませてもらえるの?」 なんて言ってせっせと励ましてたわけですね。

手伝いと称して 自分が楽しめる話を書かせる、そしてこれが 「今世紀最高の傑作」 と評され、書店のウインドウに垂れ幕つきで飾られるほどの人氣小説になっちゃうのです。




そして 新しい家のもうひとりの住人、ベラ ・ ヤーガ。

威圧的でおっかなげな彼女に対しても、アーヤは条件をはっきり伝えた上で助手となり、言われるままにしっかり働きます。

にも関わらず約束を反故にされれば、「おばさんはずるい!」 「奴隷じゃないっていってるでしょ!?」 とびしっと主張し、一歩も引きません。

「ミミズを食わせてやる」 と魔法の力を持ち出して脅すベラに、黒猫トーマスの助けを借りて身を守る手立てを講じつつ まっすぐ対峙する、あまつさえ魔法を使って仕返しまでしてしまう、これはうわべだけこびへつらう人間には到底できないことです。

アーヤは ベラに対して怒りはしても、恨んだり憎んだりはしていません。

恨む憎むというのは 不本意ながら言いなりになるしかない相手に持つ感情ですが、アーヤは自分がこきつかわれるままでいるしかないとは思っていないのですね。

だからつねに 「どうすれば自分の望むほうに持っていけるか」 と知恵を巡らせはしても、「なんで私がこんな目に・・・」 という自己憐憫はみじんもない。

このアーヤの姿勢は もちろん持って生まれた人を操る力に起因するのでしょうが、その力を損なうことなく伸ばせたのは あの 「聖モーウォード “子どもの家” 」 で彼女がのびのび育ってこられたおかげだと 貴秋は見ています。

根深いバグがもっとも入り込みやすい0~3歳期間を含め 10年ほどをここで過ごした彼女、もしこの園が 「あしながおじさん」 のジュディ ・ アボットが過ごした孤児院や 「小公女」 のミンチン女子学院みたいなところだったら、園長先生がリペット先生やミンチン院長みたいな人だったら、これほどの自信や自己肯定感を持ち続けることができたかどうか。

そう考えると、アーヤの園長先生への好意が見せかけだけではない本心からのものだとしても、なんら不自然ではありません。

新しい家のバスルームの鏡に 仲良しのカスタードの写真と並べて園長先生の写真を貼ったり、エンディングの手描きふうイラストで 園長先生に自作の呪文に手紙を添えて贈ったりする様子からも、アーヤの言葉にウソはないことが見てとれます。




アーヤの “操る” 力の極意とは、望みを叶えて 心地いい環境に身を置くことで 自身の波動を高め、それを周囲にも伝播させてゆくというもの。

まず彼女は 自分の快不快や好き嫌いをきちんと把握しており、喜ばせてくれる相手には その喜びをはっきり伝えます。

相手は人を喜ばせる自分の能力に自信を深め、アーヤの環境をよくするために ますます力を尽くしてくれる。

こうして、自分の幸せと相手の幸せが どんどんイコールになっていくんですね。

これは、ウソや心にもないお世辞で人を動かすのとは対極の力の用い方。

ベラに対しても、不満をためらわず口にするのと同様、喜びや感謝もまっすぐ伝えています。

ベラはアーヤの率直さを知っているからこそ、「おばさんありがとう!」 と満面の笑顔で飛びつかれて ぎごちなくもあっさり軟化しちゃうんですね。

バンド解散で得意のドラムの腕は封印、キレると何をしでかすかわからないマンドレークの顔色をうかがい、利己的な呪文作りばかり依頼してくるお得意さまにウンザリしながら暮らすうちに 冷えて凝り固まった彼女の心は、これをきっかけに徐々に解け始め、それにつれてアーヤの暮らしもどんどんいいものになっていったというわけです。




貴秋がふたごころあるお世辞ではこのような結果は得られないことを確信しているのは、貴秋自身が重度のふたごころの持ち主だったから。

厳しい母親になぜ怒られるのか訳もわからず 恐怖に身が縮むほど叱責され続け、反抗することも泣くことも許されずいるうちに、次第に自分の心の内に逃げ込むことを覚え、外の世界と内の世界が乖離していきました。

親や先生に見せる顔と 内心の思いが違えば違うほど、自分は卑怯だ、嘘つきだとの氣持ちも大きくなり、セルフイメージががたがたに下がって 自信をなくしたまま 何十年も過ごすことになりました。

だから、そんな否定的な観念の下 うわべだけいくら取り繕ったところで 得られるのはせいぜいつかの間の安心だけ、真の喜びなど得られるものでないことは、いやというほど身をもって体験しています。

そんな貴秋が 本来の自分でないものを手放し続け、ほんとうの氣持ちが少しずつ見えてきて、自分は無条件に幸せになっていいんだ、一番好きなものをためらわず選んでいいんだと思えるように変り始めたタイミングで出会ったこの作品だからこそ、アーヤの振るう力が関る誰もを幸せにするほんものであることを ぜひお伝えしたくなった次第です。

アーヤの能力は、バグを手放しさえすれば、私たちの誰もが使うことができるもの。

自分の中の最良の部分を開け放って満ち足りた心は、人の最良の部分をもたやすく認め 引き出すことができる、こうして誰ひとり損することなく 幸せの輪が広がってゆくんですね。




それにしても どうしたことでしょう、これだけ書きまくりながら ぜんぜん語り尽くせた氣がしないって。

「アーヤと魔女」 も 「インセプション」 や 「美しき緑の星」 などと同じく、繰り返し登場するテーマのひとつになるのかもしれません。

おしまいになりましたが、こんな魅力ある作品を世に送り出してくださった 宮崎吾朗監督はじめスタジオジブリの皆さま、ありがとうございます。

これからも 新作を楽しみにしております。


そして、長文におつき合い下さった皆さまも ありがとうございました。