これはと思った知識や情報が 自分の言葉や知恵に置き換わるプロセスは、食べたものが身になるまでとそっくりだなぁとよく思います。
どんな栄養価の高い食べ物も 体内に入れなければ効力を発揮できないのと同じく、どんな素晴らしい知識や情報も 内に取り込まなければ ただ知っているというだけで、なんの力にもならない。
ではどのようにして取り込むのかといえば、とりあえず仮説として暮らしに取り入れ、日常のあらゆる場面に当てはめてみるのです。
当てはまらないことがいく度かあれば 自然と忘れられてゆくし、当てはまり続ければ 消化吸収を経て自分の身に備わり、あるときふと 自分の言葉として口をついて出てくることで、いつの間にか事実認定されていたことに氣づかされます。
知覚できない意識領域に 知らぬ間に刷り込まれた他者の情報を無効にする手立ては これまでも繰り返しお伝えしてきましたが、では古いものを抜き取った空きスペースに 新しい情報を意図して刷り込むにはどうすれば。。。という疑問をお持ちの方もおられたかもしれません。
その答えが この “仮説採用” ですが、この外から来た情報を自身の一部に変換する重要なポイントとして、「忘れる時間」 というものを挙げたいと思います。
忘れては思い出すの繰り返しが、潜在意識への書き込みにどうやら力を発揮するようなのです。
貴秋がシュタイナー教育というものを知ったのは、ドイツ文学者 ・ 子安美知子氏の 「ミュンヘンの中学生」 などのご著書を通じてですが、このシュタイナー教育を行う学校では 独自の時間割が採用され、国語や算数 (数学) などの主要教科は 一日一回の二時間通しのエポック (基本) 授業で、一教科ずつを一定期間集中して学ぶのだそうです。
この授業には 「その日に始まったテーマを その日のうちに完結させてはならない」 という原則があって、たとえば円の面積がどれぐらいになるかという問題が出れば、まずは子どもたちめいめいが 思いつくままに 円を切ったりつないだり色を塗ったりして試行錯誤し、その日の授業はそれでおしまい。
子どもたちは、その日得た実験結果や自身の思いつきをそのまま持ち帰って一晩明かす、それがあって初めて、翌日教わる 「円の面積 = 半径の二乗 × 3.14」 という公式や 3.14という数字が生きた知恵になるのだといいます。
そのようにして算数なら算数のみを数週間集中して学び、その教科が終われば国語などの別の教科に移るという具合で、次に算数の授業が行われるのは 数ヶ月から一年ぐらい先のこと。
当然 「そんなに間が開くのでは、せっかく学んだことを忘れてしまうのではないか」 という心配の声が上がりますが、シュタイナー学校の先生方は、「忘れていい、いや むしろ忘れることが必要なのだ」 と答えるそうです。
この 「忘れる」 ということについて、「ミュンヘンの中学生」 から シュタイナー学校側の説明を引用させていただきますね。
ふかい集中力をそそいで、四週間ものあいだ勉強してきたことには、こんどは十分な休止期間をおくべきなのだ。
そして、忘れるだけのものは忘れること。
ピタゴラスの定理を言葉でとなえたり、それを整然たる記号で証明することなどは、すっかり忘れてかまわない。
それでもなお、きのうまで勉強した幾何学上のことがらは、子どもの内部の目に見えないところで、じっくり消化され変容していく。
そのためには、ちょうど毎日の勉強から勉強のあいだにひと晩の睡眠があったように、エポックからエポックのあいだにも、より長い休止期間が必要なのである。
さらに ちょっと長くなりますが、同じく 「ミュンヘンの中学生」 から 子安さんのお嬢さんフミさんの担任 ・ ヴルフ先生のお話も。
頭にはいった知識や概念は、いちど忘れることによって、意識から無意識の領分に移る。
それは、さらに肉体にはいって、目に見えない養分となる。
子どもの肉体は、こうして知識や概念による栄養があたえられなければならない。
「忘れる期間」 は、そのために欠くことのできない 「生命体のための時間」 である。
そのあいだに忘れた知識というものは、ただ意識の表面から消えているだけであり、つぎのエポックのはじめにちょっと復習することにより、容易にもどってくる。
一夜漬けの勉強でおぼえて忘れたものは、表層部に、ほこりのように付着して、またすぐにとれてしまったものだから、あとにはなにも残らない。
おなじように 「忘れる」 といっても、一夜漬けの勉強とエポック授業とでは、このような違いがあるのだ。
この 「ひとつのことを集中して学ぶ」 と 「忘れる時間を設ける」 というのは、知覚できない意識領域に情報を落とし込むための大切なポイントだと思います。
ひらめきで得た情報は 折に触れて日常のさまざまな場面に当てはめるため、学校の授業ほど集中して念頭に置くことはできませんが、それでも少し経つと その情報を忘れてしまうというのは、それが無意識領域に送り込まれた証だと思うのですね。
で しばらくすると 「しまった、忘れてた~」 ということになり、また数日は意識しているけれど 再び忘れてしまう。
そんなことを繰り返す自分を 「なんて忘れっぽいんだ、こんな大事なことなのに」 と嘆いていた貴秋ですが、実はこの忘れてはまた思い出すの繰り返しこそ、得た情報を潜在意識に書き込む重要なプロセスだったようです。
大切なことでなければ、忘れたきり思い出さなくても不思議ではありませんものね。
でも、何週間何ヶ月と忘れていても 必ずまた思い出しては使ってきた、その中で ほんとうに必要なものは 消化吸収され 定着したからこそ、このように自分の言葉として文章にできたりするのだと思うのです。
これまできちんとお礼を申し上げたことがありませんでしたが、こんな偏見炸裂のつたないブログをお読みくださり、中には 「いいねボタン」 等を押してくださる方まであること、いつも心から感謝しております。
貴秋にできるのは 自身の体験や思いを書き記すことだけですが、もしその中にお役に立ちそうな情報があれば、ぜひご自分の言葉に落とし込んでご自由に使っていただければと思います。
目に映る世界が内面の投影であるならば、自分も他人も同じこと、「自分の幸せが縁ある方の幸せとなり その輪が広がっていけば、自分がただ満ち足りて生きているだけで 世界平和を十分実現できるのだ」 という声が このところしきりに思い浮かぶ貴秋です。
どんな栄養価の高い食べ物も 体内に入れなければ効力を発揮できないのと同じく、どんな素晴らしい知識や情報も 内に取り込まなければ ただ知っているというだけで、なんの力にもならない。
ではどのようにして取り込むのかといえば、とりあえず仮説として暮らしに取り入れ、日常のあらゆる場面に当てはめてみるのです。
当てはまらないことがいく度かあれば 自然と忘れられてゆくし、当てはまり続ければ 消化吸収を経て自分の身に備わり、あるときふと 自分の言葉として口をついて出てくることで、いつの間にか事実認定されていたことに氣づかされます。
知覚できない意識領域に 知らぬ間に刷り込まれた他者の情報を無効にする手立ては これまでも繰り返しお伝えしてきましたが、では古いものを抜き取った空きスペースに 新しい情報を意図して刷り込むにはどうすれば。。。という疑問をお持ちの方もおられたかもしれません。
その答えが この “仮説採用” ですが、この外から来た情報を自身の一部に変換する重要なポイントとして、「忘れる時間」 というものを挙げたいと思います。
忘れては思い出すの繰り返しが、潜在意識への書き込みにどうやら力を発揮するようなのです。
貴秋がシュタイナー教育というものを知ったのは、ドイツ文学者 ・ 子安美知子氏の 「ミュンヘンの中学生」 などのご著書を通じてですが、このシュタイナー教育を行う学校では 独自の時間割が採用され、国語や算数 (数学) などの主要教科は 一日一回の二時間通しのエポック (基本) 授業で、一教科ずつを一定期間集中して学ぶのだそうです。
この授業には 「その日に始まったテーマを その日のうちに完結させてはならない」 という原則があって、たとえば円の面積がどれぐらいになるかという問題が出れば、まずは子どもたちめいめいが 思いつくままに 円を切ったりつないだり色を塗ったりして試行錯誤し、その日の授業はそれでおしまい。
子どもたちは、その日得た実験結果や自身の思いつきをそのまま持ち帰って一晩明かす、それがあって初めて、翌日教わる 「円の面積 = 半径の二乗 × 3.14」 という公式や 3.14という数字が生きた知恵になるのだといいます。
そのようにして算数なら算数のみを数週間集中して学び、その教科が終われば国語などの別の教科に移るという具合で、次に算数の授業が行われるのは 数ヶ月から一年ぐらい先のこと。
当然 「そんなに間が開くのでは、せっかく学んだことを忘れてしまうのではないか」 という心配の声が上がりますが、シュタイナー学校の先生方は、「忘れていい、いや むしろ忘れることが必要なのだ」 と答えるそうです。
この 「忘れる」 ということについて、「ミュンヘンの中学生」 から シュタイナー学校側の説明を引用させていただきますね。
ふかい集中力をそそいで、四週間ものあいだ勉強してきたことには、こんどは十分な休止期間をおくべきなのだ。
そして、忘れるだけのものは忘れること。
ピタゴラスの定理を言葉でとなえたり、それを整然たる記号で証明することなどは、すっかり忘れてかまわない。
それでもなお、きのうまで勉強した幾何学上のことがらは、子どもの内部の目に見えないところで、じっくり消化され変容していく。
そのためには、ちょうど毎日の勉強から勉強のあいだにひと晩の睡眠があったように、エポックからエポックのあいだにも、より長い休止期間が必要なのである。
さらに ちょっと長くなりますが、同じく 「ミュンヘンの中学生」 から 子安さんのお嬢さんフミさんの担任 ・ ヴルフ先生のお話も。
頭にはいった知識や概念は、いちど忘れることによって、意識から無意識の領分に移る。
それは、さらに肉体にはいって、目に見えない養分となる。
子どもの肉体は、こうして知識や概念による栄養があたえられなければならない。
「忘れる期間」 は、そのために欠くことのできない 「生命体のための時間」 である。
そのあいだに忘れた知識というものは、ただ意識の表面から消えているだけであり、つぎのエポックのはじめにちょっと復習することにより、容易にもどってくる。
一夜漬けの勉強でおぼえて忘れたものは、表層部に、ほこりのように付着して、またすぐにとれてしまったものだから、あとにはなにも残らない。
おなじように 「忘れる」 といっても、一夜漬けの勉強とエポック授業とでは、このような違いがあるのだ。
この 「ひとつのことを集中して学ぶ」 と 「忘れる時間を設ける」 というのは、知覚できない意識領域に情報を落とし込むための大切なポイントだと思います。
ひらめきで得た情報は 折に触れて日常のさまざまな場面に当てはめるため、学校の授業ほど集中して念頭に置くことはできませんが、それでも少し経つと その情報を忘れてしまうというのは、それが無意識領域に送り込まれた証だと思うのですね。
で しばらくすると 「しまった、忘れてた~」 ということになり、また数日は意識しているけれど 再び忘れてしまう。
そんなことを繰り返す自分を 「なんて忘れっぽいんだ、こんな大事なことなのに」 と嘆いていた貴秋ですが、実はこの忘れてはまた思い出すの繰り返しこそ、得た情報を潜在意識に書き込む重要なプロセスだったようです。
大切なことでなければ、忘れたきり思い出さなくても不思議ではありませんものね。
でも、何週間何ヶ月と忘れていても 必ずまた思い出しては使ってきた、その中で ほんとうに必要なものは 消化吸収され 定着したからこそ、このように自分の言葉として文章にできたりするのだと思うのです。
これまできちんとお礼を申し上げたことがありませんでしたが、こんな偏見炸裂のつたないブログをお読みくださり、中には 「いいねボタン」 等を押してくださる方まであること、いつも心から感謝しております。
貴秋にできるのは 自身の体験や思いを書き記すことだけですが、もしその中にお役に立ちそうな情報があれば、ぜひご自分の言葉に落とし込んでご自由に使っていただければと思います。
目に映る世界が内面の投影であるならば、自分も他人も同じこと、「自分の幸せが縁ある方の幸せとなり その輪が広がっていけば、自分がただ満ち足りて生きているだけで 世界平和を十分実現できるのだ」 という声が このところしきりに思い浮かぶ貴秋です。