毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

カテゴリー分類ってムズカしい ~ 日常の平和と心の平和はひとつもの

2023年07月21日 14時57分46秒 | ふと思うこと
三ヶ月ほど前に書いた 「映画 『A GHOST STORY』 ~ いつかその日、この生に未練を残さぬために」 のカテゴリーが 「貴秋の視点、すなわち偏見」 よりむしろ 「大好きな本 ・ 映画 ・ ほか」 だと氣づいて訂正した貴秋です (^^ゞ

なので、その次の記事の冒頭に書いた 「『 貴秋の視点、すなわち偏見』 カテゴリー以外の記事なんて何年ぶりでしょう。」 の一文はナシということで (笑)

こういうことが起きるのも、「形なき」 意識と 「形ある」 実生活が分かちがたく結びついているからなんですね。

目に見える世界は 自身の意識の投影だから、意識の曇りが取れれば取れるほど 実際の暮らしもどんどんよくなっていくわけで、よくなった日常についての感動を言葉にしようとすれば、内なる変化を 「こうしたらこうなってよかったよ~」 って言いたくなる氣持ちもどうしてもついてきちゃうのです。

だから どのカテゴリーに入れるかは、「形なき」 と 「形ある」 のどちらに重点が置かれているかで おおまかに判断するしかないんだなぁ




ところで、さっきたまたま こんなニュース記事が目についたんですが。

    “杏の「育児は人の手を頼って」発言への批判に感じた危機感…従来型の母親像と違う人を頭ごなしに否定する人たち


う~ん、杏さんが自慢や優越感からおっしゃっているわけでないことも 記者さんの危機感もわかる、と同時に こんなとき誰かにネガ感情を叩きつけずにおれない人の心理もわかるんだよなぁ。。。。自分だって 妬み嫉み僻みみたいなドロドロした感情を 人一倍持って生きていたときがあったもの。

ただ 自分もそうだったからこそ、そのままいくら怨嗟の声を上げ続けたところで 何一つよくなるわけじゃないことも よぉくわかるんです。

形ある世界では あらゆることにネガポジ半々の見方があるわけで、そのどちらにも必ず肩入れする人がいるから、個の意識オンリーでいく限り どこまでも賛否両論に分かれてぶつかり合うしかなく、それでは怒りのエネルギーが大きくなるばかりで 何の解決にもならないんですね。

感情的な思いや言葉をいったん脇に置き、形ある世界の枠組みを超えた引きの視点から事の全体を見渡せば、「そもそも何が原因で、これほどの経済格差が生じているのか?」 というところに イヤでも目がいくはず。

そこで理屈であれこれ考えず、その問いに対する答えが自然と内からもたらされるのを待てば、真の解決につながる答えが 最適のタイミングで必ず手に入るし、その先自分が何を選びどう行動すればいいかもおのずとわかります。

答えは問いよりも先に存在していて 問われるのを待っているのですから、あとはほんとうの問いにたどり着く意志があるかどうかだけ。

これはもちろん意志があるからいいとかないから悪いとかいう話ではなく、めいめいの魂が何を体験すると決めてきたかによって自由に選択できますが、格差に怒りを感じるというのは、格差をなくすことを諦めていない氣持ちの表れでもあり、その思いを実現するためには、怒りを外に叩きつけたくなる衝動からいったん離れて 冷静に状況を見極める目が どうしても必要です。

怒りを持ち続けたままだと どんどん氣持ちがこじれて苦しくなり、それをそのまま表に放てば、作用反作用の法則で 必ず同じだけの反発が返ってくる、こうして分裂が大きくなり 根本的な解決策が見出せずにいるうちに、地球環境のほうが持ちこたえられなくなって、やがてはすべてのいのちが滅びてしまいます。

それが人類のあらかたの本意でないことは、怒りを抱える人、すなわち諦めていない人がこれほど多いことからもわかりますから、貴秋がお伝えしたいことも 結局は 「自分はこうしてネガ感情を手放し、真の答えの一端を垣間見ることができましたよ」 という話になってしまうわけです。

梅を漬けたりゴーヤを育てたりのこの平和な日々も つまるところネガ意識の手放しの賜物、貴秋のブログが 日々の暮らしの何をどう語ろうと おしまいには金太郎飴のごとく 潜在意識だの負の手放しだのの話に行き着いてしまうのは、どうにも避けられないことのようです。