毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

真我さんは誤たない

2023年09月07日 13時04分23秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
真我さん。

「~さん」 と他者扱いしていますが、これはお遊びで、知覚はできないけれど これもまた自分とわかった上での愛称です。

そして この真我さんのお誘いにはためらわずすべて乗るというのが、最近一番のお遊び。。。。というか、生きることそのものと言ったほうがいいかもしれないなぁ。




最初に真我さんの働きにわずかながらも氣づいたのは、彗星捜索家で臨死体験者の木内鶴彦さんの講演を聴いたしばらく後だったか。

講演内容を紹介する人の話に耳を傾け、自ら何度か講演会にも出かけ、さらにはCDまで買って 同じ話を繰り返し聴いたというのに、なぜか心に残る情報と残らない情報があるのです。

臨死体験中に 宇宙の始まりを見に行ったとか、さまざまな時代のさまざまな場面を目撃したとか、そういう話も好きだし信じてもいるのに、いざ人に話そうとしても 記憶があやふやで、自分の言葉に置き換えられず 語ることができない。

その一方で、里山の循環の話だけは すっかり自分の言葉に落とし込んで いくらでも話せるのですから、記憶力そのものの問題というわけでもなさそう。

これがずっと氣にかかっていたんですが、次第に思うようになったんですね、自分に必要な情報が残っただけの話、何かがそのように調整したのだと。

そして 決定打となったのは、最近氣づいた 旅館バイト時代の出来事について。

少し前にも書いたと思いますが、バイト先で思うような働きができなかったのは、意識の知覚できない部分が わざとそのように仕向けていたのだと 不意にわかった瞬間があったのです。

あえて記憶力を鈍らせ ヘマをやらせて、 “出来の悪い子” として 親を思わせる上司に叱責されることで、過去の親子関係を追体験させ、ネガな氣分をとことん味わわせて、潜在意識に入り込んだままの思い込みを解除させるべく起こしたことだったのだと。

これがすとんと腑に落ちたおかげで、潜在意識 すなわち真我さんとは、このように氣づかないところで自分を操り動かしているのだと、そしてそれは自分を苦しめるためではなく、望む世界に行かせるためにしていることなのだと すんなり信じられるようになりました。




こうなる前、特にまだ顕在意識オンリーだったときの名残が色濃かったころは、五感を超えた領域を信じる氣持ちと、そんな自分をあり得ないとなじる氣持ちの綱引きの中でもみくちゃになり、氣分が絶えず上下して まるで落ち着けませんでしたが、ようやっと真我さんにすべて委ねられるようになり、万事お任せで付き従うようになってからは、緊張が解け 余分な力が脱けて まあなんと楽になったこと。

真我さんの意図も働きも こちらにはまったく察知できませんから、うるさいしつこいと思うようなことはいっさいなく、俗に 「虫の知らせ」 などといわれるように ふと思う、ふと氣づく、というようなさりげない形で導いてくれ、キャッチし損ねてもスルーしても 怒ることも罰することもありません。

それだけに、こちらがその小さな声ならぬ声にいかに氣づけるかがカギとなりますが、それも 度重なる 「ふと。。。」 の感覚に慣れることで、逃さず乗っかれるようになりました。

また、きのうまで夢中だったことに なぜかきょうは興味が湧かない、なんて場合も、以前はなんで? と悩んだものですが、いまは これはいったんおしまいということね、とすぐさま納得して、じゃあ次は何に関心を向けさせようとしているんだろう? とぱっと氣持ちを切り替えられるようになり、いらぬ悩みに割く時間とエネルギーが減って 省エネでスムーズに事が運ぶようになりました。

実際、小はご飯のメニューや散歩コースから、大は人生の岐路に至るまで、どんな選択であれ、真我さんに従って失敗したということは ただの一度もありません。

一見失敗のように見えて、あとから 「あれがいまの成功の伏線になってたのか!」 と氣づくようなことも何度もあって、重要な選択であればあるほど 広い視野と長いスパンで見ることが大切だということを教えられたため、小さなヘマにくよくよせず、さっさと感覚フォーカスして氣分を変え、次に進むことも覚えました。

いまの貴秋には、何につけても 「真我さんは誤たない、内の真我さんの言うとおり」 が合言葉、おかげで こんなややこしい時代にありながら、ようやく 生来ののんびり ・ ゆったり ・ おっとりの氣性で生きられるようになった氣がしています。