Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

サンダカン八番娼館 望郷

2011-08-26 | 日本映画(さ行)
★★★★☆ 1974年/日本 監督/熊井啓


「心の奥底に分け入る白いパンタロン」


悲しい。悲しくてたまらない。
親に騙され、国に騙され、見知らぬ外国の土地で来る日も来る日も体を売らされた「からゆきさん」。
女性としてはもちろんのこと、人間としての最低限の尊厳すらもない毎日。
港に軍艦がやってくる日はかき入れ時となり、次から次へと客を取らされる。
ひどい日は1晩に30人の客を取らされる。その壮絶さに想いを馳せ、胸が詰まるような鼓動の早さを感じるけれど、
果たしてそんなもの、彼女たちが味わった苦しみの何百分の一にも届かないだろう。
外貨を稼ぐため、国が彼女たちを送り続けた。その事実をもっと多くの人が知るべきだ。
悲しくなるのがわかっているから、こういう映画を観るのはつらいんだけども、やっぱり観なきゃいけないんだ。

こんな壮絶な日々の後、辿り着いた汚い小屋暮らし。だのに、老婆のサキさんは無垢で優しい。
田中絹代の渾身の演技に打たれる。
受けた苦しみがあまりにも絶望的だからこそ、人間としてまとわりつく一切の我欲を捨て去ってしまったのだろうか。
そんな風に想像すると、再び悲しさが込み上げる。
何もかも呑み込んで、受け入れて、そして老いて生きる女の孤独。

熊井監督の演出は容赦が無くて、からゆきさんのみじめな実態がこれでもかと迫る。
そんな劣悪な環境で光る高橋洋子のあどけなさや色っぽさ。
その危うさがひょっとすると、こうした運命を受け入れざるを得ない女の無知をあぶり出しているようにも思え、
まさか、とぶんぶん頭を横に振ってしまったりもする。
残念なのは、栗原小巻演じる女性史研究家、圭子。
彼女の行為がまるで隠したい過去に土足で入り込むごとき不快感を感じさせる。

ずっと気になって仕方なかったんです。圭子が履く白いパンタロン。
田舎の小さな集落に通い詰めるには、あまりに似つかわしくないその出で立ち。
その白さは純潔の象徴のように思われ、来る日も来る日も体を売ってきたサキさんを愚弄しているように見えるのです。
しかもね。
私のアンテナが変なところに敏感なのかも知れませんけれど。
スカートではなく、パンタロンであることが、圭子がかたくなに貞操を守っていることを強調しているようにも見えるのです。
きっと、熊井監督はそんなことは狙ってないとは思う。学者として颯爽な出で立ちをさせただけでしょう。
でも、映画作品における衣装って大事だと思うんだ。観客は映像から様々なイマジネーションをしてしまうから。
そこんところがとにかく残念なんですが、多くの方に知って欲しい、見て欲しい作品であることに間違いはありません。



しんぼる

2011-08-06 | 日本映画(さ行)
★★☆ 2009年/日本 監督/松本人志

「半径10km圏内の映画を撮ってみたらどうか」


デビュー作が日本国の話で2作目が神の話だなんて、
松本人志はなんでこうも大層なテーマばかりに取り組むのか、私には理解できない。
いくらなんでも、でかすぎやしない?
描く対象物がでかければでかいほど、それを揶揄する表現がユーモアを帯びるのかも知れない。
その狙いはわかるけど、取りあえげるテーマがこんなだからこそ、
やはりコントの延長線にしか見えないんだな。
「さや侍」は見ていないからわからないけど、あれは人を笑わせるとは何か?
みたいな結構深いテーマを抱えてたりするんだろうか。
なんかこう、もっと身近なことを描けばいいと思うんだけど。
幼少時代きっと周りにうざるほどいたであろう、尼崎のおもしろいオッサンの話とかさ。

実験的で、チャレンジしようって気持ちはすごくわかる。
またそういう作家の作品はつまらんなんていう先入観も全く持っていないよ、私は。
なんだか、無理して作っているように見えるんだよね。
そういう風に観客に思わせてしまう映画ってのはさ、やっぱ根本的にダメなんじゃないかな。

メキシコシーンはすごく雰囲気が出ていていい感じだから、
余計に普通の映画撮ってみれば?と思っちゃうのかもね。