Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

エリザベス ゴールデン・エイジ

2008-11-27 | 外国映画(あ行)
★★★★ 2007年/イギリス、フランス 監督/シェカール・カブール 
「絵になる女」


主演のケイト・ブランシェット。登場したその瞬間から女王の佇まい。射抜くような鋭い目をして、誰も寄せ付けぬオーラを身にまとっている。やはり、歴史上の人物を描くのですから、主人公にはこれくらい存在感がないと。徹頭徹尾ケイト・ブランシェットの映画。それでいいんです。前作「エリザベス」より好きですね。「スペインとの一騎打ち」と「好きな男を女官にかっさらわれる苦悩」。前作よりも物語の進行がシンプルゆえに力強いです。また、よりじっくりと女王の心理描写に迫っています。

宮殿内、苦悩するエリザベスをとらえるロングショットが効果的です。また、王座に座る場面はどしんと正面から捉えたり、大勢の家臣をたずさえ廊下を歩く際にはクレーンで追いかけたり、様々なカメラワークも楽しい。360度回るシーンもアリですね。「これでもか、これでもか」って言う過剰ぶりを私は楽しみました。次々とお披露目されるエリザベスのドレスとヘアスタイルにも釘付け。あのカツラは現代の感性で見れば、奇妙な造形なんですが、あれをかぶっていても威厳があるケイトがすごい。

海賊ローリーとのラブストーリーという側面から見れば、甘い部分も多々あるんですけれども、当時の女王がいかに絶大なる権力を持っていたか。そして、その権力の行使にいかに魂を削られていたのかという面においては、すごく感情移入してしまった。全ての人々の生き死にが自分の決断ひとつにかかっている。決断の美学ってんですかね。やはり、自分が全責任をかぶって、何事かを決めるって、女性としてはすごくしんどい。虚勢を張って、デキる女に見せて、男どもに突っかかるように生きてる姿は、まるで「働きマン」みたいなんだもん。せっかく、そんな自分を包み込んでくれる器のでかそうな男が現れたと思ったら、あれでしょ。ラストに至っては、その孤独を背中で語ってましたね。ケイト、あっぱれ。


エリザベス

2008-11-26 | 外国映画(あ行)
★★★☆ 1998年/イギリス 監督/シュカール・カプール
「『ブーリン家の姉妹』を見た後で丁度良かった」


エリザベスの母、アン・ブーリンの怒濤の一生を描く「ブーリン家の姉妹」を見て、興味が湧き鑑賞。まず、基本的に人物関係や歴史的背景に関する説明がとても少ない。それは、ストーリーを追いながら補完できたとしても、なにゆえ主人公エリザベスがこれほどまでに周囲の人間に忌み嫌われるのかということ。つまり「妾腹」だの「淫売女の娘」だと揶揄される由縁がわかっていないと、エリザベスの苦悩が共有できません。ちょっと事前のお勉強が必要ですね。イギリス史に疎い私なぞ、「ブーリン」を見ていたからこそ、楽しめました。

「ブーリン」もそうでしたが、イギリスの歴史って血なまぐさい。陰謀だらけ、拷問だらけ、斬首だらけで、かなりハード。そんな中、幽閉されていたエリザベスが、いかにして女王としての覚悟を身につけていくかってプロセスが軸になっているわけです。しかしながら、エリザベスの心情があまり際立って来ない。スコットランド女王メアリーとの確執、スペインとの睨み合い、ローマ法王の差し向ける暗殺者。次々と我が身に降りかかる国の窮地、死の恐怖、愛する者の裏切り、もっとエリザベスの胸中をえぐるような脚本、演出にならなかったかなあと思います。

その点、「ブーリン」は、大奥さながらのドロドロ劇ですが、波瀾万丈な人生ドラマが結構面白いのです。いかんせん、幼なじみの思い人を演じるジョセフ・ファインズがあまり魅力的ではない。だから、愛を捨てねばならんつらさがぐいっと迫ってこないのです。結局、歴史のあれこれを追いかけるのでいっぱいいっぱいという感じです。

ラストに至り、毅然と国王の椅子に腰掛けるケイト・ブランシェットの迫力はなかなかのもの。パート2を作りたくなるのもわかります。そして、色好みのフランスの貴公子、ヴァンサン・カッセルがハマリ役。この時代からフランス人は享楽的で、イギリス人は堅物だったんですね。歴史大作としてのスケール感はまずまずと言ったところでしょうか。それにしても、イギリス王家は「メアリー」だらけ!めちゃめちゃ、混同します。アン・ブーリンの妹もメアリー、エリザベスが王位に着く前の王位継承者(ヘンリー8世の娘)もメアリー、スコットランド女王もメアリー。みなさま、どの「メアリー」か気をつけながらご鑑賞下さい。

アメリカン・ギャングスター

2008-11-24 | 外国映画(あ行)
★★★★ 2007年/アメリカ 監督/リドリー・スコット
「男臭そうに見えて、サラッと終わっちまったよ」

犯罪者と警官対決と言うジャンルはとてもたくさんあって、かつ男と男のガチンコ勝負となると、何せリドリー・スコットだし、期待ばかりが膨らんでしまうわけですが、「ほう、アメリカのドラッグ社会ってのは、そういう成り立ちですかい」ってことだけで、イマイチさらりと終わってしまうのでした。

ラッセル・クロウ演じる刑事のリッチーは、正義感が強いばかりに署内でははみ出し者、しかも嫁さんにも見放されてやさぐれてます。が。こんなキャラいくらでもあるだろうって感じなのよね。ところが、部下との確執や離婚調停中の妻とのやり取りの中でこのありきたりなキャラクターが徐々に魅力を増していく。逆に物足りないのは、デンゼル・ワシントン演じるギャングのフランク。なるほどクールでクレバーな成り上がりぶりはデンゼルの存在感を感じるけれども、割とカッコイイばかりでその胸中、心情の描き方が浅く感じられるのです。

フランクの麻薬取引のスタイルはとっても律儀で、彼は筋を通す男。でも、根本的にてめえのまいたクスリで同胞がバタバタと死んでるわけだから、「俺はまじめにやってるんだ」というポリシーなんて、ちゃんちゃらおかしいワケ。でも、それにフランクが悩んだり、誰かに暴かれたりすることもなく物語は進む。結局、黒人に蔓延するドラッグという軸のこちら側と向こう側を描いている、そんな印象でした。

また、テンポはいいし、映像はスタイリッシュだし、例えば大勢の裸のねえちゃんが部屋でせっせとコカインをつめてるシーンなんかがカッコ良くて、ほんとはそういうどうでもいいシーンを凌ぐ2人の対決シーンがあれば良かったんですけどね。決してつまらないってことはないです。ぐいぐい引き込む魅力はあります。でも、やっぱり男と男の対決は、見終わって「しびれたぁ~」ってくらいの鷲づかみな感触が欲しいです。



お金がない!

2008-11-23 | TVドラマ(日本)
<名作ドラマアーカイブ>
★★★★☆ 1994年/フジテレビ
「カンチの憑き物が取れた出世作」


フジテレビのドラマが素直に面白いと思えた頃の作品。何度も観ています。大貧民から大富豪へ。ストーリィも分かりやすいですし、非常にテンポがいいです。服部隆之の音楽も絶妙にマッチしています。トラブルが発生した時に必ず流れるサキソフォンの軽快なメロディは今でも頭に残っているほど。

そして、このドラマは織田裕二の転換作。「東京ラブストーリー」の大ヒットによって、彼が抱えた物は重荷以外の何物でもありませんでした。リカをふったダメ男、優柔不断男、カンチの呪縛。それにずっと悩まされ続けてきたと思います。その憑き物がこの作品でようやく落ちました。新路線の幕開けですね。当時、モデル上がりで演技もへったくれもなかった東幹久もこの作品でひと皮向けました。いろんな意味でエポックメイキングなドラマだと思います。見たことがない方には、大プッシュします。

それにしても。織田裕二は配役の呪縛から逃れられない運命なんですかねえ。今度の青島刑事は長いです。何度も憑き物を振り払おうとしたようですが、フジテレビに追い詰められてついに「踊るパート3」に取りかかるようです。これがコケたら、織田裕二は行き場を失いかねないと思うけど。まあきっとフジのことだから、とてつもない番宣とキャンペーン張るんでしょう。


ALWAYS 続・三丁目の夕日

2008-11-22 | 日本映画(あ行)
★★★ 2007年/日本 監督/山崎貴
「欲張りすぎ」

息子とテレビで見ていましたが、「次はこうなるよ」と言うことがまさしくその通りになっていくのでありました。例えば「寅さん」のように、ほんの少し泣いて笑って、物語の行く末も何となく見ていてわかる、そんな安心する映画というものがあります。しかし、そういう映画の存在価値がわかっていてもなお、この作品の物語の顛末はベタ過ぎて、私には正直「勘弁」な世界でした。前作を「昭和の博覧会」だと感じました。今作はもう少し人情劇にスポットをあてようとしたのでしょうか。

しかし、わからないのは、小日向さん演じる淳之介の父、川渕の存在。善人ばかりの夕日町にひとり現実主義の悪人の看板をしょって現れるのですが、予想通りの小雪登場のあと、何だかすんなり息子を連れ戻さずに去っていきます。椅子からずっこけそうになりました。本来ならば、茶川と淳之介の父、両者の溝を埋める物語だけでも、もっとドラマティックな展開が語れるはずです。それは、鈴木オートに預けられた美加なる女の子とその父においてもしかりです。どのエピソードを見ても、もっと深く掘り下げられるはずなんですけど、盛り込み過ぎです。

少々脱線して申し訳ないですけど、最近1本のCMに有名タレントをやたらと大集合させてるのが多いでしょ。ドコモの「アンサーハウス」とかグリコの「サザエさん一家」とか。あれは、大変卑怯です。あんなの、広告じゃない。広告って、削ぎ落としのプロセスから生まれるものでしょう?いろんな表現方法があって、最もターゲットの心に響くものを絞り込んで、絞り込んで、やっと見えてくる1本の道筋。でも、最近この有名人を「できるだけ盛り込んだもの勝ち」CMがあまりに多くてうんざりします。この「ALWAYS」にしたって、エピソードを「できるだけ盛り込んだもの勝ち」な手法(そもそも、そんなの手法とは呼べないが)に頼りすぎです。先ほど言った茶川と川渕の顛末にしても、詐欺師のエピソードを入れなければ、もっと両者間のすれ違い、説得、納得という心の揺れにスポットが当てられるのになあ、と思います。足し算ばかりせずに、もっと引き算をすればいいのに。

とまあ、否定的なことばかり書きましたが、本作で光っている俳優。私は敢えて薬師丸ひろ子ではなく堀北真希だと思います。前作でも思ったのですが、素朴な田舎娘を見事に演じています。テレビドラマであまりぱっとしないのはどうしてだろう、と思わせるほど、この東北弁でおさげ髪の少女は愛嬌があって、かわいらしいのです。

シッコ

2008-11-21 | 外国映画(さ行)
★★★★☆ 2007年/アメリカ 監督/マイケル・ムーア
「わかった上でムーアマジックにかかる」

ムーアの作品に何かとケチをつけたくなる人が出てくるのもわかります。だって、あまりにも素材の料理の仕方が旨いですから。深刻な問題を扱いながらも、楽しくてわかりやすい見せ方でエンターテイメント作品として成立させる。そこには、少々のおふざけやジョーク、ムーア個人の思い入れ(または意図的な思い込み)は必須。本作で言えば、ダジャレを飛ばして洗濯かごを抱え、ホワイトハウスの階段をのぼるラストシーン。あれは、あまりにもでき過ぎ。「いいラストカットが思いついた」というムーアのほくそ笑んだ顔すら思い浮かびます。

それでも、このようなエンタメ方式にこだわっているからこそ、多くの観客が問題を知るのですから、私は少々のことには目をつぶります。もう、そういうことにします(笑)。目の前の素材をどう料理すれば面白く伝わるのか。これ、モノ作りをする人間のひとりとして大いに参考になるんですもん。

何かと対比させるやり方がムーアは得意で「ボーリング・フォー・コロンバイン」の時も、アメリカの銃社会を隣国カナダと比べていました。今回はフランスなど保険制度の充実した国と比べて、アメリカの保険制度のもろさを嘆きに嘆いています。本来ならば、税制度の違いもありましょうし、一面的に比較するのが正しいとは思えません。しかし、そういうツッコミを交わすかのように、後半は911の消防活動にあたった方々の保障制度に話が移行。この辺の目くらましの術はとても巧い。

それでも、グアンタナモまで医療と薬を求めてくだりは、当事者の無念がひしひしと伝わり、胸に込み上げるものがあります。社会主義国キューバで医療が受けられ、薬を安く手に入れられる。ここでも、資本主義と社会主義の比較が行われています。おそらく、ムーアは作品作りをする上で「アメリカ イズ No.1」的なアメリカ人の目を覚まさせること。それに、最も重きを置いているのでしょう。その場合、何かと比べて語るというのが、いちばんわかりやすいですから。

作品のキャッチコピーにもなっている、「人ごとじゃない」。これ、痛感です。現状、我々日本の保険社会とアメリカの保険社会は、全く構造が異なるのに、最終的には多大な危機感を持たせられている。これぞ、ムーアマジックですね。

雪が積もった

2008-11-20 | 木の家の暮らし
11月に積もったことって、今までもあったけど~。
急に冷え込んだから、体調崩しそうです。
しかも、車のタイヤ交換まだだし!
で、張り切って変えたら、また来週あたり暖かさが戻ったりするんだよな~。



庭にも雪が…。
3年越しで育てたユリオプスデージーがようやくつぼみをつけたのにぃ~~。
すっかり雪かぶちゃって大丈夫だろうか。

ゼア・ウィル・ビー・ブラッド

2008-11-19 | 外国映画(さ行)
★★★★☆ 2007年/アメリカ 監督/ポール・トーマス・アンダーソン
「セックスとドラッグを抜きにしてアメリカを見つめる」

「ノーカントリー」はもちろん、「ダークナイト」もしかりで、「悪」を巡る大作が、今年のアメリカ作品では目立ちました。邦画もですが、2008年の映画は豊作の年と言えるのではないでしょうか。重厚で見応えのある作品に恵まれた年のような気がします。

さて、「ブギーナイツ」「マグノリア」ですっかりやられた私ですが、今作のポール・トーマス・アンダーソン監督は敢えてドラッグとセックスを封印して、アメリカを描こうとした。その代わりに持ってきた題材が「石油」なのでしょう。

人間不信の男がばったばったと周りの人間を地獄に突き落とす物語かと思っていたら、予想を裏切られました。ダニーよりも、むしろポール。イーライを演じるポール・ダノがきっちりタイマン勝負を張っています。油田をバックに人々の神たらんとした男と、イカサマ宗教をバックに神たらんとした男のガチンコ対決に酔いました。「リトル・ミス・サンシャイン」でもニーチェに傾倒する寡黙な青年を演じていましたが、本作のキレっぷりは見事です。中盤、出番は少なくなるにも関わらず、ラストまでこのタイマン勝負は続きます。それは、スクリーンに映らなくとも、ダニエルが常にイーライの影に脅え、イーライを凌ぐために、己を奮い立てているのがびんびんに伝わってくるからです。もちろん、それを感じさせるダニエルの演技もすばらしいのですが。

「ノーカントリー」にしろ「ダークナイト」にしろ、善をあざ笑うかのような悪の存在を浮き彫りにしていますが、それは何かと対立的に描かれています。「ノーカントリー」では、なす術もない保安官がおり、「ダークナイト」では自己犠牲により立ち向かうバットマンがいます。しかし、本作では欲と欲との壮絶なぶつかり合いが延々と繰り広げられ、最後にはまるで子供のケンカのごとき殴り合いによる共倒れで終焉を迎えます。私はこのエンディングにおいて「ノーカントリー」で味わった虚脱感は感じませんでした。むしろ、ひとつの時代が幕を閉じた、これにてお終い、と言う印象です。

それは、このダニエルという男が私には終始嫌な奴に思えなかったことも大きいかも知れません。体を張って油田を掘り起こし、意地と虚栄で企業の差し向けるネクタイ族と対抗し、駆け引きの道具とはいえ幼子を引き取って育てたダニエルという男の人生。開拓者とも言うべきそのバイタリティに私はとても引きつけられました。しかし、そんな彼も最終的には自らの手を血に染めて、ケリをつける。それは決して褒められたケリの付け方ではないのですか、金も名誉も手に入れた人間が結局何者かに怯え続け、己の手を血に染めねば解決できぬ人間の業のようなものをまざまざと感じさせられるのです。油田の掘削シーンを始め、広大なアメリカの大地で繰り広げられる壮大な人間物語。存分に堪能しました。

きみはペット

2008-11-18 | TVドラマ(日本)
<名作ドラマアーカイブ>
★★★★ 2003年/TBS
「若い男の子を飼うということ」

放映時は、男の子をペットにするということが様々な物議を醸したようです。仕事に疲れたOLが若い男の子をかわいがる。いいじゃあ、ありませんか。この子は自ら「俺をペットにしてくれ」と転がり込んできたわけですからね。我が家のベルも鳴らないもんでしょうか。

携帯電話の出現以降、コイバナ系ドラマは本当につまらなくなったのですが、本作は大健闘。面白さのカギは、昔のラブストーリー、今のラブストーリー、それぞれに欠かせない王道テーマを両方バランス良く配合していることだと思います。前者は、「背伸びして憧れの相手を選ぶか、一緒にいて安心できる相手を選ぶか」。例えば「東京ラブストーリー」のヘタレ男カンチは背伸びする勇気が持てずリカを捨て、安らげる里美を選びました。恋愛ものでは、何度も何度も繰り返されるテーマです。本作では、憧れの相手が蓮見先輩、安らげるのがモモ。最終的にスミレがどっちを選ぶのか、最後までヤキモキさせられます。

後者は「恋愛と仕事の両立に悩む働きマンの現実」です。男性と同等に働き、残業し、仕事道を邁進する現代女性が、いざ恋人と二人きりになれば、彼氏を優しく包んであげるような女性らしさを要求される。そこに生まれる価値観のギャップが物語の面白さとなります。本作では、仕事はできる女「スミレ」を通して、恋愛のあれこれが面倒くさい働きマンの実体が見えてきます。

そして、マツジュン演じるモモのキャラクターについては、現代男性像を考えるに格好の材料だと思います。モモはヒモではないんです。誰かのそばにいたい。ナデナデして欲しい。最近、流行りの「草食男子」の先駆け的キャラではないでしょうか。そして、ナデナデすることで、スミレも安らぎを得る。ドラマの中盤辺りは、双方「癒されたい」欲求がまあるく収まる理想型のようにすら見えてきます。しかし、モモに自我が芽生えてこの理想型は破綻し始める。連ドラとしては、最終回に向けてうまい盛り上がり方です。ところが、迎えた最終回。私は全然納得できませんでした。

というのも、若い男の子をペットにするという、実に面白いテーマを投げかけておいて、「アクシデントによるめでたし、めでたし」という結末だからです。これは、当時まだマンガが連載中だったから、という枷があったからかも知れません。でも、やっぱり主人公は自分の道を自分で選択しなきゃならないでしょう。でないと、なんのために10回分のストーリーが存在するの?ってことで。ちなみに、私が望んだのは、モモを解放してあげて、蓮見先輩にきちんと告白する、というものでした。それができて初めて、スミレは恋に自立した女になれたんじゃないでしょうか。仮にテレビ局の思惑として、モモとのハッピーエンドになったとしても。それでもやっぱり、スミレが彼を選んだという展開にして欲しかった。「アンタは好きなバレエをとことんやればいい。お金のことは私に任せて」と留学先まで追っかけて、啖呵でも切ってくれれば、それはそれで面白かったのに。

それにしても「東京ラブストーリー」から時代は変わったと言え、やはり「安らげる相手」を選ぶという無難な着地点。何だかもの足りませんねえ。シチュエーションが奇抜なだけに、エンディングも「そう来たか」というくらいの驚きが欲しかったです。事故や病気、なんていわば反則ネタ。面白かっただけに、ことさら残念。まあ、回を追うごとに増していくマツジュンの愛らしさ。これについては、申し分なし。おかげで「花男」なんてミーハードラマも道明寺派ですっかりハマってしまいましたから。

リアル・フィクション

2008-11-17 | 外国映画(や・ら・わ行)
★★★ 2000年/韓国 監督/ギム・ギドク
「チャレンジ精神」

夢と現実。表の顔と裏の顔、などギドク作品に欠かせないテーマですので、ギドクが好きだという方は、見てもある程度楽しめるかもしれませんが、作品単体としての強い吸引力には欠けます。

もうひとりの自分がいて、そいつが自分を見つめている。そんな表現として、白いワンピース姿の女性がずっと主人公の自分をビデオカメラで映しているのですが、このあまりにも俗っぽい表現がギドクの初期作らしいです。前作の「ワイルドアニマル」の冷凍サンマでぶっ殺す、みたいなところに通じます。何かの暗喩でしょうが、ちょっと吹き出してしまうようなひねり具合。しかし、ギドクはくじけずにその表現方法に挑戦し続け、磨き上げたんだなあ、というのがよくわかりました。

本作は、ゲリラ撮影でたった1日で撮り上げたということ。まさに実験作ですね。多作、スピード撮影で知られるギドク監督の練習風景を見させてもらったという感じでしょうか。

按摩と女

2008-11-16 | 日本映画(あ行)
★★★★☆ 1938年/日本 監督/清水宏
「日本人のアドバンテージ」 


石井監督のカヴァー「山のあなた」を見て、オリジナルに興味が湧き観賞。

よく「フレームの美学」なんて言われますけども、日本人の場合、日本人であるというだけで物凄いアドバンテージがあるんじゃないか。本作を見て、そんなことを痛感します。格子戸、障子、襖、縁側…。これらの日本建築に必ず備わる様式は、フレームの端々に配置するだけで、絵画のようにしっかりと収まる。例えば、スクリーン左端に格子戸を置く。スクリーン下側に縁側を持ってくる。それだけで、何とも美しいフレーミングが完成する。障子にもたれかかって、考え事をするという何気ないカットにしても、障子そのものが「こちら側」と「あちら側」の曖昧な境界を作り出すという役割があるため、人物たちの揺れる心が表現できる。

人々の心をざわつかせる「財布が盗まれる」という事件。これにしても、この宿屋の障子が開け放されていたり、子どもが縁側づいたいに行ったり来たりできるからこそ、人々の猜疑心は膨れあがる。この日本建築そのものが持っている「意味」と物語の「意図」が絶妙に溶け合っています。

で、やはりこのフレームの美しさがもたらす余韻、そしてイマジネーションって、カラーよりも断然モノクロの方が大きいんですね。石井監督のカヴァー版よりもそれぞれの登場人物の小さな心の揺れがさらに際立っています。面白いのは「山のあなた」では、物語の振り子の役割を担っていると考えたほどの子供の存在感が、本作ではずいぶん薄く感じられたこと。しかし、逆に徳市の「お客様!」の土下座シーンは、こちらの方が何倍も悲壮感があります。徳市の「俺が助けてやる」という傲慢、「もしかしたら恋仲になるかも知れない」といった希望が打ち砕かれる。そんな徳市の心の動きは、正直「山のあなた」では今ひとつ心に迫りませんでした。どちらかと言うと、温泉宿場での群像劇のようにすら感じられたのです。しかし、オリジナルは奈落の底に落とされた徳市の情けなさ、つらさがラストまで後を引きました。

ブーリン家の姉妹

2008-11-15 | 外国映画(は行)
★★★★ 2008年/アメリカ・イギリス 監督/ ジャスティン・チャドウィック
<TOHOシネマズ梅田にて鑑賞>

「ため息のDNA」


タイトルが「ブーリン家の姉妹」ですので、ひとりの男を奪い合う姉妹の確執にとことんスポットが当てられています。ですので、史実をひねり過ぎはないかとか、王様は政治もせんと女のことで頭がいっぱいすぎる、と言った突っ込みどころは満載なのです。それでも、ある程度は歴史的に間違いないのですから、このドロドロ劇をとことん堪能しようではありませんか。本当のところは、もっと悲惨な物語が隠されているようですし。

多くの方が連想されたように、観賞後私も「大奥」を思い出しました。政治の道具として利用される女性たちの波瀾万丈な生き様。その人間性などまるで無視されたようなひどい扱いぶりに同性として腹立たしい思いでいっぱいになる。ところが一方で、誰が生き残るのか一寸先は闇というサバイバルゲームをワイドショー感覚で楽しんでいる自分がいる。そんな自分に嫌悪感を感じたりもして。結構、この手の作品って、「かわいそう」と「オモロイ」のアンビバレンツに悶え苦しむのです。これは、きっと女性特有の感覚でしょうね。

そして、生まれた赤ん坊が「女の子」であった時の静寂。喜ぶ者はひとりもいない。無音のスクリーン。でも、私にはため息が聞こえるのです。女で残念、と言う皆々のため息が。命の誕生。それは、最も喜ばしき瞬間。なのに、女はこうして何世紀もの間、女で残念という刻印をDNAに刻み込まれ続けてきているように感じて居たたまれなくなる。だから、晩年のメアリーは幸福に過ごした、というラストのナレーションにも安堵感を感じるどころか、ごまかしのように聞こえる。やっぱり、この手の作品を見ると、女性として賢く生きるって、なんだ?と思わされるのです。だって、男性として賢く生きる、という文脈は存在しないでしょう?

さて、作品に戻って。フランス帰りで洗練されたというアンが、「あんま、変わってないやん」というところがちょっと残念。史実では6年も待たせたんですってね。だったら、なおさら変身ぶりを見せて欲しかったなあ。宮殿もセットを組んだということですし、衣装も豪華絢爛。歴史大作としてのスケール感はかなり堪能できました。女性が頭にかぶっている、顔を五角形の鋲なようなもので覆うアレはなんというのでしょうかね。既婚者がかぶるものでしょうか、ずいぶんイカツイ。フランス王朝のロココファッションは、もっと軽やかで優雅なんですけど、そういう違いも面白かった。

それにしても、やっぱりイギリスは階級社会。「大奥」ならどんなに身分が低かろうと男の子さえ生めば安泰なのに、正式な王位継承者でなければ私生児でしょ。アンにしてもメアリーにしても、王を取り巻く貴族たちが出世するための道具。「大奥」でも男たちの出世のためにという背景はあるけど、「大奥」という箱は与えられているので、案外日本の方が環境は上かもと思わされます。だって、アンの最期はとても壮絶なんですもん。「エリザベス」及び「ゴールデン・エイジ」が未見なので、基礎知識ができたことだし、見てみようと思います。


ぜんぶ、フィデルのせい

2008-11-14 | 外国映画(さ行)
★★★★☆ 2006年/イタリア・フランス 監督/ジュリー・ガヴラス
「人対人の信条をめぐる物語」

1970年のパリ。裕福な家庭のもとで育てられている9歳の少女アンナは、弁護士の父と雑誌記者の母が共産主義に目覚めたことで、家庭環境が一変。前の暮らしに戻りたいアンナは、両親に反発。さまざまなトラブルが起こるのだが…

アンナはまだ小さい女の子で、「キョーサン主義ってなあに?」という質問ぶりから子供特有のストレートさ、そして「それは、ぜんぶフィデルのせいなのね。」という思考の短絡さを強調されてはいるけれど、およそ相手の信条がこちらにはさっぱりわからない類のものは、大人同士だって得てしてこんなものではないでしょうか。

夫妻はアンナを決して子供扱いせず、「子供のためにこうしよう」と言うことは全くしない。それに応じるかのようにアンナは常に親にくってかかり、疑問を問い糾そうとする。そこには「親」対「子供」ではなく、人間同士の率直な関わり合いが見て取れ、全編を覆うこのパッションあふれるやり取りがとても魅力的です。

こうして、アンナと両親は互いの思いやり、信頼を勝ち取ってゆく。ひいては、それがアンナという子どもの成長物語にまで高められているのがすばらしい。そして、そして。アンナはひとりの自立した「女性」として目覚めてゆく。これもまた、本作が単なる子ども成長物語と一線を画すところでしょう。女性監督らしい主張がしっかりと込められています。中絶の合法化運動に参加する母親。「キョーサン主義ってなあに?」という素朴な疑問と共に掲げられる「チューゼツってなあに?」という疑問。全ては呑み込めないものの、女性としての尊厳を持ち生きてゆくために奔走する母親の姿を見て、「同じ女性として」感じ、理解するアンナ。こうして、導かれるラストシーンの何と爽快なこと。

何でもかんでも「子供中心主義」の現代日本家庭から考えれば、我が子ひとりだけ授業を休ませたり、危険なデモに参加させたりする両親の行動に眉をひそめる人もいるかも知れません。当時の共産主義活動はかなりハードだったようだし、子どもが巻き込まれる可能性だってないわけじゃない。しかし、これまた大いなる問題定義のひとつだと考えれば、例えば夫婦で鑑賞するのにピッタリと言えるかも知れません。

「僕のピアノコンチェルト」「サン・ジャックへの道」に引き続き、年代や作品の好みに関係なく、幅広い層にオススメできるヨーロッパ発の佳作。アンナを演じるニナ・ケルヴィルの目ヂカラに吸い込まれました。

友だちの恋人

2008-11-13 | 外国映画(た行)
★★★★ 1986年/フランス 監督/エリック・ロメール
<6つめの格言:友だちの友だちは友だち >

「揺れ動く乙女ゴコロ」


主人公は、パリ近郊の新都市セルジー=ポントワーズで市役所に勤めるブランシュ。キーカラーなんだろうか。いつもブルーの服を身にまとっている。それは、ブランシュ自身の煮え切らない気持ちから来る「ブルーな気分」を表しているようにも見える。また、舞台となっているセルジー=ポントワーズという街。計画的に開発された都市らしく、ブランシュの住むマンションを始め、スタイリッシュな建物も見どころ。この洗練された街の雰囲気とブランシュの幼さが、面白いギャップ感を生み出しています。

ブランシュには親友のレアがいて、その恋人がファビアン。いやあ、ロメール作品には珍しいイケメンくん。大人しいブランシュに対して、自由奔放なレア。恋人のファビアンもそんなレアに振り回されている。ブランシュは、ファビアンの知り合いのプレイボーイ、アレクサンドラを紹介され、一目で気に入る。でも、彼の前ではどうもうまく自分を表現できない。気取ってみたり、嘘をついたり、素直になれない…。

ところがある日、レアが恋人ファビアンをほっぽり出して、ナイショで別の男とバカンスに出かけてしまう。残されたもの同士、ブランシュとファビアンは水泳をしたり、食事をしたり、共に日々を過ごすうち、互いにとてもしっくり来ることに気づくのだが…。

男女4人を取り巻く恋模様。気持ちがあっちに行ったり、こっちに行ったり。まあ、よくあるお話ではあります。主人公のブランシュ。お役所勤めの割にはキャリアっぽくないと言うか、引っ込み思案でくよくよしてて、まだまだ「女の子」って感じ。フランス人女性って、自分の意思がしっかりあって、自由奔放で、恋愛の手練手管もバッチリ。なんてイメージがあるもんだから、そのギャップにとまどってしまう。でも、この格言シリーズに出てくる女性はみんなそうなのよね。「緑の光線」のデルフィーヌもそうなんだけど、「もうちょっとハッキリしなさいよ」とおせっかいを焼きたくなるようなキャラクター。

ロメールのような粋で知的なフランス人男性の周りには、きっと仕事も恋愛もバリバリ積極的なフランス人女性がたくさんいると思うんです。なので、こういうキャラクターの女性にばかりスポットを当てるのには、何か理由があるのかなあなんて、思ってしまいます。

ブランシュは相手を騙したり、自分を大きく見せたりとかしない。すごく素直な女の子で、シリーズ最終作品ってこともあるんでしょうか。とても素敵なハッピーエンドが待っています。いちばんそばにいる人が大切な人。いちばん飾らないでいられる人が必要な人。まるで、甘酸っぱい思春期の物語のよう。ふたりが抱き合うラストカットもとても微笑ましい。実はこのラストを迎える前に、偶然出会ったブランシュとレアが自分が好きな男の名前を伏せたまま会話をしたため、誤解が生まれ、そのままみんな別れちゃうの!?と思わせる展開があるんです。ただの会話のすれ違いなんですけど、ドキドキさせられました。ロメールって、何気ない会話のこういうちょっとしたシークエンスにやられちゃうんです。

緑の光線

2008-11-12 | 外国映画(ま行)
★★★★ 1986年/フランス 監督/エリック・ロメール
<5つめの格言:ああ、心という心の燃えるときよ来い>

「泣いてばかりのデルフィーヌ」


まず、ベネチアで金獅子を撮ったこの作品の特徴は、ロメール監督が無名の女性スタッフ3人と即興的な演出で短時間で撮ったということでしょう。憂鬱なバカンスを過ごすパリジェンヌをとらえたその映像は、まるでドキュメンタリーのような手触り。バカンスにゆく先々で交わされる会話に、脚本はあるんだろうか。セリフがかぶったり、ヘンな間が空いたり、互いにぎこちなかったりするので、ついそんな風に考えてしまう。ただ、このぎくしゃくする会話が見事にそれぞれの、特に主人公デルフィーヌの性格を映し出しています。全編に渡る、この即興演出の妙こそ、他作品にはない本作の味わい。

さて一方、主人公デルフィーヌは、この独特の演出によって、非常に自然体、等身大の女性として映し出されます。そこに、もちろん共感する部分も多いのですが、パリジェンヌという語感からは程遠い、うじうじぶりにちょっと辟易します。バカンスって、フランス人にはそんなに大事なもんなんですね。ひとりは寂しい。それは、わかった。それにしても、です。友人の言葉で泣き出したり、第三者の好意をかたくなに拒んだり。どう見ても、デルフィーヌは極度の情緒不安定。特に、友人が手を差し伸べてくれたシェルブールのバカンス先でのランチの場面。テーブルに並ぶごちそうを目の前にして、私はお肉が食べられないの。獣を殺す行為に思いが及んでしまうから、といったようなことを言った時は、ちょっと唖然。こんなに周囲に気づかいのできない女性では、ボーイフレンドはおろか、友人も離れてしまいかねない。

ロメールは、本シリーズではそれぞれの主人公に、ひとりの大人としてはやや欠落したものを持っている、そんなキャラばかりを選んでいます。そりゃ格言シリーズなんですから、彼らのその欠けたモノを皮肉ったり、諌めたりしているわけです。その中では、このデルフィーヌは最強キャラじゃないでしょうか。ただロメールのいいところは、彼らの人間性そのものを決して否定したりしないところ。やや離れた位置で観察しながら、さりげない方法で彼らの性格を表出させ、いいところも悪いところも見せつつ、それも人間さ、もっと人生は良くなるさ、と締めくくる。そこには説教臭さは微塵も感じられません。そしてまた、それは神の視点というような大それたスタンスでは決してなく、強いて言うならば、敢えて苦言も呈しながら優しく包み込んでくれる親戚の伯父さんと言った感じでしょうか。そんな暖かい雰囲気が作品を包んでいる。そこがロメール作品に惹かれるところです。デルフィーヌという女性はどうしても好きになれないですが、こうした作品のムードに引っ張られ、「緑の光線」は果たして見られるのかという盛り上がりを持ってエンディングを迎えます。