Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

重力ピエロ

2009-05-31 | 日本映画(さ行)
★★★★☆ 2009年/日本 監督/森淳一
<梅田ガーデンシネマにて鑑賞>

「言うことなしの仕上がり」

映画化の話があがった時から、誰が“春”の役をするのだろうというのが最大の関心事でした。なぜなら、この春という少年の存在感こそ、映像化でのキーポイントだと思っていたからです。 春は、兄と違い背も高くていい男。 絵もうまく、スポーツ万能。 しかし、その持って生まれた才能は、彼にとって忌まわしい物でしかない。 彼は自分のDNAを呪っている。 若いくせに厭世的で頭の切れる虚無的な春。そんな春に岡田将生がバッチリはまりました。美しい青年という役ですので、きっちり美しく撮ってますね。惚れ惚れしました。「天然コケッコー」からよくぞここまで。感無量。

さて、現在を軸に過去の家族のエピソードが挿入されてくるわけですがこの繋ぎ方がスムーズ。編集が巧いです。現在進行している物語は連続放火事件というミステリー。本来は犯人捜しに興味が行くため、あちこちで過去のエピソードを入れられると流れが断絶して苛ついたりするものですが、そうはなりません。これはひとえに家族の物語として描こうという姿勢が徹底されているからです。過去のエピソードが入るに従い、家族の抱える闇と希望がじわじわと表出するその様に観客は引き込まれます。

原作を読んだ時、これは「新しい父性」の物語だなと感銘を受けました。本来授かった命を受け入れるのは、身籠もった母親です。しかし、この物語では、産む決意をするのは父親なんです。自分の子ではありませんから、これはこの世に生まれ来る全ての命に対する受容の精神と言えましょう。実際に身籠もってしまった女性の心情が置いてけぼりに感じることもなきしにもあらずですが、母親が亡くなった後、父親がひたすらに「最強の家族」を作り上げてゆくそのぶれのなさにそのような疑念もかき消されてしまいます。

これまで、男は子供の成長と共に父性を獲得していくと言われていましたが、本作はそういう概念に対する真っ向勝負。そして、受け入れ包み込むと言われる母性の役割を父親に与えた。その発想の転換ぶりに虚を突かれた感じでした。この尊き父性というテーマが全く損なわれることなく、むしろ小日向英世の見事な演技によって、さらに深められていたことが本当にすばらしい。冒頭、岡田将生がバッチリハマったと言いましたが、小日向英世がこの美しく、強い家族の物語を支えていたのは間違いありません。

そして、「二階から春が落ちてきた」「本当に深刻なことは陽気に伝えるべきなんだよ」を始め、原作の中の重要な言葉がうまく際立っていました。何度も泣かされてしまいました。




さくらん

2009-05-28 | 日本映画(さ行)
★★★ 2007年/日本 監督/蜷川実花
「目がチカチカする」

公開前に「装苑」で衣装に関する記事を読んで興味はありましたが、あまり評判よろしくなくスルー。しかし、「赤い~」と「百万円」が面白かったタナダ・ユキ脚本と言うことでトライしてみましたが…。

絢爛豪華な遊郭の世界。「装苑」の記事によれば、本物の着物では莫大な費用がかかってしまうため、転写プリントの技術で製作しコストダウンさせ、多種多様な着物を作り出したとか。どんな柄の着物が見られるのか楽しみにしていたわけですが、なんとまあ、ギンギラギンの世界。若沖がCOOL!ともてはやされる昨今、屏風や襖に凝りたいのもわかります。しかし着物が派手なら、屏風は格子柄や幾何学模様などという組み合わせでも十分和モダンは実現できるはず。なのにド派手な牡丹の屏風の前じゃ、どんな着物も埋もれてしまう。プリント物大好きの私でさえ、だんだん目の奥が痛くなってきました。

派手ON派手というスタイルには異議を唱えません。十分それで美しく見えるスタイリングもあります。しかし、120分間やみくもにそれが続くのはどうでしょう。ド派手なシーンの後は、落ち着いたトーンを持ってくる。絵がド派手なら、物語、特にセリフ回しは落ち着ける。そうしてバランスを取らないと、見ていて疲れます。ここに椎名林檎ですからねえ。んまあ、こってりし過ぎでしょう。ストーリーもよくある話だしなあ。遊郭の女を金魚鉢の金魚になぞらえるなんざあ、そのままの発想じゃない。遊女たちを、今を生きる女たちに重ね合わさなくてどうする。それが、第一線で活躍する働きマン、蜷川実花の視点になるんじゃないの。

さて、脚本の方ですが、原作漫画があるからでしょうか。とても「赤い~」や「百万円」と同じ人が書いたとは思えませんでした。そして、エンドクレジットに「蜷川組」と出てきたのは苦笑。初監督作品で「組」もなかろうと思います。鼻息の粗さばかりが目に付く作品でした。カメラマンとしての蜷川実花は決して嫌いじゃありません。念のため。

百万円と苦虫女

2009-05-27 | 日本映画(は行)
★★★★☆ 2008年/日本 監督/タナダ・ユキ
「愛しきBAD LUCK GIRL」

本作を見て面白いと思った方は「赤い文化住宅の初子」を、これから見ようと言う方は「赤い~」を併せてご覧になることをお勧めします。両作共にツイてない女の子が主人公。貧乏だったり、騙されたり、警察につかまったり。それを我々はすぐに「不幸だ」と判断してしまうけど、果たして「幸か不幸か」なんて他人の尺度で語れねえぜ。なんて気持ちになったりしてね。だって、見知らぬ土地でささやかに生きているつもりでも、いろんな人が鈴子を気にかけてくれる。見守ってくれる。愛してくれる。それって、すごいハッピーことじゃない。BAD LUCKしょい込んでても、GOOD LUCKはそこいらにごろごろ転がってる。なかなかそれに気づけない鈴子だったりするけど、きっとそれは私たちも同じなんだ。

海編、山編、地方都市編。まるで、子供の絵本のごとき、わかりやすい転々ぶり。しかし、その凡庸に見える設定の中で人間同士の温かい繋がりがキラキラと輝いている。「かき氷をつくる才能」。そんなことで、誰しも前向きになれる。見知らぬ土地から来た若い娘を桃娘と持ち上げてしまう山編は、田舎暮らしな私にはグサグサ来ちゃったなあ。すきあらば懐に入り込んでくる田舎の人たち。それは、手と手を取り合いたい願望の裏返しもあるんだからね。そして、どこへ行こうと「ラブ」がついて回る鈴子の旅。揺れ動く乙女心にドキドキしつつ、時折挿入される弟のいじめのエピソードを見ては、鈴子アンタが励まさないでどーする、と苛立ちもして。まあ、うまい塩梅に観客の心を揺り動かす脚本が秀逸。

何はともあれ蒼井優な作品だけど、ピエール瀧が大健闘。鈴子が去った後、きっとあの息子も変わっていくに違いない。そんな余韻を感じさせてくれる演技でした。森山未來 の恋バナは、何とも切ない。そして、あのエンデイング。いやいや追いかけてくるさ、きっと。と、再び「赤い文化住宅の初子」と同様の思いに胸膨らみました。それだけ、タナダ監督の作風は観客に希望を与えてくれるものなのでしょう。すばらしい個性だと思います。

クリムト

2009-05-24 | 外国映画(か行)
★★★★☆ 2006年/オーストリア・ドイツ・フランス・イギリス 監督/ラウル・ルイス

「ほろ酔い」

梅毒に冒されたクリムトの脳内を行ったり来たり。夢かうつつか。願望か。繰り出すエピソードたちには、繋がりがあるわけでもなく、クリムトの生涯を時系列に追うわけでもない。しかし、このワケわからない感じが溜まらなく心地いい。大体この手の語り口は「難解」と言う便利な言葉で片付けられてしまうけど、そこまでブラックボックスに陥るようなわからなさでもないですね。その頃合いというか、さじ加減が大変巧い。割れた鏡の破片、そして舞い上がる金箔の煌めきに目が眩み、頭がぼうっとするような甘美な味わい。女性陣の衣装も目に美しく、まるでほろ酔い気分です。

クリムトの生涯についてそれなりの知識があった方が良いのかも知れませんが、少なくとも「接吻」くらいは、多くの方がご存知でしょう。あの絵画の印象を頼りに本作を堪能することは十分可能だと思います。あの代表作から漂うエロス、運命の女、刹那の悦び。それは、いるかどうかもわからぬファム・ファタルを追いかけ、迷宮をさまようクリムトに見事に合致します。どのような理由でレアに翻弄されるのかなどわからなくとも。

ただひとつ。ちょっとしつこくて何度も言うなよって話ですけど「ゴヤ」同様、母国語でやって欲しいってのは、無理な注文なのかしら。だって、オーストリア・ドイツ・フランス・イギリスの合作映画でしょう?ヴィトゲンシュタインも集うウィーンのカフェで英語はないよなと感じてしまう。エロティックを否定するのは英語ではなく、厳格なドイツ語が似合う。クリムトと世間の断絶ぶりがますます浮き上がったと思います。


GOEMON

2009-05-23 | 日本映画(か行)
★★★★ 2009年/日本 監督/紀里谷和明
<梅田ブルクにて鑑賞>

「クライマックスは3つもいらない」

イケメン揃いに引かれて鑑賞。

私は戦国歴史物が嫌いなので、逆にこのジャンルでとことん遊んでしまえって姿勢は好きです。映像は「300」あたりに近いんじゃないでしょうか。(見てないけど。笑)冒頭、五右衛門がぴょんぴょんと屋根を飛び跳ねるシーンがゲーム画像みたいで先行き不安になるんだけど、ヨーロッパから、中国、エジプトまで、各種文化入れ乱れてのトンデモ世界観は見ていて楽しいです。よくもまあ、これだけ無茶苦茶しよるな、と。

結局最終的には、この「紀里谷ワールド」を受け入れる気分があるかどうかにかかってるんでしょうね。そもそもの心構えというか。私は映画は監督のものだと思っていて、その監督自身が自分の世界観をこれでもかと創り上げることには大賛成。むしろ、それが偏執的だったり、やり過ぎだったりくらいの方が面白がれるタチなので、これはその逸脱ぶりも含めてやりたい放題にやった感が出てて良かったな。

そして、物語の方。独自の解釈と言えども信長暗殺の裏に秀吉ありってのは、割とよく聞く説でしょ。なので、その程度のひねりかと落胆しかけたけど、才蔵との友情話からは、俄然盛り返すのね。自由を追い求めた結果、正義のために行動した結果が、いろんな人間を巻き込み、戦争を生んでしまう。そして、その落とし前は自分でつけるしかないという一つの悲劇になってます。前作「CASSEHRN」の評価をきちんと受けて、今回は奥行きのある物語にしようとしたんでしょう。

おいしい役どころは、何と言っても才蔵を演じる、大沢たかお。あのクライマックスは、しびれました。主役の江口洋介を完全に食っちゃいましたよ。あの大盛り上がりから、15分くらいで映画を締めてくれれば、ホント気持ちよく終われたんだけどなあ。今作も引っ張りすぎ。これが一番の惜しいところじゃないでしょうか。

それにしても、広末涼子は本作でも常に「でへでへっ」と泣き笑い。どの演技も同じに見えるんだけど。そして、なにゆえ紀里谷監督はこれだけの資金を集められるのかが最大のミステリーだ。



僕らのミライへ逆回転

2009-05-21 | 外国映画(は行)
★★★☆ 2008年/アメリカ 監督/ミシェル・ゴンドリー
「心の準備を間違った」

ジャック・ブラック主演なもんで、弾けまくって抱腹絶倒、オバカ満載なのかと思ったんですね。(本編始まる前に「テネイシャスD」の予告が入っているからだぞ)で、蓋を開けてみると、あらら心温まるヒューマン・コメディなんですよ。バカ笑いさせてもらおうと思って、待機してたのに。これは、完全に心の準備を間違いました。これが大失敗。

ジェリーが電磁波を浴びて体が磁気を帯びちゃうまでが少し冗長に感じられるんですよね。いつになったら、大笑いできるんだろう?とこの時点でも思っている私。ようやく、リメイクが始まり、そのデタラメ撮影ぶりはなかなか面白いのですが、ちょっと駆け足過ぎであまりノレなかった。しかも、ここでリメイクされている映画、ほとんど見てないし。「2001年」くらいかな。

手作りの面白さとか、ハリウッドへの皮肉とか、行き過ぎた都市開発への警鐘とか、地域の人々の繋がりとか、見どころはたくさんあるんだけど、どれも心にぐっと来るまでには至らない。ちょっと残念。



宮廷画家ゴヤは見た

2009-05-20 | 外国映画(か行)
★★★★ 2006年/アメリカ・スペイン 監督/ミロス・フォアマン
「イネスはその1人にしか過ぎないと言うこと」


昨年、「怖い絵」という本にハマりました。これは名画に隠された恐ろしいエピソードを紹介しながら、名だたる有名画家の1作を解説する本なのですが、ゴヤで取り上げられていたのは「我が子を喰らうサトゥルヌス」です。晩年マドリード郊外に居を構えたゴヤは、キャンパスではなく壁に『黒い絵』と呼ばれる連作を残していて、その1作が「我が子を喰らうサトゥルヌス」。

著者の中野京子氏によると、“拷問、強姦、斬殺、銃殺、絞殺、四肢切断…人間のもろい肉体に加えられる、目を背けたくなるような残虐さをゴヤは見つめ続け、描き続けた。それがサトゥルヌスへ凝結した”とのこと。子供の体をしっかと握り、首を食いちぎるサトゥルヌスの形相は、まさしく地獄を見た人間にしか描けない。そんな圧倒的な力を放っていて、背筋が凍ります。

そのゴヤが目の当たりにしたスペインの地獄絵図を描いたのがこの作品。確かにゴヤは狂言回しであり、ロレンソ神父とイネスを中心に物語は進むのですが、それは地獄のほんの一端であり、彼らの背後に幾万の民の世にも残虐な殺戮が隠されているのだと想像を広げると、身震いを起こします。そのイマジネーションのスイッチは、そこかしこで紹介されるゴヤの版画であり、イネスを演じたナタリー・ポートマンの鬼気迫る演技です。

天井画に天使として描かれるほどの美貌と清楚さを持ち合わせていたイネスのあまりの変容ぶり。その変わり果てた姿にナタリー・ポートマンのとてつもない女優魂を見、また、この時代に生きた何千何万のイネスに思いを馳せずにはいられません。

できることなら、スペイン語で見たかった。怒りの時は猛々しく、哀しみの時は闇夜に響き渡るようなスペイン語の語感が、この救いようのない悲劇に更なる深みを加えたに違いないのです。



寝ずの番

2009-05-19 | 日本映画(な行)
★★★★ 2005年/日本 監督/マキノ雅彦

「生きた証に下ネタを残そう」


そりゃまあ、下品な言葉のオンパレードで、ところどころ耳をふさぎたくなるような脱線ぶりもあるんだけれど、見終わって思うのは、私も死んだらこうやってドンチャン騒ぎして欲しいなあってことなの。お通夜で死んだ人間の話を酒の肴に祝宴をするってのは、この上ない供養やなあとしみじみ思うわけです。まあ、その話が100%下ネタなんですけどね。

その100%の徹底ぶりというのは、なかなか見上げたもんで、下ネタ以外で故人を偲ぶシーンはほとんど出てこない。それでも、最終的には「あの人はええ人やった」となるんですね。人を称えるのに、高尚な話なんか必要あらへん。ちょっとおもろい下ネタ話の一つや二つあったらええ。あんまりまじめに生きてたら、見送る人もネタ話がない。結局人間、生きてるうちにどんだけアホできるか言うことです。

それに死体の横たわった空間でこれだけ下品な話をするってのも、なかなかシュールなことでね。結局人間のすることを突き詰めたら、セックスすることと、排泄すること、この二つだということでしょう。それが死体を目の前にして死を実感できる場においては、最もふさわしい話題にすら思えてくる。一方セックスと排泄の話をこれでもかとすることで、見送る人間は生を実感している。「死んだ人間」と「生きてる人間」が共に集う空間だからこそできる、どこまでも下品な宴なんでしょう。

今思い出すに、人間とは突き詰めれば「セックス」と「排泄」というような考えは、原作者の中島らもちゃんもよく言っていたことのように思えます。生前のらもちゃんと津川雅彦氏に繋がりがあったかどうかは知らないけど、実にこのらもワールドを了解した上での作品という感じがします。

さて、本作は、テレビでは流せない放送禁止用語が連発で、かなりどぎつい言葉も出てきます。しかし、これが許せるのも、ここが「お通夜の席」やから、というのがポイントです。こんな会話、居酒屋でしてたらつまみ出されます。本当に故人と親しいものだけが集う閉ざされた空間だからこそできる、そこまで言うかの下ネタ話。またそれに、クソまじめに「ほほう」と唸る大人たちが実におかしい。

長々と続く下ネタ合戦がかったるいなあ~と思ったところで、回想シーンが入ったり、幽霊が出てきたりと物語の締め具合もいい感じ。また、中井貴一のとっぽい落語家が案外イケる。この人は、すっとぼけた役の方が似合うと思う。ほとんどが関西出身の俳優陣の中に実にうまく溶け込んでました。そして、富士純子が実に美しいですなあ。彼女の撮り方には監督の意気込みを感じました。下ネタを共有できる人と一緒に見て大笑いしてください。ちなみにボリュームは隣人の苦情が出ないようあまり大きくしないことをオススメします。

ミネハハ 秘密の森の少女たち

2009-05-19 | 外国映画(ま行)
★★★☆ 2006年/イタリア・イギリス・チェコ 監督/ジョン・アーヴィン
「血の香り」

<story>閉ざされた森の学校に集められた少女たち。学園の謎に気付き始めた3人の少女は秘密の部屋に忍び込むが、ヴェラが閉じ込められ翌日学園から消えてしまう…。


問題作「エコール」と同じ原作ということで興味が湧き鑑賞。

「エコール」が暗喩に満ちた映画だったのに対して、こちらは実にわかりやすく通俗的。結末から見れば、これは「花嫁学校」。将軍様に差し出す前に女共を屋敷に閉じこめて、競争意識をあおりながら教育する。そんな日本バージョンでも作れそうだ。全体の印象から言うと、「エコール」がアートだとすれば(それが純粋アートかどうかという論議はさておき)、「ミネハハ」はカルトムーヴィーだろうか。

両者の印象をきっぱりと断絶するものはひとえに少女たちの年齢設定の違いだ。本作の少女たちは、16、17歳くらいだろうか。欧米の少女は見た目にも大人びているので、私の目から見れば20歳過ぎにすら感じられる。そんな肉体的にも熟した彼女たちの踊るバレエには、「エコール」のような痛々しさは微塵もない。また、同性同士による性の発露がしっかりと描かれており、性的に抑制された存在、神秘的で聖なる存在としての少女性はほとんど表現されていないのだ。変わって浮かび上がるのは、教師と生徒を取り巻く不安や嫉妬、愛憎。

少女たちの年齢設定を考えるに、冒頭の血に染まるバレエシューズはもしかしたら初潮のイメージなのかも知れない。そして、処女喪失による出血で終わる。性に目覚める前の少女を描くのが「エコール」ならば、性に目覚めた後の少女を描くのが「ミネハハ」。両作続けてみれば、ちょっとした少女考察ができるのかも知れない。作品としては、本質に斬り込もうとしている「エコール」に軍配。不快感は変わらないが。




アジュガ

2009-05-18 | 四季の草花と樹木
一昨年くらいにご近所さんからもらって順調に繁殖中。
生け垣などで増やすこれまたグラウンドカバー的植物なんだけど、
今後はこれを増やしていくぞ~と計画中。
というのも、この花みし~っと広がるから他の雑草があまり生えてこない。


しかも、葉の色が微妙に緑~紫のグラデーションですごく渋い色合い。
ここがお気に入りのポイント。

花って、結局咲き終わった後は、葉っぱだけになってしまう。
一年を通じて花が咲いている時なんて実はほんのわずかで
後は枯れて葉が広がるだけ。
そこで、これは葉が広がっている状態でも見苦しくなくてすごくいいなと思うわけ。

2週間くらい前が全盛期で撮影時期を逃しちゃった。

もっと紫の花がたくさん付いていたんですけどね。

ラナンキュラス ゴールドコイン

2009-05-17 | 四季の草花と樹木
あまりに繁殖の勢いが凄いので、
我が家の庭ではすっかりグラウンドカバーと言う位置づけです。

いわゆる大ぶりの色鮮やかなラナンキュラス。
あれがね、今年一輪も上がって来なかった。すごく残念。
アネモネみたいに植えっぱなしで球根が増えてくれるかと思ったんだけどなあ。


で、こちらのゴールドコインは地下茎でどんどん増えていく。
いらない箇所はどんどん引っこ抜いてます。


春先からホームセンターをいろいろ回っては花を買っているのだけど
今年はなぜか黄色い花ばかり買っている…。
加えて、このゴールドコイン。
今庭は黄色い花だらけだ。
きっとタイガースが弱いから無意識にそうなってるんだあ。

赤い文化住宅の初子

2009-05-15 | 日本映画(あ行)
★★★★☆ 2007年/日本 監督/タナダ・ユキ
「王子様は追いかけてくるさ、きっと」

「赤い文化住宅の初子」って、なんかホラー映画みたいなタイトルに感じるのは私だけ?んなこた、さておき。

原作漫画を知らないのだが、ガロっぽいっというか、まるでつげ義春ワールド。時代設定は昭和?と思わせるほど、ノスタルジックなムードがいっぱい。貧乏で生活切り詰めて、つつましく生きる初子がいじらしくて、かわいい。突然彼がやってきて、慌てて服を着替えるなんてところも微笑ましい。カメラは初子の明るい表情をとらえることはほとんどなく、いつも悲しげで悩ましげだが、作品全体を重苦しく感じることはない。そこがとてもいい。このさじ加減にタナダ・ユキ監督のセンスを感じる。

いいかげん教師・坂井真紀と親切オバサン・浅田美代子。ふたりの存在感にインパクトがあり、作品全体を眺めたらそこだけ突出しているようなアンバランス感を味わう人もいるかも知れないが、私はOKだ。スレまくった大人のオンナ共に囲まれる初子がますますピュアな存在に見え、「初子、ヘコむな!アンタには三島クンがいるじゃないか。」と。

つまり、「天然コケッコー」同様、すっかりわたしゃ中坊の恋愛模様に一喜一憂。兄にいじめられ、学校でも孤独な初子。貧乏ゆえに数々のすれ違いが生ずるも、なぜかそこに気づかない天然な三島クンはまるでシンデレラの王子様だ。いつかきっと一緒になれると誓いを立てる田舎の寂しげなプラットホームがなぜかお城の階段に見えるぞ。てなわけで、完全にラブストーリーとして堪能した私なのでした。

白いボリジ

2009-05-14 | 四季の草花と樹木
ボリジと言えば、ブルーが主ですけど、
これは白ってのが珍しくてホームセンターで去年買って植えたもの。
こぼれダネで出てきました。

花が咲き始めるとキレイですが、
葉っぱだけ見るとまるでレタスか何か野菜のよう。
爆発的に増えて困る、なんて話も聞きますが、
さて、来年どうなることでしょう。


株が大きいので、存在感があるんですよね。
確かに爆発的に増えたら困る。

今年大きくなったのは3株。
これくらいでちょうどいいな。


オオデマリ

2009-05-13 | 四季の草花と樹木
今年はすごく花付きがいいオオデマリ。
5月のそよそよとした風になびいて、
白い花たちが揺れています。


上から下までみっしりと花が咲きました。


背丈もずいぶん大きくなったように思う。
屋根を軽く超えてきましたよ。

アウェイ・フロム・ハー 君を想う

2009-05-12 | 外国映画(あ行)
★★★★★ 2006年/カナダ 監督/サラ・ポーリー
「愛するがゆえに」

<story>結婚して44年になるグラントとフィオーナ。決して良き夫とは言えない過去もあるグラントだったが、いまはフィオーナを深く愛し、夫婦仲良く穏やかな日々を送っていた。ところがやがて、フィオーナをアルツハイマー型認知症の悲劇が襲う。物忘れが激しくなったフィオーナは、ついに自ら老人介護施設への入所を決断するが…。
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(エンディングについて触れています)

グラントはこの施設では異邦人だ。彼と入居者たちを繋ぐものは妻フィオーナしかいないが、彼女が扉をしめてしまった以上、ただ黙って眺めることしかできない。コミュニケートできる言語もなく、孤独な旅人のようにソファに沈み込むグラントの物憂げな表情。そこに、観客は何を見いだすのか。昔の浮気の罰を甘んじて受けようという贖罪の気持ちか。それとも、フィオーナは何があろうとも自分の妻なのだという言い聞かせる苦悶か。はたまた、妻の恋を見届けようという包容力か。

本作の素晴らしさは、そこかしこで、こうした豊潤なイマジネーションを掻き立てる力を持っていることだ。何となく余韻が残る、雰囲気が良いと言った表層的なものではなく、幾重にも解釈可能な深みを持つ。こんなものをデビュー作で撮ってしまうなんて、サラ・ポーリーの才能恐るべしとしか言いようがない。そして、ジュリー・クリスティとゴードン・ピンセント。このふたりの演技が本作を紛れもない名作へと押し上げている。

衝撃のエンディング。その捉え方は十人十色。夫婦とは何か。愛とは何か。幸福とは何か。このエンディングを何度も反芻することによって、自分の信条を再確認できる、そんな近年屈指の名ラストシーンではないだろうか。

妻の幸せを願う余りのグラントの取った行動。私はこれを否定する気は毛頭ありません。これもまた、ひとつの愛の形だろうと思う。しかし、そのプロセスに置いてグラントは、ふたたび別の女とたやすく寝てしまった。妻をどんなに深く愛していても、そして、全ては妻の幸福のためであろうとも、名前もロクに覚えられない女性と寝てしまう。私が妻なら、その人を心から愛してくれた方が良かった。そして、こう言うだろう。「グラント、私はあなたの肌を知っている最後の女でありたかった」と。

フィオーナはきっとすぐにグラントを忘れてしまう。そして、グラントはマリオンと余生を送るのだろう。あの一瞬の輝かしい抱擁を美しい記憶として抱きながら、そして重い十字架として背負いながら。