Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

間宮兄弟

2008-02-28 | 日本映画(ま行)
★★★★ 2006年/日本 監督/森田芳光
「空気感の勝利」

モテない仲の良すぎる兄弟物語。ストーリーとしてさしたる起伏があるわけでもないのに楽しめるのは何と言っても森田監督の作り出す空気感に尽きる。日常生活の何でもない、「出来事」と呼ぶことすらはばかれる小さなひとコマに思わず笑ってしまう。些細な描写ではあるが、誰にでも描けるかというとそうではなく、日々の生活や人間の感情に対する森田監督の優れた観察眼があるからできる描写だろう。

また、兄弟の生活感を丹念に描いているが、「リアルな感じ」というのとはチト違う。食べ物や趣味に関する描き込みが非常に徹底しているため、どうしても「リアルな生活感」と表現したいところ。しかし、この作り込みは徹底したフィクションの世界。こんな兄弟いそうだけど、たぶん絶対いない。だからこそ、よくぞここまで、という細かい描写が面白いし、独創的な発想が笑いになる。

例えば、銭湯での入浴シーン。兄弟で湯船に浸かっていて、誰かが湯船から出たことでお湯が揺れてふたりが嫌な顔をする。確かにあれ、イヤだよね。二度目はゆず風呂になってて、ゆずがぶわんぶわんと顔の前で揺れたりして。寝ている時に体がビクンと動くとか、ベランダに出ているお向かいさんが誰かで吉凶を占うとか、日頃ふと気づいた面白いことをメモっておいて、全部この兄弟に当てはめてみました!的な感じ。森田監督って、コント作家になっても結構イケそうな気がする。

で、かなり地味な兄弟物語にあっけらかんとしたエッチな描写をプラスさせてるあたり、何だか若手監督が撮ったかのようなフレッシュさを感じる。バスタオルの下でパンティを付ける沢尻エリカとか太ももアップから引いてくる北川景子の寝姿とか。抜きんでた傑作ってことではないけど、今の時代の空気をしっかり捉えているし、最後まで飽きさせない展開。何だかんだ言って、森田芳光が話題作の監督を頼まれるのがわかるような気がする1本だった。

あの夏、いちばん静かな海

2008-02-27 | 日本映画(あ行)
★★★★★ 1991年/日本 監督/北野武
「優しさと、愛と」


「退屈な映画」とは、何をもって退屈と感じるのだろう。私は何度もこの作品を見ているが、このあまりにセリフの少ない、あまりに静かな物語を、退屈だと思ったことは一度もない。主人公が泣き叫んだり、爆弾がひっきりなしに落ちたりしても、退屈だと思う映画はいくらでもあるのに。

主人公二人のバックボーンについて、映画は一切を語らない。しかも、二人は言葉が不自由だからセリフがない。我々は見ながらそれらを想像するしかない。しかし、この作品には、想像しなければならないことの「もどかしさ」がない。そこが退屈だとは思わない大きなポイントなのだと思う。なぜ、わからないことがもどかしくないのか。それは、セリフではなく映像が我々に語りかけているからだ。全てのシーンが、私たちに語りかけている。それに耳を傾け、想像することの何と楽しいこと。

例えば、主人公の彼女がサーフボードの値引きを頼んでいるシーン。カメラは主人公の位置にあり、彼女はガラス越し。聾唖の彼女が一体どうやって値引きを頼むのか。その様子もガラス越しゆえによくわからない。こんな些細なシーンでも、私は様々な想像が頭をよぎる。もしかして、彼女は耳が不自由でも、言葉はしゃべられるのかも知れない、というストーリー上のイマジネーション。

そして、北野監督は彼らが聾唖であるという事実をことさら映像で強調したくないのかも知れない。または、主人公の彼女を思いやるハラハラした気持ちを観客に同化させるためにこのようにしたのかも知れない、という演出上のイマジネーション。北野作品の場合、「このシーンはこういうことかしらね」と自分なりの想像や感じ方を誰かと語りたいシーンが本当に多い。本作は、セリフがとても少ないので余計なのだが、挙げ始めるときりがないのだ。

サーフボードという小道具の使い方で二人の思いや距離感を表現するやり方も実に巧い。前と後ろをふたりで持って堤防を歩く様子で、心の動きが手に取るようにわかる。いつも、ボードのお尻を持って、彼の後を控え目に歩いていた彼女。なのに、主人公の死後の回想シーンでは、彼女がサーフボードの前を持って、大手を振って浜辺を行進している様子が挿入される。もう、これには、参りました。涙腺弾けちゃうし。

この幸せだったあの頃の一コマが次々と挿入されるラストシークエンスは、見せないことを信条とする北野作品にしては珍しいと言えるほどのわかりやすさ。しかし、やはり「愛」を描くんですもの。最後にこれくらいは盛り上げてもらわないと。「愛」を真正面から捉えた北野作品は、今のところこれしかなく、何とかもう1本作ってくれないかな、と願うばかり。

そして、本作では「思いやり」や「優しさ」と言ったものが実にストレートに表現されている。(ストレートと言っても北野武なんだからハリウッドばりのストレートさじゃないですよ、もちろん)清掃車の相棒の河原さぶとサーフショップの店長。この二人が示すじんわりとした優しさの表現を見れば、北野武なる人物が死と暴力の表現にがんじがらめになっていないことは明らか。愛はもちろんのこと、難病や介護などヒューマンなテーマだってきっと面白い作品が撮れそうな気がする。まあ、武のことだから、そんなストレートな題材選びはしないんだろうけど。

プリシラ

2008-02-26 | 外国映画(は行)
★★★★ 1994年/オーストラリア 監督/ステファン・エリオット
「砂漠に映えるゴージャスな衣装たち」


ゲイ+ロードムービーの草分けとも言える作品。たくさんのゲイムービーが作られている今見直すと、テーマ性においてはやや見飽きた感じがする。当時はすごく斬新だったのだけどねえ。が、しかし、何と言っても砂漠とド派手な衣装とのコントラストが圧巻。バスのルーフに取り付けたハイヒール。あのアイデアは素晴らしい。エリマキトカゲをイメージした衣装も出てくるけど、その悪ノリぶりがおかしくてたまらない。

砂漠という劣悪な環境でおんぼろバスは何度も止まり、なかなかゴールにたどり着けない。まるで彼らの人生を象徴するような旅路。原住民アボリジニとの触れ合い、思わぬパートナーとの出会いなど、旅のプロセスにおける人間ドラマは確かにじんわり心に染みるが、やはり主人公がドラァグ・クイーンだから、もっとひねりの効いたドラマにしても良かったんじゃないかなと思ったりして。まあ、それもこれも、昨今のゲイムービーの脚本のクオリティが非常にレベルアップしてしまったからかも知れない。

とはいえ、本作の見どころは、バーナデットを演じるテレンス・スタンプ。名作「コレクター」でサイコパスを演じた彼のイメージとは打って変わってのチャレンジ。ドラァグ・クイーンというよりも、品の良いオカマという言葉がぴったり。なのに頭に白鳥のかぶりものを乗っけて、踊る様には吹き出しちゃう。これは、まるでひょうきん族ではないの!(笑)しかも、ダンスのキレもなく、リズム感もイマイチってんだから、どうしようもない。そんなダンスだめだめなテレンス・スタンプだけど、年を取ったオカマの悲哀がじわんと伝わる演技力が全てをカバーしている。

彼女は、すごくプライドの高いオカマなのよね。でね、面白いのは「私はABBAでは絶対踊らない!」って言うのよ。ゲイ事情にすごく詳しいわけではないけど、おそらくABBAで踊るって言うのは、すごく今っぽい、若者向けのパフォーマンスってことなんだと思う。ABBAの音楽って、今じゃドラァグ・クイーンの代名詞みたなとこあるでしょ。何でそうなったのかも個人的にはかなり興味深いのですが。で、古き良き踊り子さんだったバーナデットはABBAを毛嫌いしている。そんなことを始め、トランス・ジェンダーの方々ならではの丁々発止のセリフのやり取りも見どころ。

ドラァグ・クイーンの口パクダンスと何でこうもしっくり来るの?という名曲がズラリ。懐かしいディスコサウンドが実に軽快。初めて映画のサントラが本気で欲しいと思ったのが、この作品でした。

世界最速のインディアン

2008-02-25 | 外国映画(さ行)
★★★★☆ 2005年/アメリカ 監督/ロジャー・ドナルドソン
「マイノリティたちへの高らかな応援歌」


私は物事を違う角度で眺めたり、異なる視点で捉える作品が好きなのだが、本作はあまりにも真っ当、ストレート。出てくる人は次から次へといい人ばっかりで、何ともご都合主義的展開…と思ったら、実はスピードに賭ける男のロマンを描きつつ、別のテーマを内包していることに気がついた。そこで、一気に私の気持ちはラストの競技会でぐんと高まり、大拍手を持って清々しく見終わったのだ。

それは、インディアンというマシーンが「世の中のマイノリティ」を象徴しているのだ、ということ。バートがアメリカに降り立ち、競技場に着くまでに幾つものトラブルを乗り越えていく。その時手をさしのべてくれるのは、紛れもないアメリカ社会のマイノリティたちなのだ。トランスジェンダーのフロント係、南米移民のカーディーラー、ネイティブアメリカン、砂漠にひとり住む未亡人。もちろん、バート自身もアメリカにおいては、ダウンアンダーからやってきたマイノリティ。インディアンというマシーンそのものも、競技会においては整備不良の時代錯誤のポンコツと揶揄される。

そんなマイノリティたちの気持ちを乗せて、インディアンは塩平原を駆け抜ける。ふらふらと揺れながらも最高時速をたたき出す。インディアンの勝利はマイノリティの勝利を意味する。そこに、実に大きなカタルシスがあるのではないだろうか。競技場についてからは、複数のアメリカ人がバートを助けてくれる。よくもまあ、地球の裏側からやってきた、と。

しかし、出会った人々の助けがなければバートはこの場にいない。つまり、バートはアメリカ社会のマイノリティたちに導かれてここにやってきたと見ることはできないだろうか。そして彼らに導かれたバートがアメリカ人を動かし、変えた。競技会委員がルールを破っても出場させたことを考えれば、マイノリティがシステムを変えたとまで捉えられるのかも知れない。

もちろん、物語を引っ張るバートのキャラクターが魅力的であることも大きいのは確か。ハンニバル・レクターことアンソニー・ホプキンスが、今作では打って変わって裏表のない清々しい役どころ。世間ずれしておらず、やんちゃな少年がそのまま大人になったようなキャラクターで、女にモテるのも納得。63歳からスタートしている物語だけに彼の来し方が気になるところだけど、映画ではその辺は潔くばっさり切り捨てている。これは、物語をシンプルにする故だろうが、この展開は至って正解。

男の人ならメカに関する描写も楽しめること間違いなし。挑戦することのすばらしさ、人間の優しさをしっかり描きながら、世の中のマイノリティを高らかに応援する作品。多くの方にオススメしたい。

ソナチネ

2008-02-24 | 日本映画(さ行)
★★★★★ 1993年/日本 監督/北野武
「死に向かう美しい舞踏」


およそ映画作家であるならば、物語の起伏や役者の演技に頼らず、「映像の力」だけで、とめどないイメージの喚起を呼び起こせる、映画にしかなし得ない力強くも美しい瞬間を創りたいと誰しも願うはず。「ソナチネ」における浜辺での相撲シーンはまさにそれでしょう。私は、このシーンを見るというだけでも、この作品をお薦めできる。

浜辺に打ち上げた藻で土俵を作り、シコを踏む男たち。一糸乱れぬ相撲の所作は様式的な美しさを見せるし、これから死にゆく男たちの儀式のようにも見える。映像が醸し出すイメージに胸を打たれるということほど、映画鑑賞における至高の体験はなく、北野武は、4作目にしてその至高の瞬間を作ってしまった。

間違いなく俺たちは死ぬ。その確信を目の前にして繰り広げられる男たちのお遊び。それは、時におかしく、時に切なく、時に美しい。私は、この作品を見てなぜだか一遍の舞踏を見たような感慨に見舞われた。人間は誰でも死ぬのだとするなら、この作品は全ての人に訪れる死の前のダンス。無音の舞台の上でしなやかな体の男が静かに粛々と踊り続け、そしてまた静かに舞台の上で死んでいく。そんな映像が頭から離れない。

北野武は決して「そのもの」を描かない。銃声が響き、血しぶきが湧いている場面でも、画面に映し出されるのはそれを傍観している男たちの顔だ。殴り込みに出かけすさまじい殺し合いが起きても、そこに映っているのは明滅する弾丸の火花。それらの静かな映像は常に「死」と隣り合わせであるからこそ、切なくリリカルに映る。

また本作では武ならではのユーモアも非常に冴えている。殺し合いに行くのに遠足バスのように見せたり、スコールの中シャンプーをしていたら雨が突然止んでしまったり。これらの「笑い」は何かの対比として描かれているのではなく、もしろ「死」そのものが「笑い」を内包しているから描かれている。つまり、人は誰でも死ぬ、そして死にゆくことは滑稽なことである、という武独特のニヒリズムがそこに横たわっている。

繰り返すが、浜辺での一連のシークエンスは本当にすばらしい。北野武以外の誰も思いつかない、誰にも描けない映像だと思う。

盲獣

2008-02-23 | 日本映画(ま行)
★★★★★ 1969年/日本 監督/増村保造
「ドラマティック・エロス」


実にインパクト大。江戸川乱歩の作品は、今なお多くの映画化が続いているけれど、おそらく人々が一般的に乱歩作品から嗅ぎ取るのは「淫靡」や「倒錯」のムードだと思う。しかしながら、増村保造の描く乱歩は隠されたエロスというより、むしろ実にストレート。鷹揚としたセリフ回しと異常な世界を斜め目線ではなく真正面から描く演出は一度見たら忘れられない強烈な印象を残す。それは同じく耽美的エロスの世界を描いた「卍」にも言えるかも知れない。

やはり、見どころは、肉体のオブジェたち。女の目や耳や鼻、そして乳房をかたどった彫刻が所狭しと並べられた密室で、緑魔子と船越英二がくんずほつれつの死闘(笑)を繰り広げる様がとにかく強烈。どでかい乳房の谷間にすがってむせび泣く船越英二の演技は必見。目がイッちゃってます。こんなに奇妙な役をくそまじめにやっている船越英二は演技がうまいんだか、ヘタなんだかさっぱりわからない。

この目や鼻、乳房にまみれた彫刻の部屋、今の美術スタッフが再現したら、こういう部屋にはならないような気がする。おそらく、もっとオシャレな感じに仕上がってしまうんではないだろうか。しかし、この荒削りな美術セットだからこそ、先にも述べた大真面目な演出にぴったり合っていて、独特の世界観を作り上げている。

盲人に捕らわれ、体中を触れられているうちにいつしかアキもこの密室空間の異様な世界に魅入られてしまう。お話としては、かなり変態的ではあるけれど、やはりそのドラマチックな演出ぶりに時折笑いがこみあげてくることすらあって。その辺がとても増村監督らしい。しかしながら、乱歩作品を一種の芸術やお高くとまった前衛的作品として仕上げるよりは、よほど本質を捉えているような気がする。

しかし、ドラマチックな演出によって作品全体がベタでB級なテイストに満ちているか、と言われると、これまたそうでもないのが増村作品のすごいところ。冒頭の緑魔子のポートレートなんかとってもクールだし、演出だけではなく画面の構成、切り取り方で観客の目を引きつけるテクニックがある。数ある乱歩作品の中でも、実に異彩を放つ作品だと思う。

2008-02-22 | 日本映画(か行)
★★★★ 1959年/日本 監督/市川崑
「細眉と太眉」

谷崎潤一郎のこの原作はこれまで4回も映画化されている。初老の男が持つ性へのひねくれ願望とは、かくまでも作り手の魂に火を付けるテーマなのだろうか。できなくなることがそんなに男の人は怖いのかしら。

とはいえ、市川崑版の「鍵」は、原作のモチーフだけは頂戴して、いわゆる耽美エロスとは随分趣の異なる作品となっている。妻と娘の恋人を結びつけようとする夫の心中を日記に書き付けそれを妻に盗み見られるのを承知で鍵をかける、という軸もすっかり変わっていて、今作の「鍵」は夫の死後、家に娘の恋人を招き入れるための玄関の鍵にすり替えられている。

確かに、できなくなった夫(中村鴈治郎)のねちこい画策は、手に変え品を変え描写され、むなしさや可笑しさを誘う。しかし、私が本作を通じて感じたのは、「妻と娘」の女対決。というのも、妻役の京マチ子はとんでもない細眉(まじでのけぞる)ですさまじいカーブを描いている一方、娘役の叶順子はまるで権左右衛門のような太いぼうぼうの三角眉。この対比は明らかに艶のある女とない女、モテる女とモテない女の象徴としか考えられないのだ。

父の偏愛と自分の恋人の好奇心を一心に受ける母に対する娘の嫉妬心をこの「鍵」という作品で描くのは、多くの作品で女の業というものに着目し続ける市川崑らしい視点だと思う。京マチ子の真っ白なマシュマロのような柔肌が美しければ美しいほど、娘の野暮ったさが目立つ。また、仲代達矢の全く抑揚のない、感情のこもらないいつものセリフ回しも、この娘の恋人なる男にキャラクター付けを敢えて行わず母と娘の対立を際だたせるためのように見える。

さて、本作は1959年の作品。この時代の作品はあまりたくさん観ていないので確かなことは言えないが、やはり当時のカラー作品の中では市川崑は濃淡の使い方が非常にうまいのではないか、と感じた。真っ暗な廊下を娘が歩いてくるシーンなど、娘の姿はしっかり見えるが廊下の奥は実に暗い。この「黒を描く」というテクニックが、嫉妬や業といった人間の暗い部分をよりドラマチックに見せてくれるのだと思う。

殺人の追憶

2008-02-21 | 外国映画(さ行)
★★★★★ 2003年/韓国 監督/ポン・ジュノ
「人間の内面に切り込む演出が冴える傑作」


なぜ、もっと早く見なかったの、と壁に頭を打ち付けたいくらいの衝撃。すばらしいです。そのひと言でレビューを終えたいくらい。

猟奇殺人が絡むと、映画というのはどうしても作品全体が浮き足立ってしまう。それは殺人そのものがスキャンダラスであり、それを映像にしただけでセンセーショナルな画面になってしまうからだ。観客は、猟奇殺人にまつわるもろもろにどうしても興味の方向が引っ張られる。そこを乗り越えて、事件を捜査する刑事の人間ドラマとして描くには、よほどの深い洞察力と地に足付けた演出が必要だ。そういう意味でこの作品は、全く申し分がない。

驚くべきは、生身の人間を描くという「生っぽさ」が主眼にも関わらず、作品全体には静かで落ち着いたムードが漂っていること。それは、この田舎の農村風景を美しく捉えたシーンがふんだんに盛り込まれていることが大きい。カメラは、ただただありのままの田畑を捉えているに過ぎないのだが、そこには昔の田舎は良かったというノスタルジーはない。また、一方で連続殺人が起きた場所として何か意味づけをするでもない。まさしく何もない静かな農村が目の前に広がるだけなのだ。

そして、美術。パク・チャヌクもそうだが、韓国映画のセットのクオリティの高さはすごいと思う。当時の生活の泥臭さが、実に些細なディテールまで再現されていて、そのリアル感が刑事ドラマとしての骨太さを盛り上げている。刑事が通う女の部屋の汚れたタイル、焼き肉屋に充満する煙と油に汚れた壁など、汚いことが圧倒的なリアル感を与える。ソン・ガンホが着ているチェックの綿シャツのよれ具合といったら!日本映画が昭和を描く場合に「いかにもセットでござい」という風体になってしまうこととあまりに対称的だ。

乱暴で強引な捜査を続けていたのに、やがて悟りを得たかのような静けさを持ち始めるパク刑事と分析力で捜査に切り込むものの犯人が捕まらない焦燥感から次第に暴力性を増すソ刑事。ふたりの対比がとにかくすばらしい。特に、ソン・ガンホの存在感は秀逸。人間臭さを表現することにおいて、彼の右に出る者はいないんじゃないだろうか。

パク・チャヌクは作品の中に個性や作家性を持ち込もうとしているけど、本作にそのような余計な色はない。ゆえに、様々な嗜好の人に分け隔てなく受け入れられるだけの力をもった作品だと思う。実に重厚な人間ドラマの中に、サスペンス、そして叙情的で美しい映像と映画の醍醐味がぎゅっと詰め込まれている。全ての人にこの傑作をおすすめしたい。

ピアノ・レッスン

2008-02-20 | 外国映画(は行)
★★★★★ 1993年/オーストラリア 監督/ジェーン・カンピオン
「静けさと熱情が融合した見事なラブストーリー」


映画って、不思議だ。以前、観たときはサッパリピンと来なかったけど、年取ると見方が変わる。3度目の鑑賞で、この作品の持つエロチシズムに開眼。ラスト10分の驚きの展開からエンディングにかけて、身を切るような切なさと幸福感に包まれて、実に満ち足りた思いで見終わった。すばらしい。

主人公エイダは、口がきけない。そして、子持ちの未亡人。ピアノを弾くことは、自分の表現行為の全て。そんな彼女がスコットランドから遙か遠くのニュージーランドの小島に嫁入りしてくる。夫が欲しいのは貞淑で従順な妻。彼は彼女からピアノを取り上げようとする。

以前観たときはこのピアノを取り上げられようとした時のエイダの抵抗が、ワガママ女がダダをこねているように感じられたのだった。しかし、今度は違う。言葉を発することのできないエイダの怒りが伝わってくる。そう、エイダはピアノを取り上げられて怒りの表情を見せる。嘆きや悲しみではなく、怒り。「口がきけない」=静かでおとなしい女性という先入観が以前観たときはエイダという女性を私に正しく見せることを邪魔したのかも知れない。本当は、プライドが高く、情熱的なエイダ。そんな彼女がマオリ族の血を引く男、ベインズに惹かれていく。

ピアノを拾ったベインズに返して欲しいと迫るエイダ。じゃあ、ピアノレッスンをしてくれたら、鍵盤を1本ずつ返してあげよう…。さあ、ここから始まるんですね。ふたりの駆け引きと、恋が。ピアノを弾くエイダの肩に触れる。ピアノの下に潜んでエイダの足を眺める。そんなベインズの行為にだんだん心揺さぶられるようになるエイダ。レッスンを行う一連のシーンの何とエロティックなこと。しかも今回、私はこのベインズを演じるハーベイ・カイテルにすっかりやられてしまった。だってね、このベインズという男は外見で惹かれるようなところはないわけです。しかしながら、控え目なんだけども秘めたる熱い思いがすごく伝わってくる。最も印象的なのは彼が裸になってエイダを迎えようとするシーン。中年男のたるんだ肉体を敢えてさらし、かつそこにエロスを与えることができる、ジェーン・カンピオンの力量を感じます。

ピアノという存在を介して育まれていくふたりの愛。秘めねばならぬもの、語ることができぬもの故に、それは心の中の熱情となって二人を包み込む。美しいピアノの調べとその爆発させたいほどの思慕が見事に融合していく様が、本当にすばらしい。

二人の関係が夫にばれてからは、物語はどんどん悲劇に向かって突き進み、ベインズへの愛を語れぬエイダのやり切れなさが我々を突き刺す。そして、作品に一貫して流れる悲劇的なムードが、つらいエンディングを予感させる。そうして、一転、愛に満ちあふれたラストシークエンスへ。
幸福感で涙が出る映画、久しぶりでした。

3-4x10月

2008-02-19 | 日本映画(さ行)
★★★★★ 1990年/日本 監督/北野武
「間の才能」


原案・脚本・監督全て北野武メイド。本来の意味では、これが監督デビュー作と言える本作。実に面白いです。もちろんサスペンスやエンタメ映画を見て「あ~おもしろかった」という「面白い」ではございません。やはりこれは北野武にしか作り出せない面白さ。しかも、出演者のほとんどが「たけし軍団」。演技という演技は、全くと言っていいほどない。それでこのような映画が作れるのだから、全く演技って何だと叫びたくなる。

「HANA-BI」でも書いたけど、「間」の使い方がうまい。もう、ほんとそれに尽きる。タイミングと長さが絶妙。例えば、ぶんぶんとバットを振っているだけのシーン。それが、やけに長いと何かが起きるのかなと言う期待が生まれる。例えば、バットが飛んでいっちゃうのかな、とか、ボールがどっかから飛んできて頭に当たっちゃうのかな、とか。ところが、何も起きなくて突然ぱっと違う画面になってしまう。そこで観客は裏切られたような感触が残るのだけど、それはバットを振っているという映像と共にしっかり心に焼き付いていて、「バットを振る」という行為に何か意味があるのだろうか、という考えにまで及んでいく。「間」のもたせ方ひとつで、こんなに観客の感じ方に奥行きが出せるところに、北野武の才能があるんだと私は思っている。

主人公は、柳ユーレイ。その他、比較的出演シーンの多いのが、ガダルカナル・タカとダンカンなのだが、この3人の演技が非常にいい。それは「演技している」とはおよそ言えたものではない。セリフは棒読みだし、でくのぼうみたいに立ってるし。だけども、武が描き出す世界の雰囲気にぴったり合っている。たぶん、監督による表情の切り取り方がうまいのだと思う。人物はバストアップで捉えた画面が多く、語り手は手前で映っておらず、ぼんやり話を聞いているダンカンだとか、ユーレイの間抜け顔が映っているだけなのだけど、やはりその間抜けな雰囲気に独特の「間」が存在していて、どうしても画面に引きつけられる。ぼんやりしたムードなのに、画面に吸い寄せられてしまうという感覚も、これまた北野武ならでは。

目の前では実に直接的な暴力が描かれているにも関わらず、全体のトーンはあくまでも一定で、波風が立たない。しかし、だからこそ、ドキッとするんですね。ピストル出して、何かセリフ言って、ツカツカ歩いていって、と言う暴力描写は、観客に対して「さあ、これから始まりますよ」と教えてあげているわけだけども、北野武はそうやって観客を甘やかしたりしない。予告もなければ、余韻もない。撃たれたら、もんどり打って苦しんで死ぬまでのたちうちまわるようなこともない。ゆえに暴力のリアリズムが際だつ。

さて、沖縄のインテリヤクザとして、豊川悦司が出演。彼は今までの役者人生で最も大きな影響を与えた人は誰かというインタビューで、渡辺えり子と北野武だと語っているのだけど、影響云々を語れるのかしら、というほどのちょい役。でも、現場での衝撃は強烈だったと語っており、北野武の何がそれほど彼にショックを与えたのか、実に興味深い。

前作「その男、凶暴につき」では、子供が遊ぶバットが一瞬のうちに凶器になってしまうシーンがあったが、本作でものんびりした草野球チームの様子とそんな彼らが暴力に呑み込まれる様子が淡々と描かれ、静かな日常と暴力を同じ平野で捉え続ける北野武らしい作風を堪能できる。興行的には失敗したらしいが(そりゃそうだろう)、興味深い作品であることは間違いない。暴力映画でありながらも、冴えない男の少し遅れた青春ストーリーとしても見ることができるところもこの作品のすばらしいところだと思う。

ツイン・ピークス シーズン2 vol.6

2008-02-18 | TVドラマ(海外)
★★★★ 1989年/アメリカ 監督/デヴィッド・リンチ
<episode27~episode29>

「ブラックロッジに酔いしれて」

物語の筋が通らないとか、あのエピソードはどうなったとか、そういうことはどうでも良くなるくらい、最終回に酔いしれました。最終回エピソード29の監督は、デヴィッド・リンチ本人です。

物語冒頭、オードリーが貸金庫で出会う、のろまな老人。最終回だと言うのに、そのあまりにもスローな動きにイラつきませんでしたか?第一、常識的に考えればお客様の大事な物を預かる貸金庫の番人があんな老人であるはずはない。しかし、この一連のシークエンスこそ、実にリンチらしい。とことん観るものを惑わす、それがリンチのやり方。最終回だからこそ、全てがうまくまとまるはずという我々の思惑をあざ笑うかのように、人々の人間関係は崩壊してゆくのだ。

ローラを殺した犯人がつかまった時点で、明らかにせねばならないものは、なくなっていた。ブラックロッジとはいかなる世界か、それが最後に残された疑問であるならば、この最終回は見事にその答を提示したと言えるだろう。赤いカーテンの部屋で繰り広げられるめくるめく幻想の世界。完全悪が存在する世界というのに、この妖しげで美しい様はどうだろう。そう、ブラックロッジは、美しいものしかふさわしくない。邪悪にむしばまれたウィンダム・アールがあのカーテンの部屋に現れた時、何と不釣り合いな存在に見えたことか。

そして、ローラ。おお、懐かしいローラ。その存在はもはやブラックロッジの女王として君臨している。小人がつぶやく。「ドッペルゲンガー」。ついにクーパーも彼らの手に墜ちた。ローラは言う。「25年後に会いましょう」。果たして、それまでクーパーはブラックロッジの使者として仕えることになるのだろうか。いや、ローラの母が大佐を呼び出したではないか、「ブラックロッジで待っている」と。大佐はクーパーを助けてくれるだろうか。それとも盟友ハリーが力を貸してくれるだろうか…。

まだまだキラーボブの支配は続く。しかし、二つの扉は同時に開くと誰かが言わなかっただろうか。ブラックロッジの入口が開けば、ホワイトロッジの入口もまた開かれる。今、ツイン・ピークスの街にはどんな出来事が起きているのだろう、と思わずにはいられない。

ツイン・ピークス シーズン2 vol.5

2008-02-17 | TVドラマ(海外)
★★☆ 1989年/アメリカ 監督/デヴィッド・リンチ
<episode23~episode26>

「無理矢理、繋げてまんな」


vol.4でボブも小人も消えた…と思ってたらepisode23で唐突に登場。ウィンダム・アールもブルー・ブックのメンバーで、ブラック・ロッジの存在を知ってましたか。なるほど、そう繋げてくるとは。しかし、無理矢理感が否めませんね。

さて、リーランド逮捕以降のツイン・ピークス。物語としては間延びしているし、犯人はもう捕まったし、観る意味あるのか…という気持ちになる人が多いのも理解できる。もちろん、ここまで来たら最後まで見てやるよ、というあきらめに似た境地は私にもあります。

で、無理矢理、見る意味をひねり出してみる(笑)。と、一つだけ言えるのは、ツイン・ピークス以降のリンチ作品の理解が深まるってことかな。先日、最新作「インランド・エンパイア」を鑑賞。で、その後このシーズン2を文句言いながら見ていると、おや?と思うことが多々ある。クーパーが心酔しているチベットの教え、片腕男が持っている統合失調症の薬、ホワイト・ロッジとブラックロッジという表裏の世界観などなど。「インランド」に通じる部分は結構あるんですね。もちろん、同じ監督だから同じ世界観で作品を作り出しているのは、当然なんですけれども、未だに「ツイン・ピークス」から最新作まで繋がってるのか、と思うとそれはそれで感慨深いものがありました。

というわけで、なんだかんだ言って最後までみちゃったよ…という方は、引き続きリンチ作品をいろいろと見ることをオススメします。こんなグダグダの後半戦をがんばって見ているんだから、何かに生かさないとね(笑)。

ツイン・ピークス シーズン2 vol.3

2008-02-15 | TVドラマ(海外)
★★★ 1989年/アメリカ 監督/デヴィッド・リンチ
<episode15~episode18>

「超能力捜査官、Mr.クーパー」

episode16をもって、一連のローラ・パーマー事件はひとまず終了。ここをシーズン1からシーズン2のボーダーラインにもってくればいいのに、なんでこの切り方なのだろうか。

リーランドの見事な狂いっぷりを見せて、事件としては収集をつけた。この結末を見れば、娘の死後どんどんおかしくなっていく様子は、犯人としての伏線だったわけで、最初から犯人は示唆されていたわけだ。私は全く気づいていませんでしたが。で、これから物語の本流は、「闇の世界を牛耳るボブ」の正体探しになっていく。

ツイン・ピークスがアメリカンドラマの元祖のように言われるのは、登場人物たちの裏の顔を暴きながら複雑な人物相関図を作り上げていくこととに加えて、超常現象や超能力といった要素をふんだんに取り込んでいるからだろう。この要素は、その後のドラマ「X-ファイル」あたりに引き継がれているのではないだろうか。

そして、どうやらこれからはクーパーの超能力捜査で悪魔の正体に近づきそうな気配。そう言えば最近のドラマ「ミディアム」って言うのも、霊能者が捜査するって話なんでしょ?(見てないけど^^)こういうところも元祖と言われる由縁ですかね。

というわけで、vol.4~は、「超能力捜査官、Mr.クーパー」ってタイトルに変えた方が良さそうな展開になりそう。クーパー自身が強烈なキャラクターとして人気が出たから、それもアリなんだろうけど、しかしここに至ってやはりこのドラマではローラの魅力が大きかったんだなということに気づく。悪魔に魅入られた女、ローラとはいかなる少女だったのか。「世界一美しい死体」にまつわる淫靡なムードこそがツイン・ピークスの根幹であったのだ。キラーボブがローラのイメージに対抗できるだけの強烈な魅力を放つことができるのか。vol.4以降のポイントはそれだと思う。

ツイン・ピークス シーズン2 vol.2

2008-02-14 | TVドラマ(海外)
★★★☆ 1989年/アメリカ 監督/デヴィッド・リンチ
<episode11~episode14>

「あれ、終わってるじゃん?」

シーズン2から1枚のDVDに4話ずつ入っているのだが、episode14の醸し出すムードが明らかに他の3つと違う。で、クレジットをよく見てみると、やはりこれだけがリンチ本人の監督作品だった!えらいもんですねえ。というわけで、この4話を見比べてリンチ的なるものは何かを探ってみる。そういう視点でこのvol.2を見ると思ったよりも楽しめるかも知れません。しかも、犯人がわかるしね。

で、episode14の何が違うのかと言われると、やはり、「奇異なるもの」を創り出す才能。印象的なのは終盤ローラの母セーラがあのチリチリ髪振り乱して、階段を匍匐前進する様子とリーランドとキラーボブが入れ替わる映像。確かにepisode11、12にも印象的なシーンはあるけど、どうも「狙った絵作り」という感じなの。他にも、ゆっくりと回るカメラワークや、けだるいムードが立ちこめるような演出など、奇異なものが突飛に見えない全体の統一感があって、さすが本人監督だな、と。

それから、リンチ作品には「馬」が幻覚のイメージとしてよく出てくるのだけど、これはどういう意味があるのかしら。室内に馬がいる映像って、すごく居心地悪い。夢判断なんかだと、馬は「性的衝動」を表しているので、やっぱりそっちの線かな、と想像してみたり。

で、episode14でついに犯人発覚。ここから、映画版「ローラ・パーマー最後の7日間」に突入しても全く違和感ない終わり方なんですよ。でも、シーズン2、この後DVD4枚もあるんですよね…(笑)。さて、さて、どうなることやら。

ツイン・ピークス シーズン2 vol.4

2008-02-13 | TVドラマ(海外)
★★☆ 1989年/アメリカ 監督/デヴィッド・リンチ
<episode19~episode22>

「闇も幻惑も消えた」

クーパーの宿敵なるウィンダム・アールが登場し、すっかり物語は連続猟奇殺人犯捜査へと様変わり。あれれ?キラーボブはどこへいっちまったんだ。ジェームズ、ベン・ホーン、ジョシーにまつわるサイドストーリーなんか、もうどうでもいいっす!って境地に達してきました…。だって、これまでサイトストーリーは少なからず「ローラ・パーマー殺人事件」と絡んできたから面白かったわけだもん。それが今はどのお話もバラバラに進行していて、互いが絡み合わないから全然つまんない!

しかも、このvol.4は、謎の提示が全然ないのね。大佐の首についた傷跡くらいかしら。これまでは、夢で見た巨人のお告げとか、なくなった指輪とか、奇妙な映像で何かを暗示するということを効果的に行うことで謎への興味を駆り立てていた。なのに、ウィンダム・アールとの一件にしろ、クーパー自らぺらぺらしゃべってるくらいなんだもん。目に見えない恐怖とか闇を暗示することで培ってきたツイン・ピークス独特のムードがどんどん薄れていく。迷走ツイン・・ピークス、どこへゆく…