Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

PARMにハマってます

2010-02-23 | 木の家の暮らし
チョコには目がない私。
バレンタインの時も「自分用」を含め、1万円以上散財してしまった。。。
コンビニでアイス買う時なんかは、もっぱらチョコモナカ。
あのパリッっとしたチョコが好きなのよ。
でも、最近ハマってるのは、PARM。
実は濃厚なバニラって、あんまり好きじゃないんだけど、
このバニラは濃厚なくせに口当たりが軽いのよね。
もちろん、大好きなパリパリチョコもよし。


えーと、外でアイス食べられるんですけどぉ~~。
どうしちゃったのこの陽気。
今年はほんと、雪も少ないよ。


抱擁のかけら

2010-02-22 | 外国映画(は行)
★★★★ 2010年/スペイン 監督/ペドロ・アルモドバル
<梅田ピカデリーにて観賞>


映画への愛がたっぷり詰まったアルモドバルらしい作品だった。主演のペネロペはモンローやヘップバーンを思わせるファッションを次々と着こなしていて、本当に美しい。映画内映画での主演女優を始め、ペネロペは何通りもの役をこなしていて、まさに彼女のための映画と言っても過言ではないと思う。映画内映画であるコメディ「謎の鞄と女たち」では、アルモドバルの初期の作品で見かけた女優を見つけて少し嬉しくなった。


主人公の男と女は映画を通じて知り合い、映画を通じて嫉妬に苦しみ、映画を通じて人生を取り戻す。主人公を憎む男たちは、スクリーンで浮気場面をチェックしたり、ビデオカメラを回したり。とまあ、何もかもが映画、映画、映画。全てが「映画」というフィルターを通して描かれていて、アルモドバルの映画愛の大きさはわかるのだけれども、ストーリーとしてはもう少しひねりが欲しかったかなあ。サスペンス的展開に何かどんでん返しがあるのかと思ってしまったが、やや肩透かし。

ただ、非常に映像は美しくて、スクリーンで見ないとこの良さはわからなだろうなあ、と思う。


手前の赤い花、花柄のソファ、ターキッシュブルーの壁紙、そして壁に掛けられた色鮮やかな絵画。多色使いのくせに、憎らしいほど完璧なカラーバランス。このセンスは、さすが。スペイン人ならではと溜息が出ちゃう。

それに色遣いが鮮やかなだけではなく、カメラの動きがとても優雅。奇をてらった絵作りではないのにとても惹きつけられる。なんというか、余裕綽々と言うのかな。ほんの少し、じれったいカメラワークで、それがアルモドバルの貫禄を感じさせる1本だった。


ホームレス中学生

2010-02-04 | 日本映画(は行)
★★★★☆ 2008年/日本 監督/古厩智之  

「もう一つの“大阪物語”」


なかなか厳しい評価も散見するが、カメラがとてもいい。家族が解散してから、やたらとウンコネタが連発されるが、カメラはとても上品だ。主人公のぐるりを静かに回り、時折遠くから見守る。そして、ほとんどローアングル。文字通り、地面を這いつくばっていきる裕と同じ目線でカメラはゆっくりと動く。とても優しい目。そして、兄弟3人の暮らしが始まり、銭湯の前で待ち合わせをして家路に着く時、姉の幸子がぽつりとつぶやく。「あたし今ちょっと幸せやわ」。そこで、今まで地面をうろついていたカメラがするすると上昇し、少し高いところから姉と弟の後ろ姿をとらえるのだ。

正面アングルの巻きフン公園や、絶妙なタイミングで入る料理のアップといった短いカットしかり、部活帰りの中坊がブラブラ歩いていて友人がスクリーン右側から捌けると後ろからオトンの自転車が現れるといったシークエンスしかり、非常に見心地が良く、映画らしいカメラワークにあふれている。また、小池徹平23歳で、中学生。池脇千鶴28歳で、高校生。キンコン西野29歳で大学生。このキャスティングは大した度胸だと思う。しかも、大阪が舞台で田中裕子と池脇千鶴って、亡くなった市川準監督「大阪物語」へのオマージュじゃないかしら。「大阪物語」は夫婦漫才の話だし、夫は典型的なダメ男(演じる沢田研二がこれまた最高にいい味)。トーンもよく似ている。

後半の転調ぶりも見事だと思う。身近な女性の死によって、母の死をまともに受け止められなかった小さい頃の傷がじわじわと疼き出すという、まるで「ラースと、その彼女」ばりの展開。家ナシ、飯ナシ、便所ナシの頃は、ただひたすら食って生きることで必死だったのに、そうした飢餓の危機を乗り越えると、とたんにくよくよ悩んだりし始める。これ、何気に人間の本質を突いてはいまいか。

さてと。

古厩監督は、本作で「これを一番伝えたい」という見せ方は何一つしていないと思う。子供の逞しさを前面に出したいわけでもなく、市井の人々の人情を前面に出したいわけでもない。キャラクターやエピソードに食い込むというより、むしろ引いて演出している。人によっては、中途半端と感じる演出だろうし、好き嫌いも分かれるかも知れない。でも、私はこの絶妙な引き具合が好きだったりする。120分の中に、キラリとした輝きが2度3度あればそれで十分。そんな思いで古厩監督は映画を撮っているんじゃないだろうか。

最近、麒麟の田村くんはテレビに出ては、このオトンに家を買ってあげたから(番組の企画で再会したらしい)、印税はほとんど残ってないと話している。子供を捨てて、ダンボール食わしたオトンでっせ、みなさん。何とも、血の繋がりとは不思議なものよ。そして田村くんが会うんじゃなかったと思っているのか、何があっても父は父と思っているのか。そんなことは、誰にもわからない。でも、もしこの作品が人情味あふれる感動作に仕上がっていたら、田村くんが印税でオトンに家を買ってあげたという事実とはたぶんしっくり来ない。そんな気がしてならないのだ。


オアシス

2010-02-03 | 外国映画(あ行)
★★★★★ 2002年/韓国 監督/イ・チャンドン

「心は自由だ」


「こんな映画を作って何の意味があるのか」という意味論争は全く不毛だと常々思っている。絵画にしろ、文学にしろ、表現されたものは、表現者が表現したいから存在するのであって、そこに意味が有るか、無いのかを第三者がとやかく言う筋合いなどない。観る者は、ひたすらに享受するだけの存在。ただ、つまらなかったと言えばいいのだ。ところが、そんな私も俳優が障害者を演じる作品については、しばしばこの信念が揺らぐ時がある。大抵のそうした作品の場合、障害者の方々の苦労や社会制度の不備などを伝えることがほとんどで、そうした作品を見ると、「そこまでして伝えたいのなら、ドキュメンタリーを撮ればいいじゃないか」とつい思ってしまうのだ。

ところが、この「オアシス」という作品は、従来の障害者を描いた作品とは、何もかもが違う。間違いなく、100%、俳優が演じなければ伝えられない作品なのだ。この、まるでコペルニクス的転回は、ご覧になった全ての方が息を呑んだであろう、コンジュが車椅子から立ち上がり、ジョンドゥと戯れる一連のシークエンスだ。車椅子に縛り付けられていても、コンジュは果てなきイマジネーションの世界でジョンドゥと自由に歩き回り、彼の肩にもたれかかり、つまらない冗談を言い、笑い合う。それが想像の世界であることから、実現できないことであるから、悲しい思いにとらわれる方もいるのかも知れない。でも、私は逆だ。全ての人間の心は自由だ、という清々しい思いが私の中を駆けめぐる。誰も人の心を束縛することなどできはしない。コンジュの夢想は、コンジュを優しく包み込み、生きる糧となっている。私にはそう思えて仕方ないのだ。

周囲の理解も得られることもなく、ふたりが追い詰められるほどに、この「心は自由だ」というメッセージは、暗闇の中の光のようにきらめく。思えば、冒頭コンジュは手鏡に反射する光を白い鳩に見立てていたではないか。そして、ジョンドゥを失っても、午後の日差しが入る部屋でコンジュはまた美しい夢想に浸るに違いない。それを想像する時、私の心には温かいものが込み上げる。

それにしても、車椅子から立ち上がる、あの一瞬。もう、私の心臓はバクバクして、どうしようもなかった。日常生活のシーンはもちろんのこと、ムン・ソリの演技には脱帽。特典映像を見ると、無理な姿勢から体を壊したというではないか。ソル・ギョングにしたって、チック症状を伴う落ち着きのない素振りがあまりに自然で、驚くばかりだ。主演ふたりの演技者としての底力にも圧倒された。

マイケル・ジャクソン THIS IS IT

2010-02-02 | 外国映画(ま行)
★★★★☆ 2009年/アメリカ 監督/ケニー・オルテガ
<TOHOシネマズ梅田にて鑑賞>

「MJの覚悟」

<年明け、二度目の再上映時に観賞>

これは「映画」を批評する言葉で語ることができない作品だ。言ってしまえば、リハーサルの映像と関係者の証言、ただそれだけで構成された映画。

しかし、関わる全ての人たちの熱い熱いパッションと、それが伝わるほどに、もうマイケルはこの世にいないという事実が浮き彫りになり、胸を締め付けられるような思いにとらわれる。

冒頭、マイケルと一緒に踊ることがいかに夢のような出来事かと語るダンサーの面々が登場し、すでに私は「ああ、その夢は実現しなかったんだな」と思うともう涙が頬を。

みなさん語っておられるが、マイケルはあんなに歌えて、あんなに踊れた。その事実が、本当に衝撃。あのマイケルもすっかり衰えているだろうと、整形疑惑に児童虐待疑惑にと変わり者のレッテルを貼られたマイケルはアーティストとしての才能をすでに終えているのではないかと、そんなことを勝手に想像していた世界中の人々を驚愕させるパフォーマンス。それも、リハーサルにして。

個人的に感慨深かったのは、ジャクソン5のナンバーがセットリストにあったことだ。私は、ジャクソン5時代は、マイケルにとって消したい過去なんではないかと思っていた。実際、マイケルは様々なインタビューで父親から暴行を受けていたことや、学校に行けなかったことなど、子供時代に多くの心の傷を負ったことを公表していたから。だからこそこジャクソン5の歌を歌うことは、彼にとって一つの賭けだったろうと思う。このライブで彼は自らの過去を乗り越えようとしたのではないか。しかも悲しいことに、それは分岐点というよりも、最後のけじめではなかったのかと思えて仕方ない。強い痛み止めの薬をいくつも飲み、自分の体が人並みの健康体ではないことくらい、彼自身わかっていたはず。生涯最後のライブになることはわかった上で、ジャクソン5の歌を歌う決意をしていた。そんな彼の思いが溜まらなく切ない。

映画が終わった後、拍手がおきた。もちろん、私も拍手。こんなこと、初めてかもなあ。すでに、上映から2度の再上映。そんな作品が拍手だもんね。日本でこのコンサートを見たかった。見た人全てがそう思い、帰路に着いたのだろう。

のだめカンタービレ 最終楽章 前編

2010-02-01 | 日本映画(な行)
★★★☆ 2010年/日本 監督/武内英樹
<TOHOシネマズ二条にて鑑賞>

「テレビのおふざけは、スクリーンではキツイ」

評判はいいのようなのだけど、私は残念な思いが先立つ。期待値が高すぎたから…ということもあるかも知れないが、ある意味「スクリーンは別物」という当たり前の大命題を突き付けられた。暗い箱の中、大きなスクリーンで展開されるギャグは、ほとんどが上滑りに感じられ、テレビ画面ではしっくりきていた敢えての「ハズし感」が、スクリーンではただの違和感に変貌していた。

強烈に駄目だったのは、外国人出演者が吹き替えに変えられていることだ。もちろん、スペシャルドラマを見ているので、映画版でもこうするしかないとはわかっていた。しかし、スクリーンで見てみるとどうだろう。本編の肝である、千秋とコンマス・シモンとの確執と和解なんて、吹き替えのセリフじゃちっとも気分が盛り上がらない。全く感情移入できない。

テレビならではのおふざけは、映画では抑えるべきだっただろう。のだめ人形を振り回すのは1度で結構。ラストカットまで人形ってのは、ちょっと映画をナメてんじゃないのか、とすら思ったりもして。

上野樹里ちゃんの可愛らしさと玉木宏のチャイコフスキーの指揮っぷり。これは良かった。