Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

レッド・ドラゴン

2008-01-31 | 外国映画(や・ら・わ行)
★★★★☆ 2002年/アメリカ 監督/ブレット・ラトナー

「原作読んでるのに、ドキドキ」


「羊たちの沈黙」に思い入れが深いため「ハンニバル」を敬遠していたのと同じ理由で「レッド・ドラゴン」も見ていなかった。でも、これまたもっと早く見れば良かった!というのが率直な感想。まったりとしたオペラのような世界だった「ハンニバル」から一転して、本作はサイコ・スリラーとしてのスリルを存分に味わうことができる。実にテンポ良く物語が進み、原作を読んでいたのに最後までハラハラさせられた。。「ラッシュアワー」で有名なブレット・ラトナー。アクションもので培ったスピード感が遺憾なく発揮された、というとこでしょうか。とにかく最初から最後まで緊張感が持続する演出にやられました。

そして、キャストが豪華。アンソニー・ホプキンスを筆頭にエドワード・ノートン、ハーヴェイ・カイテル、レイフ・ファインズ、フィリップ・シーモア・ホフマン!何とまあ贅沢な俳優陣。しかも5人共それぞれの役どころが非常にフィットしていて、ぴたっとピースが合わさったような快感がある。

レクター博士は、本作においては脇役。そのように割り切ってしまえば、物語の要所要所で「ハンニバル・レクターここにあり!」という存在感が物語をひきしめてくれる。囚人服に青いデッキシューズという出で立ちでここまで威厳を出せるキャラクターはいないでしょう。ハマリ役なんて言葉は超越して、もはやハンニバル・レクターそのものですねえ。

クラリスがレクターを訪ねてくるところをラストシーンに持ってくるなんぞ、シリーズのファンを意識した憎いエンディング。このまま「羊たちの沈黙」を続けて見たくなる。そんな意見に私も大いに賛成です。しかしながら、一遍のサイコサスペンスとしても一級品のクオリティ。シリーズものの3作目という位置づけではなく、これのみの鑑賞の方がいたとしても大いにお薦めしたい作品。

PROMISE<無極>

2008-01-30 | 外国映画(は行)
★★★ 2006年/韓国 監督/チェン・カイコー

「いくらなんでも、このCGはない」


傑作「さらばわが愛、覇王別姫」と同じ監督が撮ったとは思えない。というか、思いたくない(悲)。あまりにもCGがショボ過ぎる。せめてチャン・ドンゴンの牛走りと凧揚げを何とかしてくれれば、もう少し見られた作品になっていたかも。というか、この発想がチェン・カイコーから出た物なのか本人に聞いてみたいくらいだ。

ワイヤーアクションてんこ盛りで色彩美を追求した壮大な中国ドラマって体裁は誰しもチャン・イーモウの「HERO」「LOVERS」を思い起こすだろう。しかし、アクションにおいてもCG技術においても完敗。笑うしかないCGの仕上がりは、まさか「俺にワイヤーなんか撮らせても、この程度しかできないよ!」というチェン・カイコーの悲痛なる叫びなの?一体、このCG映像を請け負ったのは、どこの事務所なの?ううむ、何を書いてもネガティブになっちゃうので、方向転換。

中国人監督にたくさん予算をかけて大作を撮ってもらおう、ということになった時に、結局ワイヤーアクション付きの大河ドラマが企画に上がってしまうのだろうか、という気がする。台湾出身のアン・リーだって「 グリーン・ディスティニー」撮ってるし。でも、中国=カンフー、予算がある=CGという発想は、あまりにも安直なんじゃないだろうか。おそらく世界をマーケットに作品を売ると考えた時に、無常とか輪廻のようなアジア的世界観が外国ではウケるのと、ある程度の収入は見込めるからなのかも知れないけどね。

でも、もうそろそろマーケットもこの手の作品は飽きたでしょう。アン・リーが「ブロークバック・マウンテン」撮ったように、チェン・カイコーも次は好きなものを撮って、本作の酷評を吹き飛ばして欲しい。「さらばわが愛」の感動をどうか再びと、願うばかりだ。

さて、真田広之。いろんな映画に出て、顔を売ることは大事だと思う。元JACってことで、アクションもいけるし、乗馬もうまいし、英語もできるし、どんどんいろんな映画に出て欲しい。この映画の内容は散々だったけど、チェン・カイコーと仕事をしたっていう実績は紛れもない事実。そこから得られるコネクションもあるだろう。「サンシャイン2057」に引き続き、「ラッシュアワー3」にも出演している模様。こちらは出ました!アジア俳優がハリウッド進出した時に避けては通れぬ道、悪玉役でございます。私、彼がJACに入った時から結構好きな俳優。だから、地道に仕事をこなしているのはとってもエライと思う。がんばれ、真田広之!

時をかける少女 (アニメ)

2008-01-29 | 日本映画(た行)
★★★ 2006年/日本 監督/細田守

「スカート丈と私」


映画を見て何かを感じるというのは、鏡に映った自分を見て何かを感じることと同じかも知れないと切に思う今日この頃です。映画を見ていて何かに「ひっかかった」時は、自分の中の何が反応したかを探る。それは意外と楽しい作業です。

日頃あまりアニメを見ない私ですが、この「時をかける少女」という作品は、みなさんの評価も高くちょっと期待混じりに手に取ってしまいました。ところが、始まるやいなや私は主人公真琴のスカート丈のあまりの短さに驚きました。そして、スラリと伸びたあまりにも長い生足。もちろん、この出で立ちだからこそ、真琴が走るシーンが生きてくるのだろうと思います。またこれくらいの描写は今のアニメにおいてはスタンダードなのかも知れません。しかし、結局この「スタート丈の短さ」が与える不安感を最後までぬぐい去ることはできませんでした。

そして、もう一つ私の心を乱すのは、真琴の泣き顔です。だんだん顔がくしゃくしゃになって、うわ~んとボロボロ涙をこぼす様子は「となりのトトロ」に出てくる小さい女の子の泣き顔にだぶりました。真琴が走り、跳び、泣き、笑い、その若さの全てが弾けんばかりに描写されればされるほど、私の気持ちは滅入る一方なのです。

おそらく思春期の女の子が無防備であることに私はいらだちを感じるのです。また同時に作り手のロリータ趣味を感じ取ってしまう。決して誤解して欲しくないのは、この作品を作った人やこの作品をいいという人がロリータ趣味だなどと言っているわけではありません。なぜ私のアンテナはそうキャッチしてしまうのか。全く人間の感受性とは不思議です。

これまでその感情の源は、母親が子を守るような本能から来ているのではないかと思っていたのです。「少女的」なるものが商業的な価値を持つことへの嫌悪。しかし、事ここに至って、もしかしたらこれは若さへの嫉妬なのだろうか、という考えが頭をもたげてきました。たぶんその答は今すぐ出るものでもありません。だから、私はもっと映画を見ようと思います。

そり遊び

2008-01-29 | 木の家の暮らし
年末にものすご仕事忙しく、冬休みに入ったらPC故障するしで
すっかりブログ、ごぶさたしておりました…すみませんm(_ _)m

というわけで、またボチボチ再開します^^

金・土・日と雪が続き、ようやく冬らしい積雪。
50センチくらいは積もったでしょうか。
学校でも、雪合戦したり、かまくら作ったりして遊んだようです。

土日は、我が家の裏の土手でソリ滑りして遊びました。
ちょうど家のすぐ裏に高低差が2メートルくらいの土手があるんです。
そこが、ソリにはピッタリのいいコースなんです。

何度か滑っている内に硬くなって、どんどん走行距離が伸びるんですよ。
あんまり面白そうなので、私もチャレンジ。
最初のダウンがですね、結構怖いの。
ジェットコースターで、ず~っと上に上っていって、
最初にぐわ~んと落ちるのってあるでしょう?
あんな感じで最初にぐわんと落ちるんですよ。
で、後は惰性でだぁ~~~と滑っていくんです。

私、キャーキャー行って、コースから飛び出してしまいました。
「コースのライン、変わったやんかぁ~」と息子に怒られてしまいました。
子供は身軽なんで、ぴゅ~~~っと降りていくんですよ。
見ているだけでも楽しいです。

イルマーレ(リメイク)

2008-01-27 | 外国映画(あ行)
★★★★☆ 2006年/アメリカ 監督/アレハンドロ・アグレスティ

「More Romantic!!」


何でもかんでもリメイクするのはどうかと思うが、しかしここまでリメイク上手だと「これならハリウッドはどう料理する?」と考えに及んでしまう今日この頃。韓国、日本で大ヒットした「イル・マーレ」、果たしてハリウッド版はよりロマンティックに乙女心をくすぐる佳作になっておりました。いやあ、思ってたよりも全然ステキだった。

オリジナルを見ていながらも楽しめた、ということは、ことこの作品においては大いに評価されるべきだと思う。なぜならこの時空を超えたラブストーリーには、そうなるのか!という素敵などんでん返しが用意されていて、肝心要のこのどんでん返しもリメイク版は同じであるからだ。しかし、同じオチでも見せ方は違う。オリジナルは「ふたりの出会いからリスタートする」結末であるのに対し、リメイク版は「女も男も待つ」ことを選択する。これまた、ハリウッドとは思えない偲ぶ愛の結末。恐れ入りました。

本作で好感が持てるのはリメイクという作業においてハリウッド的派手さを無理に取り入れていないこと。今話した結末の見せ方がその最も顕著な例で、ここでは「待つ」ということが一つのテーマになっている。「運命で結ばれたふたりならばきっと会える。だから、機が熟するのを待つんだ」そんなラストの展開は、アグレッシブが褒め言葉というアメリカ的価値観とは異なるものを感じる。よく考えれば男が女を迎えに行くオリジナルの韓国版の方がよほど欧米的展開ではないのか。

オリジナルのプロットはそのままで、いかによりロマンチックに、よりドラマチックに仕上げるか、その試行錯誤が様々な面で良い方向に出ているんだと思う。主人公の職業についても男性側は同じ建築家であるのに対して、女性側は声優の卵から女医という設定に変わっているが、仕事と恋の間で揺れる女心という点においてはハリウッド版の方が共感を誘う。

そして、思わず「うまい!」と唸ったのは、ラストの出会い以前にこの二人にひと時の邂逅を与えていること。この出会いによって、ふたりの恋は「宿命」となる。また、これがムード満点のキスシーンなんだな~。いいぞ、キアヌ!と思わず拍手。というわけで、ストーリーを知っているのにオリジナル以上に盛り上がったのでした。

もしかしたら、オリジナルのイ・ジョンジェよりもキアヌの方が好みだってことも、盛り上がりの一因かも知れませんが…。このふたりにはフレッシュさがないという意見もあるみたいですけど、私は年を取ったとは言え、キアヌ・リーブスが恋に悶える様子にはかなりトキメキましたですよぉ。


マッチポイント

2008-01-26 | 外国映画(ま行)
★★★★ 2005年/イギリス・アメリカ・ルクセンブルク 監督/ウディ・アレン

「ウディ・アレン、まだまだ現役!」


デ・パルマの「ブラック・ダリア」、そして本作ウディ・アレンの「マッチポイント」。奇しくも同じ「魔性の女」という設定でスカーレット・ヨハンソンが出演。デ・パルマの「ブラック・ダリア」がムード満点でありながらもサスペンスとしては肩すかしであったのに対し、本作はスカーレットの魔性の女像を存分に活かしつつ、サスペンスとしても最後の最後までスリリングに見られる。正直、ウディ・アレンがここまで上質なサスペンスを作れるなんて驚いた。

サスペンスと言っても巧妙なトリックがあるわけではない。でも、クリスとノラの行く末がどうなるのかラストの30分くらいは実にドキドキ。やっぱりサスペンスって、これくらいシンプルでいいんだよね、なんてことも再確認させられた。サスペンスたるもの、ラストにはしっかりオチをつけてくれないと、という当たり前の要望がなかなか叶えられない昨今。実に小気味いいオチがきちんと用意されている。しかも、ウディらしい粋な展開で思わずニヤついてしまう。

妻と愛人の狭間で言い訳づくしの男、クリス。もうちょっと計画的に将来を考えろよって、ことなんだけど、よく考えるとこの言い訳男ってウディ・アレン作品によく出てくるキャラなのね。ウディがしゃべればいつもの機関銃トークになるその場しのぎの口からでまかせ。だから、体裁はサスペンスだけど、振り回される男が主人公ってことを考えれば実にウディらしい作品なのかも知れないです。そして、スカーレットの魅力が炸裂。特に登場シーンの妖艶さはどんな男でもイチコロですな。

人生は「運」次第。それをネットにかかったボールで表現するあたりも洒落てます。成り上がり男が不倫して、言い訳三昧のあげく、女とどうケリつけようか、なんて泥臭いお話が、ウディの手にかかるとこんなに都会的で洒落たお話になるなんて。しかも、上流社会らしい気取った会話や美術館などのハコが物語にも存分に活かされていて、ロンドンでの撮影が初めてとは、とても思えない。ニューヨークを舞台に繰り広げられる男と女の物語、という彼の持ちネタ以外にまた新たな方向性が芽生えたようで、ウディ・アレン、まだまだやるじゃん!と見直しましたです。とっても面白かった!

HERO/英雄

2008-01-25 | 外国映画(は行)
★★★★ 2002年/香港・中国 監督/チャン・イーモウ
「ゆらぐ信条」

なぜ、チャン・イーモウにこれが撮れて、チェン・カイコーはできなかったのだろう。「PROMISE」はあまりにCGがしょぼくてその話題に終始してしまい書き損ねましたが、愛は運命を変えられるのかというチェン・カイコーらしい世界観というのは根底に流れていました。しかし、この「HERO」はどうでしょう。チャン・イーモウがなにゆえこのような一大アクション巨編を撮れたのか。映画は監督のもの。常々そう思って映画を見ている私は、この作品ほどその信念が揺らいだことはありません。

私の勝手な想像ですが、アクション監督、カメラマン、CGスタッフに至るまで、一流と呼ばれる全ての技術スタッフの力を100%チャン・イーモウが引き出した。そう考えるしかありません。もしかしたら、大陸的な粘り(そうイーモウ監督の作品によく出てくる市井の人々が持っているあれ)でもって、まとめあげた結果がこの作品なのかも知れません。

アクションを担当したのは「少林サッカー」も手がけるチウ・シントン。無名と長空が戦うシーン、雨のしずくが落ちるスローモーションや老人のつまびく不思議な楽器に合わせて、繰り広げられる格闘が非常に独創的。見せ方一つでアクションシーンって、こんなにも様々な表情が創れるのだと驚く。各エピソードにイメージカラーがあり、はらはらと舞う衣装がとても美しいのですが、この色分け効果は、実は2度3度見ると飽きてくる。しかしながら、羅生門スタイルで繰り広げられる物語は、虚実ないまぜで、観客が混乱してしまいがち。それを回避するために、おそらくこのスタイルを選択したのでしょう。あのエピソードは赤いシーンと頭にインプットされ、複雑な物語を整理できる。この選択は正解。

そして、何より、トニー・レオン。フェロモン全開。この匂い立つような色香はなんでせう。私は、彼の毒気にあてられてめまいを起こしそうなくらいクラクラ。あのジェット・リーすら、かすんでしまう。砂に書をしたためる、というあれは、中国古来の芸術なんでしょうか。長髪を無造作にしばり、女物のような着物をひらひらさせて、砂に文字を書くその姿。惚れない女はおりません。今年公開予定の「ラスト・コーション」はラブシーンがいっぱい、ということでこれまた楽しみです。

ブラック・ダリア

2008-01-24 | 外国映画(は行)
★★★☆ 2006年/アメリカ 監督/ブライアン・デ・パルマ

「オンリー・ムード」


デ・パルマファンゆえにつまんない!という巷の感想に抗おうと思ったんだけど…。これは、やはりサスペンスクライムとしての形を取っている以上、つまらない評に対して擁護できない部分の方が大きいなあ。まず犯人探しにおいては、犯人を含めた人物関係の描写が浅くて、謎が明らかになったカタルシスが全然味わえない。これは、デ・パルマ作品だから見るという人ではなく、サスペンスとして本作に期待した方がつまらないと評するのも当然だろうと思う。

でね、このオチ、つまり犯人そのものに関しても、何だか時代遅れなキャラクターなんだよね。あんまりびっくりしないというか。あ、そうって感じでさ。

この物語が犯人捜しよりもむしろブラック・ダリア事件にのめり込んで行くリーと、ふたりの女に翻弄されるバッキーの心理状態を描きたい作品だというのは、十分わかる。でも、なかなかこの二人に感情移入できない。その徹底的な欠陥は、「殺された女とマデリンが似ていない」ということではないかと思う。

物語では似ているという設定だけど、どう見てもヒラリー・スワンクは似ていない。だって、私はケイのセリフで初めてマデリンが殺された女に似ているんだってわかったんだもん!惨殺死体に瓜二つの女と肉体関係を持ってしまうところがミソなんでしょ。だったらいっそのこと、ヒラリー・スワンクの一人二役にすれば良かったのに、と思う。リーがなぜこれほどブラック・ダリア事件にのめり込むのかも伝えきれていないし、出所してくるデウィットとリーとケイの関係もブラック・ダリア事件に絡むのかと思えば、そうでもない。

俯瞰のカメラやらせん階段のシーンはデ・パルマらしくてカッコ良かったし、レズビアン・バーなんて設定もエロティック・ムード炸裂で面白かった。でも、ここまで話の整理がつけられていないと、そっちに気持ちが集中できない。惨殺事件はあくまでも引き金であって、リーとバッキーの揺れる心をあぶり出す、そんな脚本がきちんと書けていたら、この仕上がりにはならなかったと思う。残念。ただね、同じ原作者の「L.A.コンフィデンシャル」は実に評判の高い作品だったけど、実はこれ、私はあまり好きでない。つまり、元々アメリカのこの時代背景の物語って、好みじゃないの。それも、楽しめなかった一因かもなあ。

レジェンド・オブ・フォール

2008-01-23 | 外国映画(や・ら・わ行)
★★★★ 1994年/アメリカ 監督/エドワード・ズウィック

「大自然と人間ドラマの融合って難しい」


ブラピファンとしては、ネイティブアメリカンの生き様に共感するワイルドな姿を楽しめるのはいいけど、実は「南北戦争」なんて言われると、入りこめなかったりするのが正直なところ。私だけかも知れないけど、「南北戦争」ってどうにもこうにもピンと来ない時代背景なのです。池田理代子センセイのおかげでフランス革命やロシア革命は妙に詳しいくせにアメリカ現代史はサッパリ…。

「レジェンド・オブ・フォール」はネイティブアメリカン、「ラストサムライ」は日本人と、異文化の中に身を置くことによって己を取り戻すアメリカ人(白人と言ったほうがいいのかな?)というテーマをエドワード・ズウィックは追求しているように思うが、やっぱり何故異文化に身を置くのか、つまりそれ以前に受けたトラウマなり挫折なりを理解していないと、なかなか物語に入り込めない。そこで、本作は南北戦争ですよ。もちろん概要もわかっているし、作品の中でも語られているけど、やっぱり皮膚感覚で南北戦争がいかなるものかって言うことを理解できてないんですね。

で、やはり尺が長いと感じた。つまり少々かったるい。モンタナの雄大な景色は確かに美しい。だけどもその景色と主人公たちとの葛藤がどうもうまく融合していない。例えば、「ブロークバック・マウンテン」。あれは、「決して叶わぬ男たちの純愛」というテーマに美しい山々や湖の大自然が見事にマッチして、相乗効果を生み出していた。でも、この作品では景色は景色、心模様は心模様って感じでなかなかうまく溶け込んでない。親子の絆、兄弟間の確執、そして1人の男を巡る2人の女と、ドラマ部分が多すぎたのも原因だろう。

で、景色を撮るのはうまいだけのエドワード・ズウィックかと思ったら、今年公開された「ブラッド・ダイヤモンド」がとってもすばらしかった。白人の苦悩と壮大な人間ドラマ、そして舞台であるアフリカの大自然が見事に溶け合ってすばらしい作品になっていた。彼がモチーフにし続けた、異文化で己を取り戻す白人というテーマがようやく実を結んだ傑作。本作は、その出発とも言える作品かも知れない。

死ぬまでにしたい10のこと

2008-01-22 | 外国映画(さ行)
★★★★ 2002年/カナダ 監督/イザベル・コイシェ

「もしも私だったら…を放棄した方が楽しめる」


医師から余命2ヵ月の宣告を受けた23歳のアン。病気のことは誰にも話さないと決心し、死ぬまでにやりたいことをノートに書いた彼女は、その一つひとつを実行していくのだった…。

これは、おとぎ話なんじゃないのかな。だから「もしも私だったら…」という思いが頭をよぎると、この作品の雰囲気を十分に味わうことは難しいのかも知れない。「私なら」と考えてしまう人が多いのは、タイトルのせいもあると思う。私だって思わずノートに書きそうになったもん。でもですね、あれあれ?と思ったきっかけは、「誰か他の男を夢中にさせること」って書いたら、すぐにお目当てのセクシーな男が現れるでしょ。それをきっかけに、そんなにうまいこといくかいなってくらい願い事が叶っていく。そこで思ったわけです。これはおとぎ話なんだと。

この物語のゴールは「死」なので、どうしても道徳的な判断をしてしまいがちだけど、そこはいったん横においておく。で、物語のありのままを受け止めながら見ていると、ささやかな日常、それも限られた時間の中で主人公が一つひとつの願いをクリアしていくことを微笑ましく見守ることができる。もうすぐ死んじゃう女の子なのに、いいなあ~なんて羨ましくなってくる。そう、この主人公は女性と言うよりも「女の子」と呼ぶべき少女性を持っている。これもおとぎ話だと思える一因。気持ちを落ち着けるために病院でお医者さんからキャンディもらうでしょ。こういうところも、実に少女っぽいの。

若くして結婚し、定職のない夫に子どもを抱えてトレーラー暮らし。すごくけなげに毎日を生きてる。なのに、余命2ヶ月。でも、彼女の願いは確実に叶えられていく。これは、まるでシンデレラじゃない?「むかし、むかし、あるところに貧しいながらも毎日を一生懸命生きている女の子がいました。でも、その女の子は不治の病になってしまいました。そこで女の子は死ぬまでに10の願いを叶えたいと思いました。すると魔法使いが現れて…」って感じかしら。

他の男の人と寝たことがないからしてみたい、なんてのも、考えてみれば実に子どもっぽい発想。だから、「もしも私なら…」という現実世界に引き入れずに、見る。そうすると、小さい女の子が夢を叶えていくようなロマンチックな雰囲気にあふれた映像にとても引き込まれる。願い事が叶うという女の子なら誰でも夢見るストーリーだけれど、お話の締めくくりは「そして、女の子は死んでしまいました」ってこと。だから、願い事が叶えられたことへの安堵と切なさがいりまじった素敵な余韻に浸れるのです。

スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師

2008-01-21 | 外国映画(さ行)
★★★★☆ 2007年/アメリカ 監督/ティム・バートン
<TOHOシネマズ二条にて観賞>
「悪夢を描けば天下一品のティム・バートン」


(ラストシーンについて触れています)
さすがティム・バートンの映像美でした。使用する色のバリエーションを極力抑えています。例えば、黄色やオレンジといった暖色系の色遣いはほとんど出てこない、それによって、真っ赤な血の色を際だたせています。そして、ベースにあるグレーや深緑、暗いブルーなどの色合いは、錆びた鉄を思わせるようなざらつき感を伴っています。

そして、血の色よりも、むしろ人物の青白い顔の浮かび上がりようが、気味悪い。この異様なまでの顔の白さ、まるでパペットのよう。これは監督お得意のストップモーション・アニメを本物の人間で実現させた作品ではないかしら。色遣いが「コープス・ブライド」にそっくりですもの。ミュージカル仕立てで、現実離れした異世界として作品を描けたことも、人形劇のようなムード作りに一役買っています。

哀れな殺人鬼、スウィーニーを演じるジョニー・デップが本当にステキ。本来ミュージカルならば、もう少しオーバーアクトであるのが正解かも知れません。しかし、スウィーニーは常に陰鬱です。ティム・バートンは復讐心がメラメラと燃え上がるような殺人鬼には敢えてしなかったのでしょう。妻と子供を奪った奴らに仕返しをする決意は固めているものの、既に何もかも失ってしまった抜け殻のような男がスウィーニー。だから、歌がうまくて、演技も大振りな役者は、監督が思い描くスウィーニーとはおよそかけ離れているはず。ジョニー・デップは抑えた演技ながらさすがの存在感で悲しき殺人鬼を演じきりました。お見事。歌もうまい。

ミセス・ラヴェットの夢想シーンが暗い物語に唯一明るさをもたらしています。極悪非道な悪人が、人並みの幸せを思い描くと言う、何とも滑稽でブラック・ユーモアたっぷりのシーン。浜辺でしましまの水着を着て憂鬱そうに海を眺めるスウィーニーに、思わず笑いがこみ上げる。ブラック・ユーモアと言えば、死体が流れ作業のように地下室に落とされるシーンも、実にティム・バートンらしい。「チョコレート工場」の流れ作業を思い出しました。

そして、あまりにもあっけないエンディング。若者と娘はあの後どうなったのだという疑問は残りますが、抱き合うスウィーニーとルーシーをどうしてもラストカットにしたかったのかも知れません。お互いの鮮血にまみれながら、ようやく巡り会った2人。「悪」と「ロマンチシズム」を常に融合させてきた、実にティム・バートンらしいエンディングではないかと思うのです。

明日の記憶

2008-01-20 | 日本映画(あ行)
★★★☆ 2005年/日本 監督/堤幸彦

「登場人物の心象風景を見せて欲しい」



決して悪い作品ではないと思う。ただ、深く心に残る物語だったかというと正直微妙だ。そもそも「働き盛りの男がアルツハイマーになってしまう」という軸を聞いただけで、これから展開される内容にある程度の想像はつく。主人公の挫折と苦悩、家族の献身、周辺人物のとまどい。その予想される展開を踏まえながらも、心に訴えかけるものを作らねばならない。難病ものって、作り手にとって実にハードルが高いテーマだと思う。

「泣かそう」というあざとさは本作にはない。渡辺謙も樋口可南子も熱演している。それでもぐっと来ないのはなぜか。奇しくも先にレビューした「いつか読書する日」と言う作品では、監督は執拗なほど人物たちの日常を追いかけていた。坂を登る、自転車を漕ぐ、バスに乗る、布団を敷く…etc。これらの繰り返される日常のシークエンスはいわば登場人物たちの心象風景とすら言える。しかし、本作には「心を表現する」シーンが乏しいのではないか。

セリフのあるシーンは役者の力量で何とかなる。しかし、セリフのないシーンで心に訴えるシーンがあるかと言うとほとんど思い出せない。皮肉なことに、自分が分裂して見えるというような今っぽい演出のシーンが印象に残っていたりする。堤幸彦監督はこの作品に正面から取り組み、オーソドックスな手法で物語を綴ろうとしたのだと思うが、「間」や心を映し出すシークエンスが少なくて物語が心に染みこむような瞬間にあまり出会えなかった。

妻の献身ぶりがきれい事に見える、と言う意見も多い。私も同じように感じた。キッチンで怪我をして叫ぶシーンをさっ引いても違和感は残る。彼女には彼女なりの心の移り変わりがあったはずで、その心模様が見えてこない。これまた皮肉なことに樋口可南子のシーンで一番心に残っているのは、店長になった彼女が運送業者にぴしゃりとクレームを入れているところだったりする。「専業主婦が仕事なんてムリ」と親友に馬鹿にされていた彼女が仕事を通じて成長したことがかいま見えるのだ。

及川光博演じる医師、そして上司に病気の話を告げた部下の田辺誠一。彼らのような周辺人物と主人公の関係性が中途半端なのもひっかかる。もっと後半の展開にも絡んできて欲しかった。香川照之以外はみんな彼の前を通り過ぎていくだけのように感じたもの。だから、いっそのこと夫婦ふたりの心模様に全面的にスポットを当てても良かったんじゃないかと思うのだ。

陶芸教室の木梨憲武が料金をごまかすシーンが出てくるんだけど、逆にこういうところでほっとしちゃった。だって、何もかもきれい事で済まないと思うから。現実ってもっと残酷で不条理なもの。以前レビューした「海を見る夢」という映画では、病気の主人公の前に毎日自分の愚痴ばっかり話して帰る自己中女が登場するのだけど、これがすごく作品の味になっているのね。

山あり、谷ありの物語での谷の部分において観客を驚かせたり、困惑させたり、怒らせたりする意外性というのは物語に深みを与えると思う。「明日の記憶」においては、そういう意外性は出現しない。それが全体的な深みのなさ、という実感に結びついているように思う。

いつか読書する日

2008-01-19 | 日本映画(あ行)
★★★★★ 2004年/日本 監督/緒方明

「秘め続けた思いが解放される時、切なさが洪水のように押し寄せる」



小さな田舎町を舞台に描かれる冴えない中年男と中年女の秘めた恋。熟年層にウケた、なんて話も聞きつつ、ちょっと斜めの目線で鑑賞。…がっつりやられてしまいました。非常に丁寧に丁寧に作られた映画です。ウケた、とかウケないとか、そういう物差しで批評するのはこの作品に対して失礼。

玄関のポストに牛乳を入れる時に放たれる「コトコト」と言う瓶の揺れる音が、思い続けてきた女の来訪を知らせる。それは、毎朝毎朝聞き続けてきた音だった。そんな、実に繊細な描写があちこちで見受けられ、ふたりの生活を足下からとらえていくことで味わいのある物語が紡がれてゆく。それは、人物の身の回りにも徹底的に表現されている。

岸辺一徳演じる槐多(かいた)を、監督は実にリアルな五十代の男として描いている。肌着のシャツをパジャマズボンに入れたその姿は、主人公が何十年も思い焦がれる男の姿とは到底思えない。しかし、このどこにでもいそうな平凡な中年男女の日常のリアルさが際だてば際だつほど、彼らに寄り添う私がいた。

ふたりを結びつけているものは、「過去のわだかまり」。そして、その時に閉じこめられた恋心。ずっと、ずっと、それを引きずっている。それは、実に不器用で無様な生き方。でも、そんな生き方しかできない二人のキャラクターが細やかな演出を通して、情感豊かに浮かび上がってくる。妻といる時は穏やかな槐多が、児童虐待を目の当たりにして感情を爆発させる。それまで何があろうと、淡々と機械的な言動しか見えない槐多だったのに。そして、妻が亡くなり、美奈子に声をかけられてからは、まるで人が変わったような軽妙な言葉を発する。彼が妻の前でいかに感情を押し殺して生きてきたかがよくわかる、岸辺一徳の演技がすばらしい。

そして、静かに進む物語だからこそ、橋の上での呼び声が止まっていた時間を動かし始め、幼いふたりが互いに求め合うような、ぎこちなくも激しい抱擁までの一連のシークエンスが胸に刺さる。過去に残してきたものを今叶える、そんな願望は誰の胸にでもあると思うから。

美奈子の生き方に共感できるかと言われるとそうじゃない。私には、美奈子にとっての牛乳配達は一種の“行”のように見えた。何十年も前の男のことが忘れられない馬鹿げた執着をほんの少しでも忘れる時間が、“行”にも似た坂道のアップダウンだったのではないか。そして、そういう生き方しかできない自分を美奈子本人も好きではなかったんじゃないか、と。

ラストの微笑は、そんな自分から解放された喜びなのかも知れない。こうやって言葉にすると、ずるいし、暗い。しかし、引きずり続けてきた過去が一瞬でも輝かしい時間になったことで美奈子はこれからの人生を生きていける。予期せぬあっけない幕切れに驚きながら、輝きの後の切なさにいつまでも胸を締め付けられた。

ブエノスアイレスの夜

2008-01-17 | 外国映画(は行)
★★★★ 2001年/スペイン・アルゼンチン 監督/フィト・パエス

「私に触れられるのはあなただけ」


舞台はアルゼンチン。声でしか快感が得られない中年女がうら若き男娼と出会う。演じるのはセシリア・ロスにガエル・ガルシア・ベルナル。やがて、ふたりは禁断の関係に陥る…。と聞けば、これで面白くならないわけがないでしょう、という大前提があるんですね、この映画には。で、結局その膨らんだ期待感をそれ以上膨らませるには、もう一歩及ばずという感じなのです。もったいない。

主人公カルメンが背負っている過去の傷について映画が多くを語らないのは、アルゼンチン人なら誰もが共有している忌まわしい過去だからでしょう。貴族の娘であったカルメンは、軍事クーデターにより1年間の投獄と拷問を受けた。

彼女の今の状況、つまり他人に触れられることを極端に恐れ、他人のセックスを覗いたりポルノの朗読でしか性的快感を得られないことは、おそらく牢獄で性的な屈辱を受けつづけたことによるものだろうと想像できる。なんと哀れなことでしょう。誰かに抱きしめられたいというのは、女性の根源欲だと思うもの。その哀しさはセシリア・ロスの演技から痛いほど伝わってきたし、ガエルは(その後の展開を予想させる)幼さの残る素朴な若者を好演している。

結局、誰かに触れられることの拒絶反応をカルメンは我が息子によって克服するわけで、禁断の愛というよりむしろ見えない糸によって導かれた母と息子の奇跡のような物語なのだと思う。ラストシーンの「悲しい結末じゃない」というセリフは、私はとても納得。だって、グスタボによってカルメンはトラウマから解放されたんですもの。それに「オールドボーイ」でも書いたけど、親子による姦通と言うのは究極的に誰かを欲するということの実にシンボリックな表現手段だと思うし。そして、この場面のセシリア・ロスの演技がすばらしい。愛するグスタボに触れたいのだけど、女としてではなく、母として触れなければならないその葛藤が、出したり引っ込めたりする手の動きで表現される。それが切なくて、切なくて。この作品は、このラストシーンでずいぶん救われていると思う。

で、その「もう一歩感」とは、カルメンと周辺の人物との関係の描き方が中途半端なところ。特に妹の存在が思わせぶりな描き方で不満が残る。20年前に祖国を出て行ったきりの姉に対し、妹は複雑な心境にある様子が見て取れる。「母と息子」という関係に加えて「姉と妹」のいびつな関係をより深く描けば物語にもっと深みが出たんではないだろうか。父や母、カルメンをずっと好きだった医師など、大きな傷を抱えたカルメンと彼らの間に流れる溝を見せてくれればもっと満足できる1本になったと思う。

ガエルファンの目線で語れば、セクシービーム満載で嬉しい限り。売り込み中のモデルってことで、セミヌードで撮影されたポスターがでてくるんだけど、ガエルファンはある1点に目が釘付け(笑)。恥ずかしくて書けません。あのポスターは欲しいなあ。

トーク・トゥ・ハー

2008-01-16 | 外国映画(た行)
★★★★★ 2002年/スペイン 監督/ペドロ・アルモドヴァル

「キワモノを美に昇華させたアルモドバルの力量」


これは、アルモドバル作品で一番好きかも知れない。彼独特の美意識と倒錯の世界がてんこ盛りで。ビナ・バウシュのダンスシーンやカエターノ・ヴェローゾのライブシーンなど物語を彩る芸術もすばらしいし。特に私は恋人の死を嘆く、カエターノの繊細で壊れてしまいそうな優しい歌声にノックアウト。劇中のライブでこれほどステキなシーンってそうそうない。

それから、色鮮やかな映像。アルモドバル監督は、元々色遣いがすごく上手だけど、やっぱりスペインという国そのものが持っている色彩感覚があるからこそできる技なんだろうなと思う。元々スペインの街並みや建物に深みのある黄色と赤がふんだんに取り込まれているのよね。例えば、病院の廊下でマルコがぼんやりと座っているというシーンでも、壁の色が黄色でソファが赤茶。壁とソファの境界線をスクリーンのセンターに持ってきてマルコを左側に座らせる。そのトリミングの仕方がとても上手で色のバランスが絶妙。

闘牛士の衣装もキレイだし、寝たきりのアリシアが身に付けるバレエの衣装のようなシルクのスリップもキレイ。もちろん、アリシアの裸身も。特に豊かな乳房をとらえるショットは、女の私でも息を呑んじゃう。とにかく美しいものが次から次へと現れる。その「美しいもの」たちと共に映し出されるからこそ、ベニグノの愛が純愛に見える。もちろん、ベニグノの行為に嫌悪を持つ人もいるだろうけど、結局この作品はそれを論じたり判断するために作っているのではないんだと思う。

タイトルにもあるように「語りかけること」。相手が何の反応も示さず、聞いてくれているのかもわからない。それでも静かに語り続けることの意味深さを伝えているんだと思う。ビナ・バウシュの前衛舞踏も観客の心に語りかけるようなダンスだったし、リディアに語りかけることのできないマルコは結局彼女と別れた。また、アリシアがマルコに声をかけることで何かが生まれる予感が。そして、マルコは「語ることは簡単さ」としめくくる。

囁くように優しく語りかけること、ひそやかに誰かの心をノックすることで生まれる様々な心模様をアルモドバルらしい映像美で見せる。美しさ、作品の深み、先を知りたくなる展開。全てが秀逸。本来キワモノと見なされるアルモドバルの作風がしっかり「美」に昇華されているのがすばらしいと思う。