Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

シークレット・サンシャイン

2009-02-27 | 外国映画(さ行)
★★★★ 2006年/韓国 監督/イ・チャンドン
「意識の拡散」 

凄い映画なんですが、凄いだけに咀嚼できない部分において煮えきらなさが残ります。観念的なメッセージとリアルな人間ドラマが融合できなかった。そんなむずがゆい感じです。

この映画はシネというひとりの女性を中心に据えた物語だと思うのですが、その割には中盤部の信仰を取り巻くエピソードの主張が強すぎるんですね。ややもすると、宗教の無力さ、矛盾を描き出した作品と取られかねない。この部分があまりに突出していることによる違和感とでもいいましょうか。

なぜ、これを違和感に思うかと言うと、それまでの描写において、意味深だったり、敢えて語らないと思われる描写が多いからなのです。私は最後までシネという女性の「実像」に触れることができませんでした。いわゆる本当のところが見えない、という感覚です。彼女が他者との関係をうまく築けない、やや風変わりな性格の持ち主であることは察することができますが、それ以外の心情は見ているものが想像する他ないという語り口です。密陽への移住の本当のところもわかりませんし、息子とどれほどの信頼関係が築けていたのかも、ほとんど描写されていません。それは、監督が敢えてそういう演出にしているのだろうと思います。ですから、私は語られていない向こう側にあるものをいろいろと推測したり、何かのメタファーかと考えたり、そんなピント合わせのような作業ばかりしてしまいました。

その作業の発端となったのは、冒頭座席に佇む息子の陰鬱な表情や、かくれんぼをしていないフリをする。それが誘拐事件の予兆として描かれている。こういう思わせぶりな演出です。何かを予測せよ、というサインのようです。

また、その実像がわからないのはシネ以上に、ソン・ガンホ演じる社長ジョンチャンです。教会に一緒に入ってしまうほどの純粋さは愚鈍の裏返しなのか、激しい恋心なのか。これもまた、観客が推量するしかありません。しかも、これだけの大きな事件が起こっていながら、ふたりの関係性はずっと平行線です。よそ者としての不安、子を亡くした寂しさから、彼に対して何らかの心情の移り変わりがあってもよさそうなものですが、この両者の間にもドラマチックなやりとりはあまり描かれないのです。その全てがラストカットに込められているのでしょうか。その割には弱いという印象です。

面会の一件で絶望の淵におちたシネが何事かを行動に移して終わり、というくらいであれば、その語らない演出を余韻として楽しめたと思うのですが、結構ここから引っ張るんですね。シネという不幸な女にとことん寄り添う作品として、この尺の長さというのもわかるんですけど、どうも見えない部分を埋める作業が多くて、衝撃的なんですけど、本質の部分に果たして私は触れることができたのか。そんな宙ぶらりんな気持ちがやたらと残ってしまいました。



譜めくりの女

2009-02-26 | 外国映画(は行)
★★★★☆ 2006年/フランス 監督/ドゥニ・デルクール
「不合格のその時から復讐は始まっていたのか」

ピアニストを夢見る少女メラニーは、コンセルヴァトワールの入試に臨むが、審査員アリアーヌが演奏中にファンにサインをしてしまう。気がそがれて試験に失敗してしまったメラニーはピアニストの道を断念。そして、数年後アリアーヌの家に子守として住むことになるのだが…


説明的な台詞や演出を排した作品で、突き詰めると理解できない部分も多いと思われるのですが、私は大変気に入りました。メラニーの復讐そのものが理解不能と捉える方がいるのも理解できます。つまり「そこまでもしなくても」ということ。しかし、人間という生き物は「そんなこと」で激情したり、どん底まで墜ちてしまうものです。パク・チャヌクの「オールドボーイ」もそうでした。

それに、少女メラニーにとって、あの数分間は全てを賭けた唯一無二の時間だったのでしょう。肉屋の娘。おそらく様々な偏見の目を浴びつつ、ピアノに向き合ってきた。そんな彼女は自分の才能だけを頼りにしていた。そして、母からの過大なプレッシャー。試験に合格すれば、全てが変わるのだと信じていた。

実は私も12歳の時、悲壮な決意のもと、ある試験を受けたことがあるのです。私が合格することで家族は救われるとすら信じていた。30年経った今でもあの時のプレッシャーを時々思い出します。ですから、メラニーの気持ちが痛いほどわかるのです。

譜めくりがきちんとできるからと言って、あれほどの絶大な信頼を得るものだろうかとも思わされますが、その伏線こそサインの一件です。演奏家の心は繊細なのです。譜めくりによってアリアーヌが心を開いていくことと、サインをしている光景がメラニーの心を乱したことは表裏一体。

全編に渡って余計なもののないシンプルで美しい映像です。黒いドレスを身にまとい、豊満な肢体でアリアーヌに対峙するメラニー。まさか、アリアーヌが恋愛感情まで抱いてしまうとまでは予測できませんでした。この辺はフランス映画らしい官能的な表現が楽しめますし、脚本も大変スリリングです。

見終わって想像する。母親に「全ては順調」と報告していたメラニー。復讐劇はおそらく母娘の計画でしょう。いや、この数ヶ月だけではなく、2年前の自動車事故も彼らの仕業ではなかろうか。青空の下、しっかと前を向いて歩くメラニーの眼差しから、様々な想像が掻き立てられました。

俺たちフィギュアスケーター

2009-02-24 | 外国映画(あ行)
★★★★ 2007年/アメリカ 監督/ウィル・スペック、ジョシュ・ゴードン
「意外と硬派なのか?と騙されてしまう徹底したおバカ演出」

男子フィギュア・スケート界の2大スター、チャズとジミー。激しいライバル心を燃やす2人は、世界選手権の表彰台で大乱闘を繰り広げ、金メダル剥奪、永久追放の憂き目に。それから3年半後、前代未聞の男子ペアとしてペア競技に出場することを思いつくが…。


大体「股間をつかんでリフト」なんて馬鹿げた発想からしてお下品だってのは、予想が付いていたんですけれどもね。あんまり、みんなが下品下品って言うもので、私はダメかと思ってましたが、あらら面白いじゃないの。許容範囲です。この「下品」の許容レベルって、本当に個人差があると思うんですよね。だから、一種の賭けみたいなもんです。「馬鹿馬鹿しくて見なきゃ良かった」になるか、「意外と爆笑できた」ってなるかは、蓋を開けてのお楽しみってことで。今回は賭けに勝ったような気分です。

ただ、子供と見るのは無理です。その点はしっかりお伝えしておきます。「スキージャンプ・ペア」が好きな小学生の息子と見ようかと思いましたが、止めて正解でした。

男子ペアの大技演技はどれもこれも爆笑させてもらいました。あんなものをクソ真面目に作っている製作者魂は凄い。着ぐるみが燃えたりするセンスは、河崎実監督を彷彿とさせるのですが、バカ道は貫けても、エロバカ道になると、日本で面白いものを製作するのは難しいです。どうしても、おネエちゃんのオッパイとか幼稚な方に走ってしまうのが頂けない。

お下劣よりも、むしろ私が驚いたのはブラックさでしょうか。確かに北朝鮮のビデオには度肝を抜かれます。しかし、セックス依存症、ストーカー、加熱するスポーツ中継、睡眠薬をもどすマリリン・モンローなど、アメリカを代表する現象が次々と笑いの対象になっている辺り、意外と硬派な作品ではないかとすら思わされるのです。まあ、それもこれもクソ真面目な作り込みのなせる技かも知れません。特典映像まで徹底したおバカ演出。恐れ入りました。

コーストガード

2009-02-21 | 外国映画(か行)
★★★★ 2002年/韓国 監督/キム・ギドク
「融合できなかったリアルとファンタジー」

海兵隊のカン上等兵(チャン・ドンゴン)は、ある夜、酒に酔った民間人を北の工作員と見誤り射殺してしまう。 以来、カン上等兵も、撃たれた男の恋人ミヨンも、精神を病んでしまう。四六時中基地に現れるふたりにかき回され、海兵隊は混乱を来すのだが…。

純粋な心の人間が何かの過ちをきっかけに精神を病んでいく。その背景に軍事問題が絡んでいるというのは前作「受取人不明」と似ています。この「受取人不明」という作品はずいぶん前に見たのですが、あまりに凄い作品だったので、未だに感想が書けずにいます。

ギドク作品の醍醐味は、人間のエゴや欲をねっとりと描き出す一方で、物語の進行ぶりは非常に幻想的でお伽話のような趣があることだと思います。カン上等兵の執拗さや軍隊のメンバーが行うミヨンへの酷い仕打ち。人間の弱さや愚かさが迫ります。タチが悪いのは、ギドクは地獄へと転がり落ちるのも「自業自得」と観客に思わせていることです。カン上等兵は日ごとスパイを撃ち殺すことばかり考えているし、ミヨンは自ら危険地域に踏み込んでいるし。しかし、そんな彼らを裁くことはできないんだよ、と観客は試されているような気がします。

そして終盤、リアルとファンタジーの境目がなくなってゆきます。カン上等兵は本当にここにいるのか、それともメンバーたちの恐怖心がおびき寄せた幻か。私は、このラストの展開、もう少しうまく昇華できなかっただろうかと残念に思います。ここに幻想を持ち込むのなら、ミヨンの物語にも幻想を持ち込んで、バランスを取れば良かったのかも知れません。いずれにしろ、海兵隊メンバーもまた狂気に陥ってゆく様がもっと巧く描かれていれば、余韻の残るラストになったと思うのです。

精神を病んだミヨンが海岸でひとり遊びをするシーン。海に打ち込まれた手彫りのトーテムポールが印象的です。ギドクはこういう独特の絵作りをするのがうまいですね。そもそもあるものを使っているだと思うのですが、映画用にしつらえたのかと思わされます。いつもの魚も健在です。生きた魚を頭から丸かじりなんてのも、見ていて思わず泣き笑いですね。



あなたと私の合言葉 さようなら、今日は

2009-02-19 | 日本映画(あ行)
★★★★ 1959年/日本 監督/市川崑
「娘の鏡」

年老いた父親を残して嫁げはしない。そんな娘の鏡を演じる若尾文子がとってもキュートです。そして、おねえちゃんと慕う関西出身の親友が京マチ子。

本作は、この二大女優の掛け合いを楽しむ作品と言っても過言ではありません。すばやいカットバックでセリフが終わったらすぐ次のセリフ。ポンポンと勢いよい言葉の応酬がまるで漫才のようです。若尾文子と京マチ子の息もぴったりです。

若尾文子演じる和子の役どころが「カーデザイナー」。この時代にこの職種って、もの凄い最先端ですよね。いわゆる一握りのキャリアウーマン。そんな彼女が家ではきちんきちんとご飯を作り、家事を切り盛りしている。その様子のあまりの気負いのなさに軽くショックを覚えたりして。

父親役の佐分利信。私のイメージでは悪玉なんですけど、本作に限っては娘思いの優しい父親がぴったりはまっています。父親のために…と結婚をためらっているうちに恋は失ってしまう和子。でも、物語はちっともセンチメンタルにならずに、新しい希望に向かって決意を新たにする和子を描き出します。ラスト近く、海外へ行くかどうか悩む和子と父が交わすハートフルで軽妙な会話がとても良かったです。


サイドカーに犬

2009-02-18 | 日本映画(さ行)
★★★☆ 2007年/日本 監督/根岸吉太郎
「主役はどっちだ」


小4の薫という少女が過ごすひと夏の物語。夏休みのはじめ、母が家を出て、その数日後、ヨーコさんという若い女の人が家にやってくる。母とは対照的に大ざっぱで破天荒なヨーコさんは、父の恋人らしいのだが…。

根岸監督は好きだし、プロットも面白そうだし、ずっと観たかった作品なんですが、大きな引っかかりがありまして。それは、私は竹内結子が苦手だということ。で、嫌な予感は的中。

離婚した竹内結子の復帰第一作という色合いが濃すぎるんです。だから、最初の1時間くらいはイライラして仕方ありませんでした。はすっぱな女を演じることによるイメチェンのアピールぶりが鼻につきます。ソバージュヘアも似合っていないし、ぶっきらぼうな言い草や演技も魅力的ではないし。困ったなあと思っていたら、後半部、作品の軸足が少女薫にシフトされてから、俄然面白くなりました。

サイドカーに乗った犬を見て、自分を重ね合わせる、という薫の心情がとても子供らしくて切なくて、いいですね。風を切って走る。運転するのは自分を守ってくれる大人で、その姿を自慢気に大勢の人に見て欲しい、という。ですから、本当は母が出て行ってしまう前半部の薫の心情にもっと感情移入できれば良かったんですけど、何せヨーコさんばかりが気になって、気になって。

この作品の主役は、薫ですね。最初からそのスタンスで観れば、もっと面白くなったと思わずにはいれません。どこへ行くともわからぬひと夏の旅。大人のワガママに付き合わされているのか、はたまた、自分のためにヨーコさんはバスに乗ったのか。とまどいと不安に揺れる薫に、幼い頃迷子になった時の自分を重ね合わせてしまいました。ほんの少しだけ、宿屋の婆さんとして樹木希林が出てくるのですけど、これが舞台あらしなんですね。彼女の凄さまじい存在感に驚きを感じつつ、ややもすると作品のトーンを狂わせてしまう危険性もある。端役で出てもらうには、大変難しい女優さんだな、と痛感しました。




20世紀少年<第2章> 最後の希望

2009-02-17 | 日本映画(な行)
★★★☆ 2009年/日本 監督/堤幸彦
<TOHOシネマズ二条にて鑑賞>
「トヨエツひとりで解決できそうなんですが」

私は第一章より面白かったです。どうやら、原作10巻程度をまとめているようなので、はしょりまくっているし、繋がってないんでしょうね。私は原作を読んでいないのでわかりません。いずれにしろ、荒唐無稽ぶりがますますパワーアップしているのですが、そんなのすでに第一章からして無茶苦茶でしたからね。もうこれはありえない漫画世界と割り切ってみれば、何とかディテールの部分で楽しめます。

例えば、小池栄子のイッちゃってるところが怖いとか、ともだちランドで働くやつらの動きが面白いとか。「ともだち」の部屋の昭和グッズはよく集めたなあ~とか。まあ、話はどういう話か、大体わかればよろしい。って程度でしょう。全ては「ともだちが誰か」というところに集約されているわけです。「ともだちは誰か」で60億円もかけて、3部作作るなんて、本当に無茶苦茶で、別の意味で後世に名を残す作品になるかも知れません。

さて、オッチョを演じる豊川悦司が第一章以上においしいところをがさーっとかっさらっていきますね。ファンとしては、もうこれだけのために観ているようなもんです。彼の活躍ぶりを観ていると、オッチョひとりで解決できそうです。もうケンジくんは出てこなくていいよ、と現金なことを思いつつ映画館を後にしました。


悪夢探偵

2009-02-14 | 日本映画(あ行)
★★★★ 2006年/日本 監督/塚本晋也

「初めて楽しめた」

俳優塚本晋也は好きなんですけど、どうも監督作品は苦手。金属くさいエログロ描写は、観る人を選ぶよな~なんて思っていたのですが、よぉく考えるとクローネンバーグは好きとか言ってて、アタシ矛盾してるじゃん。なんでだろう、と考えるのだけど、よくわからない。おそらく、クローネンバーグの作品は少し距離を置いて観察するように楽しんでいるのだと思う。しかし、塚本作品は邦画なだけに、痛い描写やキモイ描写がよりリアルに感じて、受け止められないからかな。

そんな私が松田龍平狙いで観たこの作品。なんだか、塚本作品にしては、きっちりエンタメしちゃってるじゃないですか。「2」ができたのも納得。悪夢の中で殺されると言っても、具体的な描写は何も出てこんのです。セピア色の映像、ダッダッダと何者かが近づく音、カメラがぐわんぐわん揺れて、ガチャガチャ、ズドーン、って気づいたら自分自身をめった斬りしてる映像。もう、無茶苦茶ですよね。こういう強引なノリってのは、いつもの塚本ワールドですけど、どんなに突飛がなくても、どんなにワケわからん映像でも、なんせ「夢」だしね、という理由で受け止められます。これが大きい。

スプラッター系ホラーは全く駄目なので、自分で自分を切り刻むシーンはキツかったですけど、超後ろ向きの悪夢探偵が犯人とどう決着を付けるのかを見届けたくてがんばりました。塚本作品を見終わって「楽しめた」という実感は初めてかも知れないですね。いつもは独特の強引なやり口にまるめこまれて、強制的に最後まで見せられてしまったという気分にさせられることが多いんです。じゃあ、最初から観るなよって、ことなんですけど(笑)、怖いもの見たさというか、嫌なものでも蓋を開けてしまうような感覚で観てしまうんですね。それにしても、塚本晋也は監督・脚本・撮影までやってるんだから、やっぱり才能豊かなんだなあ。

4ヶ月、3週と2日

2009-02-12 | 外国映画(や・ら・わ行)
★★★★☆ 2007年/ルーマニア 監督/クリスティアン・ムンジウ
<2007年カンヌ国際映画祭パルムドール受賞>

「果たしてオティリアは嵌められたのか」


1987年、チャウシェスク独裁政権末期のルーマニア。妊娠したルームメイト、ガビツァのために、当時は違法行為である中絶手術のために奮闘するオティリアの一日を描く。

予定のホテルは予約できていない。医師との対面では本人に会う約束だったと不信に思われる。中盤までは、手際の悪い友人のために奔走するオティリアが気の毒でたまらなく、なぜそこまでするの?という思いに胸を締め付けられます。ところが、エンディング近く、うるさいから電話はバスルームに置いておいた、などと言うあたりから、オティリアはガビツァに嵌められたんじゃないか、という不安がずんずんと大きくなる。そして、ラストシーン、ガビツァが注文した料理が明らかになり、愕然としました。あのオティリアの表情は一体何を物語っているのか。

大変重い題材ですが、まるでサスペンスのような一遍でもあります。それが、作品の力強さでもあるのでしょう。ガビツァは悪気はなくふてぶてしい性格なのか、はたまたオティリアなら何としかしてくれるはずという打算の元の計画なのか。もし、後者であるならば、資金不足の末に医師が要求することも予測していたとなり、何としたたかな女性だろうと思わずにはいられません。しかし、それも時代を生き抜くために必要な力ということでしょう。いずれにしろ、ガビツァという女性の人間性は本編では明らかにされません。

そして、それはオティリアについても同様です。洗面室で嘔吐しているシーンを見れば、彼女も妊娠していると考えられるのですが、2度ほど鼻血を出すシーンも出てきます。もしかして、何か病気を患っているのかも知れません。孤独な女性同士、連帯感や正義感で行動しているようにも見えますし、何かにせき立てられるように任務を遂行しているようにも見えます。

いずれにしろ、「なぜそこまでするの」「なぜそんな態度でいられるの」。それらの答は全て観賞者の想像に委ねようとしている。そのため1日の出来事としか描いていないのだと思います。この監督の狙いは見事だと思います。準備は整ったというプロローグから二転三転する展開、そしてあせり、落胆へと実にハラハラさせられる展開。そして、ドキュメントタッチの映像、BFでのパーティでの固定カメラなど、オティリアの焦燥感を見事に描き出しています。

とはいえ、諸手をあげてすばらしい、とは言いづらい。やはり、女性として中絶にまつわる描写が痛々しいのです。「フランドル」といい、昨今のカンヌ受賞作品は女性にとって見ていてつらくなるような作品ばかりです。

ブレス

2009-02-10 | 外国映画(は行)
★★★★☆ 2007年/韓国 監督/キム・ギドク
「自己再生プログラム」


85分。むちゃくちゃ無駄がないですね。本当にシンプル、かつ心に刻み込まれる作品。死刑囚を愛してしまう女の話、ということで「接吻」と非常に設定が似ているので見るのをややためらっておりましたが、違う部分もあり、共通する部分もあり、大変面白かったです。

共通するのは、追い詰められた女は死の匂いのする男に惹かれてしまう、ということでしょう。およそ、人間という生き物は「一体感」を追い求めるのだと痛感します。この一体感は、当事者にしか理解し得ない感覚を共有したいということだろうと思いますが、その媒介物として「死」ほど甘美なものはないのだろうということです。それはまた、裏を返せば大変イージーでずるい選択でもあります。死刑囚の男の前では、行動こそ違え、本作のヨンも「接吻」の京子も、あまりにも自己中心的です。しかし、自ら大きな犠牲を払った「接吻」の京子に比べると、本作のヨンの方が何倍も残酷でずるい女だと言えるでしょう。見ようによっては、ヨンにとって死刑囚チャンは、「自己再生の道具」とも捉えられます。明日死ぬとわかっている男と交わることで、彼女は息を吹き返すのですから。

さて、死刑が秒読みの男の前で、なにゆえ四季劇場?という突拍子のなさが大変ギドクらしい。もちろん、追体験というのはわかっていますけれども、唐突ですよね。こういうシーンはいっそのこと笑っちゃっていいんじゃないでしょうか。もはや今度のギドク作品のヘンテコシーンは何だ!?というのが、私の楽しみでもあります。「非夢」で「ええっ、あのオダジョーがこんなことを!?」なんてシーンがあったらいいのになあ。

本作で少々引っかかるのは、監視モニターの男の存在(しかも、これは監督自身らしい)ですね。自分たちだけの世界と思っている出来事も実は誰かの手に委ねられている、という解釈ならばなるほど「神の視点」のように見えなくもありません。しかし、これまでのギドク作品を見て、私は彼自身が自分を高みに置いてしまうような人ではないような気がします。いいところに来るとブザーを押したり、夫にわざと激しいキスシーンを覗かせたり、ただのスケベ爺に見えなくもない。「死」を媒介に触れ合う魂がテーマでありながら、それを覗き見して楽しむ、悪趣味極まりない通俗的なものを裏表の関係として置きたかったんではないか、と思えるのですがどうでしょう。または、北野武的視点に立って、すっかり巨匠扱いですけど、私自身はこういう男なんです、という監督自身のアピールなのかも。この男は何者かを語ることの方が、案外本筋よりも面白いのかも知れないですね。

レッスン!

2009-02-08 | 外国映画(や・ら・わ行)
★★★☆ 2006年/アメリカ 監督/アントニオ・バンデラス リズ・フリードランダー
「ちょっとうまくまとまり過ぎかな」

不良高校生を社交ダンスを通じて更正させるという実話に基づいた作品。アントニオ・バンデラスの颯爽としたダンスぶりは確かに素敵だし、ヒップホップダンスの高校生がどんどん社交ダンスがうなくなるのは、見ていて楽しかった。でも、ちょっと私にはうまくまとまり過ぎなのが物足りない。

洋画で言うと「リトル・ダンサー」「サルサ!」邦画では「フラガール」「Shall we ダンス?」など、好きなダンス映画はたくさんある。これらの作品が好きなのは、主人公たちはダンスと引き替えに何かを失ってしまう、ということ。つまり、物語の中で何かを捨ててまでダンスを選択する、という葛藤があるのね。「リトル・ダンサー」は炭坑の街を捨てるし、「サルサ!」では白人のアイデンティティを捨てる。「フラガール」では、しずちゃんが父を看取ることよりも舞台を選択する。彼らの「それでも私は踊りたい!」という決意が見事な踊りと相まって、感極まる瞬間を呼び起こす。

この「レッスン!」でも悪い仲間を捨てて、ダンス会場に駆けつけるというくだりがあるんだけども、その前の葛藤の部分の描き方がとても弱いので、沸き立つような感情があまり起こってこない。本作が自分自身に価値を見いだせない少年少女がダンスを通じて自信を取り戻すという成長物語だと言うのはわかるんです。でも、それならなおさらもっと生徒1人ひとりの生活ぶりや心情を丁寧に描き出して欲しかったなあというのが私の実感。

教師であるデュレイン自身についてもしかりで、彼らに打ち込むあまりに本業であるスクール生が全員辞めてしまうとか、好きな女性の理解が得られなくて別れてしまうとかそんなことはないのね。あったとしても、フロアで踊る黒人たちを偏見の目で見つめる白人のおぼっちゃまたちがいざこざを起こすくらいなもんで。私はこの対立関係を中途半端に入れてしまったことが、生徒1人ひとりの心情に迫れなかった要因ではなかろうかと思う。

デュレイン自身も彼らとの交流を通じて何かを乗り越えるという展開になれば、相乗効果でもっと面白くなったと思うのです。ラストの大団円もダンス映画としては王道でしょうね。でも、この大団円の宴の後に、心に何かがチクリと残る。そういう余韻のあるダンス映画の方が私は好きかな。


紀子の食卓

2009-02-07 | 日本映画(な行)
★★★★★ 2005年/日本 監督/園子温
「役割を捨てよ」

17歳の平凡な女子高生紀子は、退屈な田舎の生活や家族との関係に息苦しさを感じ、東京へ家出。“廃墟ドットコム”というサイトで知り合ったクミコを頼って、彼女が経営するレンタル家族の一員となる。一方、妹・ユカもまた、紀子を追って東京へやってくるのだが…



人生や生き方に「役割」という概念を持ち込んだのは一体どこのどいつだろう。妻の役割、母の役割、そんなものクソくらえだ。人はただ生きている。どう生きたいとか、どんなことをしたいと言う前に、この世に放り出された一個の生体に過ぎない。「役割」を演じることで獲得できる安心感なぞ、己を支えてはくれやしない。なぜ、それに気づかないのだ、紀子よ、ユカよ。自分の「役割」とは何か、と問うたその瞬間に人生は色を失ってゆくというのに。

父・徹三に「自殺サークルなど存在しない」と説明する若い男のセリフは全て詭弁だ。人を食ったように笑みを浮かべて「輪ですよ。」などどほざく。一生逸脱することのないぐるぐると回り続ける輪の中で生きることに意義を見いだして何の価値があろう。しかし、我々大人たちはあの若い男の笑みを消す術を知らない。そのことに打ちのめされる。本来、一人一人の人間が直観的にわかっていることなのに、なぜ人間はこうも鈍くなってしまったのか。「どうして人を殺してはいけないのですか」のあの質問に揺れた頃から、何も社会は変わっていない。

「役割」を持たない自分に怯えるのは、思春期の少女だけではない。レンタル家族を欲しがる人間は後を絶たない。孫から慕われる祖母を演じ、娘から愛される父を演じる人々。「はい、時間です、また今度」。今目の前で繰り広げられていた空虚な食卓と、振り返って見る我が家の食卓の一体何が違うと断言できる?思春期の子どもを持つ親なら絶望してしまうかも知れない問題作。我が子はこうなりませんように、と願ってしまう行為もまた、「役割」という名の呪縛に絡められていることに気づかされる。

吹石一恵、つぐみ、吉高由里子。若手女優陣の存在感が光る。そして、光石研。この人は本当に手堅い。どんな色の作品に出ようとがっちりと基礎を固める。作品の揺らぎのなさは彼の演技の賜だといつも感心させられる。


椿三十郎

2009-02-05 | 日本映画(た行)
★★★☆ 2008年/日本 監督/森田芳光
「何と申していいのやら」

恥ずかしながらオリジナルは見ていません。トヨエツ見たさに鑑賞。

壮大なコント、という感想の方がいて、まさかね、と思っていたら、あららほんとだ。まるで小学生の学芸会みたいなんです。この佇まいが。セリフはキチンと、はっきりと。演技はみんなにわかるように少しくらいオーバーで。セリフを言う時は、他の人とカオがかぶらないように。劇となるともじもじしてしまう子供たちへのお手本ビデオみたいなんですよねえ。

だんだん話が進む内にそこそこ面白くはなってきます。つまり、物語そのものの面白さ、脚本の良さはわかる。それでも、このとってつけたような、ぷかぷか浮きまくっている感じはなんざんしょ。それはね、おそらく導入部分の違和感をずっと引きずってしまって、作品世界に入り込めないからだと思います。

つまり、冒頭のシークエンスです。

窮地に陥った9人の若侍たちがなにやらこそこそと相談をしあっている。そこに、素浪人が登場。「待て待て、おまえさんらの思惑はちょっと違うんじゃないかい?」というところに至る最初の部分。本来ならば、いきなり本題から入ってスピーディに物語が動き出す、という「ツカミ」になるはずの冒頭シーンが、違和感いっぱいなんですよね。だから、ずっと乗り切れないんです。

違和感の最も大きな原因は、話が呑み込めないということ。何が起きているのか、さっぱりわからん。こいつら何であつまってんねん。この素浪人は誰やねん。そもそも、そんなことわからなくてもずんずん話が進めば、気にならなくなるはずなんですけども、そうは問屋が卸さない。この状況に説明が欲しくて仕方ないのです。もしオリジナルでは違和感ないのだとしたら悲しいかな、役者陣の据わりの悪さというのが大きいのかも知れません。9人の若侍たちのとってつけたようなマヌケぶりと織田裕二のとってつけたような力みぶりと。

中村玉緒&鈴木杏のコンビもちっとも楽しくありませんでした。エツ様のカツラ姿がイマイチだなあ、と鑑賞前は思っていたのですが、実際に見てみるとなかなか素敵でした。「いい子だ」という低音ボイスに聞き惚れました。作品がつまらないので、後はその「いい子だ」だけを脳内リフレインさせて、最後まで鑑賞しましたとさ。





女系家族

2009-02-04 | 日本映画(な行)
★★★★☆ 1963年/日本 監督/三隅研次
「えげつないわぁー」

じぇにや、なにがなんでもじぇにもらいまっせえ~。って、あんたら、みんな、ほんまにえげつないわぁ。

財産相続をめぐるどろどろ絵巻。なんだけど、もう可笑しくて、可笑しくて。大阪人特有のねちゃこい丁々発止を見ながら、これは「世界遺産」に認定。ってのは、大げさかもしんないけど、この文化はのこさんとあかんでしょう、と。

舞台となった船場のすぐそばで生まれ育ったものですから、昨今の南船場&北堀江の開発ぶりには、正直大阪文化壊滅の危機を感じています。美容院が乱立し、見渡せば気取ったカフェばかり。プチ表参道か?プチ自由が丘か?こんな街、大阪やない。とどめを刺したのがなんば高島屋の前にマルイができたこと。あのスクランブル歩道になんで「○I○I」のイルミネーション?ここはどこやねん?だからとまでは、断言しないけど、東京の真似しいの結果が、ミナミの街を追い詰めている。ついにそごう本店も売却の動き。ミナミの火は消したらアカンよ。大阪人のド根性は、どこへ行ったんや。どあつかましさは、どこへ行ったんや。

と、私の大阪人魂に火をつけてくれましたよ、この作品。やっぱ、鴈治郎さんが最高。「へ?なんだす?」の聞こえないフリに、飲んでたコーヒー吹きました。これだけでも見る価値あります。鴈治郎さんはともかく、他の俳優陣もみんなうまいです。京マチ子、田宮二郎、若尾文子、北林谷栄。豪華な布陣ですわ。そして、計算高いおばちゃん、浪速知恵子。浪速の人間国宝と言っていいでしょう。

えげつない話なんですけど、眉をひそめるような毒々しさじゃないんですね。人間の滑稽さ、浅はかさ、そして逞しさを感じさせてくれます。そして、撮影が宮川一夫ですので、船場の旧家をうまく活かした美しい映像も堪能できます。白くむきだしになった若尾文子のうなじを北林谷栄が手ぬぐいでふいているシーンなんて、思わず拝みたくなるようなありがたいショットでした。



ミラクル7号

2009-02-03 | 外国映画(ま行)
★★★☆ 2008年/香港 監督/チャウ・シンチー
「おあずけされた犬の心境」

貧乏だけど強い絆で結ばれた父子が、ひょんなことから不思議な地球外生命体と出会ったことから巻き起こる奇想天外な大騒動。

ラストには、ほろっと泣ける展開も用意されているけど、やっぱり、私はカンフー作品が好きだな。彼の映画はとてもお下劣な下ネタが多くて、それを笑い飛ばせるのは、カンフーとセットになっているからだと思う。眉をひそめてしまいそうな直接的なお馬鹿表現と高度に訓練されたカンフーアクションは裏表の関係。それこそ、チャウ・シンチーのオリジナリティじゃないかと思うのよね。

ただ、毎回同じパターンの作品を作っても、ヒットするとは限らないし、新たな挑戦として、親子の人情劇を撮ったんだろうと思う。それでも、シーンとして光っているのは、カンフーの要素が入ったところだったりして。「ああ、そこで華麗なカンフーがもっと見たい!」とソノ気にさせられてしまう。ファンの渇望を増大させるための確信犯的しかけ?なんて、勘ぐっちゃったりもして。

日雇い労働者でボロぞうきんのように小汚いチャウ・シンチーが、これまたカッコいいんだなあ。あの汚さから一転してぱりっとした格好でカンフーアクション見せてくれたら、ミーハーファンはすごく満足だったんだけど(笑)。まあ、次回にお預けってことでしょうか。