Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

ヘアスプレー

2007-10-30 | 外国映画(は行)
★★★★☆ 2007年/アメリカ 監督/アダム・シャンクマン
<梅田ピカデリーにて鑑賞>
「ドリームガールズと見比べると面白い」


見終わってこんなにポジティブな気持ちになった作品は久しぶり!まあ、トレーシーのなりふり構わぬ一直線な行動は、人種問題という側面から見れば、なんなりと突っ込める部分はあるのだけれど、それをこの作品でとやかく言うのは野暮というもの。正直で明るくていつも前向きなトレーシーに、みんな乗っかっちゃって、楽しく弾けましょう。

「ボーダーを超える」ということがテーマでありますが、「コーニー・コリンズ・ショー」のダンスシーンで、まさに白人と黒人の間にロープが引かれており(これまた、ものすごいあからさまでビックリするんだけど)、ここをトレーシーがいとも簡単に黒人の男の子と手を取り合って超えていってしまう。このわかりやすさがいいのよね。観客の性別や年代に関わらず、全ての人がトレーシーがやろうとしていることに共感できるようになっている。もちろん、音楽のパワフルさも手伝って、2時間があっという間。

実は、ワタクシこの作品何の事前情報も持たずに見に行ったもんで、音楽はもっと60年代の白人音楽が中心だと思ってたのね。そしたら、次から次へと繰り出されるブラック・ミュージックに踊り出したくなりました。しかも、あまりにもあからさまな黒人差別を目の当たりにして、こういうことがつい40年前まであったんだな、と思うと、音楽の弾けっぷりとは相反して妙にしんみりしてしまうことも。例えば劇中、黒人を呼ぶときはほとんど「ニグロ」という言葉が使われていて、それはおそらく当時としては当たり前だったんだろうけど、今ではその言葉は差別語であるわけで、そういう「当たり前な差別」がたくさん出てくる。

さて、1962年代のボルチモアが舞台。奇しくも私が夢中になった「ドリーム・ガールズ」と全く同じ年代。なので、「ドリーム・ガールズ」と表裏の存在としても本作は楽しめると思います。「ドリーム・ガールズ」は、出演者は全て黒人。「白人ウケ」するための音楽作りが対立の火種になっていて、黒人音楽は白人にパクられている。一方、「ヘアスプレー」は、白人トレーシーが黒人のダンスを取り入れようとするし、白人3人娘の歌を黒人3人娘がカヴァーして、プロデューサーベルマが抗議する。

いずれも白人と黒人のカルチャーが交錯しようとする摩擦を描いているんだけども、誰の視点で語るかによって、こうも浮き彫りになる問題は違うものかと興味深い。また、デトロイトとボルチモアという舞台の違いももちろんあるわけで、同じ年なのに起きていることがこうも違うなんて、アメリカってつくづく広い国だなと思った。

女装のトラボルタは、最後にオイシイところを持っていっちゃって、なかなか引き受けなかったというミュージカルの仕事をやった甲斐がありました。主役のニッキー・ブロンスキーは、まあダンスがパワフルだし、歌も上手いし、ジェニファー・ハドソン同様、オーディションでこういう人材がザックザックと出てくるアメリカってすげえや、と素直に感心したのであります。

トランスアメリカ

2007-10-29 | 外国映画(た行)
★★★★ 2006年/アメリカ 監督/ダンカン・タッカー

「どんな関係であれ親子の絆は強い」



1.「ゲイ」+「ロードムービー」
2.「ゲイが父親、または母親を捜す」
3.「父親、もしくは母親を捜したらゲイだった」

元々ゲイムービーが好きな私は、最近の作品はこの3つに当てはまるんではないか、というほどよく似たストーリーが多いように思う。ゲイムービーがそもそも「自分探し」というモチーフを含んでいるため、心の旅と本当の旅はうまく調和する。1では「プリシラ」「ヘドウィグ」、3では「オール・アバウト・マイ・マザー」が私のお気に入り。で、「トランスアメリカ」は1と3の融合であります。

性同一性障害の主人公ブリーを演じるのは、女優のフェリシテイ・ハフマン。これは、まあ本当に難しい役だったと思います。
●一週間後に性転換手術を受け、女になる決心がついた
●しかし、図らずも子供がいたことで父性が沸き起こる
●そして息子と旅をすることで自分のルーツにも対峙することになる
そういう「男性」を女性が演じているのですから!どういう心持ちでこの役に挑んだのか、聞いてみたいほどの熱演でした。

ブリーにとっては、たった一度の愛のないセックスでも、血の繋がった息子。「血のつながり」なんて、関係ないってくらい壊れた親子関係というのは世の中に吐いて捨てるほどあるんだけど、ブリーと息子のトビーは、出会ったばかりでもお互いを必要とするんだよね。それもまた、「血のつながり」のなせる技で。

ブリー自身も、自分の家族との間にできた溝をちゃんと埋めずに生きてきた。その決着をきちんとつけなきゃいけなかった。それができたのは息子のおかげ。ブリーの親にとってみれば、まさかゲイの息子に子供がいるとは思わなかったろうから、素直に「孫ができた!」って喜んじゃう。ほんと、「血のつながり」ってなんだろう、とつくづく考えさせられました。

物語としては、先が予測できちゃったところが少々残念かな。でも、ラストシーンはすごく良かった。世間で言う普通のお父さんと息子の姿では、全くないけれど、彼らは彼らなりにこれからも親子としての繋がりを保っていくんだろう。そういう気持ちにさせてくれる、ラストシーンでした。


嫌われ松子の一生

2007-10-28 | 日本映画(か行)
★★★★ 2006年/日本 監督/中島哲也

「葬儀の後のど派手な宴」


この映画のタイトルは「嫌われ松子の一生」です。松子の一生を映し出す映画です。じゃあ、松子はどんな人生だった、と言いたかったのか。それは、ただひとえに男に愛されたかった女の人生です。松子は愛されたかった。それは、小さい頃に父に愛されなかったトラウマでもあります。病弱の妹ばかりをかわいがった父。もっと私を愛して。そんな思いが数々の男たちとの出会いの発端であります。

なんですがね、どうも松子が愛した男たちが、みんなただの通り過がりの男に見えちゃって。もともと、松子ひとりでずんずん暴走していく物語だから、どうしてもそうなっちゃうのはわかる。でも、一人ひとりの男たちと松子の間にもう少し濃密なものが欲しいな、と感じてしまったな。そんな中で松子と最も濃密な関係性を見せてくれたのは、男じゃないんだけど、黒沢あすかだった。

この作品の黒沢あすかは、すごくいい。「六月の蛇」は苦手だったんだけど、この気っぷのいい姐さん役はハマってましたなあ。出てくる役者、みんながみんなすごく有名人ばっかりで、ほんとオールスターキャストって感じだっただけに、逆に黒沢あすかの無名性が良かったんだろう。「まっちゃん!」と呼びかけるその様が非常に堂に入ってて、このキャラクターに命が吹き込まれてた。後は、みんな存在感はあるのだけど、血が通ってないっていうのかなあ。確かに、みんなキャラは立ってました。だけども、先に言ったように松子との関係性がすごく希薄なのよ。

松子の苦しみ、愛への渇望、どこまでもついてない人生に思わずぐっと来る場面も、そこかしこではあったのだけれど、全体の印象としては「松子と楽しい仲間たち」って感じになってしまった。

もちろん、このとんでもない暴走っぷりと極彩色の映像は中島哲也の才能がいかんなく発揮されていると思う。そこに世界はある。どんどん不幸になっていく松子に感情移入できなかったかというと、そうでもないし。だけど、この物足りなさは何だろう。

たぶん途中からね、これは中谷美紀のための映画という感じがしてきて、それが邪魔をしちゃったんじゃないかな、と自己分析。スクリーンに松子を見るのではなく、ここまでがんばってる中谷美紀というのを見いだしてしまった。

松子の最後の男を演じる伊勢谷友介がとてもカッコイイ。まだまだ下手ですけど、確実に存在感が出てきてますね。それから、やっぱり荒川良々。ったく、いつもいつも、まいっちゃうね、この人には。全部、喰っちゃうもんね。「見た目はイマイチだけどつぶらな瞳で…」ってナレーションで荒川良々が映って、思いっきり吹き出してしまった。

松子と他の人物の関係性なんて、そもそもそんなに深く描くつもりはなかったんだとは思う。ひたすら、やみくもに走る松子を追い続ける映画なわけだから。でも、そこに私は物足りなさを感じたんだから仕方がない。前作「下妻物語」は、テンポのいい映像にロリータとヤンキーという異なる分子がぶつかり合う、濃密な関係性が描かれていた。個人的には、そういう映画の方が私は好みなんだな。

とらばいゆ

2007-10-27 | 日本映画(た行)
★★★★ 2001年/日本 監督/大谷健太郎

「優しすぎる男たち」


デビュー作「アベックモンマリ」同様、2組の男女が織りなす四角関係をベースにした物語。とってもミニマムなシチュエーションなんだけど、セリフのやり取りがとっても面白くって、こういう作風の映画大好き。エリック・ロメールあたりのフランス映画っぽい雰囲気なんだよね。

「働きマン」ってマンガ、あたしは大好きなんだけど、今「闘ってるオンナ」ってすごく多い。主人公の麻美(瀬戸朝香)も闘うオンナなんだ。なんせ女性棋士ですからね。将棋の世界はまだまだ男性優位で、そんな業界で彼女は奮闘している。しかも、最近スランプでB級クラスから墜ちてしまいそうな崖っぷち状態。

そんな彼女に接するダンナの一哉(塚本晋也)が、びっくりするくらい優しい男なのだ。サラリーマンの彼は、疲れて仕事から帰ってきても部屋は真っ暗。晩ご飯ができていないのを見越してわざわざ二人分弁当買ってきても「今、こんなの食べてる気分じゃない!」と弁当をたたき落とされる始末。で、そこでこのセリフ「だって麻美、とんとん亭の酢豚弁当好きじゃないか。これで元気が出ると思ったからさあ…」

オーマイガッ!優しすぎるぜ、一哉くん。でね、この優しさは最後まで変わることがないんだよ。こりゃあ、まるで「母の無償の愛」ですよ。一哉があんまり優しすぎるもんで、最初は一哉のキャラクターってのは、何かを皮肉ってんのか、バカにしてんのか、とにかく何かをシンボライズしたくてわざとここまで優しい男に描いてんのか、と斜めに見ていたわけ。ところがね、この男はほんまもんのピュア男なんですよ。

それもこれも、塚本晋也がすごくいいからなんだ。ワタクシ、塚本晋也は監督としては正直肌に合わないの。でもね、俳優塚本晋也はいいんだよね。あの過激な映画を撮ってる塚本晋也が、頼りなさげ、でもスッゴイいい奴!という優しさの権化みたいな男を飄々と演じております。

で、この夫婦と対を成すのが麻美の妹、里奈(市川美日子)と彼氏の弘樹(村上淳)。妹もまた女性棋士で闘うオンナ。弘樹は居候の身だから、と毎日晩ご飯作って、待ってんの。対局の日も「そばにいたいから」と言って外で待ってるし、これまた優しい男なんだわ。

さて、この映画2001年の作品なんですけど、こういった「優しすぎる男たち」って、今見るとさらにハマる。監督の大谷氏は「NANA」シリーズに抜擢されたんだけど、こちらは未見。また、こういうミニマムな映画を撮って欲しいなあ。


モンスター

2007-10-26 | 外国映画(ま行)
★★★★ 2004年/アメリカ 監督/パティ・ジェンキンス

「愛し合うシーンがないのはなぜだろう」


「あの美人のシャーリーズ・セロンが、ここまでやった」という評価が一番になってはいけないのだ、この映画は。それでは、ただの見せ物映画になってしまう。役になりきるため、ここまで変貌したシャーリーズ・セロンはすばらしい。これぞ女優魂。でも大事なのは、その向こうに何を見せるかだ。

少女時代のエピソードを含め、主人公アイリーンが売春婦にならざるを得なかった境遇は、悲しいことにあまり同情を誘わない。私にいつか王子様が現れるというような、短絡的であまり努力をしない女の子に見える。もちろん、それは、恵まれない家庭状況がそのような現実逃避型の思考を生み出した原因ではあるのだが、この映画の演出はあまりアイリーンの不遇を訴えるようにはしていない。

だから、この映画が描きたかったのは、あくまでもアイリーンとセルビーの関係性であり、最初の殺人をきっかけに追い詰められていくアイリーンの心情だと考えざるを得ないのだ。そうなると、二人の関係性というのがどうしても描き切れてないと感じざるを得ない。同性愛者ではないアイリーンが、セルビーを愛するようになる心の動き。セルビーと逃避行を行うために殺人を繰り返すやるせなさ。それが、なかなか伝わってこない。アイリーンのつらい心情がようやく胸をついてくるのは、連続殺人を重ねるうちに何の落ち度もない善良な男を殺さざるを得ない状況になってからである。

自殺したいほど追い詰められていたアイリーンが図らずも連続殺人犯になっていくのは、ひとえにガールフレンドであるセルビーへの思いがあるからなのに、この映画はアイリーンとセルビーが愛し合う場面をほとんど入れていない。だから、アイリーンにもセルビーにもなかなか感情移入できず、ただぼんやりと落ちていく二人を見ているだけなのだ。ふたりの愛というのは、それぞれが何かをごまかすためにでっちあげた都合の良い言い訳だったんだろうか、という気すらしてくる。

ふたりの愛の描き方の物足りなさがとても残念。アイリーンというキャラクターを完璧に自分のものにしていたシャーリーズ・セロンの演技が素晴らしかったゆえになおさらである。体型や顔つきもそうなのだが、ぶっきらぼうな座り方や口角を下げて野卑な言葉を吐く口元など、別人に生まれ変わったシャーリーズは鬼気迫る演技であった。

砦なき者

2007-10-26 | TVドラマ(日本)
★★★★☆ 2004年/日本 監督/鶴橋康夫 脚本/野沢尚

「テレビを信じてはいけない」



「破線のマリス」に引き続き、テレビ局の功罪をよりセンセーショナルに描いた傑作。テレビドラマだけど、DVDも出ているので多くの人にぜひ見て欲しい。

「破線のマリス」よりもメディア批判はさらにパワーアップしてる。実際公式HPの原作者よりというページで野沢氏自身が、『この「砦なき者」のテーマは、テレビを信じてはいけないということ』、と言い切っている。テレビドラマというジャンルで曲がりなりにもギャラをもらっている人が、ここまで痛烈な批判を行う勇気はあっぱれだと思う。

そして、恋人の自殺はメディアの報道にあると訴えて一躍カリスマになっていく妻夫木聡が非常にいい。実は、私はオンエア当時、この悪役を妻夫木君がやると聞いて、少々不安だった。でも、蓋を開けてみればなんの、なんの。影のある青年を見事に演じてる。2003年の「ジョセと虎と魚たち」、2004年の「砦なき者」で妻夫木聡は、確実に演技派への階段を上ったと思う。

妻夫木聡演じる八尋樹一郎は、報道の被害者という世間の同情をうまく利用してカリスマになっていく。これは、メディアそのものが「叩かれることに慣れていない」ことをうまく利用しているわけだ。つまり、被害者だと訴えられたことで萎縮してしまい、彼に対してまるでお手上げ状態。お祭り騒ぎは上手だが、批判されるとめっぽう弱いメディアの体質。しかし、メディアをそのように甘やかしているのも私たち自身なのだ。メディアに映るものを本質と受け取ってしまう、大衆心理の愚かさ。我々、日本人は実に「批判精神」が欠けている。

メディアに復讐したい男、八尋と八尋によって人気キャスターの座を追われた長坂(役所広司)が対決するラストシーンもすばらしい。揺れ動く人間心理を巧みに描く野沢尚氏の脚本が、一級品のドラマを創り出す。最初から最後まで続く緊張感は見応え充分。見終わった後、確実にメディアなんて信用できない、という気持ちになるだろう。そして、そんな批判精神でメディアを捉え続けた野沢尚のドラマがもう見られない、という事実もまた、深く胸に迫る。

隠された記憶

2007-10-25 | 外国映画(か行)
★★★★☆ 2006年/フランス=オーストリア=ドイツ=イタリア  
監督/ミヒャエル・ハネケ

「罪と向き合う」


(ラストシーンについて触れていますのでご注意下さい)

ミヒャエル・ハネケ、フランソワ・オゾン、黒沢清。この3人を私は勝手に「ざわざわ3兄弟」とネーミングしている。彼らは、人の心をざわつかせるのが非常にうまい。正直、人間的に信用ならない人物ではないかとさえ思いたくなる(笑)んだけど、きっとご本人にあったら全くそのようなことはなかろう。

さて、ハネケ監督のざわざわ作戦、この作品ではいきなりオープニングからやってくれます。どこかの家を遠景でとらえたストップモーション。全く画面が動かない。すると、微妙に上下に揺れ始める。これ、これ、この感じ!と叫びそうになりました。いやあ、これだけの演出でこのざわつき感が出せるって、やっぱ才能だな。

テーマは罪。人はどれだけきちんと罪に向き合っているか、罪を罪と認識しているか、それが1本のビデオテープをきっかけに顕わになっていく。誰か知らない人から一方的にビデオテープを送りつけられているという設定から、どうしても「犯人は誰か」と考えたくなるんだけど、これは、犯人探しは二の次のこと。「罪ときちんと向き合えない人間の墜ちていく姿」を描くことこそが、この映画の最大のテーマだろう。

それに、ささいなことがきっかけで、夫婦なんてすぐにダメになるんだってことがよくわかる。だいたいね、嫌がらせのようなビデオテープが送られてきて、これは誰の仕業なのって夫婦がグチグチ言い合っているなんて、実にどーってことない話ですよ、話そのものは。それがね、ここまで深いものになるわけだから、ハネケってすごいなあ、と素直に感心しちゃう。

さて、ラストシーンなんだけど、これはほんとにいろんな解釈ができる。確かに、思わせぶりなシーン。「あの人」と「あの人」が話をしているわけです。で、ふたりが共犯だった、と結論づけたくなるんだけど、どうも私にはあるひっかかりが。それは、ラストシーンもまたビデオテープに見えたんですよ、私には。つまり誰かがあれを撮っているように、私には感じた。

それから、服装。ラストシーンだけ夏の服装なの。ピエロはTシャツだしタンクトップの人もいる。ところがね、物語に出ている人々は、いつもコートやジャケットを羽織ってた。つまり、ラストシーンは、本編の話から、少し時間が経っているか、またはこの物語より以前の映像、ということ。そのどちらかでこのシーンそのものが持つ意味は異なってくる。

いずれにしても、これは誰かと一緒に見ていろいろ語りたくなる映画だ。ネットで検索すれば、それはそれは、いろんな解釈が見て取れる。あなたは、ラストシーンにどんな解釈を与えるだろう。

そうそう。このラストシーン、黒沢清の「キュア CURE」を思い出したな。

ヨコハマメリー

2007-10-22 | 日本映画(や・ら・わ行)
★★★★☆  2005年/日本 監督/中村高寛

「戦後を生き抜いたある娼婦の物語」


年老いてもなお、横浜の街に立ち続けた孤高の娼婦、ヨコハマメリーの生涯を彼女を取り巻く人物たちのインタビューで構成したドキュメンタリー映画。メリーさん本人が語るシーンは一切ない。しかし、他の人がヨコハマメリーを語りその人物像を顕わにしていくことで戦後の日本がリアルに我々に迫る。

私は始まって10分もしないうちに泣けてきた。何かが起きたわけでもないのに、ただそこにメリーさんが立っていたというビルの一角のショットでもう泣けてきた。歌舞伎役者のように白塗りのメイクをし、貴族のような白いレースのドレスに身を包んだメリーさんは、一体どんな思いでここに立ち続けたのだろうか。

メリーさんが他の娼婦たちと明らかに違うのはその気位の高さだった。メリーさんと呼ばれる前の呼び名は「皇后陛下」。やくざや元締めとは一切関わりをもたない「立ちんぼ」だった娼婦のあだ名が「皇后陛下」っだって言うんだから、いかにメリーさんが常人とは異なる雰囲気を醸し出していたかよくわかる。

また、横浜界隈で開かれていた芝居やコンサートにはきちんとチケットを買って見に来たり、店の前に立つことを許してくれたオーナーにお歳暮を贈ったりと、メリーさんはもしかして本当に身分の高い人だったのではないか、という様々な想像がうずまく。しかしメリーさんの昔を知らない若者たちは、その奇妙な容貌から、白いお化けなど化け物扱いするような目で見る者もいた。メリーさんの存在は都市伝説のようになっていったのだ。

そんなメリーさんが突然横浜の街から消えたのが1995年。メリーさんは一体どこへ行ってしまったのだろうか。彼女を知る証言者が現れてくるにつれ、期待と不安が高まっていく。果たしてメリーさんは、どうなったのか。

私はこの映画を多くの人に見て欲しいと思うので、ネタバレになるようなことを書くのはやめようと思う。伝説の娼婦はどうなったのか、ぜひ自分で確かめて欲しい。

私が感じたこと。それは、メリーさんは「ヨコハマメリー」を演じ続けたのだ、ということ。戦後の混乱期に生き抜くために選んだ職業、それがヨコハマメリーであった。彼女はその仕事に誇りを持っていた。自分のやり方で私は私の人生を生き抜いてきた、ただそれだけなのだ。メリーさんを影で支え続けた永登元次郎さんが歌う「マイ・ウェイ」の歌詞がメリーさんの人生とオーバーラップする。

男は戦争に行って死に、残された女は体を売って生き抜いた。メリーさんという女性に迫れば迫るほど、私の中の「女性性」も剥き出しにされて、痛かった。なんとつらい、しかしなんと気高い人生だったろうか。女とは、生きるとは、そして誇りとは何かを考えさせる珠玉のドキュメンタリー。ぜひ見てください。

破線のマリス

2007-10-18 | 日本映画(は行)
★★★★ 2000年/日本 監督/井坂聡

「テレビのねつ造事件なんて、今更驚くことでもない」



原作・脚本/野沢尚、江戸川乱歩賞受賞作。

メディアの人間が持つ傲慢さとテレビ局に踊らされる我々大衆も痛烈に批判している作品。主演は、黒木瞳と陣内孝則で、いかにもドラマ的キャスティングだが、メディア批判の軸がしっかり貫かれているため、面白い作品になっている。また、後半どんどん精神的におかしくなる陣内孝則のキレっぷりは半ばコントみたいに見えるのだが、そのコミカルさが却って本物の狂気に見えてくる。

主人公遠藤瑤子(黒木瞳)は、テレビ局で働く編集者。看板ニュース番組の高視聴率コーナー「事件検証」を、企画から取材、検証まで担当している。ある日、ある癒着事件に絡むビデオテープがテレビ局に持ち込まれ、その中で不敵な笑みを浮かべる男、麻生公彦(陣内孝則)をいかにも怪しげであるかのように編集し、放映してしまう。

ただ、少し笑みを浮かべただけなのに、いかにもコイツが犯人です、とでも言わんばかりに編集されるビデオ。このような作為的な編集って、テレビ局なら日常茶飯事なんだろうと思う。最近話題の柳沢厚生大臣の「産む機械」を受けた街頭の声なんて、テレビ局が公平なインタビューを流しているとは到底思えず、明らかに何らかの作為または意図を組んで視聴者を洗脳するためにピックアップして流しているんだろう。

私たちは、いいかげんテレビが流す「情報」という名の「作為的映像」にきっちりと見切りをつけなくてはならない。テレビなんて、ほとんど嘘だと思って見た方がいい。そんなこと言われてずいぶん久しいのに、まだ納豆がいいと聞いてスーパーに駆け込む人が多いのはなぜなんだろう。
まあ、やらせ批判はきっこさんにお任せするとして(笑)。

この映画ではビデオを作為的に編集することはもとより、テレビ局側がこれほど重要な資料を持ち込んだ人物のルートをきちんと検証せず、内容をいとも簡単に信用してしまう、という重大なミスも指摘している。結局、それはスクープを取って視聴率を取りたいから流してしまうわけで、情報の信頼性なんてハナからどうでもいい、と言わんばかりだ。

結局、このビデオの存在そのものが何者かによるヤラセで、主人公はどんどん不幸の坂を転がっていくことになる。気づいても、時すでに遅し。破線のマリスでは、映像を流された男、麻生が復讐の鬼と化すことでテレビ局側は追い詰められていくのだが、そろそろ麻生の役割は私たち自身が行うべきことではないか、と思う今日この頃である。

枝豆は旨いが…

2007-10-16 | 野菜作りと田舎の食
黒豆と言えば、丹波。丹波と言えば、黒豆。
我が家は丹波町ではないが、
たくさんの農家さんが黒豆を育てていて
この時期、たくさんの黒豆の枝豆が青空市場に出ている。

で、こちらは、枝付きの黒豆の枝豆(いいづらい…)
さすがにこれは100円ではなく、400円。
それでも、ずいぶん安いと思う。
以前この時期に広島の実家に帰ることがあり、
丹波町経由で走っていたら、ご当地では1000円~1200円で売っていた。
まあ、ブランド料ってやつよね。

お正月に食べる黒豆は、こいつをもっと育てて枯れてから収穫するのです。
枝豆なのでもちろん塩ゆでにして食べる。
あのね、この枝豆食べたら、もう他の枝豆は食べられませんよ。
豆が厚くて、ぷりっぷりなの。
さすが、黒豆は違うぜい。

と、いうわけで。

タイガースは、敢えなく惨敗のCS。
もう、あまりにも見事な負けっぷりなもんで、悔しいことも何ともないや。
とにかく、試合内容があまりに恥ずかしいので
ベイスターズに出てもらった方が良かった、と思う。

2年前にロッテにこてんぱんに負けた教訓が全く活かせてない。
そこが、開いた口がふさがらないです。
短期決戦で戦うためにはどうすればいいか、という工夫が全く見られず
調子の良し悪しに関わらない固定メンバーの頑固な采配。
ふぅ…

もともと、戦力的には他の球団と見劣りするのは間違いないのね。
チームの打撃成績も良くないし、規定投球回数に達している先発ピッチャーもいない。
そもそも、力の差は歴然。だったら、もっと工夫して何とかしようという
積極性を見せてよ!ってことでね。
まあ、グチを長々書くのもかっこわるいのでこの辺にしておきます。

それにしても、パ・リーグのチームは強いよ!
基礎力が違うっていうのかなあ。
セ・リーグの覇者が勝てるとは到底思えないなあ。


深紅

2007-10-15 | 日本映画(さ行)
★★★★☆ 2006年/日本 監督/月野木隆

「ふたりの女優が光る」


昨年亡くなった脚本家、野沢尚の遺作。吉川英治文学新人賞受賞。原作は既読。
常に脚本家としてヒットメーカーであり続けた野沢尚は、題材の選び方と時代を反映させたストーリー展開が非常に巧い作家だ。遺作となった「深紅」では、一家惨殺殺人というショッキングな事件と「被害者の娘」対「加害者の娘」という明確な設定の中に、犯罪が人の心に与えるもの、過去とのトラウマからの決別、罪は受け継がれるのか、など非常に深いテーマがふんだんに盛り込まれており、とても見応えがある。

大体、原作を先に読んでしまった場合、映画はなかなかそれを越えることはできないのだが、深紅は、物語がわかっていても引き込まれる。それは、やはり原作そのものが面白いからなんだろうと思う。とはいえ、東野圭吾や横山秀夫などベストセラー作品の映画化は、やはり原作を越えることはなかなかできない。しかし、今作は原作を書いた野沢尚本人が映画の脚本を書いているので、原作が持つパワーが損なわれることなく映画化されたと思う。

父と母、ふたりの弟を一度に殺される被害者の娘、奏子役を内山理名、加害者の娘、未歩役を水川あさみが演じているが、ふたりとも過去のトラウマに苦しみ、崩壊しそうな自我を懸命にこらえている女性を好演している。今作は、物語のほとんどをこの二人のシーンが占めており、登場人物が少ない映画なのだが、このミニマムさが見ていてふたりの感情に移入しやすくて、とてもいい。

物語で重要な役割を持っているのが「4時間の追体験」という主人公が抱える発作だ。小学6年生だった奏子は修学旅行中、突然家に帰るように言われる。家族が事故にあったと聞かされた瞬間から家族の遺体が眠る病院に着くまでの4時間は、奏子に凄まじい恐怖体験を残す。以来、奏子は何かの拍子でフラッシュバック現象を起こして気絶し、この4時間をそのまま体験してしまう。奏子が抱える闇を表現する方法として、この着想はすばらしい。しかも、このフラッシュバック現象を通して、奏子と未歩が相対するというアイデアが秀逸。

さて、映画が原作と違うところ。それはラストシーンである。いや、ラストシーンだけが原作と違う、というべきか。通常、物語の終わりが異なるというのは原作ファンとしては納得行かないことが多いのだが、本作ほど原作の改編が心にしっくりとなじむものも少ないだろう。それは、原作では曖昧だった結末に、原作者本人が映画の中で答を出しているからだ。

犯罪は犯した本人よりも、巻き込まれた者たちに深い深い影を落とす。そのつらさとやりきれなさを乗り越えて、二人の女性は再生する。凄惨な事件を扱っているが、サスペンス的要素もあって、娯楽作品としても楽しめる映画になっている。このあたりの盛り上げ方もさすが人気ドラマを手がけてきた脚本家だ。もう、彼の作品が見られないというのは、本当に悲しい。

ウッドデッキの塗り替え

2007-10-14 | 木の家の暮らし
2年前に夫が作った我が家のウッドデッキ。
ずいぶん塗料がはげてきたので
塗り替えしてくれました。


わーい、ずいぶんきれいになりました。
まあ、これから雪が積もると痛むんですけど、
そんなこと言ってると、いつするんだってことになりますからねえ…

そして、話変わって、こちらただ今我が家の玄関で
咲き誇っております、ブラック・ナイト。

ダリア科の花らしいです。ブラック・ダリアと混同しそうですね^^

これが、不思議な花で、昨年の11月頃、枯れ枯れの苗を
買ってきたんですよ。たぶん、安売りになってた^^
ラベルを見ると冬は水をやらずにおいてください、って書いてある。

しょうがないから、土間の隅において年越し。
春になって、そう言えば!って枯れ枯れの苗を出してきて
こりゃあもうダメかも~と思いつつ、とりあえず植えとくか…
って、春も過ぎ、夏も盛りなあたりからぐんぐんでっかくなって
今や高さ1メートル!

一体、どうなってんの~。冬はまた切り戻すらしい。丈夫な花だぞ。


こちらつぼみ。鳥の顔みたいでしょ。

葉が濃いめの茶色って言うのに惹かれて買ったんですよ。
この葉の色と鮮やかな黄色のコントラストが、なかなか独特の存在感です。
厳しい冬を越してくれるのだろうか…
今日は、春に向けて
アネモネとラナンキュラスとチューリップの球根を買いに行ってきます!!





SAW

2007-10-12 | 外国映画(さ行)
★★★ 2004年/アメリカ 監督/ジェームズ・ワン

「謎解きのためだけに殺人を利用することを私は肯定できない」


パート3まで製作されるほど、一大ブームになったサイコスリラー。廃墟のバスルームに閉じこめられたふたり。どちらかを殺した方が命が助かる、という一方的なゲームを告げられ、最初はとまどうものの、極限的な状況に追い詰められるに従いパニックに墜ちていく…。

「誰が」「何のために」殺し合いをさせるのか、という根本的なところはもちろん、なぜこの二人が選ばれたのか、どうやってここに連れてこられたのか、など次から次へと謎のオンパレード。しかも、その謎を解くためのヒントが何気ないカットやセリフ、小道具などに隠されているため、観客は何事も見逃すまいと映画にのめりこんでいく。いきなり、殺し合いをしろ、という幕開けにぎょっとしてしまうのだが、有無をも言わさぬ展開はまさにアイデアの勝利。

しかし、次から次へと出されるヒントにうんうん唸りながら推理しているうちに、なんだかプレステのゲームでもやってるような気分になってくる。ポケットをクリックすれば「ここに○○が入っている!」とかダイアログが出てくるようなゲーム、あるでしょ?あんな感じ。

確かに真犯人の居場所が判明した時には感心したけど、私はその動機にいささかがっくりした。ちょっと道義的すぎやしないか?これだけ残忍で不愉快なゲームを仕掛けた犯人のくせに「コイツ、いいこと言ってるな」なんて気分を観客に持たせていいもんだろうか。

と、ここで私の頭に浮かんできたのが、あのレクター博士だ。残忍きわまりない、レクターの犯行に同情の余地は全くないのだが、レクターのダークな部分に惹かれずにはいられない。しかし、ジグソウの理由は「生を大事にしないから殺す」なんてえらくマトモなものなのだ。なんだか、腑に落ちないんだな、これが。

確かに真犯人は最後までわからないのだから、犯人の人物造形ができないのはしょうがない。だとしたら、やはり謎解きゲームとして楽しむのがこの映画の正しい楽しみ方、ということになるんだろうか。でも、これほど、残忍な殺し合いを純粋に謎解きとしては、私は楽しめない。犯人の人物像、動機、社会的背景などうかがい知るべきものがあってこそ、殺人の映画は意味を持つ。そう考える私は甘いんだろうか。それとも、堅物なんだろうか。

タマスダレ

2007-10-09 | 四季の草花と樹木
庭を作り始めてから、
手当たり次第に花を植えてますけど
結局白い花がいちばんいいな…と思いますね。

このタマスダレは球根で昨年の春に植えたものですけど
今年になりとても株が増えました。
なので、春先に株分けしてあちこちに植えたのですけど
そこから今の時期に至るまでにまたまた株が大きくなっているように思います。


シンプルな花だけに固まって咲いていても嫌味がありません。
レインリリーとも言い、梅雨の後から咲き始めるとか言うのですけど
今年は暑すぎて雨も少なかったせいか、9月に入ってからどんどん咲き始め
今がピークみたいになってます。
が、しか~し!
なんと、草の部分は毒草らしいです。
濃い緑のツンと尖った葉はニラやノビルなどと間違えて食べてしまう人がいるらしい。
これは気をつけないと。


んでもって、こちらただ今現在の我が家のアプローチ。
あまりに夏が暑かったため、草ぼうぼうです!
暇なときにボチボチやるとするか…




題名のない子守歌

2007-10-08 | 外国映画(た行)
★★★★☆ 2007年/イタリア 監督/ジュゼッペ・トルナトーレ
<京都シネマにて鑑賞>
「子を持つ全ての母親に捧げる」


「ニューシネマ・パラダイス」のほろりと泣かせるイメージがどうしても強いジュゼッペ・トルナトーレですが、本作はサスペンスタッチのかなり硬派な作品。セックスシーンの女性をいたぶるような描写もかなり強烈です。実は前作「マレーナ」でも、そういうシーンはあったので、我々はあまりにも「ニューシネマ」のイメージを引っ張りすぎているのかも知れないです。

ウクライナからやってきたひとりの女性が、イタリアの街で家政婦として働き始める。彼女が何としてもその家で働きたい理由は、一家の娘の存在にあるようなのだが…

前半1時間ほどは、なぜ主人公がウクライナから逃れて来たのか、そして、その娘への異様な執着はどこにあるのかがサスペンスタッチで描かれてゆきます。時折挿入される映像で、どうやら彼女がウクライナでは売春まがいのことを強要されていたことがわかります。そしてフラッシュバックのように挿入されるシーンから彼女がただの売春婦ではないことがうかがえる。もちろん、その真相はここでは書きませんが、そのあまりにもつらい現実に全ての女性は怒りを禁じ得ないのではないでしょうか。

ところが本作、音楽があまりにもうるさい。エンニオ・モリコーネの音楽が良くないというわけではないのですけど、あまりにも全てのシーンに音楽がくっついているのがかなり余計。前半のサスペンス部分はまだ許せるとしても、後半実にシリアスなテーマになっていくくだりは、もう音楽はいらないからじっくり考えさせてくれとすら。それが、とにかく残念な点。

また、フラッシュバックの手法をかなり引っ張るんですねえ。私としてはもう少し前倒しにいろんなことを早く見せるべきだったように思う。主人公イレーナが前半取る行動は真相を知らされていないだけに、観客はなかなか感情移入できない。なるほど、それで彼女はそこまでやるのか、という理由がわかったら、後は彼女と共にスクリーンの中で生きたかった。そうしなければ、やたらとどぎつい虐待シーンばかりが脳裏に焼き付いて離れないからです。もう少し、手法にこだわらずにそのまま見せて欲しかった。

ネタバレになるので、詳しく書けないのがつらいところですが、イレーナの素性が明らかになる部分は、社会的にも実に重い問題です。今でもこんなことが堂々と行われているのだとしたら、悲しくてやりきれません。だからこそ映画として、きちんと告発し、そのいきさつをじっくりと観客に考えさせる余地を与えて欲しい。えっ、そうなの?どういうこと?と思っている間に、矢継ぎ早にエンドロールまで走っていってしまう。そういう性急さが実にもったいないのです。

さて、主人公を演じるロシアの女優クセニア・ラパポルトの体当たりの演技には拍手。ウクライナ時代の彼女と現在の彼女のギャップがあまりにも大きくて、こんなにも人は変わるものかな、と。非常に美人だし、スタイルもすばらしい。しかし、敢えてその美しさを封印して演じたところにイレーナという女性が背負ってしまったどうしようもない暗い運命を感じました。

それにしても、普通に結婚して、普通に子供を産み、普通に自分の手で我が子を育てている今の生活がいかに幸福なことなのかを痛感させられました。
全ての女性に幸福を、と願わずにはいられません。