Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

雪に願うこと

2006-11-29 | 日本映画(や・ら・わ行)
★★★★ 2006年/日本 監督/根岸吉太郎
「どの時代も兄弟の物語は深い」


舞台は帯広のばんえい競馬場。起業した会社が倒産に追い込まれ逃げ出してきた弟は調教師の兄を厩舎に訪ねる。大学以来一度も帰郷したことのない弟の身勝手さに腹を立てつつ、兄は行き場を失った弟に厩務員見習いの仕事を与える。やがて弟はお払い箱寸前の輓馬ウンリュウに自分自身を重ねるようになるのだった…。

やっぱ兄と弟の物語って、いいなあ。古今東西、兄弟が主人公の映画っていっぱいあってさ、どれもこれも大概「頑張ってる兄」と「自由気ままな弟」って構図が多い。でもかといって、どの作品も似たり寄ったりになるかというとそんなことない。個々のシチュエーションや職業を変えるといろんな物語を紡ぎ出せる。「兄」と「弟」は永遠のモチーフなんだろうね。

その点「姉」と「妹」で深みのある作品にするのは難しい。それだけ、男の方がいろんなものをしょいこんでるって、ことなんだろう。兄は弟を、弟は兄を気遣うからこそ、すれ違う。このあたりのやるせなさがとても映画的なんだろう。

弟役を伊勢谷友介。今までどちらかというとクールな役が多かったので、内面的な部分を出す演技ができるのかどうか、と思ったが、周りの役者にも支えられて好演している。この弟は見栄っ張りで不器用な奴なので、そのあたりも演技力のおぼつかなさがかえってプラスになったか。いずれにしても、今までにない伊勢谷友介。ひと皮向けたかな。

兄の佐藤浩市や、まかない婦(全くまかないさんには見えんが)の小泉今日子もいいが、厩舎に勤める若い衆がとても自然な感じで良かった。特に弟の同窓生テツヲを演じる山本浩司 がいい。彼の存在のおかげで、弟はだんだん心が開かれてゆく。「そんなもん覚えてねえ」と言っていた小学校の校歌をテツヲと一緒に風呂場で口ずさむシーンはちょっとじ~んとしてしまった。

サイダーハウス・ルール

2006-11-28 | 外国映画(さ行)
★★★★★ 1999年/アメリカ 監督/ラッセ・ハルストレム

「人間は不器用だからこそ、愛おしい」



20世紀半ばのアメリカ。田舎町の孤児院で、堕胎を専門とする産婦人科医ラーチに育てられたホーマー。成長し、彼の助手として手伝いをしていた彼は、堕胎に訪れた若きカップルと共に突然孤児院を去ってゆく。初めて外の世界を知り、リンゴ園で働き始めた彼にとっては、何もかもが新たな体験だった…

ジョン・アービング原作の映画には、本当にハズレがない。こう言ってしまうと、そこそこレベルにきこえてこえてしまうかも知れないが、いずれの作品も人の心を暖かくさせ、思慮深くさせるすばらしいものばかりだ。今作「サイダーハウス・ルール」の舞台は孤児院。いつものごとく「生きることはすばらしい」というアービングの基本理念が叙情豊かに描かれている。

望まれずに生まれてくる子供たちを暖かく育てるラーチ。そしてそのラーチに育てられ助手として成長するホーマー。血は繋がらなくともふたりの絆は深い。ラーチ医師を演じるのはマイケル・ケイン。違法である堕胎手術を女性のため、子供のために行い、一方孤児たちに深い愛情をたむける。彼の行いは全て人間としての深い慈悲によって行われている。しかし、彼は精錬無垢な神のような存在かというとそんなことはなく、寂しさを紛らわすためにエーテル中毒になっている。

主人公ホーマーを演じるのは、トビー・マグワイア。一見して感情の起伏が乏しい青年のような演技に見えるが、私はこれは演出だろうと思う。孤児として育てられ、数多くの堕胎手術に付き添ってきた彼は、人生に対して一種の悟りを得たような人物ではなかろうかと思う。大声で泣き叫んでも何も変わらない。そんな状況で生きてきた彼だからこそ、あのような朴訥とした、しかし心の清い青年になったのだと思う。

トビーが心を寄せるキャンディにシャーリーズ・セロン。後ろ姿の裸体のなんとまあ美しいこと。孤児院の外の世界を全く知らずに育ったホーマーにとって、神々しいほどの美しさを見せる必要があったシーンだと思うが、シャーリーズ・セロンの裸体はまさにその期待に応える美しさ。

ジョン・アービング原作だから、きれい事ばかりではない。堕胎、人種差別、そして近親相姦。これらの問題を際だてた演出をせずに、心にじわりじわりと染みこませるラッセ・ハルストレム監督の手腕はさすがだ。人間は誰しも完璧ではない。間違いも起こす。それもひっくるめて、一生懸命生き抜くこと、自分の役割を見いだすことの大切さを訴える。当たり前だが「タイムトリップ」や「不治の病」を使わずに感動作は作れるのだ。

いま、会いにゆきます

2006-11-27 | 日本映画(あ行)
★★☆ 2004年/日本 監督/土井裕泰

「敢えて言わせていただきます」



泣ける。感動する。と評判の高い作品を見て、驚くほどつまらなかった時の複雑な気持ち。よくあることではあるが、この作品も例に漏れない。正直、私は2時間を無駄にした、とすら思った。このように「感動作がつまらなかった」と述べることは、感動した人をけなしているようで、どうも気持ちがモヤモヤしてしまう。私自身は決してそんなつもりはなく、結局「感動する」という言葉の持つあやふやさと、当たり前だが感動するポイントは人それぞれ違うのだ、ということが言いたいだけだ。

それにしても昨今、「感動作」と言う曖昧な言葉で、あまりにもマーケットが踊らされてやしないか、と思う。それは、「感動できない人は、心が豊かではない」と言われているような高圧感さえ漂っている。

私は今作に関しては、とどのつまりこの「死んだ妻が帰ってくる」仕掛け(オチ)自体が、とてもガッカリだった。そこで、タイムトリップネタかよ…。そんなことしたら、どんなストーリーも感動作にできちゃうよ、と思ったわけです。そのネタで2時間ひっぱられたわけね、と思うと無性に時間を巻き戻したくなった。不思議な体験があって、それは夢でした、とかタイムトリップでした、なんて都合のいいストーリー展開で観る側を惹きつけるのは、それ以前のストーリーによほどの深みがないと、納得できない。

ところが主演の竹内結子の演技が何だか平坦で、ちっとも胸に響かない。この人は、演技は上手いのかも知れないが、無味無臭のお人形のようだと感じるのは私だけだろうか。「春の雪」でも同じことを感じた。人間くささや体温が感じられない、とでも言うのかな。きれいごとを上っ面で撫でているような感じ。

結局、全編に漂うその上滑りな感じと大人の童話的ロマンチック演出に引きまくりの2時間だった。こんな私だが、もちろん感動する作品はたくさんあるのだ。


イン・ザ・プール

2006-11-24 | 日本映画(あ行)
★★★☆ 2005年/日本 監督/三木聡
「治療してないし」



変な精神科医伊良部(松尾スズキ)と24時間勃起しっぱなしという病に冒された営業マン(オダギリ・ジョー)、強迫神経症のルポライター(市川美和子)、プール中毒の男(田辺誠一)の3人の患者を取り巻くコメディ。

まず、原作読んでません。それから演劇苦手なんで、松尾スズキも、役者としてはあまり見たことありません。と、いうことで結構“素”の状態で見ました。

確かに楽しいし、笑えるんだけど、もっとハジけてても良かったんじゃない?とか思ってしまう。精神病とか心理学に詳しい人なら、いずれの患者の行動も、そして伊良部という精神科医の行動も、結構よくあるネタだぜ。むしろ、冒頭の森本レオが淡々と紹介する奇妙な精神病の解説の方が面白かったかも。

患者以上にヘンな精神科医伊良部を演じる松尾スズキ。ううむ、どうもしっくりこんなあ。何だかウソっぽいんだなあ。ムリがあるというか…。この人ひとりで空回りみたいに見えちゃって、途中から竹中直人を思い出しちまった…。

さて、「継続性勃起症」を演じたオダギリ君、なんべんズボン下げるのさ~。まじめに脱ぐあたりがかなりおかしい。最近のヒゲもじゃなオダギリ君ではなく、やけにこざっぱりとしたオダギリ君。うーん、男前!しかし、この作品でもオダギリ君のシャツをパンツにIN!した腰回りのなんとまあ、細いこと。やたらとセクシーです。

一番私のツボにはまったのは、市川美和子の上司の編集長、ふせえり。ファッションと言い、言動と言い、笑った、笑った。「革命」だか「反対」だか書かれたインクを落としてある赤いヘルメットをかぶって、ヒッピーファッション。この人、学生運動やってたんだな。だから、産廃問題取材しろとか言ってたりして。「おまえ、○○した方がいいぞ」って棒読みっぽい話し方も、この役にぴったりで。つまり、奇妙なキャラクターが多い割には、ふせえり演じる編集長のキャラクターが一番作り込まれてたように感じた。あ、あと岩松了ね。なんだよ、時効警察キャストじゃん(笑)。

「患者以上に変」な医者の「変さ加減」をどう表現するか、というのがポイントだったんだろうと思うが、松尾スズキの「変さ加減」はどうも上滑りな感じ。伊良部は最後までどうも実像がつかめなかったなあ。一緒に石投げる、とか、暴れたら勃起が治った、とか、とどのつまりちゃんとした治療をしてないのが気にかかる。変な医師ならとことん変な治療法を施してもらったら、もっと面白くなったんじゃない?

大根がおっきくなってきた

2006-11-23 | 野菜作りと田舎の食
冬野菜は結局大根だけ植えました。

で、何度が間引きして青々とした葉っぱが伸びてきました。

間引いた葉っぱは、炒め物とお漬け物になりました。

畑はこんな感じ。

手前の畝に短めのおでん大根を15個。
向こう側の畝に普通の大根を15個植えてあります。

で、ご近所の畑を見たら、それはそれはみーんな大きくなってるの。
うちとは全然ちがーう(泣)

何が違うんんだろうなあ。植えた時期はそんなに違わないんだけど。
やっぱり肥料だろうな~。
大根は土が柔らかくないと下に伸びない。
まあ、それは当たり前のことなんだが、
そのためにはしっかり耕して畝を作るときにきちんと
土作りをしておかなくてはならない。
それがなかなかたいへんなのです。

うちの畝はじゃがいもを引っこ抜いた後、
適当に耕したもので、なんかあらぬところから
じゃがいもの葉っぱまで出てきてた^^
とりあえず30cmくらいのができてくれたら嬉しいなあ。


ノッティングヒルの恋人

2006-11-22 | 外国映画(な行)
★★★★☆ 1999年/アメリカ 監督/ロジャー・ミッシェル
「何度見ても飽きない」


ヒュー・グラントが絡んだラブ・ストーリーって、結局どれもこれも似たようなもん。この作品にしたって、別段物語の起伏がそうそうあるわけでもなし、ましてやどんでん返しがあるわけでもなし。だけども、王道のラブストーリーものの中では、私は結構この作品が好きだったりする。何度観ても飽きない。

それは、おそらくヒュー・グラントとジュリア・ロバーツという二大スターの個性が存分に発揮されているからなんだろう。ヒュー・グラントは、本屋で働く内気なイギリス人。ジュリア・ロバーツは、ちょっとドジで気さくな女優。これって、まんまふたりのイメージそのものだよね。キャラクター設定には、なんのひねりもない。でも、この安心感がいいんだな。

ヒュー・グラントを取り巻く友人たちとのコミカルなやりとりは、イギリスのコメディ映画っぽい雰囲気。特にひょうきんな同居人とヒュー・グラントの堅物さがいいコントラスト。友人がハリウッド女優と付き合ってるなんて、普通もっと驚きのリアクションのはずなんだろうけど、案外周りの反応が普通で、そのあたりもイギリスっぽいんだな。

つまり、設定が仰々しい割には、周りの人々はごく普通のカップルを見守っているような対応で、このあたりの落ち着き加減が安心して見られる由縁なんだろう。ハリウッドテイストの作品ならば、女優と一般人の恋愛って、きっとドタバタコメディにしたと思う。で、そのドタバタ具合って一回見たら飽きてしまうテイストなんだよね。

ジュリア・ロバーツもすごい普通の恋する女で、妙にはりきったり、すかしたりしてないのがすごく好感が持てる。女優としての私より、ひとりの女性として私を見て欲しいという素直な気持ちがよく出ている。何か障害があって、最終的には結ばれるってラストはやっぱウキウキしてしまう。尻込みしていた男がようやくやる気になって、という展開もイライラしそうでこれまたしない。このあたりは、ダメ男ヒュー・グラントの優しさが何だか憎めないから。

「モーリス」からこの子カッコイイ!って目をつけてたヒュー・グラントだけど、まさかこんなに安定したラブコメ俳優になるなんて、あの時は思ってもみなかったな。


天国の口、終りの楽園

2006-11-21 | 外国映画(た行)
★★★★☆ 2001年/メキシコ 監督/アルフォンソ・キュアロン 

「ルイサが僕たちを大人にしてくれた」


何の気なしに、見始めた映画が大当たりだった時って、すごく嬉しい。まあ、この情報過多の時代、そういう作品に巡り会うのはとても難しいのだが、今作はその数少ない大当たりの一つだった。そして、この作品で、私は初めてガエル・ガルシア・ベルナルを知り、「なんだこのイイ男は!」と色めき立ったのである。

ドラッグとセックスに明け暮れるふたりの少年フリオとテノッチ。そして、その間にひとりの人妻。3人は「天国の口」と呼ばれる伝説のビーチを探しに旅に出る、というストーリー。本国メキシコでは2001年の興行成績第1位を記録する大ヒットとなった。

これは、ふたりの少年が大人の男へと変わる旅である。そしてあてどない旅が南米(今作はメキシコ)であることから、「モーターサイクル・ダイアリーズ」と非常によく似ている点が多いと言える。事実どちらの作品とも、主演のひとりがガエルであるため、「モーターサイクル・ダイアリーズ」を見ている時、私は今作を思い描かずにはいられなかった。ただ「モーターサイクル・ダイアリーズ」が男たちの心の変遷を静かに描いているのに対して、今作はその大人への脱皮を「性」と「死」をベースに描いているのが、私を惹きつけて止まない大きな点なのだ。

性描写が非常にストレートなため、そこばかりに目が行ってしまう方もいるようだが、少年たちは「生」を感じるため、ルイサは「死」に向かうための、その自己確認の方法がセックスなのであり、むしろ、セックスの表現が奔放であればあるほど、その刹那的な行為の向こうに哀しみを感じる。

そのもの悲しさは、ルイサが隠している秘密によるところもあるのだが、3人が旅をしている時に出会うメキシコの風景によるところも大きい。物乞いをする人たち、銃を持った警官に取り締まられる民間人、道ばたに手向けられた花束…。車の中でセックスの馬鹿話をしている3人の窓の向こうには、そのようなメキシコが抱える社会問題や人権問題を訴える映像が織り込まれている。このさりげなさが映画に深みを与えている。

主人公ふたりの少年の設定も、実は富裕層の息子と母子家庭の息子というコントラストがある。家庭環境に決定的な溝があるふたりは親友だった。しかし、この旅はふたりの関係性も変えてしまった。ということで、この作品は「少年が大人になる旅」を軸に、実に様々なモチーフをバランス良く織り込んでいて、とても完成度が高い。

口から出任せに言った「天国の口」というビーチが本当に存在し、その美しい浜辺で過ごす3人。そして、旅の終盤、3人で交わり、そのあまりに甘美な快楽からキスをするフリオとテノッチ。僕たちは次の日、目を合わせられなかった。誰にも言えない秘密を持ってしまった。そして、僕たちはもう会うこともなかった…。

見終わって、3人の心の痛みがチクチクと残る。その切なさが、とってもいい余韻を残してくれる。フリオを演じるガエルとテノッチを演じるディエゴ・ルナは、実際にも親友同士だそうで、実に息のあった演技を見せる。大好きな作品です。

東京タワー

2006-11-20 | TVドラマ(日本)
★★★ 「彼女の存在が大きすぎる」

この物語は、母と息子の濃い結びつきが肝なのだ。このふたりの関係を、“マザコン”と呼ぶ人もいるかも知れない。しかし、マザコンという言葉は違う。マザコンという言葉は「相互依存」の関係を示す。しかし、ボクとオカンは100%「無償の愛」のもとに存在している。それこそが、この物語が多くの支持を受けた圧倒的な理由だろうと思う。

原作ではボクの彼女は登場するが、あまり多くを語られてはいない。オカンが彼女を気に入り大事にしていた指輪をプレゼントしてしまった、というエピソードは出てくるが、それ以上の話はない。この物語に第二の女はいらないのだ。ガンになってしまったオカンのことで頭がいっぱいになったボクは彼女を受け止める余裕がなかった。だから、ボクは彼女と別れた。

しかし、ドラマ版では彼女に大きな役割を与えてしまい、ボクとオカンの密度は明らかに薄くなってしまった。これが仮に、広末涼子サイドの意向をテレビ局が受け入れた結果なのだとしたら、やはりテレビはテレビなんだな、とがっかりせざるを得ない。彼女とも別れ、オカンはもうすぐ死ぬ。ボクは孤独だ。そんなボクを支えたのは、オカンの愛とオカンの思い出だ。死にゆくオカンとボクの間に流れる濃密な時間。これを描かずして、何とする。

オカンの葬式の日も編集者が原稿を取りに来てボクはイラストを描かざるを得なかった、というエピソードがなかったのも個人的には不満だな。オカンが死んだ日もその哀しみにくれることができない、好き勝手に東京に出てきてイラストレーターという仕事を選んだボクのつらさがひしひしと伝わってくるエピソードなのに。私もフリーランスなので、この小説にはフリーランスという仕事の不安定さとか哀しさが随所に出てきて、結構そういうところでも泣かされたんだよね。

というわけで、商業主義まるだしのフジテレビ戦法も含め、少々がっかり。
映画に期待しよう。
それにしてもコマーシャルが多すぎる。

つい買ってしまいました

2006-11-19 | 四季の草花と樹木
花が少なくなるこの季節なので、
パンジー嫌いの夫の目を盗んでこっそり買ってしまいました。

で、こっそり鉢植えにしました。

こっそり玄関に置きました。

すぐバレるっちゅうねん^^


お猿さんの顔がずら~っと並んでるみたいやなあ

モーターサイクル・ダイアリーズ

2006-11-18 | 外国映画(ま行)
★★★★ 2003年/アメリカ・イギリス 監督/ウォルター・サレス

「刻々と変わるガエルの表情がステキ」



キューバ革命の指導者チェ・ゲバラ。その若き日の放浪の旅を描いたロード・ムービー。ガエル・ガルシア・ベルナルがチェ・ゲバラを演じた。

革命家チェ・ゲバラと聞くと、暴力的な荒々しいイメージを想像してしまいがちだ。「ゲバラの顔」プリントTシャツを着た若者も日本でもよく見かける。そう、ゲバラは革命の象徴だ。

しかし、今作のゲバラ(エルネスト)は、道中で何度も「バカ正直」な行動に出て、相棒のアルベルトに諭される。もっとうまくやれよ、と。若き日のゲバラは、とても純朴で素直な青年だったのだ。その最も象徴的なシーンは、旅の資金もないボロボロの身なりの彼らに飯と宿を世話してくれた教授が書いた小説の感想を求められるシーンだ。相棒のアルベルトは「すばらしい作品でした」と適当に褒める。しかし、エルネストは「陳腐な表現が多く、つまらなかった」とバカ正直な感想を述べる。

一事が万事この調子のエルネストに対して相棒のアルベルトはお調子者。時にはぶつかり合うも、長旅を共にするのにはいいコンビだ。実際の旅と同じ行程で撮影した、という南米の風景がすばらしい。砂塵をあげて走り抜けるバイク、銅山の荒々しい光景、マチュピチュの遺跡…。特に我々日本人にとっては、見たこともない景色が多く、非常に新鮮だ。その道程で巡り会う貧しい人々。自分の土地を追い出されたアンデスの先住民族や革命思想で追われて銅山で働く夫婦、そしてハンセン氏病患者たち。

お気楽にスタートした旅が彼らとの出会いによって、かけがえのない体験へと変わってゆく。まじめで正直なエルネストは「人々の役に立ちたい」という気持ちを固めていく。南米の現実を突きつけられ、次第に心に秘めたる思いを膨らませていくガエルの表情の移り変わりがいい。特に、終盤ハンセン氏病病棟での滞在で、うっすらと髭が伸び伏し目がちで思慮深くなった顔が素敵。

南米の貧困層との出会いは、ドキュメンタリータッチで撮影されており、我々も共に旅をしているような気持ちになる。旅は人を変える。優しく正直でダンスの苦手なエルネストは、この旅を経て革命家を目指した。その心の移ろいがじわじわと染みてくるいい映画です。


ボーイズ・ドント・クライ

2006-11-16 | 外国映画(は行)
★★★★☆ 2000年/アメリカ 監督/キンバリー・ピアース
「事実から目をそむけるな」


主人公ブランドン(ヒラリー・スワンク)は性同一性障害の女性である。自分は男であるという意識から逃れられず、男として生きていくことを決意する。しかし、閉鎖的な街で彼の生き方が受け入れられることはなかった…。(以下、ネタばれです)

この作品の悲劇は、映画のタイトルである「ボーイズ・ドント・クライ」に象徴されている。男の子は泣かない。男たるもの泣いちゃいけない。そういう社会的な通念、男らしさ、女らしさという世間のイメージにがんじがらめになったばかりに起きた、とてつもない不幸を描いている。

何が一番悲しいかって、ブランドン本人がそういうありきたりな固定観念に縛られてしまっていたことだ。体は女性だけど、男として生きる決心をしたブランドンは「男らしくありたい」と願い、少々の無茶をいとわず暴力的な仲間たちとも「男だから」という理由で彼らのやり方に追従しようとする。しかし、悲しいかなそれは間違いだったのだ。ブランドンはブランドンらしく、生きれば良かった。しかし、男として生きると決意したばかりの彼にそんな精神的余裕などなかったのだろう。それほど「男として」生きることに必死だったのだ。

ガールフレンドをブランドンに横取りされたジョンは、怒り狂って報復に出る。彼の怒りの源は「真の男である俺」ではなく「男の振りをした女」にガールフレンドを取られたから。男のプライド、男の存在意義を踏みにじられたからだ。男の沽券なるものを振りかざすことほど見苦しいものはない。男であるというだけで持ってるプライドなんて糞くらえだ。

悲劇的な結末だが、これは実話なのだから仕方ない。この事件について多くの人が知るべきだと思う。それにしても「男性が女性として生きていく」ことももちろんなのだが、「女性が男性として生きていくこと」の生き難さと言うのを今作を通じて非常に痛感した。例えばブランドンのような人がビジネス社会で出世していくという物語がもしあったとしたら、男社会の嫉妬や横やりというのは相当なものがありそうに思える。

男である、というだけで与えられた社会的な地位や信用度に安穏としている人々は、自分たち「男社会」の組織をより強固にし、集団的団結を見せ、その安定が揺れ始めると異分子をつぶしにかかる。ブランドンが女であるとわかった時の、ジョンと仲間たちの行動や心理に似たものは、日本社会でだって、そこかしこで見受けられる。

この不幸な事件から「男らしく生きる」「女らしく生きる」という言葉がどんな影響を与えるのか、どんな概念を生み出すのか、じっくり考えて見る必要があると思う。


ゲンノショウコの花の後

2006-11-15 | 四季の草花と樹木
おもしろい状態でしょ。なんかくるくる~となってますよ。
正直最初は我が家の草むらゾーンを歩いていて、
「なんじゃ、こりゃ」と思ったのです。
で、ゲンノショウコの花を載せたときに、
そう言えば種の話をコメントいただいたな~と言うのを思い出しました。
種を一個ずつ巻き上げるこの形が、
みこしの屋根に似ているので、「御輿草」とも言われると書いてあります。
左側が花の後できた種の状態ですね。
で、右側になって種をぐる~んと巻き上げた状態。
きっとこうやって少しでも遠くに種を飛ばして種を広げていくんですよね。
草むら中このくるんくるんがあちこちに見られます。



タンポポしかり、植物はいろんな方法で種をより遠くへ運んでいきます。
生き物はがんばって生き延びようとしてる。
ひとつでも命の連鎖を絶やさないようなシステムを維持している。
なのに、どうして人間は自ら命を絶やしたりするのだろう…。
自分一人で生きてるわけじゃないのにな。


ガープの世界

2006-11-14 | 外国映画(か行)
★★★★★ 1982年/アメリカ 監督/ジョージ・ロイ・ヒル

「いい映画は何度見てもいい!」


数々の原作が映画化されている作家ジョン・アービング。そのヒットの原点とも言える名作。まず、オープニングからして非常にステキ。ポール・マッカトニーの「When I'm 64」に合わせて空をフワフワ飛ぶ笑顔の赤ん坊。人間が生を受けたことのすばらしさ、喜びをほんわかと軽快に見せてくれる。そう、この映画は全編「生きることはすばらしい!」ことを伝えている。加えて、女性性とは何か、今で言う「ジェンダー問題」にも非常にユニークかつ鋭い視点が満載で、大いに笑い、大いに考えさせられるすばらしい娯楽作品なのだ。(以下ネタバレです)

看護婦ジェニー・フィールズ(グレン・クローズ)は、子供が欲しかったため、病院に送り込まれた動けない傷病兵に、またがって(!)子供を作る。そして、生まれてきたのが主人公ガープ(ロビン・ウィリアムス)だ。ジェニーは実にあっけらかんと言う。私は精子が必要だったの。子供が産みたかったの、と。つまり、ガープの出生そのものが、「婚姻関係」や「父と母の揃った家庭」に対するアンチテーゼなのだ。

しかし、ガープは決して「かわいそうな子供」としては描かれない。だって、そのような出生をしたからって、かわいそうなんて一体誰が決めつけることなの?生を受けた、ただそれだけで人生はすばらしいのだ。ジェニーはガープに「しっかりと自分の人生を生きなさい」と言う。

作家になると言うガープ。じゃあ私も自伝を出すわ、と言って書いた作品が一大ベストセラーに。女性解放運動の気運も高まる時代で、ガープの母ジェニー・フィールズは、一躍時の人となる。実家の邸宅は、女性解放運動の活動家を始め、DVを受けた女性や性同一性障害の人など、さながら女の駆け込み寺になる。

さて、「危険な情事」ですっかり怖い女のレッテルを貼られてしまったグレン・クローズですが、この作品では強く前向きに生きる女をとても素敵に演じている。本当にすがすがしくて好感が持てる。女性解放運動のシンボルになってからは、常にナース姿。これが笑える。今作には、大まじめなんだけど、笑わずにはいられないポイントがたくさんあって、そこがアービングらしさであり、我々がこの作品に深い愛着を感じる大きな所以だ。

その最も象徴的な場面は、妻が愛人と浮気している車にガープの車が追突。妻はアゴを負傷し、妻の愛人はイチモツが食いちぎられる、なんてエピソード。事故の場面の後、ジェニーの家。おもむろに振り返る妻のアゴにはリハビリ用の器具が…。もうね、吹き出してしまいましたよ。何もこんなシチュエーションで事故しなくてもいいのにねえ(笑)。

私は最も気に入ってるのは、ガープと妻がベビーシッターを呼んでふたりで外出するも、車の中から子供たちを眺めるシーン。ガープが一番好きなのは、子供たちを我が家の外から眺めてしみじみと幸福を噛みしめることなのだ。とってもじーん、と来るいいシーンです。

ジェニーは運動のシンボルとなることで、危険な目に遭うし、ガープはガープでジェニーの息子でありながら、女性解放運動を阻むものとしての標的にされてしまう。ふたりの運命は、不穏な様相を見せ始める。しかし、人生は山あり谷あり。いい時もあれば悪い時もある。それも全部ひっくるめて生きることはすばらしいという人間賛歌を徹底して伝え続ける本作品。何があっても、前向きに生きた方が人生楽しいじゃないの。だって、せっかくこの世に生を受けたのだから!と実に晴れ晴れとした気持ちにさせてくれるのだ。

ちょっと生きることがしんどい…なんて時は誰でもあるはず。そんな時にぜひオススメしたい作品。

色づく林道

2006-11-13 | 四季の草花と樹木
林道の木々もだいぶ色づき始めました。
田舎に引っ越すまでは「紅葉」=神社仏閣などの観光地の真っ赤な紅葉だと言うイメージしかなかった私。
でも、こっちに来てからは、自然の山がこんなに美しく紅葉することに心底驚きました。
このあたりは杉の植林も多いですが、まだまだ自然の広葉樹も多く、山々は黄色、橙、紅と見事なグラデーションを見せてくれます。
このあたりでは「紅葉狩り」=「山を眺めること」なんです。
最近神社の真っ赤なもみじの紅葉は、作り物っぽい感じさえします。

我が家のウッドデッキから後方を眺める


玄関を出て遠くの山を眺める


なかなか遠くの景色は上手に撮れませんが、日に日に色が変わっていく今日この頃です。


おかしいぞ、世界バレー

2006-11-12 | 子育て&自然の生き物
昨日何気なく「世界バレー」を見ていたんだけど、
あの応援に何とも居心地の悪さを感じたのは私だけだろうか。
日本でやっているんだから声援が大きいのは許す。
つまらない前座を試合前にやるのも、ぎりぎり許す。
だけど、これだけはどうも納得がいかない。
マイクでDJみたいな男が試合中に「ゴー、ゴー、ニッポン!」と
扇動していることだ。
これは、世界大会なんじゃないの?
なんで日本にだけ、こんな応援が許されているの?
見ていてすごく気分が悪くなった。

開催国の応援が大きくなるのは仕方ないとしても、
マイクを使うのはどう考えてもおかしいだろう。
日本をするなら相手国だってやってあげるべきだ。
昨日だったら「ゴー、ゴー、セルビア・モンテネグロ!」と。
言いにくくても仕方ない。それがスポーツマンシップだろう。

だいたい日本だけマイク使って応援するなんて
相手国への敬意がみじんも感じられない。
自分たちが勝ちゃ、いいんである。
質の高い大会にしようなんて、これっぽっちもないんだ。
ニッポンが買って、視聴率が取れればいいんだ。
だから、もうなりふり構わず開き直って
「ゴー、ゴー、ニッポン!」と声を張り上げる。
もう見ていて恥ずかしくてしょうがないよ。

各国の選手は「日本をうまくしてやるための練習相手」
として来ているわけじゃない。
必死でプレーしている最中に、
会場中に響き渡るようなガンガンの音量で
「ゴー、ゴー、ニッポン!」と叫ぶ男の声を
彼らは一体どんな気持ちで聞いているのだろう。

もちろん、こんな常に「甲子園のタイガース」
みたいな状態で試合をしていて、
日本のバレーが強くなるはずがないのは、言うまでもない。