Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

しあわせの隠れ場所

2010-11-26 | 外国映画(さ行)
★★★★ 2009年/アメリカ 監督/ジョン・リー・ハンコック

「みんな大人だね」

裕福な白人家庭の母親リー・アンはある凍てつくような真冬の夜、ひとり寂しくTシャツと短パンで歩いていた巨漢の黒人少年マイケルの辛い境遇を知り、家族に迎え入れる。また彼女によってアメリカン・フットボールの才能を見出されたマイケルは、たちまちその能力を発揮していく…。

かなり評判のいい作品なんですけど、正直私にはごくごく普通のいい話という印象。一番良かったのはサンドラ・ブロック演じる主人公の立ち居振る舞い。一貫して毅然と振る舞うのがとても気持ちよかったし、善意のおばさんヅラしないのがいい。私は特に、彼女のファッションがリアルだったなあと思う。ピチピチのタイトスカート履いて、Vネックの高そうなセーター着てるでしょ。いかにもセレブリティのオシャレスタイルだよね。

とはいえ、やっぱりこの地域に長年住んでいて、黒人たちの実情を知らなかったってのが、どうも納得いかない。あと、子供たちがいい子過ぎる。特に、上のお年頃のお姉ちゃんなんて、いきなりいかつい黒人の少年が我が家の一員になるなんて、もっと拒否反応あったはずじゃないかなあ?

実話だけに逆にこの家族を脚色できなかったのかもしれません。家族がみんな「大人」なんだよね。そこにリアリティを感じなくて、実話だから余計にその違和感が私の中で際立ちました。

主人公である黒人が体格がでかくて寡黙という設定が「プレシャス」に酷似しているんだけど、これはガボレイ・シディベに軍配だね。

冬の小鳥

2010-11-24 | 外国映画(は行)
★★★★ 2009年/韓国・フランス 監督/ウニー・ルコント
<梅田ガーデンシネマにて観賞>

「凛とした瞳の少女」

1975年、よそ行きの格好をした9歳のジニ(キム・セロン)は、父(ソル・ギョング)と一緒にソウル郊外にあるカトリックの児童養護施設の門をくぐる。彼女がシスターに施設の案内をしてもらっているうちに、父親は黙って去って行ってしまう。そのことにショックを受けたジニは食事にも手をつけず、周囲に溶け込むことも頑として拒んでいた…。

お父さんはきっと迎えに来る。施設の大人からの好意を頑なにしりぞけ、子供たちとの交流を拒否するジニがいじらしい。ジニを演じているキム・セロンの瞳の強さがとても印象的。「ぜんぶフィデルのせい」など、ヨーロッパ映画に出てくるひたむきでけなげで、かつ意志の強い少女を思わせる。父に捨てられたという現実を受け入れられないジニ。父の温もりを思い出しては、施設を出て行く日を夢見る。しかし、そんな彼女も養父母にもらわれていく子供たちを目の当たりにして、少しずつ現実を受け入れ始めるのだった。

お父さんのところに帰ることが叶わないと気づいたジニはある行動に出るのだけど、それがとても切ない。その行動の後で、ジニの表情は変わる。父に会うという思いを諦め、現実を受け入れた瞬間。それは、ジニの新たな出発なんだけど、9歳という年齢にして、悟りを得なければならない彼女の置かれた状況が本当に痛々しい。

さて、脚の不自由な施設のお姉さんのエピソードがサイドストーリー的に入ってくるのだけど、身障者の方をキャスティングしたのかと思ったら、何と「グエムル」に出ていた少女が演じていたのでした。脚をひきずるその演技があまりに自然で驚いてしまった。本当に韓国の俳優はうまいし、役作りのために努力しているんだなあと感心する。

孤児を引き取りにくる夫婦のほとんどが欧米人。韓国を出て、アメリカやヨーロッパに渡った孤児は多く、監督もそうした境遇だったという。外国に行けば豊かな暮らしができる。そう信じてやまない孤児たちのそれぞれの未来は果たして本当に愛に満ちたものだったのか。孤児院を出る時に全員で見送りながら歌う「蛍の光」(韓国ではきっと違う題名なんだろうけど)の悲しげなメロディがそんな思いを掻き立てる。

最後に。作品とはあまり関係ないんだけど、フランス映画だからか、登場する子供たちの服装がやけにファッショナブルだ。いや、きれいな服を来ているわけでは決してないので、ファッショナブルって言葉は違うかも知れない。そう、ちゃんとコーディネートされている。それぞれの洋服は1975年という時代に合わせられて、選択しているはず。しかし、ペイズリー柄の紫のベルボトムに無地のタートルネックセーターというようにどの子供たちも上下のコーディネートが光る。色とりどりのマフラーなど小物のセンスもいい。冒頭ジニが買ってもらうパープルピンクのツイードのコートなんて、アメ村のお高めの古着屋さんで売ってそうなほど愛らしかった。


絞殺

2010-11-24 | 日本映画(か行)
★★★★ 1979年/日本 監督/新藤兼人

「溺愛母の権化」

実際に起こった家庭内暴力事件をもとに、新藤兼人監督がシナリオ化した衝撃の問題作。高校生の息子である勉(狩場)に対し教育熱心な保三(西村晃)と良子(乙羽信子)。成績優秀な勉がある日突然暴力を振るいだし、バットで物を壊したり、ついには母親を犯そうとする。思い悩んだ両親は息子を殺そうと決意するのだった…。

「サード」では裏テーマであった「溺愛のあまりに息子を駄目にする母」。本作ではそれが真正面から描かれている。

新藤作品ではどれもそうなのですけど、とにもかくにも母を演じる乙羽信子の演技が凄まじい。こんなオカンやったら、どんな息子もおかしくなるよね。つとむさん、つとむさんとしなだれかかる様子はどう見ても恋人に対しての接し方。息子の言うことは何でも聞き、息子の欲しいものは何でも与える。身も心もさらけ出す、乙羽信子の演技が圧巻。

威張りくさっている父を西村晃が演じていますけど、これまた威勢がいいだけの駄目おやじっぷり。めちゃめちゃはまってます。たいそう歪んだ3人の親子関係だけど、ある種昭和のノスタルジーを感じるというかね、大なり小なりみんなこんな家庭だったなと思うとちょっとへこみますね。かといって、現代の親子関係が正しいかというと全くそうでもないんだけど。

母が息子を溺愛するのは、夫が自分をひとりの人間として認めていないから。まるで、昼間は家政婦のようにこきつかい、夜は夜で相手をするのが当然という扱い。それらのシーンがあまりに露骨で生々しいので、滑稽にすら見える。

父が息子を殺害し、同意していたはずの母が精神を病んでいく。どん底に墜ちていく家族の姿に重ね合わせて、何度も流れる加藤登喜子の「鳳仙花」。その歌の暗いことといったら。終了後もあの暗い歌声が離れないのでした。

サード

2010-11-23 | 日本映画(さ行)
★★★★ 1978年/日本 監督/東陽一

「帰るべきホームがない」

野球部で活躍するサードというあだ名の少年。クラスで仲のいい友人はなかなかの秀才。ある日、クラスメイトの女子と街を出て東京に住みたいがそのためのお金がないという話になり、資金稼ぎに売春と斡旋に手を染めるようになる…。

すいぶん昔に見たんですけど、改めて再観賞。脚本が寺山修司なんですね。スポーツマンと秀才のふたりの高校生が「何となく」始めた売春斡旋で人生の坂を転がり落ちてしまう。彼らの行いを分別のつかない若さゆえ、と判断するのは難しい。だって、売春だもんね。昔見たときは少年院で行き場のないモヤモヤを心に溜めるサードに心奪われていたけど、今回見て感じるのは、売春を始めるふたりの少女の空虚感。

「あたしたちの体を売ればいいじゃん」喫茶店でコーヒーを飲みながら、あどけない顔の森下愛子が言う。それをサードはこう述懐する。「まるで大根を売るみたいだった」と。実に印象的なセリフです。そして、少年院にいるサードは知る。事件後、彼女たちは東京には出ずに田舎で普通に結婚したと。

何となく体を売り、それが駄目になったら、何となく誰かと結婚する。きっと、彼女たちは何となく子供を産み、何となく年を経ていくのだろう。彼女みたいな子たちは現代にもいっぱいいる。最近の映画「蛇とピアス」や「M」にも同じような女が出てくる。

しかしそうして、女たちは何となく自分の居場所に着地するのに対し、サードたち少年たちは帰るべき場所を持たない。ただひたすらに黙々と少年院のグラウンドをランニングする。一塁ベースを踏み、二塁、三塁と回るけれども、なぜかホームベースが置かれていないグラウンドがそれを物語っている。

さて、永島敏行と森下愛子の若手俳優陣が光る中、異彩を放つ脇役がいる。島倉千代子だ。「溺愛する母」と「反抗する息子」の組み合わせは、この時代の日本映画によく登場してくるモチーフだけれども、本作でもこのテーマは重要な位置を占めている。風呂上がりに上半身裸で出てくる息子に対して、「あら、いやだよ。母さんだって女なんだから」と猫なで声で言う。何だか気味悪くて背筋がぞぞっとしてしまうのだった。


プレシャス

2010-11-22 | 外国映画(は行)
★★★★☆ 2009年/アメリカ 監督/リー・ダニエルズ

「駄目と言われ続けてきた人生に終止符を打つ」

16歳のプレシャスは、極度の肥満体型のうえ読み書きも出来ず孤独に堪え忍ぶ日々。この年齢にして2度目の妊娠。どちらも彼女の父親によるレイプが原因。失業中の母親は、そんなプレシャスを容赦なく虐待し続ける。妊娠が理由で学校を停学になった彼女は、校長の勧めでフリースクールに通うことに。彼女はそこで若い女性教師レインと運命的な出会いを果たす。
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書籍が出た当初(もう10年近く前らしいが)読みました。本にはそれはそれは壮絶な人生が刻まれていたけど、読み物としての面白さは正直感じられなかった。だから、公開当初もあまり興味が湧かなかったんですけど、映画の方はすばらしい作品になっていました。今思えば、中学生にして英語のスペルさえ理解できなかった彼女だから、手記を書いただけでも凄いことだったんだと思う。

鬼のような実母。「おまえは馬鹿だ」「おまえにできるはずがない」と24時間プレシャスの存在そのものを否定する。身体的虐待よりも、むしろこうした言葉の暴力の方がどんなに過酷なことかと思う。プレシャスは極度の肥満だけど、その豊満な肉体の中身はこれらの母親の呪わしい言葉が詰まっているのではないかとすら思わせる。母親がひとつ、またひとつ、お前は駄目な子だという言葉を吐く度に、プレシャスの体に侵入し、脂肪と化して体に付着している。

母親の憎悪を体中に浴びた寡黙なプレシャスを演じるのはガボレイ・シディベ。物言わぬ巨体で圧倒的な存在感を放つ。

豪華な脇役陣の中でハッとされられるのは、ソーシャル・ワーカーを演じるマライア・キャリー。悲惨なストーリーの中で常にニュートラルなスタンスを外さない。非常に抑制された演技が光っていました。

そして、アカデミー助演女優賞、文句なし。母役モニークの演技が凄まじい。娘に男を寝取られた女。娘を生活保護を受けるための道具と考えている女。どう見ても鬼、なんだけど、なぜだろうねえ。私は後半彼女がとても可哀想に思えて仕方ないのだった。人を愛することを知らない憐れな女。モニークの深みのある演技でこの鬼母のキャラクターにひどく感情移入したのでした。

これら俳優陣の魅力を最大限に引き出した演出が見事。カウンセリングシーンなどは、敢えての演出だろうか、ドキュメンタリー風に撮影されている。喉の奥から絞り出すように吐露される真実、その瞬間にぐわんとカメラが不器用に揺れながら被写体にせまる。その様が全くあざとく感じられず、プレシャスの悲惨な人生を実にリアルに見せるのだった。秀作です。




Dr.パルナサスの鏡

2010-11-22 | 外国映画(た行)
★★★★ 2009年/アメリカ・カナダ 監督/テリー・ギリアム
<ブルーレイにて観賞>

「お目当てはリリー・コール」

現役ファッションモデルの中で誰が一番好きかと聞かれたら、「リリー・コール」と答える。だって、あの顔の小ささと言ったらハンパないもの!バツグンのスタイルに小動物のような顔立ち。あのアンバランスさがとっても魅力的。というわけで、本作でもテリー・ギリアムのおとぎ話にはピッタリの配役でした。

自分自身の欲望を映し出す鏡の中の世界。私が入ったらさしづめ、服と鞄と靴で埋もれるんでしょうか。そんなオバサンも登場していましたね。ギリアムらしい風刺の効いた摩訶不思議な世界。ようやくCGが追いつき、今だからこそリアルに具現化できたのかも知れません。この鏡の世界を満喫したくて、ブルーレイをレンタルしましたが正解でした。

しかしながら、この鏡世界の映像は堪能できたものの、本筋の面白さはビミョー。悪魔との駆け引き、トニーの正体など、仕掛けられた謎が明らかになる様がもっとスリリングに描かれていたらもっと楽しめたのになあ。

僕の彼女はサイボーグ

2010-11-21 | 日本映画(は行)
★★★ 2008年/日本 監督/クァク・ジェヨン

「とんがりおっぱいの残像」

「猟奇的な彼女」のイメージでお願いします。っていう企画だったんだろうなあ。最初に主人公二人が出会って、愛を育むあたりは、韓国映画よろしくこっちが恥ずかしくなるような浮き足ムード全開。そうした光景も「これはよその国の出来事だから」なんて脳が言い訳すれば、意外とすんなり入り込めるんだろうけど、やっぱ日本映画だぞっていう前提があるとかなりの違和感を感じてしまう。

しかし、サイボーグを演じるのが綾瀬はるかってのは、絶妙のキャスティングでしょう。彼女、演技に感情表現が乏しいし、無機質っぽい感じがぴったり合ってると思う。加えて、何ですか、あのおっぱいのとんがり具合は。いかにも、フィギュアをそのまま人間サイズに拡大したかのような出で立ち。「サイボーグはるか」のキュートさが何とか作品を引っ張っているんじゃないでしょうか。しかし、裏を返せばそれぐらいしか印象が残らないってことで。

相手役の小出恵介にもう少しコミカルな演技の魅力があれば、もう少し変わったのかも知れません。コメディを演じるという点においては、韓国の俳優の方が断然うまいですね。また、主人公の少年時代の田舎の風景が一体いつの時代?という描写だったのも興醒め。ツッコミどころ満載ゆえにそれを笑って楽しめる映画もありますが、大真面目に作られているようなので突っ込みようにも突っ込めないトホホな気分で終了。

シングルマン

2010-11-21 | 外国映画(さ行)
★★★★ 2009年/アメリカ 監督/トム・フォード
<梅田ブルクにて観賞>


「二度目の奇跡が起きた日」

溺れる夢から醒めたジョージ。何気ない日常の一コマ一コマから、愛する人の記憶が呼び起こされる。あの日、ジムと過ごしたできごと、あの時ジムと交わした言葉。全てがうまくいっていた。愛で満たされた毎日だった。しかし、彼を失った今、もはや生きている意味はない。目の前を通り過ぎるのは全てセピア色のスローモーションでしかないのだ。

愛する人を失い、死を決意した男の一日を叙情的に、美しく描く作品。淡々とすぎてゆく描写に退屈を感じる人もいるだろう。私自身、この調子で120分続くのかと思うと途中で寝ちゃうんじゃないかと思ったんだけど、あることに気づいてからジョージの絶望が私の中に押し寄せてきたのだった。それは、この物語が1962年の出来事であるということ。そして、ジョージが住んでいたガラスの家。

1962年と言えば、ゲイの人々もまだまだ差別されていた時代じゃないだろうか。だって、ハーヴィー・ミルクが市議に選ばれたのが1977年だもの。そんな中、通りからも丸見えのガラスの家で共同生活を送っていたジョージとジム。果たして、そこに行き着く道のりは平坦だっただろうか。映画の中ではその部分に関しては全く描かれず、ふたりの穏やかで愛に満ちた生活が映し出される。ただでさえ、キューバ危機を迎えて不穏な空気が漂う時代にゲイのカップルがガラスの家で暮らしていた、それは当時のアメリカでは奇跡的なことだったのではなかろうか。

失意にくれるジョージの前に現れるふたりの美青年。ひとりはタバコを買いに行った店先で出会った若い男。スペイン人モデルのジョン・コルタハレナが演じているんだけど、もう超カッコイイんだよね。ゲイでなくとも惚れ惚れしちゃう。

そしてもうひとりの美青年が教え子、ケニー。ケニーはジョージの死への決意をかぎとったのだろうか。先生のことが心配だと言って、気にかけ家にやってくる。そう、きっとケニーはジョージに惹かれている。死を決意したその日に、いくつも年上の大学教授にアプローチしてくるなんて。二度とない奇跡がその日に起きた。だから、天国のジムが嫉妬したんだ。ジョージ、君がいる場所はこっちだよってね。




パコと魔法の絵本

2010-11-17 | 日本映画(は行)
★★★☆ 2008年/日本 監督/中島哲也

「観客を驚かせたい」

怒濤のカラフル攻撃。次から次へとド派手なキャラクターが登場して飲めや歌えの大騒ぎで、まるでリオのカーニバルのよう。そのパワーたるや圧倒的なんだけども、これ、ハマル人とそうでない人がいるんじゃないかなあ。私は残念ながら後者の方で最初の30分くらいでお腹いっぱいになって、後半は疲れました。この感想「嫌われ松子」と同じだぞ。

でも、中島監督ってのは面白いですね。彼はCM出身なんだけど、CM作りってのは必ず「商品を売りたいターゲット」ってのが存在するでしょう?でも彼の映画を観る限り、映画制作に関してはターゲットを全く置いていないように見える。むしろ、ターゲットを絞ることで作品の自由度を失うことを最も嫌っているのではないだろうか。この作品にしても「子供向け」とか「子供向けだけど大人も楽しめる」とか、そういうターゲット層を意識した言葉ではうまく表せないんだもの。

「観客を驚かせたい」。それが中島監督のポリシーなのかもね。または「今まで見たこともないものを見せたい」とか。ところどころ、ティム・バートンとかディズニーを思い起こさせるような部分もあるんだけど、そこにヤンキーもパンクもゴスロリもぶちこんで、独自の世界観を作ってる。AKBのPVも話題だし、チャレンジャーですね、中島監督は。それにしても小池栄子がぶっとんでたなあ。夢に出てきて追いかけられそうだわ。

第9地区

2010-11-16 | 外国映画(た行)
★★★★★ 2009年/アメリカ 監督/ニール・ブロムカンプ

「偶然ではなく必然」

様々な知り合いからオススメの嵐を受ける中、期待に胸を膨らませて息子と共に映画館で観賞。小1から映画の世界に引きずり込んで早7年。初めて息子が自分からパンフレットを買ってくれとせがんだ記念すべき作品(笑)。

映画が公開されるその時、奇しくも表裏一体のような作品が生まれることがある。そうした偶然性に何らかの意味を見いだしたくなり、そんなことのあれこれに思いを巡らせることも映画を見る醍醐味の一つだと思う。この「第9地区」を観賞後、「アバター」に思いを巡らし、まさにこの偶然性に唸ってしまった。「アバター」には数多くの疑問を持ったけど、「第9地区」を見た後は、両者を見比べるという意味において、大きな価値がある映画に思えてきた。いや、こうした作品が同時に生まれるのは、偶然ではなく必然としか思えない。

結局エイリアンとの遭遇って、異文化との衝突だの、人間の暴力性だの、とても普遍的な問題を突き付けているのよね。これまで手を変え品を変え、SFというトンデモシチュエーションを引っ張り出してきては、同じ命題を問いかけてきたわけだけど、飛躍的なテクノロジーを身に付けたハリウッドという土壌において、人間の体がエイリアンになってしまうという同じモチーフで「アバター」は臭いものに蓋をしたのに対し、「第9地区」はその蓋をこじあけ、さらにその悪臭をまき散らしちゃったような作品。我々の社会に正義なんて、どこにあるんだよ。自分さえよけりゃいいっていう人間のエゴイズムだけは、何万年、何百万年経とうが、どす黒い塊となってエイリアンの攻撃も寄せ付けずにどっかと居座っている。

いい大人がよってたかってエイリアンを撃つようにヴィカスに引き金を引かせるところなんて、吐き気がするほど気分が滅入る。そんでも最終的には見ちゃいけないようなものを見た不快感は全くなくて、キャットフードが好きに代表される馬鹿馬鹿しいエイリアンの設定や、SFエンターテイメントとしての見応えの方が勝っているんだよね。しかも、フェイク・ドキュメンタリーっつーのが私は大嫌いなんだけども、この映画は初めてこの演出が心にストンと落ちた。

「クローバー・フィールド」も「パラノーマル・アクティビティ」も見てないけど、フェイク・ドキュメンタリーって、そういう演出にすることでむしろ「これは嘘ですよ。作り物ですから。でへへ」って、製作者が小賢しく逃げ道を用意しているように感じるんですよ。だけども、本作はすごくリアルだよね。南アフリカの上空に宇宙船が止まってて、エイリアンが被差別者だなんていう特異な設定がこのフェイク・ドキュメンタリーの手法によって、まるで今この時に起こっているかのようなスリルと興奮を生みだしている。緻密な企画と構成でできた作品に間違いはないんだろうけど、フェイク・ドキュメンタリーの手法が作品のダイナミズムに直結していて、見事だと思いました。

「第10地区」?そりゃ、あるでしょう。こうなったら、「アバター2」の公開に合わせてくれないかな。


太陽のかけら

2010-11-14 | 外国映画(た行)
★★★★☆ 2007年/メキシコ 監督/ガエル・ガルシア・ベルナール

「死の予感に満ちた乱痴気騒ぎ」


金持ちの息子が別荘に友人を招いて、バカ騒ぎをする。その1日を描いただけの作品なんですが、最後まで全く飽きさせません。実に素晴らしい初監督作品だと思います。もうガエル君なんて、呼べないじゃないですか。

この別荘で交差する登場人物たちそれぞれに見え隠れする心理描写が実に巧いんです。全てのシークエンスが思わせぶりで不安を掻き立てる。バカ騒ぎの向こうに死の予感がずっと漂っている。ドラッグのやり過ぎで誰かが死ぬんじゃないか。使用人の娘がプールに落ちて死ぬんじゃないか。別荘に車で向かう恋人が事故に遭うんじゃないか。そんな死の予感で頭がいっぱいになる。しかも、その死はじわじわとではなく、突然訪れるはず、そういう気分にさせられるからスクリーンから目が離せない。いったん帰宅したと思った使用人のアダンが木の上で見つかるシーンなんて、完全に死体が落ちてくるように見えました。あれは、きっとそう狙って撮ってるよね。

同じ道楽息子のバカ騒ぎでも、アメリカじゃこうならんだろうな、という南米らしさがまた大きな個性となって輝いています。妹も兄もお互いの友人を罵り合いながら結局同じ空間で過ごしてたりとか、使用人に対してはえらく居丈高だったりとか。急に感情が高ぶったかと思えば、すぐさま俺たちアミーゴじゃんみたいになるんですよね。

光と影。そのコントラストの見せ方も秀逸。それは道楽息子の「外面」と「内面」を描くものでもあり、道楽息子と使用人というように「富裕層」と「貧困層」を描くものでもある。感心したのが、それらのコントラストを実に何気ないシーンで観客に感じさせてしまうことですね。そう、「見せる」のではなく「感じさせる」。冒頭からバカ丸出しだった主人公クリスが母親のどうでもいい電話でふと涙ぐむ。こうした明確には見せないけど、観客にその奥にある何かを感じさせるシーンが次から次へと出てきます。使用人一家の描き方も凄くいいです。

別荘での1日を描く、というとってもミニマルなスタイルの中に、多くのイマジネーションを観客に与える作品。「金持ちのバカ騒ぎ」を切り口にもってきたセンスもすばらしい。ガエル・G・ベルナール監督には、ぜひ母国メキシコで第2弾を撮って欲しい、そう思わされました。