Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

手紙

2007-12-29 | 日本映画(た行)
★★★★ 2006年/日本 監督/生野慈朗

「手紙の力」


私は「毎日新聞の日曜版」で原作を読んでいた。東野圭吾だからてっきりミステリーだと思ったのにそうではないこと、週に一度の掲載であるため物語のスピードが遅々としていることから、あまりノレない作品であったというのが当時の印象。ところが、映画作品として一気に見ると、タイトルである「手紙」の持つ意味がしっかりとクローズアップされていて、なかなか見応えがありました。

犯罪者の家族、被害者、そして社会の有り様を考えさせる映画ながら、私が最も感じたのは「手紙」が持つ力です。本作における「手紙」のメインは兄と弟が交わすもの。しかし、それではない2つの手紙が物語を実にドラマチックに仕上げていた。一つは、由美子が会長に宛てた手紙。そして、もう一つは剛志が被害者の息子に宛てた手紙。この2つの手紙が、淡々とした物語をぐんと突き動かす。「手紙」という現代においては実にアナログな代物がどれほどの力を持っているかということを我々に見せつけるのです。

兄弟間ではない「手紙」の紹介者、杉浦直樹と吹越満が短い出演時間ながら、大きな存在感を放っています。彼らの誠実な演技がこのイレギュラーな手紙の持つ意味合いをじっくりと丹念に我々の心に染みこませる。刑務所でのラストシーンも感動的ですが、私は由美子が会長に宛てた手紙が最も心に響いた。それは当事者ではない会長が倉庫の片隅でひっそりと語るからこそ、リアリティを持って響いてくる言葉でした。

それにしても、沢尻エリカの存在感が光っている。原作の由美子は直貴を支える影のような存在であったのに対し、映画の由美子は女性としての芯の強さに加えて華やぎがある。彼女の華やぎはこの暗い物語そのものにも花を与えているし、常に日陰の存在でいようとした直貴を胸張って生きる人間に変えるための太陽そのもの。彼女の演技力の幅広さを見れば少々下手な関西弁など一向に気にならない。むしろ原作にないイメージをキャラクターに与えていることに驚く。何かにつけて比較されているが、このところワンパターン気味の長澤まさみを一気に引き離すんじゃないでしょうか。

ただ、小田和正のエンディングはいただけない。本当にいただけない。あざとすぎる。泣かせたい歌を最後に持ってくるというのは、映画の中身に自信がないことの現れではないのか。映画はエンドロールが全て終わって、ひとつの作品。若手ミュージシャンとのタイアップでもなく、既存のこの「言葉にできない」という歌をラストに持ってくるのは、作り手としてのセンスを疑う。「言葉にできない」と言葉にして歌っているこの曲自体もなんだよそれ!ってつっこんでしまうのに…。本当に台無しだったなあ。

さよなら、みどりちゃん

2007-12-27 | 日本映画(さ行)
★★★★ 2005年/日本 監督/古厩智之

「がんばれ、ゆうこ!」



この際、正直にいいます。女はね、ダメな男に弱いの。ゆうこみたいな全くどうしようもない男が好きな女たちの群れは、確実にいるの。だから、この映画の人物は誰も悪くない。ゆうこと言う女の子がほんの少し、背伸びをする、ただそれだけの話。

ちっぽけな人間が小さな輪の中でいじいじいじいじ…。そういう物語が苦手な人にはオススメしません。私は、好きなんです。そういう、いじいじ、してるのが(笑)。だから、ゆうこができたほんの少しの背伸びにも「よくやった!」とポンポンと肩を叩いてやりたい。もちろん、この後ゆうこが変われたかどうかは、わかんないけど。

スナックでのゆうことヤンキーの会話など、とりとめのないシーンが実にリアル。「そうなんだ」「ふうん」みたいな何でもない会話と間延びした空気感。邦画の小さい映画にはよく見られる演出で、ものによっては嫌みを感じることがあるけど、この作品は大丈夫。この間延びした空気がユタカやゆうこのキャラにピッタリ合っている。

優柔不断な女の子「ゆうこ」を星野真里が好演。ぼんやりしたしゃべり方、あどけない仕草、頼りなげで男の言うままに動く都合のいい女。正直この手のキャラには、女の目は厳しいですよぉ。でも。星野真里は、不快感がない。等身大という言葉がまさにふさわしい。そして、西島クン…。もう反則でしょう。ここまでのダメ男をこんなにステキに演じちゃ、日本中ダメ男だらけになっちまうよぉーってくらい、いい味出してます。

最後の最後になって、ゆうこが意を決して行う愛の告白。それに対するユタカの反応が一番の見どころ。すさまじい「間」があります。この「間」を堪能してください。わたしゃ、ソファからずり落ちました。ゆうこには悪いけど爆笑。西島秀俊という俳優に興味のある女性なら、このシーンを見るだけでも見る価値アリ、です。

ラストシーン、ゆうこが歌うユーミンの「14番目の月」に何だか切なくなる。漫画にもこの歌が、挿入されているのかな?これ映画のオリジナルだとしたら、この選曲にはすごいセンスを感じる。見終わってからも、ずっと口ずさんじゃった。ダメ男に振り回されてる女の子は必見。

白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々

2007-12-26 | 外国映画(さ行)
★★★★☆ 2005年/ドイツ 監督/マルク・ローテムンド

「正義のまなざし」


ヒトラー政権下に反ヒトラーのビラを大学で配り、逮捕されたゾフィー。5日間の拘留と裁判の後、即刻死刑の判決を受け執行に至る。主演のユリア・イェンチの迫真の演技に息をのむ傑作。

「マグダレンの祈り」のバーナデッドが怒りのまなざしならば、本作のゾフィーは「正義のまなざし」。常に正面を見据え、視線をそらさず、背筋をぴんと伸ばして取調官を見つめるゾフィーの澄んだ目が実に印象的。あの瞳で見つめられたら、尋問官モーアの心が揺らぐのも当然にように思えます。

なぜゾフィーはあんなにも強い意志で自分の信念を押し通すことができたのだろうか。そのことを考えずにはいられません。モーアとのやりとりの中で時折手をさするゾフィー。そこには焦りや心の揺れが感じられます。しかし、彼女は最後まで毅然とした態度を崩すことはなかった。彼女の心の奥底に「戦争を終わらせなければいけない」という思いが強く強く根付いていた。そう思いたい。

99日間の猶予を与えられることなく、すぐに刑が執行されることを知り独房で声を荒げて咆哮するゾフィー。その姿に涙が止まらなかった。それまで、冷静な態度に徹していた彼女だったが、死を目の前に感情が堰を切ったようにあふれ出す。独房に響き渡る彼女の叫びを聞いて、心を揺さぶられぬ者などいるまい。一体、なぜナチはこんなにも急いで刑の執行を早めたのか。それは、彼女たち白バラの訴えが国民の心に行き渡ることを恐れたからに他ならない。

学内、取調室、拘置所とほぼ閉じられた空間だけで物語は進み、戦場は一切映らない戦争映画。しかし、戦争のむごさをこれほど感じた作品はありません。空から爆弾が落ちてきて逃げまどう人々を映すだけが戦争映画ではない。ほぼ半分を占めるモーアによるゾフィーの尋問も、ふたりの心の動きが実にスリリングに描かれ、緊張感に満ちています。

ゾフィーが冷静であればあるほど、ナチズムの雄叫びが負け犬の遠吠えのように聞こえる。何かを告発したり批判したりする時に、相手の愚かさを声高に叫ばずともこれほど抑えた演出で浮き彫りにすることができる。これぞ映画の力だと強く感じました。

マグダレンの祈り

2007-12-25 | 外国映画(ま行)
★★★★ 2002年/イギリス・アイルランド 監督/ピーター・ミュラン

「怒りの目をむけよ」


舞台は1964年、アイルランドのダブリン。マグダレン修道院に収容された少女たちは、ふしだらな女と決めつけられ、修道院でを祈りと労働によって神に奉仕し“罪”を悔い改めるよう言われる。しかし、マグダレン修道院で行われているその内実は、実に無惨な非人道的行為であった。

ちょっと男の目を引いたら修道院送り。いくら男が悪くてもレイプされたら修道院送り。結婚前に出産したら赤ん坊を取り上げて修道院送り。こんなワケのわからない制度が1995年という、つい10年ほど前まで続いていたという事実に驚きを禁じ得ない。

この作品はヴェネチア映画祭金獅子賞を受賞しているが、ヴェネチアのあるイタリアと言えば、カトリック信者が多い国。バチカン市国もある。そんな国でカトリックの権威を振りかざし、これほどまでに非人道的なふるまいを行い続けた修道院を告発する映画が賞を獲るなんて実に皮肉な話。ある意味カトリック自身がこの映画で告発されている内容を認めたという証しなのかも知れないが、私のようなひねくれ者からすれば賞を差し出すことで理解のあるフリをして、事を穏便に済ませようとしているのではないかと勘ぐってしまう。

それほどまでにこの作品で描写されている修道院の事実はひどい。建物の中にいる人物が神父や尼僧の格好だからそれとわかるものの、やっていることは刑務所の看守と同じ。性的行為を強要する神父、金勘定に狂った尼僧。その姿の何とおぞましいこと。少女たちへの服従の命令も目を覆うものばかりで、本当に聖職者のすることなのか、と怒りで胸がいっぱいになる。

しかし、一方なぜこんな横暴が続けられたのか。それは、女性たちを修道院に入れることに何の疑問も持たない親たちや社会が存在しているからに他ならない。作品自体はほとんど修道院の中の描写だが、この過酷な状況を黙認し続けた社会も断罪されるべき。

親たちが娘を修道院に入れる理由。それは、娘がふしだらと烙印を押されることを極度に恐れ、世間体を取り繕うためか、それともカトリック教義が教える処女性への狂信的思いからか。いずれにしろ、このような劣悪な環境に進んで娘を差し出す、そんなメンタリティがまかり通っている社会にも怒りを感じて仕方がない。

結局、ヒトラーへの忠誠もそうだし、穢れを取り去るための割礼もそうだが、外部の人間からはどう考えてもおかしいと思うことが、一つの社会の中で共通の妄信によってがんじがらめになると、内部にいる人間の心というのはこれほどまでに融通が利かなくなる。そのことを痛感する。

本作の冒頭、結婚式のパーティで実に不気味な歌が流れる。私自身は他国の文化を頭から否定するつもりは毛頭ないが、どう見ても結婚式で歌うにはふさわしくないような実に暗い歌詞の歌なのだ。しかも、神父が歌っている。後で調べてみると、これは近親相姦をして子供を産んだ女性の歌だとわかった。歌詞の中で土に埋めた、という文言が出てくるから、その子供を殺して埋めた、という意味だろうか。いずれにしろ、結婚式でこのような歌が歌われること自体、いかに「処女性」を重んじているかの表れではないだろうか。より過激な言葉を許していただけるのなら、女性に対する教会からの圧力的行為、脅迫とすら感じられた。今でもこの歌はアイルランドの結婚式で歌われるのだろうか…。

ラストシーン、見知らぬ尼僧に向けられるバーナデッドの怒りの目。それは目の前にいる尼僧に向けられたものではなく、修道院の存在を認め続けた全ての人々と社会に向けられたものだ。ぜひ全ての女性たちに見て欲しい。

エレファント・マン

2007-12-24 | 外国映画(あ行)
★★★★☆ 1980年/アメリカ 監督/デヴィッド・リンチ

「いかがわしい好奇心と崇高な好奇心」


一体人間の「好奇心」とは何なのだろうと考えずにはいられない。見世物小屋で働くエレファントマンと呼ばれる男、ジョン・メリックは、その奇っ怪なる顔を一度見てみたいという大衆の好奇心に晒されて生きている。もちろん、それは彼が望んでいることではない。しかし、彼に治療を施し人間らしい暮らしを提供するフレデリック博士だって、医者として珍しい症例に対する好奇心が少なからずあったから彼に近づいたんだろうし、このテーマに取り組んだデヴィッド・リンチにも異形の者に対する好奇心があるに違いない。

大衆の好奇心はジョンを傷つける。フレデリック博士の好奇心はジョンに人間らしい生き方を与える。そして、リンチの好奇心は我々に人間の尊厳とは何かを考えさせる。

私は人間にとって「好奇心」は非常に大事な要素だと思っている。恐ろしいのはむしろ「無関心」だと。だから、夜な夜なジョンの顔を覗きにやってくる人々よりも、彼と親しくなることで貴族社会での名誉を得ようとする人々の方が、人間的には奇異に感じられる。そして、化け物扱いしていた人物を紳士に仕立て上げて社交界で持ち上げる。その手のひらを返したような人間心理の恐ろしさ、大衆の愚かさを感じて仕方なかった。

デヴィッド・リンチ自身は異形の人々に対し、ひとかたならぬ愛情があるんだろうと思う。それは、一見してキワモノ趣味やゲテモノ趣味と取られかねない。しかし、実に印象的なシーンがある。それはフレデリック博士が初めて見世物小屋でジョンの顔を見たシーン。カメラはフレデリック博士に近づき、顔のアップ。そして彼はポロポロと涙を流す。まるで聖なるものや奇跡に出会った時に自然にあふれ出る涙のようなシークエンス。ここに私はリンチの愛を感じるのです。

また、冒頭人間の目がアップになるシーンもリンチ的で興味深い。「目のアップ」は、見る者と見られる者の関係性、つまり主体と客観の在り方についての投げかけだろうと思う。目をどんどんアップにすると、瞳の中に映っているものが見えてくる。見ていると思っているものが見られる者に取り込まれるような感覚。主体と客観の同一化とでも言おうか。

話が少し横道にそれるが、岡崎京子の漫画にも「目のアップ」が多用されているのを思い出す。後期の作品には嫌と言うほど目のアップが出てくる。「ヘルタースケルター」のラストシーンはほぼ「ブルーベルベット」なもので、彼女がリンチに影響されていたのは間違いないと思うのだが、岡崎作品にも常に出てくるテーマが「見られて生きることの生き難さ」であった。私は岡崎ファンで作中何度も見ていた、その目のモチーフはすでにリンチが2作目で出していたんだな、と思うと感慨深いものがある。

本作は、エレファントマンと呼ばれた男、ジョン・メリックが人間としての尊厳を手に入れようとして死んでいくという感動作である一方、リンチ独特の幻惑的な映像がカルトムービーとしてのテイストを生み出している。その匂い立ついかがわしさは、観客の好奇心をくすぐる。映画を見たいという衝動も大いなる好奇心の表れなんだろう。

ベオウルフ

2007-12-23 | 外国映画(は行)
★★★★ 2007年/アメリカ 監督/ロバート・ゼメキス
<梅田ブルクにて「3Dバージョン」を観賞>


「男の悲しい性」


とにかく「3D」の技術が評判が高いもので、観てきました。目の前に矢は飛んでくるし、人間が飛んだり、ひっくり返ったりする様もリアルだし、迫力抜群でした。いたるところで、3D用に構図されている箇所があるため、通常バージョンで観るとなんでこの構図なの?と思うところがあるようです。つまり、3Dでこそ、観るべき映画というところでしょうか。ラストの竜との対決シーンは、まさにそんな感じでした。

しかし、私はとても目が疲れました。映像関係に詳しい方から字幕の位置が前後していることも関係しているのでは?と言われ、なるほど、そうかも、と。3Dゆえに映像の奥行きがハンパないんですが、字幕の奥行き感が一定していないんです。「メガネをかけている」ということも、意外と気になっている上に、字幕を追いかけなきゃいけない。吹き替えで、ただぼーっと絵だけを眺めている方が目には良さそう。というわけで時間があれば息子と「ルイスと未来泥棒」の3Dを見に行こうかな。

最新の映像体験ができた、ということでは満足度高いです。でも、やっぱり私という人間は、映画に対して、映像よりも、物語に重点を置いているんだなあ、ということを再確認できました。それは、この「ベオウルフ」がメッセージ性がないってことではなく、本作が示すメッセージは、私の好みではなかった、ということです。

原作を読んでいないので、勝手なことは言えませんですが、これは「父性」がテーマではないのでしょうか。本作は隅から隅まで、権力を獲得すること、権力を示すこと、権力を維持することにまつわる物語です。その権力を邪魔するのは、女の誘惑であり、我が息子であります。旧約聖書に父が息子を殺す、という話があるそうですが、父の威厳を脅かす息子というのは、非常に良くあるモチーフです。そして、こういう物語は、正直、私はあまり好みじゃないの。ごく普通の現代劇でも父と息子の相克を描いた作品とかって、あんまり惹かれないんですよね(苦笑)。

なので、私は途中からベオウルフという1人の男の物語ということにフォーカスして観ました。そうすると、類い希な力と勇気を持った男の悲劇として、堪能できました。何もかも手には入れたものの、それは悪魔のような女とのたった一度の契り(=契約)によって何とか均衡が保たれているものに過ぎない。それが、いつかは崩れるのではないかという恐怖、愛する妻への後ろめたさ。晩年のベオウルフには、若かった頃の威厳や自信は見る影もなく、昔の栄光に頼って生きているだけ。しかし、最後に勇者としての誇りを見せるわけですね。(あれ?設定は全然違いますけど、ロッキーもそんなテーマだったな…笑)ラストの竜との対決に至るベオウルフは、実に精悍な顔つきで、己の命を賭けてでもけじめを付けようとするその姿には少なからず心を打たれました。それしても、男って哀しい生き物だなあと思ったのは、私だけでしょうか。

8人の女たち

2007-12-22 | 外国映画(は行)
★★★★ 2002年/フランス 監督/フランソワ・オゾン

「メロディが頭の中をグルグル」


よくこれだけの大女優を揃えることができたもんです。なので、フランソワ・オゾンのやりたい放題お祭り騒ぎ作品という側面もあり。オゾン作品が好きでもない人がそんな自己満足に付き合う必要があるのか?という観点で見れば、とにもかくにも、フランスを代表する8人の女優陣の「そこまでやるの!」な演技合戦が見どころ。地元フランスで話題になるのも当然かも知れません。日本で言えばそうですね、蒼井優ちゃんと若尾文子が出てきてお尻フリフリダンスをするようなもんですか?

きらびやかな女優陣とキッチュなミュージカルソング&ダンスに目を奪われるんですけど、この作品の隠れテーマは「ほんっと、オンナって信用できないっ!(おすぎさん風)」ってことなんですよね。これはオゾンが一貫して描いている女性に対するきっつ~い皮肉で、それをこんな大物スターがこぞって演じているところにフランス女優の懐の深さを感じます。

冒頭の女優陣紹介にもあるように、美しい花々が咲き乱れます。妖艶な美しさで言えばカトリーヌ・ドヌーブとエマニュエル・ベアールの一騎打ちですが、お年のことを考えるとドヌーブに軍配!1943年生まれですから、64歳。参りました!と頭を床にこすりつけたいくらい美しいです。そして、意外なコメディエンヌぶりを発揮しているのがイザベル・ユペール。新境地開拓といったところでしょうか。

見終わってからもしばらく、劇中歌が頭から離れず、ついハミングしてしまう。ちっともうまくない歌とダンスですけど、インパクトがでかい、でかい。オネエの方たちが集うショーパブで見たショーがしばらく頭から離れないのとちょっと似たような感覚かも。中身の全くない作品なんて言うと、言い過ぎですけど、限りなく監督のお遊びに近い。それでも、この豪華女優陣をそろえてもってきちゃうのは、ほとんど力技と言ったところでしょうか。

UDON

2007-12-21 | 日本映画(あ行)
★★★★ 2006年/日本 監督/本広克行

「いい意味で裏切られた」


フジテレビ製作、しかも宣伝の割には人が入らなかったなど、ネガティブな印象が強く見始めたのですが、これが思ったよりも真摯な作りで期待以上。やっぱり映画って前評判と関係なく見るべきなんだなあ。

物語は前半と後半に分かれていると漏れ聞いていたのですが、私はそうは感じなかった。むしろ、この物語は「讃岐うどん」そのものが主役だと考えると、実に一貫したストーリーとして捉えることができる。しかも、この言いたいこと=テーマが押しつけがましくなく、丁寧に作られていることに実に好感が持てる。

香助たち、麺通団の活動によってブームになってしまったうどんは、地元の人の手から離れて流行の産物となってしまいます。しかし、ブームはやがて過ぎ去りうどんは落ちぶれる。後半は一転して父と息子の物語に、と言う人がいますけど、私が感じたのはそうじゃない。つまり物語はうどんを再び地元の人の手に返すということに転じていくのです。

物語上は父親の死がきっかけにはなっていますが、香助が自分で麺を打ったのは、流行の産物に仕立ててしまった責任を取り、けじめをつけるためとも考えられます。そして、香助が店を継ぐのか、と思わせておいて、そうしないのも粋な展開です。だって「うどんを地元の人に返さないと」意味がないわけですから。そして、続くオチも蛇足なんかではない。つまり、香助はかの地でもうどんの伝道師を続けているというわけです。

結局、物語を動かすのは香助ですが、地域に根付くソウルフードは、なぜソウルフード足りうるのか、というお話。地元の小中学生が、早く松井のうどんが食べたいと書き込むシーンなど実に心温まるエピソードに感じられましたし、地元住民の松本明子が行列の人々が落としていった空き缶を拾う後ろ姿も良かった。作り手がどれほど「うどん」をよく知り、愛しているかが伝わってきました。

麺通団のいきさつも、私は同業者なので思うことがいろいろ。やっぱり、自分の足を使って、自分で食べて、自分で感じたことを記事にすることって大切!こんなにちゃんと取材して回る編集部って、そうそうないもんです、ここだけの話(笑)。なぜ、うどんがブームになったか。それは麺通団がうどんに感動したから。そこんところも数々のうどんビジュアルを通じて共有できました。

もちろん、難を言い出すといろいろあるのは間違いない。小西真奈美のナレーションはくどいし、尺は長いし。でも、私はいい意味で裏切られ、楽しめました。これはもしかしたら「踊る大捜査線シリーズの本広克行監督が」という触れ込みで見る人がターゲットじゃないかも知れないなあ。いやはや映画の宣伝の仕方ってホント難しい。見て欲しいターゲットを逃していたんじゃないだろうか。

その男、凶暴につき

2007-12-20 | 日本映画(さ行)
★★★★★1989年/日本 監督/北野武

「排除の美学の始まり」



深作監督が急遽降板して…と言われている本作だけども、そこから一体どこまで北野色に変えることが可能だったのだろう。この徹底的に乾いた暴力描写と、物語の排除という北野スタイルがすでに本作で確立されているのを見るに北野武の中で作りたいものがくすぶり続けていたのは、間違いなかろうと思う。代打に備えて、十分にバットを振ってきたということだろうか。

まず主人公吾妻という人物に関しては、ほとんど詳細を語られることはない。しかし、静かな日常にもたらされる突発的な暴力を通して浮かび上がるのは吾妻の絶対的な孤独感である。また、サティの音楽に合わせて歩道橋を登ってくる吾妻の登場シーンが実に印象的。しかも、この登場シーンからすでに死の予感が漂っている。後輩の菊地がラストで同じように歩道橋を上がってきて、吾妻をオーバーラップさせる見せ方なんて、とても代打とは思えない旨さがある。

物語の排除の最たるものは吾妻の友人岩城が麻薬の密売人になったいきさつを全く見せないところだろう。その核心は、吾妻と岩城が喫茶店で話している姿をガラス越しに映す、という数秒のワンカットで過ぎ去る。警察内部に麻薬を回している人物がいること、しかもその張本人が主人公吾妻の友人であるという2点において、物語上大きな起伏が出る場面である。こういう物語のターニングポイントを、無言のワンカットで済ませてしまうという大胆ぶり。そして、続けて岩城の死体。岩城のいきさつが何も語られないからこそ、突如現れるこの「死」のイメージが強烈に刺さってくる。

この物語の排除というのは、「観客の想像にお任せします」という類のものとはまるで異質なものだろう。例えば、ラストを意味深なものにして後は「自分で考え、感じて欲しい」というシーンには作り手が観客に想像を委ねるという意図がある。しかし、北野武は浮かび上がらせたいイメージをより鮮烈に見せるために、物語を排除していく手法を使用しているのだと思う。そういうテクニックをすでに処女作で自分のものにしていることにも驚きだ。

そして、凶暴と言うよりも静けさの際だつ演出の中に、時に浮かび上がるホモセクシュアル的匂い。黒幕仁藤と仁藤のためなら何でもする殺し屋清弘との関係はもちろん、清弘と主人公吾妻においても追いつ追われつの関係性の中でふたりの魂は互いを惹きつけ合っていることを想像させる。もちろん感情的な演出は全くないため、そのような匂いをかぎ取る私の感じ方は監督の意図からは外れているのかもしれない。それでも、ストーリーとは別のイメージが自分のアンテナに引っかかってくるというのは、おそらく排除された物語を埋めながら映画を見ているからに他ならないからだと思う。

そして、この乾いた暴力描写は、近年多数公開されている韓国映画の暴力シーンに影響を与えているのは間違いなかろう。

このデビュー作において「お笑い芸人ビートたけしが作ったんだから、わかりやすい映画のはずだ」という人々の勝手な思いこみは根底から覆された。この時広がった拒否反応は未だにくすぶっている。「お笑いの人が作る映画=面白くてわかりやすい」という勝手な認識と「北野作品=わかりづらい映画」という後付けの認識がいつもねじれを起こしているように感じる。しかし我々は映画作家、北野武の作った映画をただ受け止めるだけだ。

TAKESHIS'

2007-12-19 | 日本映画(た行)
★★★★★ 2005年/日本 監督/北野武

「たけしのイマジネーションの豊潤さを堪能」


もうひとりの自分だとか、入れ子構造だとか、そういうややこしいことばかり頭に残しながら見ると、この映画の面白さを味わうことは無理だと思う。先入観なく、最後まで見れば、実にわかりやすい構造だと思う。なんで、難解とか、実験的映画とか言われているのか。その方が私には不可解。

結局、「ある時点」から夢に突入して、最初の物語とは辻褄が合わなくなって来て、そこで物語全体を受け取るのを辞めてしまう人がいるみたいでね。それは実に残念なこと。私はずっとワクワクして見ましたよ。物語の辻褄なんていったんさておき、ただ身を委ねて見続ける。それは、映画を見る基本姿勢だろうと思う。それができない観客が多すぎるんでは?わかりやすい、説明過多の物語を見過ぎているから、これしきで「難解」とか言う。これじゃあ、北野武が気の毒だわい。

さて、映画に戻って。登場人物がたけしのイマジネーションの産物として夢の中で縦横無尽に遊び回っている様子は実に楽しい。冒頭寺島進を見て「あの人カッコイイわね」と言った京野ことみが夢の中では寺島進と付き合っているし、タクシー運転手にやさしいマネージャーの大杉漣は夢の中ではタクシー運転手になってる。(この関連性を見れば、どこから夢になったかは、一目瞭然なんだけどなあ)で、私のツボは岸本加世子ですね。この唐突に怒る様子が実におかしい。今度は、いつ出てくるんだろうと出没を期待しちゃった。

で、その登場人物がまた違う人物になって繋がってくるあたりが実に面白い。夢的破綻を見せつつも「夢の中の物語」はきちんとキープしている。このバランスが才能だなあとつくづく。そして、夢というのは自分の深層意識の産物ですから、この夢の中の「素人・北野武」の行動は、ビートたけしの自意識の表れとも言える。そうすると、何で死体の山をタクシーで通るんだろうとか、何で部屋で食べるのはナポリタンなんだろうとか、だんだん「夢判断」的面白さも湧いてくるんです。

そんでもって、そもそも冒頭の「素人・北野武」は実在しておらず、「有名人・ビートたけし」が見たドッペルゲンガーかもと思って、もう一度見ると、それはそれでまた楽しめたりもするんですよ。手帳に「ピエロさんへ」って書いてるでしょ。なるほどピエロね~と1人でうんうん唸ったりして。

というわけで、この夢の世界で繰り広げられる、たけし流イマジネーションの豊かさに触れ、この人にはどんどん映画を撮って欲しいなあと思うのでした。

阿修羅のごとく

2007-12-18 | 日本映画(あ行)
★★★★ 2003年/日本 監督/森田芳光

「女優陣の愛くるしさが全面に」


私は以前、スカパーでこのNHKのドラマ版を見たことがあるんです。テーマソングであるトルコ軍隊の行進曲も強烈でしたし、姉妹間のぎすぎすした感じや浮気された母の内なる苦悩が、実に乾いた演出で展開されていました。浮気を知りつつ、何にも言わずに糠床をまぜる母の背中が怖いのなんの。女の「業」を描くという点では、私はドラマの方に軍配をあげます。特に長女の加藤治子と三女のいしだあゆみなんか、どちらかというといじわるだったり苦悩したりする演技が似合うタイプの女優さんですもん。

ただ、四姉妹を魅力的に描くという点においては、映画版の方が上。四者四様の生き方をうまく見せていたと思います。もちろん、主役を張れそうな女優が大集合しているので、それぞれにスポットを当てるという事務所側のオファーはあったでしょう。大竹しのぶも黒木瞳も深津絵里も森田作品で主役をこなしているので、それぞれの登場シーンは主役とも言える存在感を出しています。だから、余計に深田恭子が浮いてしまったかな。

いずれにしても、森田監督の女優陣に対する愛が感じられますねえ。それが却ってタイトルの「阿修羅のごとく」の意味合いを遠ざけてしまったか。ちょっと阿修羅には見えません。ただね、この昭和54年という舞台設定を現代に持ってきて、女心の葛藤をストレートに描いたところで、今の観客がどれだけピンと来たか疑わしいところ。この作品のポイントは「女が内に秘めているもの」ということですから、あんまり秘めなくなった(笑)現代女性にそれを見せたところで、女のイヤな部分ばかりがクローズアップされたことでしょう。

そこで現代版では、コミカルな演出も含め四姉妹を非常に愛らしく描いている。その愛らしさが際だっているからこそ、内に秘めたるものの陰鬱さが伝わってくるという構造に変えた。大女優をズラリと並べた配役だからこそ、こうせざるを得なかったのかも知れませんが、結果的には多くの人に受け入れやすい作品になりました。ただ個人的には、森田作品はもっと突き抜けた作風の方が好みです。
それにしても、現在に至るまで森田監督は、撮る作品の守備範囲が広いなあと感心します。

アイ・アム・サム

2007-12-17 | 外国映画(あ行)
★★★☆ 2001年/アメリカ 監督/ジェシー・ネルソン

「ビートルズに感じるやり過ぎ感」


知的障害のあるサムが娘を取り戻す感動のストーリーなのだが、私が本作において引いてしまった原因は、何を隠そう全編に流れるビートルズであった。ビートルズの音楽には「歌詞」がある。言葉がある。映画の行間として共有したいものが、具体的な歌詞として入ってくることが何だか余計なおせっかいみたいに感じられて、歌詞が言いたいことを代弁しているようで、どうにもこうにもしっくり来なかったのだ。

例えば「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイヤモンズ」。この曲からルーシーと名付けた、という設定だから、確かに物語の中では効いてくる。だが、どうも本作品におけるビートルズ音楽というのは、嬉しや喜び、つらさの「増幅剤」としての役割のように感じてならない。あくまで個人的な好みだが、私は映画における音楽は物語を補完したり、融合したり、化学反応を起こしたりする方が好き。物語の上に「のっかってくる」音楽の使い方は好みではないのです。

まあ、そもそも設定としてサムがビートルズのマニアなので、流すなというのも無理があるのかも知れないんですけどね。それから、家庭裁判所における画面の揺れは、サムの心の揺れを表しているんだろうけど、どうもやり過ぎに感じられる。技巧に走っているというのかな。この青みがかった映像も狙いがあってのことだろうが、かえって逆効果に感じられる。

そもそもショーン・ペンがこれだけの演技をしているんだし、ここまでテクニックを凝らした映画にする必要があったのかなと思うの。むしろ、もっとオーソドックスな手法で作って、歌詞付きビートルズは「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイヤモンズ」をエンドクレジットだけで流す。これくらい抑制されてた方が、もっと素直に物語に感情移入できた気がする。

フレンチなしあわせのみつけ方

2007-12-16 | 外国映画(は行)
★★★★ 2004年/フランス 監督/イヴァン・アタル

「キミたちは一生愛について語ってなさいっ!」



「ぼくの妻はシャルロット・ゲンズブール」に引き続き、シャルロットの夫であるイヴァン・アタルがシャルロットの夫役及び監督も務める作品。

まず邦題がセンスがないばかりか、作品の趣旨ともあまり合っているとも思えない。なので、邦題で感じるお気楽コメディとは全然違う。スペシャル・ゲスト、ジョニー・デップは予想以上に重要な役どころで、嬉しいサプライズ。

さて、全くフランス人という国民は、こんなに朝から晩まで「愛」について語っているのでしょうか。彼らの永遠のテーマ、それは「愛」と「人生」。この2つのテーマさえあれば、何時間でもおしゃべりできる、それがフランス人。既婚者はなぜ他の人を愛してはいけないの?どうして一生妻に寄り添わなければならないの?と次から次へと繰り出される男たちのナゼナニ攻撃。これが聞いていて実に楽しい。

もちろん、この手のフランス映画はごまんとあります。それでもなおこの作品が楽しいのは、やはり「結婚」を語る言葉の豊潤さでしょうか。何かに例えたり、皮肉ってみたり。日本人としては、その巧みな言葉遊びに「ほほー」と感心してしまうことばかり。しかも、いい年をした中年男が職場やカフェで来る日も来る日もその話ばっかり(笑)!日本じゃ考えられません。でも、「結婚って何だ!」と常に考え悩んでいるその姿勢は、私は好きだなあ。無視されるより全然いい。

夫の浮気に苦悩する妻ガブリエルをシャルロット・ゲンズブールが好演。ヴァンサンとガブリエルの夫婦喧嘩のシーンは、いろんな意味を含んでます。互いに言葉に出せない物をストレス発散させていると言えるし、じゃれあってるようにも見えるし、憎み合ってるようにも見える。しかも、この夫婦は実生活でも夫婦でもあるため、観客は本物の夫婦ゲンカを見ているよう。

夫の浮気に気づいていながらも問い詰めないガブリエル。そこには「個人の意思」を尊重するフランス人の美意識があるんだろうか。「今私が浮気しても夫へのあてつけになるだけ」そう言うガブリエルは大人のオンナ。自己抑制ができるオンナ。だからこそ、ラストはドキドキしてしまう。それは火遊びなの?それとも本気なの?(実生活の)夫が撮る妻は格段と美しい。またまた夫婦コンビで続編作ってもオッケイよ、とも思えるステキなラストシーンでした。

うつせみ

2007-12-15 | 外国映画(あ行)
★★★★★ 2004年/韓国 監督/キム・ギドク

「究極の愛の形を求めて彷徨うギドク」


レイプだの、ロリータだの、ギドクって男は女を何だと思ってるんだと思ったら、こういう女性の願望をそのまま投影したようなロマンティックな作品を作ってしまうから本当に参る。結局、彼はとどのつまり“愛”って何なんだ?という旅を続けているのだろう。いろんな角度から愛を眺め、出ることのない答えを求めて作品を作り続ける愛の殉教者とでも言おうか。

通りすがりの男に何かも預け、連れ去って欲しいというのは、女の究極の憧れかも知れないと、「ヴァイブレータ」でも書いた。あれがトラックに乗った王子様なら、こちらはバイクに乗った王子様。しかも、このふたりに言葉は無用。何も言わなくても全てが通じる。夫に責められようが、警察に捕まろうが何もしゃべらない。これが実に象徴的。言葉にした途端にふたりの関係は実に陳腐な代物に成り下がってしまいますから。

テソクがソナを連れ去り毎夜留守宅に泊まる前半部を “動”だとすれば、ふたりが警察に捕まってからの後半部は“静”の展開と言えましょう。しかし、鑑賞後心に深く残るのは、“動”ではなく“静”の方。ソナがふたりの名残を求めるかのように、泊まった留守宅を再び訪ね歩くシーン。そして、テソクが「影」を体得するために刑務所で見せる幻想的な舞踏。映画とは、映像で心に語りかけるもの。その幸福感が私を満たす。

ラストはギドクには珍しく愛の成就が感じられてカタルシスを覚える。肩越しのキスシーンもいいし、影の朝食のシーンも素敵だ。しかし、抱き合ったふたりの体重計の目盛りはゼロ。最後の最後になってギドクはわずかな毒を残したか。だが、その毒は私の心を汚すことなどなかった。だって、実に映画的な恍惚感に包まれていたから。

ただ、ギドクってこうやって、幸せな気持ちにさせておいて、また突き落とすようなことするのよ。これが、ギドク・マンダラならぬギドク・スパイラル。一度はまると抜け出せません。

サマリア

2007-12-14 | 外国映画(さ行)
★★★★★ 2004年/韓国 監督/キム・ギドク

「懐疑心を打ち砕くギドクの才気」


<ヨジンとチェヨンは親友同士。2人でヨーロッパ旅行へ出るために、チェヨンが援助交際をし、ヨジンはそれを嫌いながらも、見張り役をしている。ある日、警察に踏み込まれたチェヨンは、いつもの笑顔を浮かべたまま、窓から飛び降りてしまい…>


少女の「性」に対して、独自の価値観を生み出す。その視点のオリジナリティはさすがギドク。もちろんその視点を快く受け入れられるか否かというのは別物だ。第一部「バスミルダ」において、少女チェヨンはセックスを通じて男たちに幸せを与えているのだと言う。そこに感じるのは買春する男たちの正当化である。男の考える勝手なロジックかよ、と嫌悪を抱き始めたら、なんとその少女は突然死ぬ。体を与えていた少女は罰を受けたのか、といったん考えを翻されたところで第二部「サマリア」が始まる。

すると次の少女は、体を与えた上にお金を返すという。友達を見殺しにした罪を売春することで償う。今度は体を与えることが償いになるんですね。おまけに買春した男に「感謝しています」と少女に言わせる。全くこの展開には参ります。体を与える巡礼の旅って、どうしたらそんな発想ができるのでしょう。

そして第三部「ソナタ」、この少女の父親が娘の買春相手に報復する。これでようやく男たちが裁かれるのかと思ったら、そうじゃない。なぜなら、父は娘の少女性に男としての欲望があって、嫉妬に狂っていると私は感じたから。もし彼が父として娘を戒めたいなら、その矛先は娘に直接向かうはずです。だけども、彼の行動はまるで夫の愛人に憎しみが向かう勘違いな妻と同じです。

これはロリータ男のとんでもない言い訳のような解釈もできそうな映画である。でも、実はこの作品、私はそんなに嫌いじゃない。と、いうのも少女性に神秘や神性を見るというのは、女である私も理解できるから。そして、視点を変えながら「性」を切り取るこの3部構成の手法が実にうまい。

また、ふたりの少女が公園で戯れるシーンや穢れを落とす風呂場のシーンに少女性を実に的確に見せるギドク監督の才能をひしひしと感じる。極めつけは、黄色いペンキのシーン。私はこれまでギドク監督に北野監督を重ねたことなど一度もなかった。しかし、このシーンは初めて北野武が頭をよぎりました。

セリフではなく映像で、しかも実に印象的な美しいシーンで我々に訴えてくる。これは、やはりセンスがないと無理でしょう。私の心は、一歩引いて疑ったり、ぐっと惹きつけられたりを繰り返しながら、最終的にはギドクワールドをたっぷりと堪能させられてしまいました。