★★ 2006年/アメリカ/153分
監督/ロン・ハワード 主演/トム・ハンクス、オドレイ・トトゥ
「暗号を解読する快感がない」
カンヌ映画祭でブーイングが起きた、という前評判を聞いて心して観にいく。原作は既読。あれほどの面白さをどう映像化しているのが期待していたが、結論は、私だって大ブーイングだ!
カンヌの評価は正しい。これはキリスト教批判だからブーイングが起きたのでは全くない。この映画は、映画を映画たらしめているものが、明らかに欠如しているからだ。あまりにも不満が多くて、どこから話していいかわからないほどである。
まず、ダ・ヴィンチ・コードの面白さは、何と言っても「暗号を解くスリル」に満ち溢れている点である。その暗号を解読するために数学的、宗教的知識が総動員されるため、そう言った知識の少ない人には、よくわからないのかと言えば、否である。そこには、「暗号が解けた!」という解放感、喜びがしっかりあって、例えその暗号解読に用いた手法が、フィナボッチ数列だなんて、舌を噛みそうな聞いたことのない知識でも、次はどうなるのだろうというワクワク感が最初から最後まで読者を引っ張っていく。ところが、映画ではその暗号解読のスリルが全くないのである。これはどう考えてもおかしい。よくまあ、この大事な軸をほっぽらかした状態で公開したものだな、と違う意味で感心してしまうほどである。どのシーンか、なんてピックアップできない。暗号が出てくる全てのシーンが、いともあっさりと暗号解読できるのである。
例えば、しょっぱなルーブル館長が殺害されたシーン。死体の周りに書かれたダイイングメッセージを見て、ラングドン教授が「これはフィナボッチ数列だな。」と言っていくつかソフィーとやり取りした後、文章から本当のメッセージが浮き上がってくる映像処理。まるで、ラングドン教授がひらめきでわかったかのように。どうフィナボッチ数列を使って解読したのか、全く何の説明もされていないし、そもそもフィナボッチ数列が何かという説明も一切ない。これじゃあ、観客は何もわかりませんぜ。一事が万事この通り。で、次。
登場人物の描き方が非常に薄っぺらいのである。だから、誰にも感情移入できない。これは映画として致命的である。ダ・ヴィンチ・コードの物語自体が非常に複雑だから、という言い訳は通用しない。ラングドンは図らずも事件に巻き込まれるが、歴史の一大事件の只中にいる緊張感や学者として謎を解くことの快楽があるはずなのに、ほとんど表現されていない。そしてソフィーは、絶縁状態だった祖父が殺された苦悩、そしてその原因が何より自分を守ることであったという驚きがあるはずなのに、これまた非常に淡々としている。ラングドン教授もソフィーもマシーンのように次から次へと暗号を探しては解読するだけ。はあ。この2人以外の登場人物についても然り。殺人者シラスも、もっと人物造形をしっかりすれば面白くなったし、アリンガローサに至っては、本を読んでない人なんかは、結局このオジサンは何やったん?と思うだろう。
「暗号を解くこと=キリスト教の根本を覆す歴史的事実の発見」であるため、どうしてもキリスト教の様々な歴史や薀蓄について、時間を割かねばならないのはわかる。それをしっかり理解しておかないと、何がすごい発見で世紀の大事件なのか実感できないし、そもそもストーリーを追えませんから。それはわかるとしても、この出来栄えはあんまりだ。基本的に逃亡劇であるため、本来ならば「追う人間=その事実を隠蔽したいカトリック教会」をもっと徹底的に「悪」として描けば面白くなるものを、そこも非常に甘い。おそらく、それはできなかったんだろうな。そもそもバチカンやカトリックが悪である、という設定そのものがすでに物議を醸しているから、それ以上の表現はできなかったのかも知れない。でも、それでは逃亡劇としての映画的スリルは、ほとんど味わえないです。
ダ・ヴィンチ・コードを読了したほとんどの人は、「これは映画になるな」と思ったはずである。それくらい、読みながら映像が浮かんでくるし、事実作者も最初から映像化を考えていたと言う。しかし、出来上がりの何とおそまつなこと。返す返すも残念である。映画館を出た後、つまらないという言葉よりも「もったいない」と何度つぶやいたことか。この映画のタイトルは「ダ・ヴィンチ・コード」ではない。きっと私は、「ミステリーハンター、ラングドン教授の不思議発見!」を見たんだ、きっと。うん、そうに違いない。。
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