Gomaler's~神社仏閣巡り~癒しを求めてⅢ

主に関西の神社仏閣巡りと御朱印が趣味です。
生きた証として好き勝手に書いております。(笑)

治水神社(2018年11月11日参拝)

2018年12月05日 | 神社
今日は我が歌姫である倉木麻衣の千秋楽ライブがあるので、
車で名古屋へ遠征です。

ライブだけだったら新幹線か近鉄特急で行けば済みますが、
折角名古屋に行くんだったら車が無いと行けない寺社を参拝します。




まずは木曽川、長良川、揖保川という、
ビッグネームの木曽三川が近くに流れる治水神社へ。

特に長良川と揖保川の間の場所に鎮座し、
社名が治水神社となっている。

どうして治水神社になったかはすぐに分かりますね。


【長良川】


神社に着いたはいいが駐車場が見つからない。

仕方ないので土手沿いに駐車場があったので停めました。

大型駐車場の前には水と緑の館・展望タワーという観光施設があるのに、
駐車料金は無料でした。(^^

最大1100台停めれるらしい。

それにしても長良川はデカイですね。


【水と緑の館・展望タワー】


広大な国営木曽三川公園には展望タワーがありますが、
観光施設よりも学習施設の意味合いの方が強いようです。

神社は隣りに鎮座しております。


所在地:岐阜県海津市海津町油島無番地
御祭神:平田靱負正輔大人命
創建:昭和13年(1938)


【由緒】
江戸時代の中頃、徳川幕府は木曽三川の水害で悩む
濃尾平野西南部の住民を救う為、薩摩藩に普請を命じました。

薩摩藩士らは経験したことのない水の流れに苦しみながら、
この地方の住民の為、多大の犠牲を払い、万難を排して工事を見事完成。

永く埋もれていた大工事を世に広めたのは、三重県多度に住む西田喜兵衛です。

彼はこの工事の様子を世間に知らせ、犠牲者の慰霊と顕彰に邁進しました。
明治33年、近代の木曽三川の治水工事の成功式に併せて宝暦治水之碑が、
時の総理大臣山県有朋公を迎えて油島千本松原に建立されました。

その後、平田大人を治水の神と讃える地元の人々の報恩感謝の熱い思いにより、
昭和13年(1938)現在の地に平田靱負大人を御祭神とする治水神社を創建。

治水神社は治水に尽力された薩摩藩士の功績を讃え、
平田靱負大人の遺徳を偲び、犠牲となった多くの藩士達を慰霊しています。


【鳥居】


水と緑の館・展望タワーから歩いて行くと本殿裏手に到着。

あー、反対側かぁと思いながら境内を歩き鳥居を目指す。

細長い神社で鳥居まで歩いて行くのは面倒だけど、
やはり神社参拝は鳥居から始まります。

神社の無料駐車場はこちらにありました。


【揖保川】


とても穏やかな流れです。

しかし、長良川と揖保川に挟まれた地を工事して、
治めるまで大変な労力がいったことだろう。


【手水舎】





【境内】



【社務所】



【境内】


渋い拝殿が見えてきました。


【狛犬】



【神門】




桧皮葺屋根の神門と授与所が渋すぎる。

この桧皮葺と茅葺はまさに日本が誇る伝統美です。

神門は昭和13年(1938)建立されたもの。


【拝殿】


拝殿も渋いなぁ。

神門から先に進めないので近くで見ることが出来ませんが、
離れた場所から見ても素晴らしい拝殿ということが分かる。

昭和13年(1938)建立されたもの。




拝殿と祭文殿と本殿が渡殿で連結されている造りです。


【祭文殿・本殿】




拝殿の大きさの割りに本殿は小さいですね。

手前の小さな社は境内社の治水昭和之宮です。


【石碑】







【パネル】





【宝暦治水観音堂】


宝暦治水工事の犠牲者全員を祀る為に建立されたもの。

江戸時代中期の宝暦治水工事によって、
幕命によって施工された木曽三川の治水事業の過程で、
工事中に薩摩藩士51名自害、33名が病死。

工事完了後に薩摩藩総指揮の家老・平田靱負も自害。


堂内は彼等の位牌がいっぱいあったので撮影していない。


【御朱印】


木曽三川の治水事業によって多大なる犠牲があったことは、
関西では余り知られていない。

治水神社を参拝することにより、
先人の偉大なる功績を知ることになる。

まさに神社仏閣に歴史あり。