落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

無関心の川

2010年05月01日 | movie
『フローズン・リバー』

舞台はニューヨーク州最北部、セントローレンス川を挟んでカナダに接する町。
新居の購入費用を夫に持ち逃げされたレイ(メリッサ・レオ)は、支払い期限の迫った残金のために、ふとしたきっかけで知りあった先住民モホーク族のライラ(ミスティ・アッパム)とともに密入国者の移送という仕事に手を染める。
違法と知りながら毎夜凍った川を渡る危険な稼業にはまりこんでいくレイだが、ある夜乗せたパキスタン人の荷物に不審を抱いた彼女は・・・。
2008年サンダンス映画祭グランプリ作品。

『クロッシング』の直後にこれを観たのはちょっと失敗だったかもしれない。
だってものの見事に対称的な作品だから。『クロッシング』はアジア映画で『フローズン・リバー』はアメリカ映画。『クロッシング』はビッグバジェットのスター映画、『フローズン・リバー』は新人監督のインディペンデント映画。『クロッシング』の題材は国境を越える人々、『フローズン・リバー』の題材はそれを仲介する側=搾取する側、『クロッシング』の主人公たちは男性で、『フローズン・リバー』の主人公たちは女性。エンディングも完全に対極になっている。
まあしかしある意味では、同じ題材をそれぞれ裏と表から描いているともいえるかもしれない。そう思えば、どちらも見逃しがたい作品ではある。

『クロッシング』のレビューでも家族、家庭のもろさについて書いたけど、この映画にも家庭が重要なファクターとして登場する。
ヒロインは家庭を守るために手段を選ばない。家を捨てて出ていった夫には目もくれず(ほとんど探しもしない)、これから息子ふたりと暮していく新しい家をちゃんと手に入れるにはどうすればいいか、それしかアタマにない。自分のクルマのトランクにつめこむ異邦人は、彼女にとっては人間ですらない。トランクにつめこまれる以前の彼らの暮らしも、トランクから下ろされた後の暮らしも、彼女には徹頭徹尾完璧に関心の外にある。
しかし、危険な仕事の過程で彼女は自身の残酷さと身勝手さに徐々に気づいていく。助手席に乗っているライラにも家庭と生活があるように、トランクに乗せられた密入国者にも人生がある。そんな当り前のことから、彼女は自分がわざと目を疎らしていたことを、最後の最後になって初めて認めるのだ。

賞レースでは主演のメリッサ・レオに評価が集まっていたようだが、ぐり的にはライラを演じたミスティ・アッパムの方が印象的だった。マッチョな体型であまり美人とはいえないし、全編にわたってむすっとぶすくれた表情がちょっと怖いのだが、声がかわいらしい。ラストになってやっと見せる笑顔がキュートだ。
先住民保留区とアメリカ政府との政治的関係の一端を描いた部分も非常に興味深かった。この題材でまた別な作品がつくられたら是非観たいと思う。
この映画の中で、男と女の「家」に対する向きあい方がまったく逆方向に描かれていたのが非常におもしろかった。ヒロインは夫や今の家には関心を示さず新居のことしか考えていないが、息子(チャーリー・マクダーモット)は自分たちを捨てた父親を恋しがり、父が買い与えた日用品や遊具に執着する。それらがヒロインにとって何の価値もなくむしろ苦々しい記憶を呼びおこすものであっても、男の子にとってそれは宝物に違いないのだ。それぞれに現状維持を最優先に考えているようで、その方向性が完全に食い違っている。
リアリティは別として、いっしょに暮している家族の思いのベクトルの対比としてはすごくわかりやすくてよかったです。

星と雨の天蓋

2010年05月01日 | movie
『クロッシング』

北朝鮮代表の元サッカー選手のヨンス(チャ・インピョ)は炭坑夫として働きながら、妻子と3人で貧しいながらも幸せに暮していたが、身重の妻(ソ・ヨンファ)が結核にかかり、入手困難な薬を要する容態に陥る。
11歳の息子ジュニ(シン・ミョンチョル)に留守を頼み、意を決して豆満江を渡り、中国で薬を手に入れようと奔走するのだが・・・。

10年以上前に観たTVドラマで、どうしても忘れられない台詞がある。
「あのころは、今日楽しいと、明日も楽しいと思ってた。でも今は、今日楽しいと、今日で人生終わればいいと思う」。
そういった女性は、若くして裕福な男性と結婚し子どもをもうけるのだが、夫は妻子を置いて愛人と蒸発してしまう。経済的な基盤をなくし、夫の実家に子どもを奪われそうになった彼女は息子を連れて逃げ出し、夜の仕事を始める。そして、独身時代の恋人に絶望的な心情を吐露する。
家庭、家族、というと誰にとっても何よりも普遍的なもののように感じるが、実はそうではない。所詮は人と人との寄せ集めに過ぎない。血をわけ、何年も生活を共にしていても、それぞれに思惑は違うし、互いを思い通りにすることなどそう容易くはない。
ふとしたことでいとも簡単に、あっけなく壊れ、消えてしまう、危うく、脆いもの。それなのに、誰もが求めてやまず、愛おしく思う、ある意味とても厄介な代物でもある。

ヨンス一家も、妻の病気という出来事さえなければ、おそらくは何事もなく、貧しくても安穏と暮していけたはずだった。
しかも、結核そのものは現代では死の病でもなんでもない。きちんとした治療を受ければ回復する。それなのに、一家は全員が命をかけてその病と闘わねばならない運命にあっさりと転がりおちてしまう。映画の舞台とされている2007年の北朝鮮には、人が人として生きていくための最低限の自由と教育と医療が、国民に保障されていないからだ。
北朝鮮という国が犯している現実の犯罪を、今ここでひとつひとつあげつらったところで意味はない。
少なくとも、この映画の中の北朝鮮には、自由も教育も医療もない。人間が地上に生まれおちたなら、誰もに平等に与えられるべき権利であるはずのものが、この映画の中の国には、ないのだ。
ところが、主人公たちは決してそれを恨んだり悲しんだりはしない。ただただ互いを守るためだけに命を削り、自らを責める。彼らが望んだのは、一家揃って傍にいて、いつまでもいっしょに暮す、単純にただそれだけだったのだ。

北朝鮮の庶民の生活風景や強制収容所の様子、市場の描写のあまりのリアルさにひたすら息を飲む。
ぐりが知っている北朝鮮はTVのドキュメンタリーなどで観た映像に限られるが、活動家たちが隠し撮りしたそれらの映像に写っていたものと、映画の中のそれは恐ろしいくらいぴったり同じである。実際の脱北者をスタッフにくわえて再現した究極のリアリズムに、この映画をつくりだした製作者たちの並々ならぬ意気込みをひしひしと感じる。おそらく彼らはただ「映画」をつくろうとしたのではないのだろうと思う。この作品を世に送り出すことで、映画以上の何かを成し遂げたかったのだろう。それは製作者ひとりひとりによって違うのかもしれない。そのそれぞれが交じりあって、観る者の胸に鋭く突き刺さって来る。
だがこの作品は決して政治的な映画ではない。
人が人として自然に求める愛情の力、その強さと美しさと儚さを、ひと組の家族の姿を通して訴えかけている。

政治的な映画ではないにも関わらず、この映画の日本公開は2年も遅れた。
2008年に東京国際映画祭に招待されたときは、確かシネカノンの配給で公開が決定していたように記憶している。その後なぜか公開の予定はとり消され、シネカノンは今年になって倒産している。公開が中止された経緯については、例によってあれこれと噂がある。
それでも紆余曲折あってこうして公開されてほんとうによかったと思う。公開に尽力された各方面の方々に敬意を表したい。
それにしても子役のシン・ミョンチョルの演技はものすごかった。電話越しに父親にひたすら謝りながらわんわんと泣きじゃくる表情と声、あれはもう演技ですらないような気がした。
そういう面でも、やっぱりこの映画は、政治的な映画なんかじゃないと思う。是非ひとりでも多くの人に観てもらいたい。


関連レビュー:
『ハンミちゃん一家の手記 瀋陽日本総領事館駆け込み事件のすべて』 キム・グァンチョル家・文国韓著