落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

ふつうの家

2015年06月12日 | book

『絶歌』 元少年A著

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神戸連続児童殺傷事件が発生したのは1997年。
思えばあれから18年もの歳月が過ぎた。14歳だった少年Aもじき33歳になる。もう“少年”ではない。
その間、被害者遺族はどんなに苦しんだだろう。そしてこの手記が刊行されたことでまた、さらなる苦しみを味わっておられるだろう。
でもぐり自身は、この本そのものを批判する気にはなれない。少年法改正や犯罪被害者保護法に大きく寄与した、日本の犯罪史上でも重大な少年犯罪の当事者が、自らの犯した罪を綴った彼自身の言葉を、同時代に読んで真意を感じとる機会というのはそれほどない。その意味で、少年犯罪とは何なのか、歪んだ欲望によって他人を殺めた罪を背負ったその人の心の中を知り、人の生死の危うさや心の脆さを知るのに、これほど適した書物もないと思うからだ。

事件の舞台となった地域はぐりの地元にも近く、被害者遺族のひとりは間接的な知人でもあり、事件後に刊行された関係資料はほとんど読んでいるので、一応の基礎知識はある。
少年Aは1982年生まれ。著名人でいえばイギリスのウィリアム王子や水泳選手のイアン・ソープ、俳優の小栗旬と同い年に当たる。両親と父方の祖母、ふたりの弟との6人家族。どちらかというと口数が少なく感情の起伏に乏しい、学校では目立たない子だったという。成績は芳しくなかったが、記憶力がよく手先が器用で絵や工作が得意、何かに集中するとまわりが見えなくなることがあった。事件後に「直感像素質者」だったことがわかっている。
家族仲はよく周囲にはごくふつうの家庭のように受け止められていたが、Aは理由もなく友人や弟たちに暴力をふるうことがあり、いったん攻撃的になると加減ができなかった。そのために学校の教師たちは早くから彼を警戒していた。
小学5年生のとき、Aを溺愛していた祖母が亡くなったのをきっかけに死に強い関心を抱き、やがて死そのものに接することで性的な高揚を感じるようになり、密かに小動物や猫を殺して解体する行為に耽り始める。早晩その衝動は動物を殺すだけでは満たされなくなり、中学2年の春休みから見知らぬ小学生の女の子4人を相次いで襲いひとりを死なせ、その年の5月には末の弟の同級生を殺して遺体を損壊した。
3件めの事件から1ヶ月後に逮捕。家裁での審判で医療少年院への送致が決まり、7年間矯正教育を受け、2004年に仮退院。

これまでに読んだ資料でも、今回のこの手記でも、少年A本人やその家庭背景にとりたてて変わったところはほとんどみられない。少なくとも本人たち自身はそう感じているように思える。
凶悪な少年犯罪者といえば虐待や家庭崩壊や育児放棄などといった生育環境に要因を見いだしがちだが、どのケースでも決まってそうとは限らない。逆に、どんなにひどい環境に育ったとしても全員が犯罪者になるわけでもない。確かにAの家庭には他とは少し違うところはあったかもしれない。しかしどの家にもよそとは違うところがあって当り前だとも思う。もし彼の家庭に問題があるとするなら、家族の誰もが、長い間、Aの暴力性に気づくことなく、事が起きても真剣に向きあっては来なかったことではないだろうか。Aが級友に怪我をさせても、弟を袋叩きにしても、両親はとくに深刻にとらえることなく、彼が本気で反省するまで追求しようとはしていない。Aが動物を虐待していることを近隣住民は知っていたのに、両親は事件後までいっさい知らなかったと語っている。だがその程度のことなら、どこの家庭でも起こり得る範囲内の出来事のような気がする。3件目の事件当時、Aは不登校で児童相談所のカウンセリングを受けていたが、そうした行政支援すら彼の凶行を止める役には立たなかった。実際に彼を取り調べた捜査官は「もっと早くつかまえてやれなくて悪かった」とA本人に謝罪している。
この事件のほんとうに大切な部分は、そこにあるような気がしてならない。誰ひとり思いもかけないようなふつうの子どもが、突然殺人鬼になってしまうことがある。不幸な偶然の連鎖の結果ではあるが、その境界はほんの紙一重でしかない。

この本では、審判で明らかになった彼の発達障害、性的サディズム=性障害についてかなりストレートに書かれている。
その部分は読んでいて不憫だった。発達途上にある性衝動があらぬ方向に向かっていってしまうのはよくある事故だ。それがアニメやゲームのキャラクターならまだわかりやすい。ところが彼にとってそれは死という概念と感覚に向かっていってしまった。思春期の少年の性衝動はコントロールが難しい。健全に同じ生身の人間を対象としていてさえ苦しむのに、死と直結したそれがどれほどの重荷だっただろう。殺してしまった末弟の同級生・土師淳くんに対する感情については、ぐりも今回初めて知った。
少年院で読書家になった彼の文章は読みやすく丁寧に整理されていて、記憶力のいい彼らしく克明な情景描写が全編にわたってふんだんに盛られている。パートによっては盛り過ぎてバランスを欠いてもいるが、むしろそこから書き手自身の心のバランスもよく伝わってくる。
その反面で、他人の心情を汲むことがまったくできなかったAが、少年院での教育を経て人間性を取り戻し、被害者や遺族だけでなく自分の家族や彼の周囲の支援者たちの気持ちを知るようになり、毎日自ら己の罪に向かいあえるようになっていく成長過程も読みとることができる。
医療少年院では、彼の性的サディズムという発達障害を矯正するべく、彼を赤ん坊から育て直すプログラムが組まれたという。その意味でAは事件当時のAとは既に別の人間になっているともいえる。しかしその結果A本人は日々罪の意識に責め苛まれ、周囲の人とふつうの人間関係を築くことができなくなっていることも書かれている。事件のことを誰にも話せないことで、どんなに親切にしてくれた人にも常に嘘をつき、騙し通さなくてはならないことに苦しむA。一人きりの殻にひたすら閉じこもり、あれほどの罪を犯した自分に、その罪から逃れることなど生涯許されないというA。少年院の記録では、教育の過程で指導官を好きになったことがあったと書かれていたように記憶しているが、彼が果たしてもう一度誰かに恋をしたり、家族を含めて他者に心を開いたりすることはできるようになるのだろうか。
そんな孤独を抱えて、人は果たして生きていけるものなのだろうか。

個人的には、この本は単独で読むべきではないと思う。事前に彼の供述調書(文芸春秋に全文掲載されたことがある)や両親の手記、被害者遺族の手記など、多角的に事件を知ったうえで読むべきかなとも思いました。
被害者遺族も含め、彼が手記を出したことやこの手記そのものに対する批判もある。ぐり個人は、そもそも贖罪に正解などあるはずがないのに、どこをどうもって批判すべきなのかもよくわからないのだけれど。

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